ヨーガ根本聖典(ヨーガスートラ)

ヨーガ学派の経典であり、この派の開祖パタンジャリ (Patanjali)の作として伝承され、5世紀ごろにつくられたものと推定されている。



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第一章

これから、ヨーガについて、解説をしよう。
ヨーガとは、心の作用を止滅することである。
心が止まると、真我は、自己本来の姿に止まる。
心が動くと、真我は、心の作用と同化して、
心が止まると、真我は、心の作用と分離する。
分離をした、本来の真我は、純粋観照者である。

心の作用は、正知、誤謬、分別、昏睡、記憶。
このそれぞれが、煩悩性と非煩悩性に分かれる。
正知とは、正しい知識であり、三種類がある。
経験による知識、推理による知識、聖典の知識。
誤謬は、実態に基かない、不正な知識である。
分別とは、陰陽に分かれる、固定の観念である。
昏睡は、意識が隠される、虚空の体験である。
記憶とは、意識に現われる、過去の経験である。

心に生じている、種々の作用を越える為には、
修習と離欲という、二つの方法が不可欠である。
修習とは、繰り返し、努めて行うことである。
心の動きと、逆に繰り返せば、心は止り始める。
離欲とは、あらゆる対象から、遠離すること。
最終的には、三つのグナからも、離れてしまう。

三昧とは、主体と客体の合一のことである。
有想三昧は、想念の有る、三昧のことであり、
無想三昧とは、想念の無い、三昧のことである。
有想三昧は、想念の種類で、四つに分かれる。
第一には、有尋であり、粗大な心の作用を伴う。
第二には、有伺であり、微細な心の作用を伴う。
第三には、有楽であり、平安な心の状態を伴う。
第四は、有我想であり、純粋な心の状態を伴う。
尋が消え、伺も消え、楽も消え、我も消えて、
最後に、行だけが残ると、有想から無想となる。
色界や無色界の神々は、無想三昧で居るが、
その他の者は、精進の結果、無想三昧に至る。
解脱への熱意を持つほど、無想三昧の完成は早い。
即ち、信念が生まれると、精進が生まれる。
精進が生まれると念想、念想が生じると三昧、
三昧が生じると真智、これは熱意により早くなる。
自在神を祈念しても、無想三昧に到達する。
自在神とは、煩悩に塗れてない、真我であり、
自在神は、一切知の最高の種子を、持っている。
自在神は、時間を越えた、存在であるため、
過去のグルにとっても、自在神はグルである。
その至高神を、音で表した物が、AUMである。
AUMを唱えながら、自在神を念じるべきである。
そうするならば、内観の力を得ることにより、
ヨーガに対する障害を、無くすことが出来よう。

病、無気力、疑、放逸、怠惰、貪欲、妄見、
三昧に入れないこと、三昧に止まれないこと。
この九つが障害であり、全て心が散動している。
このように、心が動くほど、手足が震えて、
呼吸が乱れて、苦悩や不満が噴き出して来る。
これを治すには、繰り返し、思念を集中させる。

慈の心とは、他の幸福に対して、注ぐ心であり、
悲の心とは、他の不幸に対して、注ぐ心であり、
喜の心とは、他の善行に対して、注ぐ心であり、
捨の心とは、他の悪行に対して、注ぐ心である。
このように、心を念じても、心が安らかになる。

眼の先に、心を集中させると、良き色が生じて、
耳の先に、心を集中させると、良き音が生じて、
鼻の先に、心を集中させると、良き香が生じて、
舌の先に、心を集中させると、良き味が生じて、
身の先に、心を集中させると、良き触が生じる。
このように、心を念じても、心が安らかになる。

或いは、呼吸法を行じても、心が動じなくなる。
或いは、純質性を高めても、心が動じなくなる。
或いは、聖者方を念じても、心が動じなくなる。
或いは、神に夢で会っても、心が動じなくなる。
或いは、熟睡し目覚めても、心が動じなくなる。
或いは、好む物を念じても、心が動じなくなる。
これらの法をして、心が動かなくなった者は、
極微から、極大まで、すべての物を治められる。

こうして、心の作用が、完全に消えたとき、
心は、認識主体の真我か、認識客体の対象か、
認識手段の器官かに止まる、これが禅定である。
禅定には、有種子三昧と無種子三昧がある。
有種子三昧は、輪廻の原因が残る三昧であり、
無種子三昧とは、輪廻の原因が無い三昧である。
有種子三昧は、尋伺の有無で、四つに分れる。
第一には、ヴィタッカが残った、有尋定であり、
第二には、ヴィタッカが消えた、無尋定であり、
第三は、ヴィチャーラが残った、有伺定であり、
第四は、ヴィチャーラが消えた、無伺定である。
たとえば、鐘を鳴らすと、後まで響くよう、
ヴィタッカ、尋とは、鐘を鳴らすことであり、
ヴィチャーラ、伺とは、後まで響くことである。
たとえば、馬に乗るとき、乗り続けるよう、
ヴィタッカ、尋とは、馬に跨がることであり、
ヴィチャーラ、伺とは、乗り続けることである。
無伺定を繰り返すと、内なる清澄が生じる。
それは、サットヴァが、優位になった状態で、
その中から、直観智、プラジュニャーが生じる。
この直観は、具体的であり、個別的である。
サットヴァに基づく行は、他の行を抑え込み、
純粋なるサットヴァに導く、性質を有している。
そして、最後に、このサットヴァも越えると、
一切の心の作用が消滅して、無種子三昧となる。

 

 

第二章

クリヤーヨーガ、つまり、行事のヨーガは、
苦行、読誦、自在神祈念を行うヨーガである。
その目的とは、煩悩を弱めて、三昧に至ること。
クレーシャ、即ち、煩悩には、五種類がある。
即ち、無明、我想、貪愛、憎悪、生命欲である。
アヴィディアー、無明は、根本煩悩である。
無常を常と捉えたり、不浄を浄と捉えるよう、
無明とは、陰陽を、転倒して捉えることである。
アミスター、我想は、主体と客体の同一視、
見る者としての真我と、見る働きである仏性。
これら二つのものを、同一に捉えることである。
貪愛は、楽しみに捕らわれる、心情であり、
憎悪とは、苦しみに捕らわれる、心情である。
アビニべーシャは、生命欲に囚われる事である。

現われた煩悩は、静慮により、除去できる。
隠れている煩悩は、逆転により、除去できる。
左に向かう業は、右に向かう法で、上に向かう。
業遺存とは、煩悩を原因とするものであり、
現世か来世において、その結果が報いられる。
煩悩が有る限りは、寿命と善悪が存在している。
善き業は、後に、楽しみとして報いられる。
悪しき業は、後に、苦しみとして酬いられる。
しかし、賢者から見れば、全てが苦しみである。
というのも、楽しみの裏に、苦しみが在り、
煩悩を楽しめば、必ず、煩悩に苦しめられる。
それゆえに、煩悩を楽しめなくなるからである。
ヨーガで除去すべきは、未来の苦悩である。

主体と客体の結合こそが、苦悩の原因である。
客体として、見られる物に、三種のグナがある。
善性は、因を本質として、集めようとするもの。
動性は、縁を本質として、変えようとするもの。
暗性は、果を本質として、止めようとするもの。
これらの、グナの形態には、四つの段階がある。
第一の段は、陰陽に囚われて、差別が有ること。
第二の段は、陰陽に捕われず、差別が無いこと。
第三の段とは、陰陽を捉えて、区別が有ること。
第四の段とは、陰陽を越えて、区別が無いこと。

主体として、見る者は、アートマンである。
アートマンは、ただ、認めているだけであり、
意味を見ているときは、ブッディを介している。
目的は、主体が、客体を越えることである。
越えた主体から見れば、客体は存在しないが、
囚われた主体から見れば、客体は存在している。
無明は、主体と客体を結合することであり、
主体と客体の結合が、苦悩の原因であるため、
無明を越えると、結合も消えて、苦悩も消える。

弁別智とは、見る者である、アートマンと、
見る働きである、ブッディを、分つ智であり、
弁別智を得た人は、七つの最高の真智が生じる。
第一に、全てを知り尽し、知るべきものはない。
第二に、全てを滅し尽し、滅すべきものはない。
第三に、止滅三昧によって、除去は直観された。
第四に、弁別の智によって、除去は実現された。
第五に、ブッディは、その任務を果たし終えた。
第六に、三つのグナは、もう二度と生起しない。
第七に、アートマンは、光り輝く独存位にある。

ヨーガは、八つの部門から、成り立っている。
第一の門は、悪業を捨断すること、禁戒である。
第二の門は、善業を蓄積すること、勧戒である。
第三の門は、身体を調整すること、坐法である。
第四の門は、呼吸を調整すること、調気である。
第五の門は、感覚を制御すること、制感である。
第六の門は、意識を集中すること、凝念である。
第七の門は、対象に没入すること、静慮である。
第八の門は、主客が合一すること、三昧である。

禁戒、すなわち、ヤマには、五つの戒がある。
第一の戒は、命を危めないこと、非暴力である。
第二の戒は、嘘を吐かないこと、不妄語である。
第三の戒は、他を奪わないこと、不偸盗である。
第四の戒は、性に耽らないこと、不邪淫である。
第五の戒は、物を持たないこと、不慳貪である。

勧戒、すなわち、ニヤマには、五つの戒がある。
第一の戒は、心と体を清めること、清浄である。
第二の戒は、足る事を弁えること、知足である。
第三の戒は、善い行を修めること、苦行である。
第四の戒は、善い言を修めること、読誦である。
第五の戒は、善い心を修めること、祈念である。
もし、戒を破ろうとする、念が生じたなら、
徐々に、戒を守ろうとする、念を重ねていく。
なぜなら、多くを重ねた方に、念は向かうから。
もし、他の物を奪いたい、念が生じたなら、
徐々に、他に物を与えたい、念を重ねていく。
その結果、奪うのも良く、与えるのも良くなる。

暴力を撤すると、周りの者が、和むようになる。
妄語を撤すると、言った事が、適うようになる。
偸盗を撤すると、欲しい物が、集るようになる。
邪淫を撤すると、老いた者が、甦るようになる。
慳貪を撤すると、在りの侭を、知るようになる。
清浄に徹すると、善業が増加し、集中が高まる。
知足に徹すると、幸福を理解し、歓喜が極まる。
苦行に徹すると、悪業が減少し、神通が現れる。
読誦に徹すると、意識が上昇し、神霊に会える。
祈念に徹すると、三昧が成就し、自在神に至る。

坐り方は、安定していて、快適であること。
心の緊張を弛めて、無辺に広げることである。
そうすると、相対の対立に、心が悩まされない。
坐法が整い次第、調気を行じることである。
調気とは、呼息と吸息の、流れを止めること。
つまり、調気の中心は、保息、クンバカである。
保息、つまり、クンバカには、三つの法がある。
第一は、吸って止めるもの、プーラカであり、
第二は、吐いて止めるもの、レーチャカであり、
第三は、自ずと止まるもの、ケーヴァラである。
調気を行じることで、煩悩が消滅していき、
心の本来の輝きである、サットヴァが現れる。
その結果、マナスが、凝念に耐え得る様になる。

制感とは、外側に向っている、プラーナを、
内側に向わせ、対象から感覚を切り離すこと。
制感を行じると、己の感官を自在に統御できる。

 

 

第三章

ダーラナ、凝念は、主体を客体に縛ること。
ディヤーナ、静慮は、主体が客体に染むこと。
サマディ、三昧は、主体と客体が合わさること。
凝念が究められて、静慮に極められていき、
静慮が極められると、三昧に究められていく。
そのため、この三つを、サンヤマ、綜制と呼ぶ。
外的部門は、禁戒から、制感までを現わし、
内的部門とは、凝念から、三昧までを示すが、
無種子三昧から見れば、内的部門も外的である。
心は、止まっているように、見えていても、
器として止るだけで、中のものは動いている。
瞬間瞬間、現れて消えていく、転変を繰り返す。
ダルマとは、心の中に現われる、法であり、
ダルミンとは、法が中に現われる、心である。
修める法が荒くなると、収める心も激しくなる。
雑念は、心が外に流されている状態である。
専念とは、心が内に止まっている状態である。
三昧転変は、雑念から専念に変わることである。
以上のことは、心と物と時について、成立する。

例えば、心に就いては、このように考える。
ダルマは、意識に現れる、感情のことであり、
ダルミンは、感情が現れる、意識のことである。
例えば、物に就いては、このように考える。
ダルマは、存在に現れる、様態のことであり、
ダルミンは、様態が現れる、存在のことである。
例えば、時に就いては、このように考える。
ダルマは、時間に現れる、現象のことであり、
ダルミンは、現象が現れる、時間のことである。

転変が理解できると、過去と未来が解かる。
行を解するならば、過去の生が分かって来て、
他人を介するならば、他者の心が解かって来る。
あたかも、見るものに、見る力があるよう、
見られるものにも、見られる力があるために、
体に綜制を加えると、身体を隠すことが出来る。
また、自らのカルマに、綜制を加えるとき、
自らのカルマが熟す時が、解かるようになる。
それによって、自らの死期を悟ることが出来る。

慈に綜制を加えるとき、慈の力が身に現われる。
象に綜制を加えるとき、象の力が身に現われる。
心に綜制を加えるとき、遠くを見る力が現れる。
太陽に綜制を加えると、宇宙を知る力が現れる。
月に綜制を加えるとき、星の配置を認められる。
北極星に綜制を加えて、星の運行を認められる。
臍に綜制を加えるとき、体の組織を認められる。
喉に綜制を加えるとき、餓えと渇きが癒される。
亀の管に綜制を加えて、忍耐する力が現われる。
頭頂に綜制を加えると、シッダに会いに行ける。
心奥に綜制を加えると、意識自体を意識できる。
真我に綜制を加えると、真我の智慧が現われる。
真我の智慧とは、照明智と呼ばれるもので、
個々を知ることなく、全て知ることが出来る。
また、それにより、超自然的な五感が生まれる。

心と体を結び付ける、カルマを断ち切って、
他の体の中に、自らの心を潜り込ませられる。
すると、相手の体を、自らの意のままに操れる。

ウダーナ気を綜制すると、身体を浮き上らせる。
サマーナ気を綜制すると、身体を燃え上らせる。
聴覚と虚空を綜制すると、天耳通を獲得できる。
肉体と虚空を綜制すると、神足通を獲得できる。

完全に心が体から抜けると、大脱身となる。
大脱身では、トリグナを、完全に払い落して、
真我の光明を覆う、あらゆる障害が消えている。

地元素、水元素、火元素、風元素、空元素、
ラジャス、タマス、サットヴァを綜制すると、
あらゆる物質を、完全に支配することが出来る。
このように、五つの元素を支配できるなら、
自らの身体が、小さくもなり、大きくもなり、
強くもなり、美しくもなり、強靭に鍛えられる。
このように、三つのグナを支配できるなら、
自らの感覚が、近くにもなり、遠くにもなり、
鋭くもなり、早くもなるし、自在に治められる。

光輝くサットヴァと、光輝くアートマンを、
見極める力が、シッディの中でも最高である。
それにより、全てを知って、総てを治められる。
色々な力が付いても、それに捕われないで、
様々な存在が見えても、それに囚われないと、
すべての業が消えて、真我の独存の状態となる。

刹那の時間や微細な空間に、綜制を加えて、
刹那と刹那、微細と微細の関係が見えてくる。
これこそ、分析の智慧であり、ターラカである。
ターラカは、救済する者という意味であり、
我々を、輪廻の大海から、救い上げてくれる。
この世を一度に捉えて、この世の一切が分かる。
あらゆるシッディは、グナの浄化に用いる。
グナの浄化は、サットヴァが優位になること。
最終的には、真我の浄らかさと等しくまでなる。
そして、その状態こそが、真我の独存位である。

 

 

第四章

これらの超常の力は、生まれながらにして、
薬草を飲むことで、マントラを唱えることで、
苦行を修めることで、サマディに入ると具わる。

例えば、農夫が、水路を作り、田畑を耕す。
この農夫が、転生の副因、カルマに相当して、
この畑の水が、転生の主因、三グナに相当する。
水が、何処に注ぐかは、何処に生まれるか。
農夫が良く働くなら、善い所に流されていき、
農夫が余り働かないと、悪い処に流されていく。
同時に、様々な処に、流れることがあるが、
我想がある限りは、すべて自分と捉えている。
個々の心が異なるが、大本の心は唯一つである。

先天、薬草、真言、苦行、三昧の五つの内、
静慮によるもの、サマディによるシッディは、
煩悩を含まないため、カルマを作ることがない。
煩悩が作る、カルマには、三種類のものがある。
第一に、善い果報が生まれてくる、白業であり、
第二に、悪い果報が生まれてくる、黒業であり、
第三に、善と悪の果報が生じる、黒白業である。
ヨーギーのカルマは、黒くもなく、白くもない。
カルマは、潜在意識に積み重ねられて行き、
現在の条件に合うものが、現世に現れて来る。
たとえ、時が離れていても、縁が合えば現れる。
どこまで、昔に遡っても、時を遡れるのは、
潜在意識が、無始であることを、示している。
なぜなら、生に対する愛着が、有るからである。

潜在意識には、四つの要素で、構成されている。
第一の要素は、善因や悪因である、原因である。
第二の要素は、善果や悪果である、結果である。
第三の要素は、潜在意識の器である、心である。
第四の要素は、現れる条件となる、対象である。
四つの要素が無くなれば、潜在意識も無くなる。
現在の現実は、顕在意識に現れているもの。
過去や未来とは、潜在意識に隠れているもの。
現れるにせよ、隠れるにせよ、グナとして有る。
内に無いものは、外に見とめられないため、
見る者が変わると、見ている物が変ってくる。
心によって、客観は、現れたり、隠れたりする。
心は、客観を見たり、見なかったりするが、
真我は、いつでも、心のことを見とめている。
心の主君である真我は、転変しないからである。
心は、見られる物であり、見る者ではない。
心が見る者になると、他の心を認めてしまう。
すると、無限に遡及して、説明が付かなくなる。
例えば、心の中に、花が映されているとき、
別の心が、その花を見ていると考えるならば、
その別の心に、その花が移されるだけであろう。
それゆえ、見る主体が、心と別に存在する。
それが、純粋精神である、アートマンであり、
見る主体と見られる客体に、心は挟まれている。

アートマンと、ブッディの違いが分かると、
自己の存在に関する、様々な思いが無くなる。
そのとき、心は、独存の方に向かうようになる。
たとえ、このような、心の状態になっても、
様々な過去のカルマが、心に入り込んでくる。
この行を止めるのは、先に述べた方法しかない。
プラサンキャーナ、即ち、深智を得た後に、
あらゆる欲望を抱かないと、法雲三昧となる。
そのとき、あらゆるカルマと、煩悩が消滅する。
三グナは、使命を終えて、相続が終了する。
この相続は、刹那と刹那を繋げることであり、
この終局に至り、ようやく、初めて把握される。
三グナの使命とは、真我に向かわせること。
真我に辿り付いたら、グナは真我に還元する。
真我の独存位では、真我が真我に安住している。


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