天理教要覧『緒言』

天理教教会本部

1966年(昭和41年)1月26日発行の天理教要覧のまえがき。



緒言

 天理教は人類世界の創造神である親神・天理王命が教祖おやさま中山みきをそのやしろ(社)としてこの世に顕現し給い、教祖おやさまの御口を通じて啓示せられた教えであって、天保九年十月二十六日、大和国山辺郡庄屋敷村(現天理市三島、天理教教会本部所在地)にはじまった。  その本旨を一言にして尽くすならば、人間の陽気ぐらしをこの世に実現しようというものであり、この世を、喜びと光に満ちた真の平和の世界、陽気づくめの世界に立て替えようとするものである。

 月日にわにんけんはじめかけたのわ
 よふきゆさんがみたいゆへから        十四 25

と、啓示録であるおふでさきには示されている。即ち親神が人間を創造されたのは、人間の陽気ぐらしをする有様を見て、神も共に楽しもうとしてであると仰せられているのである。陽気ぐらしこそは親神の思召であり、人間本来のあるべき姿なのである。人生の意義・目的は実に陽気ぐらしにある。

 人間はどこから来て、どこへ行くのか。人間とは何か。人生の意義は?目的は?ということは人知はじまって以来、われわれに課せられた問題であり、古来それに対する幾多の追求が行なわれ、幾多の解答が出され、今もなお同様の試みがなされている。人生の意義の明らかでないところ、その価値の大半は失われ、生き甲斐も亦なくなるからである。しかし果たして万代揺るぎない真の人生の意義に逢着し得た人はあったであろうか。答えは否といった方が当たっているようである。数知れぬ人生論が現われ、甲論乙駁、そして未だにさ迷い続けている人々の姿はそれを裏書きしているといえるであろう。

 それはともあれ、今、ここに人生の意義・目的は陽気ぐらしにあるといわれる親神のお言葉を提示しても、容易にそれを肯う人はないであろう。何故なら、第一にはそれは未聞の説であり、現実の世界はあまりにもそれとかけ離れているからである。同時にまた、宗教とさえいえば来世に、彼岸に眼を向けるものというのが常識になっているからである。信じ得ぬのは当然であろう。

 親神御自身、立教の御宣言とも解せられるお言葉の中で、そのことに言及され、人間世界がはじまって以来、親神の真の意図を知った者はいない、それもそのはずで、未だ曽てそれを説いて聞かせたことがないのだから無理はないと仰せられ、この度は親神が直々この世に顕現して、人間元初もとはじまりに関わることをはじめとして、よろづ一切のことを説き聞かせるとお示し下されているのである。

 要は、このことは親神のこの世への顕現を待って、はじめて明らかにされたということであり、その御教を伝えるものがこの道・天理教なのである。

 親神はこれまで人間の成人に応じて、様々の教を垂れ、十のものなら九まで仕込んで来たが、今、最後の一点、人間創造にまつわる一切を説き聞かせると仰せられている。最後だめの教といわれる所以であるが、この最後の一点、人間元初まりにかかわる一切を明らかにすれば、世界一れつの人々の心は自ずと勇み立つと示されているように、この世の混迷と不幸の真因は、人間がその依って来たるところを知らぬことにある。今、その一切が解き明かされたのであるが、これによって真に親神を知り、親神の御心に触れ得た時、人の心には大きい変動が起こり、現前する世界の姿も亦、一変するであろう。

   御教によれば、親神・天理王命は紋型もんかたのないところから、この人間世界を造り、永遠に変わることなく、万物に生命を授け、日々あまねく、その生成に十全の守護を垂れ給う元の神・実の神である。親神こそは、ありとしあるものの生命の根源であり、一切の現象の元である。天地自然の法則、人間社会の秩序もこれみなそのたえなる守護によっている。

 親神の御目からすれば、人間は等しく可愛い親神の子であり、世界一れつは何処に隔てのない兄弟姉妹であって、見抜き見通しの親神によって、各自心通りの守護をされて日々を生きているのである。

 されば人間にとって親神こそは真実の親であり、その守護なしには息一つすることも出来ず、ましてや身の自由もかなわないのであるが、人間はこの本真実を知らず、自分一人の力で生きているかの如く思うのみか、その自分の力を過信し、わが身思案に明け暮れて、互いに排擠し合い、一れつ兄弟の実を押しつぶして苦しめ合い、果てはこの世を憂き世と歎じているのである。これ一に元を知らず、親神創世の御意図を知らぬに起因する。一れつの子供可愛いと仰せられる親神は、これをいじらしいと思召し、この世はじめの時に約束された年限の到来を待って、人類創造の母胎たる魂のいんねんを持たれた教祖おやさまをそのやしろとして、人類創造の元なるやしきに顕現され、一れつ子供をたすけ上げ、思召のままなる陽気づくめの世界にこの世を立て替えるため、御教を垂れはじめられたのである。

 ここにいう陽気ぐらしは単なる観念の世界ではない。それは病苦、災難、抗争等々の一切の人間苦から解放された喜びづくめの世界である。  

 そこへの具体的な道として教えられたのがつとめとさづけである。

 つとめは人間創造の証拠としてぢばに据えられるかんろだいを囲み、選ばれた十人のつとめ人衆にんじゅうが面を着け、九つの鳴物に合わせ、親神の十全の守護の理を手振りに現わし、親神の心一つにとけ合い、陽気につとめるもので、つとめ人衆にんじゅうが一手一つに勇むところ、親神はその真心まごころを受け取り、この世・人間創造時における不思議な働きを今にかえして、自由自在の守護を現わし、よろづたすけを実現される。如何なる難病もたすけられることは勿論、百十五才の定命じょうみょうを保ち、なおその上、心次第では年も寄らず、弱ることもなく、いつまでも生きさせてやろうとさえ仰せられている。更には農作物の豊年満作から、この世の治まりも守護下されるのである。

   さづけは、親神が各自の心の真実を見定めて、病いたすけのために授けられるもので、このさづけの理を拝戴した者が、誠の心をもってこの理を取り次ぐところ、親神はたすけの実を守護されるのである。  

 つとめとさづけは実に世界一れつの陽気ぐらしを望まれる親神が、その切なる親心から教えられたたすけ一条の道なのである。これによって、一切の災厄は払われて、この世は次第に陽気ぐらしの世と立て替わる。されば親神はひたすらにつとめの完成をき込まれるのである。

 まことにつとめの完成こそ、至福にいたる鍵である。が、そのつとめの完成はただその形式を整えるということでない。つとめ人衆にんじゅう十人の心が親神の心一つにとけ合い、陽気に勇むということが要請されている。病いたすけのために授けられるさづけにおいても同様であって、それは各自の心の誠真実を見定めて授けられるものであり、またその理を取り次ぐ者の真実誠しんじつまことの心に乗って親神は働き、自由自在の守護を現わされるのである。ここに人間の心の問題、在り方の問題が出て来る。 

 つとめの地歌には

  いちれつすましてかんろだい

と仰せ下されてあり、つとめの完成をき込まれる親神は、一れつの胸の掃除ということをしきりに仰せられているのである。つとめの完成と人間の心の成人乃至は完成とは不可分の関係にあることを知るのである。

 人間の完成された姿とは心の真実誠に澄み切った姿、親神の御心をそのままに映した姿ということが出来るであろうが、一方においてつとめの完成をき込まれる親神はまた、そこへの道中をも事細かにお示し下されているのである。

 ここで先ず第一に挙げなければならぬことは、一番根本になる人間存在そのものについて、人間の身体は神のかしものであって、心だけがわがものであると教えられていることであろう。人体の構造や機能は両親や人間の力で造ることも出来なければ動かすことも出来ぬ。一に親神の温かい守護があればこそである。これを神のかしものと教えられているのであるが、これはこの道・天理教を特徴づけるもので、このことが分からねば何も分からぬと仰せられている如く、真にこのこと一つに思いを潜めても新しい視野は開けてくるであろう。

 それはさて、この身が神のかしもの、人間の側からすればかりものであってみれば、貸主の意に添うて使うのが至当なのであるが、使用の自由にゆだねられた心を幸いに、ついわが儘、気儘に流れる。かくて平和なるべきところに風波を巻き起こす。これが人間の常である。心通りの守護といわれる如く、ここに親神の守護を曇らす理が出て来るのである。こうした親神の意に反する心遣いをほこりと教えられる。元々、悪人などいうものはなく、ちょっとのほこりがついたからであると仰せられ、また罪といえば可愛い子供の心をいためるとも仰せられている。ただただ一れつ子供のたすけばかりをねがわれる親心の現われということが出来るであろう。けだしほこりは払えば取れるものであり、その掃除へと積極的な意欲も沸いてくるからである。

 が、我欲にめしい、わが身思案を軸に旋回している人間に、はたしてそのほこりの自覚が可能かという問題が次に出てくるのであるが、親神はその反省を促すために、身上(病気)や事情(諸種のもつれ事)にしるしを見せると教えられているのである。 

 しかし親神は怒りの神でもなければ、復讐の神でもない。難儀さそう不自由さそうという神は出ていぬと仰せられている。繰り返すようだが、親神の御心のなかにあるものは一れつ子供可愛いということばかりであり、そのたすけばかりを急き込んでいられるのである。身上も事情も、よりよき道への愛の手引きなのである。

 人間はこのことを知らず、いたずらに眼前の苦悩に心を奪われ、もがき苦しみ、果ては人を怨み、天を呪い、この世を果敢はかなんだりしているのであるが、真にこの親心を悟り取れば、それだけでも世の中を見る眼は一変する。更に親神の導きのまにまに、ほこりの掃除に励むならば、親神はその心を受け取って、如何なる守護も垂れ給うのである。

 しかしほこりは払えば取れるものではあるが、知らぬ間にまた積もるものである。しかも親神がわれわれが普通に死と呼んでいるものを出直しと教えられる。それは丁度、古い着物を脱ぎ捨てて、新しい着物に着かえるようなものであって、生き通しの魂は、かりものである肉体を、時期が来てそれを親神に返しても、また前生の心遣いに相応しい身体をかりて、再びこの世に生まれ変わってくるということである。この持ち越しのほこりをいんねんと教えられる。誰の眼にも清く正しく見える人が逆境にあえいだり、病苦にさいなまれたりするのは一にこのためである。が、これとてその理は一つであって、たすけを急き込まれる親心の現われなのである。それは人間の立場からすれば容易に了得することの出来ないことであろうが、いんねんが過去において蒔いた種の現われであってみれば、如何にもがこうが、わめこうが逃れることの出来ないものである。むしろ自ら進んでそれを断滅する方向に進んだ時に新しい道はひらける。ここに親神の慈愛の導きを見出し得たものは幸いである。

 現われて来たこと、なって来たことすべてに天の理を悟り、ひたすらにたすけ一条の親心にもたれ歩むところ、自ずと苦しみも喜びに転じる。それをたんのうと教えられ、真の誠はたんのう、たんのうはすぐに受け取ると仰せられている。たんのうは諦めでない。いんねん断滅の道である。たんのうには喜びの花が咲くとも示されている。それは人間不幸を契機として、それを新しい栄えの道に切り替える転轍機ともいえるであろう。

 ここまで来ればその人、個人にとってはすでにたすけられてあるといえるかもしれない。が、たんのうが心に治まれば治まるだけ、親神の御恵みは一層身に沁みて感じられ、生かされている、いや生きさせて頂いているという喜びと感激の心が行動に現われてくる。これをひのきしんと教えられる。ひのきしんとは真実の喜びを日々親神にお供えすることである。

 欲を忘れてひのきしんと仰せられている。ひのきしんに勇むところ、そこには私はない。それは自我を離れ、人間思案の一切を断ち切った姿である。欲なく、私のないそこには、何の表裏もなく、清らかさと明るさが溢れる。これこそ親神の御心に通じる心であり、たんのうがすでにそうであったように、それは真実誠に澄み切った現実の姿である。

 真実誠の心には限りない親神の御恵みが垂れられる。親神はひたすらに人々すべてがその境地にまで成人することを待ち詫び給うているのであるが、誠ほど強いものはない、誠は天の理と仰せられる親神はまた、人をたすける心は、真の誠一つの理でたすける理がたすかると、具体的にもお示し下されているのである。

 親神の御心は一れつ子供のたすけばかりを急き込んでおられる。親神の御心をそのままに映した真実誠の心は、やがておのずから人だすけへと進むであろう。これぞ親神の思召のままの世界である。

   このさきハせかいぢううハ一れつに
 よろづたがいにたすけするなら       十二 93
 月日にもその心をばうけとりて
 どんなたすけもするとをもゑよ       十二 94

とおふでさきには教えられている。自分一個のたすかりばかりでは真の陽気ぐらしとはいえぬ。自己を中心として廻転した世界が人々みなのたすかりを願い、互いに立て合い扶け合う世界へと転換した時、真に光に満ちた陽気づくめの世界へと立て替わる。

 

 以上が御教の概略であるが、要は陽気ぐらしをさせようとの思召から人間を創めたとお示し下されている、人類創造の本真実に目覚め、親神の守護のまにまに生かされているという人間存在の根本の理を胸に治め、現われて来るすべてを、よきに導かれる親神の慈愛の手引きと受け取って、たすけ一条の親心にもたれて歩むところに、陽気ぐらしを味わい得る新しい人間が生まれ、更に一れつが親神の子として兄弟姉妹であるという真実の自覚に立ち、互いに立て合い扶け合うところに、世界の治まり、真の陽気づくめの世界が実現されるということである。

 これは、各自が陽気ぐらしを味わい得る人間に更生することによって、漸次、この世界を陽気ぐらしの世界に立て替えて行くものであるということもできる。それは遙か彼方を目指しているようであるが、われわれ個々にとっては決して無縁のものではない。なぜならそれは必ずしも、ある段階が来てはじめて到達し得る理想であることを意味しないからである。心通りの守護と仰せられ、また心さえ受け取れば一夜の間にもどんな守護もすると仰せられているところからも知られるように、われわれの日常に極めて密接に関わっているのである。

 こういっても恐らく多くの人はそれは至難の業というであろう。しかし教祖おやさまはこの御教をただ単に口先だけで説かれたのではなかった。自らお通りになることによって、ひながたの道をお残し下されたのである。のみならず、筆をとって啓示おつげをお書き残しも下されたのである。不思議なたすけによって親神の真理をまざまざとおあかしも下された。ひながたの道をもつことは、崩折れ勝ちな人間にとって大きい支えであり、励ましである。何ら人間心、人間思案で歪められぬ啓示おつげそのものに、今も直接し得ることはまことに幸せでもある。多くの道の先人たちはそれらに守られて、この道を通り抜き、通り切って道の今日を築きあげた。そして今も多くの人たちがその後を辿り、ここぢばに、各地の教会に小さいながら陽気ぐらしのひながたを描き出している。

 同時に、神がこのやしきへ天下って七十五年たてば、日本あら/\すます。それから先は、世界隅から隅まで天理王命の名を流すと仰せられたお言葉通り、時旬の到来とともに、新しい陽気ぐらしの御教は海外諸国でも人々の深い関心をとらえ、道を求めて慕いよる外人もすでに珍しくなくなり、アフリカの地に流された神名は確固たる地歩を築いて、そのひろがりの輪を急速にひろげつつある。

 思うに所謂近代は人間の発見にはじまった。そして人間の万能を信じて、人間自我の確立と拡充に懸命の努力を捧げて来た。が、その果てに辿りついたのが今日の袋小路ではなかったか。原水爆という自らの生んだ鬼子の前におののいているわれわれは、人間存在をその根底から考えなおす時に逢着しているといえないだろうか。

 絶滅の危機に瀕して、今ようやく世界は一つという声が高まりつつある。故ケネディ・アメリカ大統領は地球人という耳新しい言葉でそれを表現した。運命共同体としての人類を考えずにはこの危機を乗り切り得ない地点にまで追い込まれている。しかし果たしてそれで十分であろうか。戦争がないだけが平和ではない。真の平和は、陽気づくめの世界は互いに睦び合い、栄えの道を辿るところにある。それは力の均衡や力を背景としての取り定めなどからは生まれない。親神のいとし子として、世界一れつが等しく兄弟であるという、この本真実の自覚に到達した時にはじめてその道はひらかれる。迂遠のようだが、それには人間自身の改造と更生が先決の問題であろう。科学の独走を恐れ、呪うだけでは事は済まない。各自の心の成人をこそ考えるべき時ではないか。

 天理教はまだ若い。残して来た足跡には誇るに足るものはないかもしれぬ。しかし道につながる者はこの御教一路に生きて来た。そして今、たすけ一条の喜びを合言葉にして、世界の陽気ぐらしを目指して、ひたむきの歩みを続けている。天理教の全存在はそのためにのみある。


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