まことたから(上巻)

天佑會

昭和2年1月26日発行。教祖より本席へ、本席より河原町初代深谷源治郎会長へ、深谷会長より近江国瀬戸眞八先生へ、瀬戸先生より天佑會へと授けられたとされる天理教秘伝の書。 昭和2年1月26日発行。教祖より本席へ授けられ、河原町初代深谷源治郎会長、近江国瀬戸眞八、天佑會へと伝えられたとされる天理教秘伝の書。



一年中節の理

 十一月の中冬至五月中夏至二月中彼岸八月中彼岸三月節に節句、九月の節に節句、冬至より春彼岸までを天理の冬と云う。春彼岸より夏至迄を春と云う。夏至より秋彼岸迄を夏と云う。秋彼岸より冬至迄を秋と云也。冬至とか土用とか彼岸とか中とか節とか云事は其時期刻限が即ち神様の御守護の四季であるから、其神様の理を見る也。

 身の内にとっては節々が節其節々の間が中。心の理に取っては神様が心に乗って働いて下さる時は節。人間は心使わず或は寝た間とか総て身を使わず働かぬ時が中。人間がどうせいでも神が守護下さって居る間が中。例えば食事をなす時は節食後は中、又大小便の時は節となる。

 指でも節の処は節其間は中全身皆同じ。人間は中なれば埃は出来ぬが節と云う間に埃が出来る故二十一節という。身の内の其一節は目二つ有て一つの節耳二つ有て一つの節鼻一つ口一つ首骨の節一つ両手に六つの節背筋腰骨節一つ両足有て六つの節有り腹へその括りの節一つ大小便の処二つ以上身の内の大節なり。人間は他の動物とは異りて皆身体心の使い道の自由用自在が叶う故其使い方にて埃を作るなり。

 

一日の刻限

 時、旬、刻限と云う事が一番大切なり、或は怪我過失火難病難等総て善き事悪しき事万事其起った時刻も神様、物体も神様。身体も神様。

 時計は龍頭と云うて月日也、夜十二時より午前二時迄が子の刻月様の刻限二時となれば丑刻となる二時より六時迄が丑寅の刻大食天尊六時となれば卯の刻となる、六時より八時迄雲読尊八時より十二時迄辰巳以下同じ。一日も神一と月も神一年も神。身内は八方世界は八法万物皆八方の神様より外になし、其の神様には御心及び御役も違い御守護の四季刻限が有るものなれば其の神様の刻限に当って起る事は各々御守護処及びその物体と対照し定まったる天理より其出来湧現象に依って明らか也。

 例えば怪我をなすとせば第一身体のヶ所又次には対する物及び場所。刻限はどう見るかと云えば其事情を見る。例えて申せば大阪に借りをなしておけば大阪で止められる捕わるる京都に関係が有れば京都に止まるが如く其神様の刻限をよう逃れぬ。併して身体も病状が種々異なるが如く世界の万物も同じ木とか金とか云うても一定に非ざれば其一物一物に付いて理を見分けるなり。

 

八柱の神身体及び世界の御守護

 天地日月水気温みも同じ事。月日両神は万物の親万有守護の大元月日の御入込みなくては六社の神御働き出来ぬ。陰陽和合即ち月日より万物は産れ出で各々形を現わし此の世に生命を有す。冬は整う理又納まる世界にても同一の理根にいる春は養うと云う理(身の内にては腹は養う理)世界にてはめぐむ芽切る理、夏は生育と云う理世界にても同一茂る成長成育の理、秋は働きと云う理(身の内にては背は働く理)世界にては熟する理実入る。草木も根が有て木が有て花が咲き其花の中に実が乗る。

 此四つ四季、天理は冬が始まり春夏秋実が乗ると言うたら皆秋の理、大戸邊尊、月読尊也人間に取っては立身出世成功成立と云う如し又世界萬づ草木は我が心有りて成長し花咲き実を結ぶに非ず皆月日也。人間は月日の神魂より産まれたる分身にして身体は八柱の神の御心の顕われなければ八社の神入込み御居住い下さるが故心身の自由用自在が叶い神は人間の心に乗って御働き下さる無形の精神有形の肉体共に月日が親也。

 

神誠と埃

 誠は冬の理、知恵は夏の理、金銭は春の理、力は秋の理、誠が表に現れて知恵裏表なり知恵が金を使い金が力を使う。

 欲しい惜しいの根を切るは誠。分け隔て無くして心を続ぎ怨みそねみりん気妬みの心を起こさざるを金銭。悪口仲言笑い誹謗の心を使わざるは知恵。自慢我慢高慢の心を捨てて人を立つる心を力と言う。

 欲しいという心の埃を去り悪因縁を切ると云う心になるによりて心に誠というものが出る、惜しみの埃出し惜しみ負け惜しみ等の心と人を憎む心を去って知恵と云うものが出来、即ちの理を悟る知恵なり、諭す考える知恵、我が身可愛い埃別け隔ての心と人を怨み妬みの心去るから金銭が出来る並びに食物、高慢我慢等の埃と人を立て我が身丈立て我が意を突っ張る心去って力が出来る即ち心の力なり人を助ける教える道の力なり、尤も身体の力量は其内在り、以上神の心宇宙の真理に叶えば如何程でも心次第に得は備わる神より授かる知恵も力も神の貸し物日々常に心使う其使う心一つが我がの理、心の理に依ってあたわる出来る。

 又春はめぐむ恨み隔ての欲。夏は茂るもえる惜しむ隔ての欲。秋は実る高慢取込みの欲。冬は根に入る欲しいの欲。

 人間身の内借物心一つ我がの理心一つ一つの心と云う其心と云うは我がの理という一つの心は八つに働くほしいをしいうらみはらだちかわいにくいよくこうまんと云う是れが心の働きという。

 其働きに裏と表有る使い様使い場所使い道が間違えば埃となる、水も火も風も(此世第一の宝)大切というても時に或は洪水となり火難暴風という此同じ大切な火水であれど所変れば難という。人間の心もほしいとてをしいとてかわいとて無くばならん心なれども只めんめんに我が身ほしいをしいかわいの心では埃となり罪を作る、なれど物大切人大切人を可愛いと思うて落さん様捨てんよう落ちる人を惜しみ壊れる品敗れる品を惜しみて通るは誠なれど、我が身骨を惜しみ人に与うる物惜しみは誰から見ても喜ぶの好くのと云う心であろうまい、すれば心がいかんのやない使い道がいかんのや使い道が分らんからや。

 十人十色と云う同じ心の者一人もない元々同じ草木果物でも松や杉でも唯一つの実を蒔いて地へおろして段々修理する一つも隔てなく肥を施し一つ畑に作りても皆同じ物と云うは無い様なもの人間も元一つ月日様より産みおろし下された心にて岐美様の雛形より命一つの心の理に隔ては無けれどもずつとおしならべて年限九億九万の水中八千八度の道中にころりと色合い数々に違うて来た、欲しいが強い者もあれば惜しいの強い者もあり可愛いの強い者もあれば憎いの強い者もあり色々変わり来た同じ心の者無い様になりた、親子でも夫婦の中も兄弟も皆めいめいに心ちがうで、似たる心の理を寄せて親子という兄弟という何程似てるようでもよくよく見れば違う所ある、其違うは悪いやない之れでなくばならんのであれど、使い道の違うのがいかんのや、心ばえの違う所是れが見込みという「真実を見て役割をする」と仰せられたる所なり。

 

八柱神人間に入込日々の御守護

 男神五柱は人間に取て男の理、一家に取ては夫の理。女神五柱は女に当る、一家に取ては嫁の理。しかし月日二神は人間に取ては総て主宰者辛故親主君或いは親方とか一家に取ては主人主婦父母等。人間のする事は一つもない皆神様なり、男神は男に入込み女神は女に入込み世界も身の内も同一に御守護下さる皆人間の自由用が神の自由用御働きである。神様と身の内と別々に思うて居ては天理は分らぬ。神は身の内に御座るなり。神様と身体を一つに考えされば悟り諭しは明らかに分らん。

 一日の刻限にては午前二時丑の刻より寅卯辰巳午の刻迄八つ七つ六五四九つ女神様。人間に取て女に当る。午後二時未の刻より申酉戌亥子の刻迄八つ七つ六五四九つ男神様。故男の理也。(尤も目上目下内外等細かい処は別項参照)夜九つ子刻月様一年に取れば冬至丑八つ冬の土用、大寒大食天尊卯刻明け六つ春彼岸辰刻五つ春土用昼九つ午刻日様夏至未八つ夏の土用大暑かしこ根の尊、酉刻暮六つ秋彼岸戌刻五つ秋土用皆八社の神。

 人間も同一。一代に取ては生れて五年間子国常立尊。六才より十五才迄丑寅大食天尊、十六才より二十才迄卯雲読尊。二十一才より三十才迄辰巳国狹槌尊。三十一才より三十五才迄午面足尊。三十六才より四十五才迄未申かしこ根の尊。四十六才より五十才迄酉大戸邊尊。五十一才より六十才迄戌亥月読尊、皆八社の神人間も同一也。身の内は神様の物で有ると云う事が確かに分って腹に入れて居たら諭しは誠に容易なものである。

 又我一人の身と云う小さい事に楽しむと云うは一代の苦しみ通りて居るも同じ事、世界を見て楽しむ親様の御心伺うて楽しむという、どれ丈大きいとも高いとも分らん、我が身は十分という心定めて堪能せにゃならんが道は十分と思うたらころりと違う、どうしても親様の思召しの処迄と云うどうでもこうでもしきりた日に遅れぬ様刻限に違わぬ様と云う是れを心に掛け楽しむと云う心なくばならん人間は目先の楽しみ日々食う事着る事又色々むさくろしい事を深く楽しんでどうもならん不足を思う故楽しみ深く感ずる。

 例えば日々食う事に不足/\思うて居る者程食う事に深く楽しみ持つ又深く味わいを感ずると云う様なもの世の中に塩は塩の味と云う、味噌は味噌と云う塩は塩でよいのや塩が味噌と同じであれば間違うているのや、どちらが嘘で迷うて居る如し、それはそれ丈の事にして其の様を重きに置いて通ればよいそれを用よりも体体よりも想相よりも美と云う味と云う肝心の用が分らんように、甘い物と云うと食い過ぎるが如く世の中の物何が一番結構か楽しみかと云う食物が楽しみと云う、それ段々貪りて見よ物に味あろうまい美食で飽きてとんと楽しみなく通りている者もあればまづい物でもおいしいと楽しんで居る者もある、此れどちらが食事を楽しみしているか酒かと云うて酒につかりて勤めて居る者に取っては楽しみにして居らん其心と水飲んであゝ息ついたと云うて居るのとどちらが飲んで楽しみが有るか又色と云うて人間はつまらぬ一時の楽しみに心取られて命迄捨てる者有るかと云えば是を勤めている娼妓如きは何程苦しき事に思うているが如し。

 すれば物に別はない又同じ心の理は八つ同じ身体で万人同じものなら一つ味と云う身上に別もない只心一つの治め方ばかりや。世上どんな物も眺めて見ればどんな堪能もつくと云う又堪能真から治めたら不足と云う心も起らぬ、別に望む心も出ぬ望まねば別に深くも感じぬ之れは之れの味と云うだけのもの楽しみとも苦しみならん。是れでなくてはならん、只天の拵え御与えの御心を喜ぶだけになる凡夫と云う物に楽しみある様思う者は物だけのもの、何程結構な物と云うても我に持っている心の理に依ては楽しみとならん事が分らん。

 天の御心尽くしの理が分らん。金も砂の如く数あれば大切でない酒も水の如く多ければ大切と思うまい水も酒の如くせねば取れぬ物とすれば酒の価する、物より楽しみないと思うが凡夫真の楽しみを知らん者は其場/\だけのもの続かん様な楽しみ、酒を飲む飲んだら酔う酔うたら入らん入らんとなったら酒の楽しみあろうまい花を見る見たら一時楽しむ何程も見れば飽ける飽けたら花は楽しみとならんそれなら何が心に心から楽しい真かも嬉しい面白いと云う何が切れ目ないというめい/\が楽しみか誉められるが楽しみか、好き嫌い、此心は何処から出るか一つの癖とも云うめい/\因縁心とも云う。人に可愛がられて好く者もあり人に立てて貰うて好く者もあり是れは十人/\皆違う中に高慢の人は可愛がられて喜ばんかわり立てられたら何よりの妙味を感ずる是れ高慢心有る故である。親様の御心はどうして貰うて喜ぶと云うでなく立ててくれはめい/\立てられる理を拵え共に理が賑やかになるで楽しみ給う何もめい/\にどうこう望み給うのやない思う理を返して下され返せば楽しいやろうそこで誠結構と心計る其心の喜ぶ理を見ようと云うより外に御心はない。

 親様は人間に心一つを授け万物は親様の物それで心を受け取りて物を与え下さる是れ物に天の心の籠りたる御心ひとつに依りて天より如何なる事も自由用というそこで心一つを天へ供えて通る程誠はなし楽しみはなし心一つに日々恋しいと云う日々親の理を真から奉る心。借り物が分れば心一つより我はあろうまい、神の魂云うても理を分けて八柱と云うて理は天の心天の力というて別に天より働いて居る働きは皆月日様の光月日様の力なり。

 日々互い互い助け合いと云う互いに人の為を思う人の楽しみ見て楽しむと云う心より誠はない誠の楽しみない是れが元々親様の思い付きとも云う、又此心が元となりて今日世が出来万物出来御苦労下され只此処に止まる是れより外はない。人間互い互い結構/\と云う心を使うから見て楽しみ楽しむ心を見て楽しみ下さる是より外はない。

 

人間一代の理

 五 才  冬 至     六、七、八才    冬土用

 二十才          二十一、二、三才  春土用

 三十五才 夏 至     三十六、七、八才  夏土用

 五十才          五十一、二、三才  秋土用

 右土用の理壱年(冬十五日春十五日夏十五日秋十五日)と一代六十年(幼十五年の内三年、若十五年の内三年と同一の理、最も土用四郎と云う日より十五日の間、十八日と云うは土用四郎前の三日を加えて十八日也。八十八夜と云うは人間一代の内にて二十四にて前厄なり、二百十日は四十二の後厄也。

 身の内が出来て一日が出来る。元々人間が此の世に生まれ出た故一日と云う事が出来、始まる一日が出来て一年が出来、一年が出来て六十年が出来る。四季故に八方の神が四季十二支十二刻十二ヶ月五年づつ三つ寄せて十五年を一季とし、五年と云うは六十一ヵ月、一ヶ月は潤月五年を十二合わせて六十年、一年の潤年を加え六十一年が還暦と巡戻る。

 天理は冬が始まり十五才迄を冬の理、世界草木と同じ、冬の間は草木に色なきと同じ、十六才より三十才迄を春、三十一歳より四十五才迄夏、四十六才より六十才迄秋の理、春は芽生し一代の内最も花やか美麗なる時花咲き色気が充つ、夏は茂る智恵盛りと云う、又欲が強うなる、一日にては午未申の刻、秋は実る、一刻即さ二時間と五年と同じ理なり。五年と一と月と同じ理一五年が一季、六十年が四季、一年と同じ理なり。

 

八埃の幹より千筋の枝葉

 身の内の理は身内御守護処に依りて明らか也。一日の理も一代の理も辰巳に当る時此時に起る事はは縁談色情金銭の間違いの理が起る。正道に関し続ぎを切った埃、即ち恨みの埃が現れる。此埃が作ってあれば此意見身の内に現れ、又此時に事情が起り或は苦しみ失敗死亡等。

 一日に取れば五つ四つの刻限一代に取っては二十一才より三十才迄十年間は国狹槌尊前世に此道に大きな埃が有ったら此時に死んでしまう。(大抵は色情)又総て前世に因縁を作った刻限になると病が重くなる、或は其事情に迫る。戌亥も同じ理に取り悟る事、されど月読尊様には気の短い剛情、人を踏み倒す心立てるべき処立てん腹立ちの埃、其性質に悟る一代に取れば五十一才より六十才迄。又六十才より上は元の一に戻る還暦。同じく未申に当る時現れる事人の害を成す風を吹かして有る言葉で人が倒して有る即ち憎みの埃が現れる三十六才より四十五才迄かしこねの尊様。丑寅大食天尊様も同じ理に取り悟る事然して丑寅は欲の埃、其性質、例えば人を憎む埃も身欲より起る如し。

 皆此の如く天の理を知るなり神様の御心と人間心の埃とを悟りて諭す。諭しは裏から諭すか表から諭すか是れが見分けるによる是れが肝心なり。併して人に恨み腹立てさす様な者は我も恨み腹立ちの埃有る。一家でも内輪である心は外にもその心ある如し。

 水は底きに向かう底きに宿り静かな処に威が有る火は高きに向かうて空を思うにぎやかな処に懐かしき理が有る人間は片寄りてはいかぬ。空も下も思わにゃならん、なれど理は天が台天思うて下思うと云うでなくばならん、下思う故天思うというは元を知らぬ故なり、如何に天に無理ありても下従にゃならず下どれだけ苦しくとも天の為には勤めにゃならんは心に持つ理さればとて天は親無理と云う事は一つもない。

 下を思い下さる一條の外はない心の台と云う根というを天に置き天の思し召し一條に沿うて通らにゃならん一つの心に智は供物気も借り物心一つの理は皆同じ事(理気智水火風も同じ)なれども天の親神の御心入込み給うと云う心貸し給うと云うは心大きく底く太ると是れ心に心に心貸し下さるなり一代やない末代の理なれど旬によりて入込み給うなり俺と云う我と云う人間に有りてはならんめいめいの心から知恵退けたら如何暗闇に立った如く気退いたら如何心細り痩せたら我が心と云うても勇む事出来ようまい。

 いずんで何もかも出来やせん、心に悪理と云うて因縁心の理添うて来たらば如何又来るを待って是れはいかんと思いながら押さえられぬ様になる。是れ第一聞分けめいめい心と云うて此の三つの理に支配される道聞分けねばならん。因縁心の理を切りて頂くは前々心あたり充分の懺悔と云う親様に凭れて七柱様の理で払うて下さる是れ因縁心の埃を払うという。迷わした理から迷わにゃならん欺した理からうろたえにゃならん万事成した理から案じが湧いてくる。狂わした理から狂う心出来てくる人から返して来ずともめい/\心に添うて湧いてくるという

 

八埃の裏表

 欲しい惜しい。腹立ちは恨みより生ず恨みでこらえておいたら国狹槌尊の御意見なれど恨みがこらえ切れぬゆえ腹立ちとなる、腹立ちは恨みが元我が身を恨みて居れば腹立ちにならぬ、又腹立ちから恨みとなる、可愛と憎みが裏表我が身が可愛から人が憎い人が憎いから我が身が可愛。欲と高慢、欲から高慢、高慢がしたい故欲をする。

 辛、甘、苦、酸、四つが食物味の元。月様の辛味に苦味が合うて塩となる、にがりが出る、是が月様御苦心の理、味の王、四の王、甘味は日様の慈愛の現れ、味は初め苦く酸うくなれば終わり春苦いものが酸うくなる秋の理。

 食物の味は神様の真実心味わいなり。神様の御心味わいと人間心の味わいとの別が有る。月様は情け心人間水心誠治まる足納は誠正直水心にて天の理が治まらねば不足不足から腹立ち高慢、憎み、惜しみ、可愛となり遂に欲で固まってしまう悪因縁の暗闇に入る。(逆廻り埃)

 足納の理が納まれば欲が切れる足納に依って前世の悪因縁が切れる心に神の明かりが入る恰も丑寅刻を切れて卯刻に至れば世界が明るくなる如く心鮮やかに正邪理非判然とする。欲分け隔てなく人を続ぐ続がる慈悲人を育てる、満足与える高慢が無くなる故、我が身に徳がつく人を立てる大切にする心になりて我が身立つ。欲を切るは思い切り諦め聞分けと云うも同じ理聞分けよきは思い切り(物の区別区域をつける)よき理心定めるも同じ誠無く心小さく即ち欲深くして思い切り心捌きの出来ぬ時は心発散せず精神清浄綺麗に成す事能はず。思い切り無き心の定まらぬ小さき心が欲にて穢ないと云う。

十二支悪歌逆廻り
  ねにいるものはいんでとられてさつてひつねんうまれたそのみがたたんうんをとられてうしのうてしもう

同  善歌順廻り
  ねをうしのうてもとられんうんをひらいてたつてゆくそのみがうまれてくるほどにひつねんせざるなとりてもいんているほどに

 又欲しいと云うも我が身へ斯うして欲しいどうして欲しいどう思うて欲しいと思うのが人間心只どうしてこうして欲しいは自分の他の者と者との勤め合いをさして共に楽しましたいめん/\には何を取るのやない只見て楽しむと云うは親様の御心人間でも子供にどうして欲しいと云うは真の親の理であろうまい。

 只どうしてやったらと云うやりたいばかりに親の心を知るのを待って居る何処へたよらいでも大丈夫な親に力あるそれを知らしたいと云うは立てて欲しいや崇めて欲しいからやない頼りを認めさして心安心さいたい故であるそこで心に理を受けて自由用さして下さる何思うても親様の心一つの理という同じ事思うと云うのやない同じ理を思うと云うのやそうして時々浮んで来る天から写す又時々知らず/\の様に言葉出る皆天より話しして居る天より口を借りて云うのや、皆誰でも心澄ませばそれ相等に理は借れる又気も借れる智も借れる、是れどんな者でも何でも自由用という。

 借り物の身と我の物と分けて見よ神様の力、理智気、と分けて見よそれは一つ只欲しい惜しい可愛い憎い恨み腹立ち欲高慢是れより外は我で無し是思うだけより働き無く力無し、之を現し下さるは皆神也

 

八埃裏表心に悟る理

 思い切りの悪きは恨み七の表三三の裏欲から恨み、四と六腹立ちから憎み荒い言葉が出る憎みから腹立ち。五と五我が身も可愛い人も可愛い之は埃にならぬ之れは天理に叶うから裏表はないと意うてよい。

 二と八表に高慢があるから心の底に惜しみあり惜しみから高慢。一の裏九欲しいから苦をする此の世の苦は欲しいから苦第一物の始めが欲しい、物の始まりも埃の始まりも欲しい例えば高慢がしたいゆえ埃の方にはきばって出すが真実の方にはよう出さぬ自慢や高慢で人に悪く云われようまい、汚いと思われようまいという心で出している故心には惜しい惜しみが生ずる高慢がしたいから惜しむ心、例えば惜しんで与えぬ人に物を教えぬが如し。人に負けるべき事又負けて我が身に徳が付く理に叶う処を負惜しみ負けても負けん我慢高慢なる如し。

 欲切る事切らぬ分ける事分けぬ欲から人に恨みを受けるも又我れが思い切り諦めをせず人を恨むが三恨み七欲皆裏表なり。皆埃は十の理也。金の国狹槌尊様に切れる大食天尊様の如く裏表にて十社となる。是れは埃の裏表とは違うから諭しには使う事稀れなれど我が心に悟る理也。

 

八色之意味    

 八方の神様の色で、万物が染まるなり。青は大海晴天の色、青いと云うは皆、世界万物身の内の悉く月様の理、赤は明か、赤い火照光一切いと云うは、皆日様の理、陰陽御夫婦の理也。緑は国狹槌尊、木の葉とか、竹とか緑一切、黒は皆大食天尊、例えば鳥でも烏とか九官鳥の如く天然物で黒きものは勿論、白いと云うは一切かしこねの尊白は風。水青く風白くと云うて風で皆物が白くなるなり。

 彼の雪の如し、雪は六花と云うてかしこね様の理、言葉を白す申すと書く、雲読様は水色、萌黄も同じ萌え出ずる色芽出し。草一切の色、浅黄とも同じ。万ず草気粒毛、春は萌黄、浅緑が緑となり、緑が秋になれば黄となり、柑色となる如く皆夫婦の理。黄は一切大戸邊尊、柑色は月読尊、秋の神様なり。黄が濃くなって、柑即ち黄に赤合すれば柑となる。水気が去る干るに従って黄柑赤と色変わる。

 又紫は青六分赤四分が真正の紫、月日和合の色にて色の王と云う、緑は青と黄の合色宇宙万物の色合いは八色及び混合して皆濃淡彩色せられて有る、又白は風無色とも云う故所謂太陽の七色と云うが如し。真の原色は青、黄、赤、白、黒、五色なれど陰陽合体八方の神様の理にて、八色に分かる。

 人体世界万物は八色により同じく合色により各々其神様の理を知る、例えば人体頭は青地と云うて水月様、冬髪の黒色は大食天様、顔は夏、赤と白、赤味なき真白く青い如きは薄情の相と云うは日様の色がないから火気、誠を失うた埃有る色、色黒いは欲が深い、細かく行けば顔でも八色が現れる、皆其心使いが現れる也、但し心が澄まねば明細の事は見分らぬ、身体或は病でも、又総ての物、白い物が黒くなるとか、赤い物が青くなるとか、本色を失うて色々濃淡変色すれば其理を知る也。総て天理は宇宙全体全般に渉る事故、一々是を縦横細密に説明せんとすれば、到底筆紙にては其真味を会得し難く、尽くせぬもの又神様の御言葉は一を聴いて十を悟る十のものを十聞かねば分らんようでは天理は容易に分らん故、神様は皆悟りばかり諭しの御言葉下さるは深き思し召しの有る処にして、我々の力を付けて下さるものなり。心を練らし磨かせて下さるは魂に末代の徳を授けるが為なり、心の成人次第に皆分るなり。

 又人間の眼には鮮やかに見えねども、一昼夜でも神様の刻限によりて、世界の色変わると仰せられる、子の刻は青、丑寅の刻は一昼夜で最も暗黒の時、卯の刻明け六つ明け方水色、辰巳刻緑、午刻赤明らか、未申の刻白、そよ/\と風起こりて一昼夜で最も明白の時、白昼、酉の刻暮六つ日西に傾く頃黄、戌亥刻柑、黒夜と云うは丑寅の刻白昼と云うは未申の刻、一年にて寒暑と同じ、あやというは黒白の事なり、即ち夜昼にて丑寅大食天尊、未申かしこねの尊なり、一日も一年も一代も同一に御守護下さるなり。

 万物の青いと云うは水という理にて月様の御心苦労と云う理なり、宇宙海川の青く、山野青々として繁茂する森羅万象は皆水より現れ、苦労と云う理が栄えて居る也、月様元々無き人間、無き世界御造化下さる御苦労の理、月様辛味に苦味が合うて潮となる、塩は味の王、四季四方四王、人間も苦労と云う理が最も尊き事なり、苦労と云う理が有って万事栄え成立つ。

 

一日と一と月と同一の理

 一日にて夜寅丑子の三時、一日より八日迄朝午巳辰の三時、八日より十五日迄昼申未午三時、十六日夜九つより二十三日迄酉戌亥の三時、二十三日より晦日宵四つ亥五つ戌六つ酉の刻迄なり、一日夜九つ子刻より三十時、即ち二日半、三日朝巳刻迄、三日の昼九つ、午刻より、五日宵の四つ、亥刻迄、六日夜九つ亥刻より、八日朝四つ巳刻迄、右七日半にて三十刻は一日三時と同一にて一ヶ月七日半四つ、即ち三十日、三百六十刻は一日十二時と同一也。一日の一と時と一と月の十時と一日の一時と一と月の三十時と同一、一日十二時と一と月百二十時と同一の理なり、七日半三十時、十五日六十時、満月三十日は百二十時暗黒也。

 

一年と一月と同一の理

 冬至より三つ月九十日間は一と月にて朔日夜九つ子刻より八日朝巳の刻迄九十時、春分より三月、九十日間は一と月にては八日、昼九つ午の刻より十五日宵四つ、亥の刻まで九十時、半年百八十日、半月百八十時。夏至より三つ月、九十日間は一と月にては十六日夜九つ子の刻より二十三日、朝四つ巳の刻迄九十時、秋分より三つ月、九十日間は一と月にては二十三日、昼九つ午の刻より三十日、宵四つ亥の刻迄九十時と同一なり、一年三百六十日と一と月三百六十時は同一なり、三月節句、九月節句は一年中の大干潮時なり、一と月にては八日上弦、二十三日下弦、一年三百六十日と一と月三百六十刻が天の理なれど人間男女大小の理あるゆえ月にも大小の守護下さるなり、大が三十日、小が二十九日、人間男大のりにて五尺二寸、女小の理にて四尺八寸、人間始め世界始まりの時、いざなぎの二命五尺の人間に成ると云い玉いたる故五尺は一人前なり、男女夫婦にて一丈一とたけ男五尺二寸、女四尺八寸、四寸のちがいあるは一の道具の凸凹有る理、月に大小と潤月ある潤月は女に三十年間月水の御守護下さる理なり。月経又月役ともいう。

 

一日と一年と同一の理

 夜九つ冬至       朝六つ春分

 昼九つ夏至       宵六つ秋分

 牛刻  寒       未刻  暑

 冬至          春分      

 夏至          秋分        

 大寒          大暑       

 中半月節半月合わして一月の理は朔日にては上刻下刻して一刻と同じ理なり。

 

一日弐拾四刻一年弐拾四刻の訳

夜九つ  十一月中  冬至   九つ半  十二月  節
 八つ  十二月中       八つ半  正 月  節
 七つ  正月中        七つ半  二 月  節
朝六つ  二月中   春分   六つ半  三 月  節
 五つ  三月中        五つ半  四 月  節
 四つ  四月中        四つ半  五 月  節
 九つ  五月中  夏至    九つ半  六 月  節
 八つ  六月中        八つ半  七 月  節
 七つ  七月中        七つ半  八 月  節
宵六つ  八月中  秋分    六つ半  九 月  節
 五つ  九月中        五つ半  十 月  節
 四つ  十月中        四つ半  十一月  節

 

人間一代之理

 五 才  冬 至     六、七、八才    冬土用

 二十才          二十一、二、三才  春土用

 三十五才 夏 至     三十六、七、八才  夏土用

 五十才          五十一、二、三才  秋土用

 右土用の理一年(冬十五日、春十五日、夏十五日、秋十五日)と一代六十年(幼年十五年の内三年、若十五年の内三年、壮十五年の内三年、老十五年の内三年)と同一の理、最も土用四郎と云う日より十五日の間、十八日と云うは土用四郎前の三日を加えて十八日也。八十八夜と云うは人間一代の内にて二十四にて前厄なり、二百十日は四十二の後厄也。            身の内が出来て一日が出来る。元々人間が此の世に生まれ出た故一日と云う事が出来、始まる一日が出来て一年が出来、一年が出来て六十年が出来る。四季故に八方の神が四季十二支十二刻十二ヶ月五年づつ三つ寄せて十五年を一季とし、五年と云うは六十一ヵ月、一ヶ月は潤月五年を十二合わせて六十年、一年の潤年を加え六十一年が還暦と巡戻る。

 天理は冬が始まり十五才迄を冬の理、世界草木と同じ、冬の間は草木に色なきと同じ、十六才より三十才迄を春、三十一歳より四十五才迄夏、四十六才より六十才迄秋の理、春は芽生し一代の内最も花やか美麗なる時花咲き色気が充つ、夏は茂る智恵盛りと云う、又欲が強うなる、一日にては午未申の刻、秋は実る、一刻即さ二時間と五年と同じ理なり。五年と一と月と同じ理一五年が一季、六十年が四季、一年と同じ理なり。

 

九四(このよ)の訳

 夜九つ子の刻月様此の世の始まり夜が始まり、昼九つ午の刻日様、月日は陰陽天地和合万物の親様なり。一年に取れば冬至が子元、一代にては生まれ出で五ヵ年が子、子は北南北が此の世八方の根なり、夜九つ昼九つ月日有って人間万物を生ず、九つ胴九の世界という。

 夜九つが始まり故九つが一つ、八つが二つ、七つが三つ、六つが四つ五つが五つ、四つが六つなる故皆十となる。依って一九が九にて、九つが子の刻に始まり、九つに二つ目を掛合して二九十八で、八つが丑の刻、三九二十七で七つ寅四九三十六で、六つ卯の刻、五九四十五で、五つ辰、六九五十四で、四つ巳の刻にて六刻四つ時なり。

 同じく昼日様九つにて始まり、一九が九、九つが午の刻、二九十八、八つ未、七つ申、六つ酉、五つ戌、四つ亥刻にて六刻即ち四つ時にて一昼夜終る。合わして十二刻は十二支八柱の神、一日一年一代身の内も同じ理、身の内に有るもの世界に有り、世界に有るもの身の内に有り。夜九つ昼九つ九九の本、算術の根元は皆此の理より初まる。宇宙の真理は皆九九で理が出る也。

 算術と云う術法なり。或は測量とか天文とか総て是れにて明算す。算術は天理より教えられたるなり。そろばんと云う、皆世界は十より無い十と云う世界なり。

 天理は根元、学問は枝末なり、此の世の根は月様、子が一番の元、故に人間も子が宿るが始まり也。月泊まると云う月様宿り下さるなり。故に人間子の宿る所を子宮と云う、龍宮と云うも同じ意味にて、身の内では子宮、世界では龍宮と云う。

 

大小潤の訳

 月に大小あるは男大、女小の形あり、故に親神其理を計り御守護下さるは六十年に十二ヶ月潤あるは女に月水を下さるなり。晦日と云うは月様全光悉皆黒くなり玉う即ち宵の三時にてかくの如く真っ黒なり、朔日と云うは夜の三時にて、一分白くなり玉う、一日四分というは一年四季の理なり。四分宛十五は即ち十六分にて満月なり。  十六日夜、五ヵ年六十一ヶ月は一つの潤、六十年に七百三十二ヵ月の潤にて即ち一ヵ年なり。女十六より四十五まで三十年の間に三百六十日の不用水在り、一年に十二日の不用水在り。一日子の刻より亥の刻迄月水満ちる時は働き不自由なるゆえに、三日或は長きは五日共して御守護下さるは親神様子を憐れみ給うなり。

 十八才より四十八才、二十才より五十才、十六才より早きと五十才より遅きは前世因縁と親の因縁の理あるなり。

 月経は天の月様の恵みなり、潤壬は雲読様が水を分け下さる理なり、女の魂は日様の分魂故三十年間の月水無ければ女は焼け死ぬ故、月様より授け下さる水なれど、女の身が日様の分身故赤き心写りて赤くなる。総て血液は日様にて赤くなる。三十年間月様よりそれだけの余分の水を御守護下さるで七十とか、八十、九十と、男と同様に連れて通り下さる、月経は色気の花なり、色気なき者にはなし、世界にては桃の花と同じ理、二十九日の小月が女の理故潤月が月経なり、潤月があって男と同じ事になる理なり。

 朔日子の刻より八日巳の刻迄冬の理半月八日午の刻より十五日亥の刻迄春の理十六日子の刻より二十三日巳の刻迄夏の理二十三日午の刻より三十日亥の刻迄秋の理八日上弦半月二十三日下弦半月朔日を新月と言い八日を半月と云う十五日を満月と云い二十三日を半月と云う也

 

朔日晦の訳

 朔日と云うは月様夜の九つ子の刻より始めて宵の四つ亥の刻に至りて四分の光明を放ち給うを云う但し晦というは月様全光悉皆黒くなり給うて月籠りというなり朔日というは朝六つ卯の刻より宵六つ酉の刻を云う十五夜ば宵六つ酉の刻より朝六つ卯の刻迄を云う

 

月の出入の訳

 朔日の月様は朝六つ卯の刻に出で給い宵六つ酉の刻に入り給う
 八日の月様は昼九つ午の刻に出で給い夜九つ子の刻に入り給う
 十五日の月様は夜六つ酉の刻に出で給い朝六つ卯の刻に入り給う
 二十三日の月様は夜六つ子の刻に出で給い昼九つ午の刻に入り給う
 朔日の昼と十五日の夜と表と裏なり八日の昼と二十三日の夜と表と裏なり

    朔 日  新月    八  日  上弦半月
    十五夜  満月    二十三夜  

 

満潮干汐の訳

 朔日十五日朝六つ宵六つ満潮   夜九つ昼九つ干汐なり
 八日二十三夜夜九つ昼九つ満潮  朝六つ宵六つ干汐なり

 しおとは四方の事四季の事此の世は月様の御神体北に頭を取り東より南西と四方くるりとしめる世界なり此の御心味四王と云うは心を真と云う真を骨と云う骨を四方根と云うも同じ事此真は神なり心なり其真の気が即ち味なり天地なり大海の潮汐は天地の息なり天地の息には呼吸と云うて一日一夜に二度宛づつの息あり。

 即ち月息は潮満ち掛けて来る又日の息には汐干くなり月息は是元素地に下さりて潮緩み溢れて殖ゆる日の息は是元素地に上りて塩沈む是れに依って満ち干するものなり此潮の差し引きには刻限四分宛づつ違い日々に有り月様は此世界の王月体天地の自由用にて人間有り世界有りそれには万物有る大海の潮汐の満ち干も月の出に満ち上がり月の入るには同じく潮満ち上がる是れ月は万物を司る元にして人間鳥畜類魚貝の類草木等に至る迄天の月様の養い下さる。

 潮汐の味を世界へ潤わせ給う故に大海の塩水が引く也故に月の天井には必ず汐干となりて引く併して東西南北の違いに依り満ち干の刻限少しは違う違うだけ月の出入りも遅き早きあり即ち十五日の月の出は夕の六つ時にて潮の満ちるも夕六つ時なり月天井は夜九つ時なり此時に全く潮干る底なり然れども世界の広き事なれば東洋と西洋とは月の出入りも時刻も違い有る故満ち干きも違い有る也。

 月の出入りにつれて満ち干をするものなれば其所では月の天井には必ず潮干る也刻限の違うは日々日の出の時が違う故月日には夜昼同じ様に照らし下さる故神の守護に違いはなけれども例えば朝寅の七つに日の出る所と卯の六つに出る所と五つに出る所とある如く日の入りも申の七つに入る所も六つに入る戌の五つに入る所と有る故潮満ち干きも同じ又東西南北に依って少しは違い出来る世界の真の地は元の子として神として一として天地世界の元也東とは日を貸すと云うて人間万物に温みを与えて照らし下さるものなるが其の所に依って方角も同じからず北と云う根は元故定まれ共東西南の三方は所々にて少々は日の出も違う也月の出も同じ事矢張東より西へ入るなれど出入りの刻限は違い出来る也。

 朔日は朝六つに出て暮六つに入らるゝが、一日に四分づつ遅れて三日には朝五つ二分に出で、夕の五つ二分に入らるゝ故、夕方には糸目程の月を拝む。十五日迄刻限四分宛遅れて十六日より四分宛早まる故、元の朔日には朝の六つ時となる。月の三十日を月籠りと云う。

 此四分と云うは一刻の四分にて一刻は時計の二時間百二十分の四分四十八分宛なり。又月は一日四分宛光を増して、十五日六十分満月となるのは水を司る、月様は人間万物生い育ちの守護下さる其万物の飲む水也。此呑む水を一日より十五日迄天理の元素と共に月様が与え下さる也。

 又十五日より三十日迄は万物に水気を与える為に元素を緩めて下さる也。月の光は元素也。人間万物此元素なくては一日も活きる事出来ん、此元素の水気も何時迄も入れて置いても温度の違うて腐る故、日々に四分/\の四季の運びに依って水を緩め巡り、又与えして守護下さる也。月は天の父親、日は天の母親万物の親様也。月日の御守護なくば如何なる物も生を有する事出来ざる也。

 人間も母親の胎内へ宿し込み日々の理の増すも成長するも、草木の育つも、花咲くも実るも、味の付くも月日より水気を与えたり温めたり守護下さる故十用に育つなり。

 又月は万物の元の父に物を引き与え下さる也日は万物を育て下さる元の母也、月日は天地の夫婦南無と云うも同じ事也、月日有て天地有り天地有て夫婦有り、夫婦有て人間有り、人間有て万物有り、万物有てそれぞれの用をなす、されば月日の守護は高大無限の南無なり。人間はなむ/\と二人づつ宿し込み下されたる故なむ/\と陽気に暮す事也。大海の潮はなむ/\と何時も変わらぬ働きあるは天地の息。波と云うはなむと云うも同じ也。

 

九曜星の訳

 日、月、火、水、木、金、土、計斗、羅喉。人間第一慎むべきは日々口使い方を考うべき也、風の神五音呼吸吹き分け人を助けるか又治める時は月也。それに反して人を倒し痛める時は計、斗、羅喉星也、能く/\慎むべきなり、火水木金土此五星は人間日々天より借りて五行を使う如く、口にても普通の事に使う言葉也。

 

交合交際之訳

 世界にて土用というほ身体にては交合交際共にまじわる也。

 交合の訳
 夜体横なる故、竪の女の道具を使う即ち春秋の土用。

 交際の訳
 昼体横なる故に横なる口を使う、即ち冬夏の土用横と云うはろっくにては水縦と云うは、火六は水四は火、人間真実に交際するをにんげんと云う、男女真実に交合するを夫婦と云う也。

 冬の土用と夏の土用とが人間交際の理、春の土用と秋の土用とが夫婦交合の理、世界の土用と云うのが人間身の内に取っては交合交際の理、土用の理に依って皆万物が殖える。

 世界も身の内も土用と云うものは冬至と夏至と云う、根が有って出来る、秋春の彼岸は身の内では背と腹、冬至と夏至は身の内では頭と顔。

 人間交際は大暑と大寒なり、其位骨の折れるもので交際は互いに辛抱の仕合いをせねばならん、春秋の土用が一年に於いて最も陽気のよき時、人間も交合が最陽気のよき事。

 交合も交際も同じ理、自己の口から出て人の肉、為になる人の口から出て自己の為になる故に交際は丑、大食天尊耳未、かしこ根の尊口耳と口とがなくては交際は出来ん、言葉の神四季の土用と土用が夫婦、冬至と夏至、彼岸と彼岸、大暑と大寒、冷気と暖気、皆陰陽夫婦の理なり裏表、土用は十五日かかりの三日は辛の神の続ぎの理にて合わせて十八日色情とは四季の情と云う事、四季の陽気、陰陽和合にて万物育す、人間も男女陰陽同じ。

 身の内が出来て一日が出来、一日が出来て一年が出来、一年が出来て一代が出来る、四季六十年、一代は神の一年の理、土用が四季共に其真中故、度正当の順気なり、時候不順なれば米穀とても完全に生育せぬと同じ、人間も夫婦の心合はざれば子供完全に成育せぬ、健全の者が生ませぬ。

 堅いと云う理は皆月読尊なり、柔かいと云う理は皆国狹槌尊、堅きものは一切此神の理、柔かき物一切は此神の理、堅い柔かいと云う理は一切夫婦此二神の理が元、故に一方が何程堅くても一方が柔らかにあれば睦まじく行けるなり、又柔堅の二者の時は柔が表也。

 六まじければ四合よい天理は皆十と云う世界なり、水は横に流れ火は縦、立つもの十人、人間も昼は立ち働く夜は伏す、横に寝たら水の理、但し夜でも光を点じ仕事中は昼の理に、昼でも寝たら夜の理に御守護下され、家屋でも縦に使う、立つ柱は皆月読様の理、桁とか梁とか横に使う、続ぐものは皆国狹土様の理。

 目二つ耳二つ有っても一つが聞けぬ、手足皆二つあれども左右に利かん、皆夫婦の理なれど一の道具だけは男に一つ女に一つづつかない、二人合わせて夫婦。

 男一の道具も平素は国狹土尊、女一の道具にて親戚になる、世界中続がる、女一の道具も昼は大食天尊夜横になれば国狹土尊。

 世界中の道具は皆金と木が一の道具である金、国狹土尊木、月読尊月日の一の道具神様なり、例えば汽車でも水を入れ火を炊く、月日親様木と金で作ってある、蒸気は風にて動く如し。

 人間は如何な智者でも水や火を拵える事は出来ぬと同じ、天地間の万物は皆水霊火霊親が入込んで神の作り賜うものを人間は是を扱う者はして下さる使う為に守護下さる。

 

陽気本元の理

 胆眼勇む心臓鼻安んず肺口喜ぶ肝耳楽しむ勇む安んず喜ぶ楽しむ此の四つ一つが、よおき心陽気とは心臓安んず、肺は喜ぶ胆は勇む肝は楽しむ此四つに腎臓を入れて五臓と云う、腎臓は夫婦交合の時情を発する源なり、情を催す時の心を志(し)と云う、行うて仕となる、仕はしにて仕ると云う仕は四合わせなり、首より上にては目耳鼻口首より下にては手足臍一の道具四つ合う也、志は嬉しと云う心なり、心臓は即ち心、肺は思う胆は意、肝は慮り虎は虎なり、七なり七は切るなり故に堪忍はたえしのぶ、忍は刃に心、刃は虎に同じ理なり慮りは忍と云うも同じ意味なり。

 天地親様の陽気に合わぬと云うは人間の欲が深い故也、足る事を不知足能の理が治まらぬ故なり、皆埃にて心身を害する、神は早く陽気になりてこいと仰有るは、陽気は神の心誠を云う足納は是十分と云う理也と仰せられる不自由を十分と足納は心の道通り何も十分になる。

 

五臓之訳

 胆臓は月様目に通じ心臓は日様鼻に通じ肺臓はかしこ根様口に通じ、肝臓は大食天様耳に通じ腎臓は月読様、国狭土様皆裏表なり、胆は意、見るは表、意見、心臓は即ち心、肺は思う、肝は慮る、音響の耳より肝に入る、目の醒めるも肝が一番先き眠るも先き算術等の達者なるは肝が一番の働き、勘考、堪忍、肝の病は大食天で欲から起る疳の下には刃有り、疳が起ったらあぶない、腎臓は男女交合の時梅の木と同じ理にて夫婦一つに成った理、人間を造る源なり、嬉しい口三つは男女、胆から胃が生ずる。

 此四つが心、此の四つが一つに働いて心、此連絡は神の働き也。根根心は月日とかしこ大食天、冬夏夜昼の理、腎の時は春秋の理なり、春秋の土用最も陽気のよき時期なり、男の臍大戸邊尊、女の臍雲読尊、男の方は秋彼岸勢気下がる理、女は春彼岸勢気上る理、男一の道具秋土用、女一の道具春土用。

 首より上夏冬、首よりに秋春有り、物が恐ろしうて心細く/\なるのは胆臓が弱って居る物が案じられて心配でならんと云うは心臓が弱っている、胆は月様、胆の小さい者は月様の御心に沿わぬ、胆は月様の御心に沿うだけ太くなる、借り物と云う事が分って心が落ち着いたら太る、心臓は安心すれば丈夫になる、心太ると云うは神様の道を段々納めて安心が出来たら胆が据わるから太る、月日夫婦の理、胆が一番の元なれども世上人間は心が弱って居る故に安心からして太らせねば胆が養えん、それが元となって楽しむ心も喜ぶ心も出来る、喜ぶから楽しみ、楽しむから喜ぶ夫婦、物を知りて安心するだけ胆が据わるから心が太る、八埃が五臓の働き即ち神を無にする、五臓を腐らす心也。

 人間は此の働き自由用が叶うから使い過ぎて迫る、又徳を積めば如何程でも徳は積める心の使い方にて大なる相違となる故に御言葉に善悪二つの理は助かる道と死ぬる道と落つる道と上る道との理の区域をよく間違いのなきようにと仰せられる、楽しみ勇む、安心喜ぶの四つが胸四つを養う心、此四つの心が信神信心という事なり。

 勇む心は胆の養い勇むは勇気と云う胆玉の小さき者は勇む心なし、我が身も喜ぶ人にも喜ばす心を使うて居たら肺は痛まぬ、我が身安心人に安心させる心なら心臓は痛まぬ、それに嬉しいと云う心が腎臓を養う人間は日々心の不足、喜べんのが天の理には一番重い、迫る人間上では左程に思えぬ咎める事も出来ぬが天の親神に之れが不幸の第一、肺は思う我も喜びに人も喜ばすには六くな心でなくてはならん故田の心と書く世界にて田は六くのもの、人体目ほと六くなものなし水なり誠なり六くは六物六台かしこ根様誠なり。

 喜ぶという心が天理に叶う第一なり喜べんという心は欲が深いから如何ほど結構でも結構と思えぬ不足から起る自分が安心せずして人に安心させよと云うても向うへ写らんから道が付かぬ如し、自分が嬉しい心なくては人に写らん匂いが掛らん、嬉しも楽しもしと云う心に花が咲く、其薫ばしき匂いを人に写すが匂掛けとなる、自然と人の心が写るなり、皆八挨から心が小さくなって神魂の徳を失う。

 又学問すればするだけ物事を覚えるだけ一つ学べば習うただけ心が広く太る、屋敷を広めるも同じ事、我が心の範囲を広くする、感心は心の養いと云うて苦労しただけ心が作れる。

 小さい心では神の器には成れん、世界中の事を計り世界中の事を皆知ってこそ神の道具である、又勇気なく胆玉小さきは心に真実無き理なり、例えば昔の武士はまさかちがえば命を惜しまんと云う度胸有って胆が据わった如く一身を捧げて成すと云う真実なれば太る。 心を作る事心を大きくする道を知らねば道は何年暮れても役に立たぬ是れが天理の第一なり。

 世界中の物が天理故皆其元其神の理を心に治めて我が心の宝とする末代の宝心の財産である極意を治めねばならん何にもならん皆治めてしまわねば心澄まぬ理、故に八方の神様の括り治めは月読尊天理を皆読んで治める安神立命それが心を作る太らす道どうかこうかと心に分らん暗い心に定まらん内は心が小さい又心の小さい胆玉の小さい者は世の中の役に立たぬと云うは如何なる訳で心の小さきものと大きものと分るゝかと云えば身上は一列に神の借り物故変りはなけれども心にて大と小高低の階級分れて各々其の神の守護、神の徳に相違を生ずる所以は只我が身我が家の食う事だけに心苦しめ人はどうでもかまわんという欲深くして神の徳を失うものが小さい(誠なき心より神魂の霊光を失うたるもの)。

 神様の御言葉に大きい心になれ、小さい心ではにっちもさっちもどうもならんと仰せあるは大きい心とは欲しい惜しいもない苦労をいとわんと云う身欲のない真実の心を云う又真の誠の心を以て力の及ぶ限り国家の為道の為を思うて尽くし運びをしたならば心に治まった理は末代の理なれど親が何ぼう宝を与えようと思うても心に相違あってはどうもならんと仰せられた。

 五臓を胸と云う六腑を腹と云う六腑は脾胃大腸小腸十二支腸、膀胱、胸は六つの根目耳鼻口飲食い息する道具六つ(命の親月日と身の親両親と食物)胸はあたまと云うも同じ、頭は月日様に八方八社の惣付添い下さる八という、頭のよいと云うも胸のよいと云うも同じ事なり、最も心は胸が本根なるが只胸四つだけで心が働くと云うものではない、全身あって心が働く神は全知全能なれど人間は身体を離れては心魂の働きは出来んと同じ、神より限られてある。

 

指の理

 子 左親指は 月様   冬至   左人差指は 月読様  秋土用

 午 右親指は 日様   夏至   右人差指は 国狭土様 春土用

 酉 左高指は 大戸辺様 秋彼岸  左紅差指は 惶根様  夏土用

 卯 右高指は 雲読様  春彼岸  右紅差指は 大食天様 冬土用

 左小指は  いざなぎ様

 右小指は  いざなみ様

 一年の理も一と月の理も一日の理も身体にある理は手にも有る両手一ぱいの輪は一年の理、両手の高指と親指とを合せて一ぱいの輪は一と月の理、片手の親指と人差指との輪は一日の理、又一と月の理は十五夜満月の理、此満月を二つに別けると左の片手は二十三夜の月下弦半月、右半分は八日の上弦半月なり、故に左の親指より二十三夜の月は夜の子の刻より上がり給い右の親指八日の月は昼の午刻より上り給う裏表、右の手に冬の大寒だけはある、 左の手に夏の大暑だけはある。土用の四日目土用四郎から大暑大寒となる。冬は左親指と右の紅差、春は右の高指と人差、夏は右親指と左の紅差、秋は左の中指と人差なり。両手合すれば百二三十度位に定まれど一方が高い故一方が低い。一本の指の節三節あるは元々泥海の時五分から三度生まれた理、十本の指合せて三十節あるは一と月三十日の理又五本十五日で満月人間身の内五体は水日風三つに止まる故三五十五節あり、それに平の三大節を合せて十八節十八は陰陽四季で、土用の理、両手合せて三十六節は一年三百六十日、手足四つ合せて七十二節は四季土用七十五日の理。

 左親指子、右紅差丑寅、右高指卯、右人差辰巳、右親指午、左紅差未申、左高指酉、左人差戌亥、親は一つに折れ子指は三つに折れ、五角になれば内輪が円くなる、四角の内は角がたつ、左人差指月読様の一の道具神、右人差指は日様の一の道具国狭土様故に親指には人差指が何時も添うて用をなす如く、親様が入込み下さらねば道具神様の御働きは出来ん。

 

誠之訳

 真は、正直(ま)、慈悲(こ)、堪忍(と)はまこと。命は、水気(い)、温熱(の)、呼吸(ち)はいのち。尊は、水(み)、火(こ)、風(と)みこと。寶は、やさかのまが玉(た)、やたの鏡(か)、とつかの剣(ら)。

 気は長く心は広く勤めは堅く気は長くと云うは堪忍を旨とし何事にも癇敵癇癪を出さず、又何事に懸かりても捲まざるを云う、心広くと云うは何事にも心を動せず先を案じざるを云う也、勤めと云うは言行一致の事なり。

 玉は月様、鏡は日様、剣は風、かしこ根の尊、刃物で有っても切り分け空気は月日、かしこ根の尊の御働きで息風となる言葉は月日の賜物風陽気也。

 正直から情けが出る慈悲と堪忍と三つが誠(真事)なり、誠は神也誠より尊き心なし。

 水火風是より上の宝は此の世にない是が人間万物の命なり、人間の肉体を始めとし一切動物の肉体宇宙の万体は悉く此の水土温熱風にて産み出され此の世に生命を有し、活動をなす神が命なり、故に神様を尊、命と云う。

 月様の刻限は何千年たっても一つも変らぬのが正直、其の分心が人間故正直でなくてはならぬ、八日なれば半月半月なれば半分が御光がない御照らしない、是程正直はない、其の理が皆身の内に有るのだから大きくても月様小さくても月様、真直ぐは正直、正直正しいは神天理は明らかと仰せ下さる故に水程正直なるものはない水程ろずくなものはない、人体にては目程六つくなものはない一寸の曲みでも見分かる如く、水はろっくの本、正直水によって此の世は曲直を分ける事が出来る、例えば建築地の高低を分けるに水盛定規、皆水が正直の元、此の世は水が元水が台にて立ち行く治まる水は宇宙の万象に現す元素にして千変万化万体の徳を出す根元なれば即ち人間万物の本家親玉也。

 水程低いものはない水は月様の御心、下が可愛い/\と下を下をと流れ巡って万物に入込み循環して万物を養い下さる此大徳が親心也、情け也、水は宇宙間切れ目無く隔てなく万物養い続ぎ育てる徳が情けなり、故に水程力有るものはない、例えば何万噸の軍艦も水があれば浮かぶが如し、所謂方円の器に従いて万能の効用働きを成すの大徳を例えば人間親は我子を養育する情けの心味わいと同じ。

 此の世は水の世界万物は水土より生じ水気入込んで生成化育をなす水は万物の元、身体は月様の清水の固まりである水は心なり故に正直でなくてはならぬ、此の世治まるは月様の心人間に取りては情け又足納が正直、足納は治まる水の理、治める心、足納と云う理が明らか心の澄む理也、清水誠の第一也、足納の理が治まらぬ故八埃を生ず。

 情けは水月、慈悲は日火なり温みなり、日様の暖かみ照らし下さって万物が育つ、火水一体なり此の和合によりて風生ず、水気と火気が合うて明らかとなる、月日万物の親なり根本なり、火と水とが一の神風より外に神はなし、情けは陰、慈悲は陽、水気有って火の霊働き火気有りて水の霊働く、温みが無くては万物は一日も此の世に活きる事できん水には必ず温み和合下さって一切万物に入込み下さるで生を保ち同じく照光有って皆育つ火の燃ゆる日の照る光一切点ずる此の陽徳が無くば世界は暗黒厳寒で何も出来ざる也。

 万物の生ずる悉く水気に温み御添い下さって生ずる育つ粒毛草木も温みを入れて下さるで芽切る生え出る成長ず花咲き実る、日様温み有りて衣食住万物が此の世に現れ其の用をなし人間始め生物立ち働く自由用が叶う身の内の温み世界の暖みは悉く日様貸し下さる賜物万物に御心入込み給う、是程慈悲のものはない、道と云うと水は火という事此の二つが満ちて居る故道 と云う身の内と云う此の身の内が道なり、道とは身体に習うて行わねばならぬ。

 身と云う鏡と云う八形と云うも八たの鏡と云うも同じ事にて人間身上は前世より今日迄の心の鏡として心通り身を現し貸し与え下さる心の形なり故に身に現れる理が諭しなり、身の内神宇宙も同じ神の誠で立つ身上有って幸福円満に世界立ち生える道が誠。

 神言 
 身上有って楽しみ身上有っての道である是れよう聞分けてくれ 
 と仰せ下さる。

 ばつと腹立ちたのを其の侭風に出さずに堪忍して、どん事でも分かる様/\に説いて聞かす人の満足の行くように聞かす人に満足与える、善き方/\と優しく物の治まる様/\の風を吹かす言葉が堪忍の風、かしこねの尊の智恵なり、剣は大食天尊、かしこねの尊言葉、口弁舌、賢いという、人は心中道理の見分けかみ分けのよく出来る者即ち切り分け故にかしこねの尊の裏は大食天尊(丑寅と未申)見分け聞分けの神交際義理の神様、智恵は四季の理に取れば日様かしこねの尊誠が現れ慈悲心気を長くして人に満足与える風が智恵。

 しかして言葉は心は現れるもの故物が惜しいや欲しいで欲が深いようでは人の助かる人に満足与える真実の言葉が出ん木の葉もねより水気入込み温味が入りて芽が出る芽は葉なり言葉も同一の理なり現れるなり。誠は四季の理に分ければ冬夜月様大食天尊様、情けと思い切りの理、例えば人を助けるにも人様に志し心尽くすにも情けを施すにも思い切らねば出来ぬ如く我が家我が身欲を思い切れぬようでは社会の為に働けぬが如し。

 其の真実が誠が無くては出んなり、誠の心陽に現われ或いは人を助ける食物与えるとか世話をするとか金銭物を施すとか実行して其の誠の現われたものを実と云う真実なり、心に誠有っても行なわざれば見えん行なうたものが即ち実、例えば人間夫婦の間に子の生まれたのが実、柿の木は甘き柿の実を結ぶ渋柿は渋い味の実が現れる、甘き木の誠が現れて甘柿となる如し、木の実も実も同じ、親神様の誠が宇宙万物に現れて衣食住其の他総ての物を身に受け見聞して陽気に暮らす皆親様の実を頂いて活きて居る人間也是れが神様の真実誠人間も同じ助けよと思う心は、誠、誠は無形現れて実、欲の無きものが誠、親が我子を思う我を忘れ欲を忘れ真心尽くして育てる慈悲此の心が真実誠也。

 堪忍と素直は同じ理となる素直は神の心、水の心、人間誠というは、足納が第一足納は此の世の大王とも足納大き木とも仰せられてある、心澄む心の掃除するには足納、足納は此の世の治まる理、水の心なり四季に理を分ければ誠は冬、智は夏、春は続ぎ秋は力立てるなれど八方の神様の御心が一つにまとまり下されたものが即ち誠、月日の御心なり。

(優しき心と云うは誠にて此の世は八方八柱の神)此の八柱神の心にかなう心に定めるが世界の式なり此の心を優しいと云う也。

 正直慈悲堪忍三つは人間暖み水気息一日も無くては立たぬと同じく是れより宝はない、堪忍は物のよく分かりた賢い人から堪忍をする寛仁大度慈悲心を以って敵を味方にする如き古今の例話もある如く、誠程尊きものはなく誠程人の感化するものはない、誠には刃も立たず矢も立たず水に溺れず火に焼けずという、宇宙間は悉く神の誠の現われ故本書中だん/\逑ぶる所は借り物の理を了解せんとするもの皆誠の一つに止まる故此の誠と云う理は何程にても話し尽くせぬものなり。

 神言 

 誠という理の働きさえあれば天の親よりも実があるので実と云うは分かろうまい、火水風という此の恩理が分かれば一切の恩理が知れる是れ知れば衣食住の三点は火水風の賜物という理が知れる此の理が分かれば神の守護という理が知れる此の理が治まれば神の誠という理が明らか知れるなれど教えの理を取り違えるというは是迄の心の理が忘れられんから目に見えたものに惜しみをかけて身上の大敵という事を知らず欲しい惜しいの心の理が離れられんから、真実という理が治まらん、早く思案をしてくれ世上の難はどういう所から身に受けるは八つのヶ条は何と思うて諭している。

 又神の守護という理が心に分かりた事なれば道のりは容易ならぬ重い理なれど深い楽しみの理を与うるには日々めい/\の心の勤め方の理によって与うる理と与えられん理とあるから取り違いの無きように勤めにゃならん、我が身の助かると云うは、人の為なら我が身捨ててもと云う精神を以って人を助けにゃならん、人に手柄をして貰わにゃならん、人に喜んで貰わにゃならん、と云う心で日心勤めて人の心を助け自分も喜び日々勤むる理高も値内も分からん容易ならん理であると仰せ又御道は話一條で助け下さる其の話は月日の真実、是れを取次ぐ者は月日の代理である神様の御言葉は人間が考えたり作った事でないから、正直に取次がねばならん、我々人間が智恵高慢を交ぜて我が身欲から我が身の用害や身引例えは此の話をしては人か如何に感ずるから気に入らぬからと云う風にて取次ぐにひかえるとか上手口とか遠慮気兼ねして居ては人が助からぬ故、神に対して高慢となる、神の御言葉は正直に取次ぐ神に素直になくては誠とは云えぬ我が身をだくは欲。

 又人間の俗に云う硬いと云う心は一時強いようなれども欲というものがために決断力が乏しく心が変わる崩れる硬いものがやわらかい中途で挫ける真実定めた心は立ち抜く挫けぬ変わらん迷わんくるわんと云うのが誠、真実の定まった心なり、日本魂とも云う、たとえば弾丸は出かけは強いが先に行くと布に包まれる矢は出かけは弱い手の効いた者はつかむという、先の行く程激しく強くなると云うたとえの如し。

 神言 自由用と云う理は何所に有ると思うなよ、只めん/\精神一つの理に有る日々と云う常と云う日々常に誠一つという、誠の心と云えは一寸には弱いように皆思うなれど誠より堅き長きものはない誠一つが天の理、又人を助ける心は真の誠と仰せ下さる。

 

勤めの訳

 つとめ、切留着物なれば裁ち縫い普請なれば木を切りて用材に使用するを云うなり、それ故に人間言行一致せざるは反物裁ちて縫わざる如く木を切って普請用材に仕用せざるも同様にて皆無駄事となる也。

 月日様元々泥海中より人間御造化のため永々御苦労下され又人間を作ったために此の世界を開闢せしものと仰せられる、其の容易ならざる御苦労によりて今日人間万物生々として立栄えて居るものなり。

 苦労が此の世の元なり宝なり、神は日夜一刻も御休みなく御働き下され宇宙万物は皆人間の為に造られてあるゆえに諸動物はつまり人間のために成りて働いている、徳とは十苦と云う事なり。

 十柱の神様の御苦労下されて在る理が徳、故に苦労と云う事程結構なる事は此の世界に無い、しかして人間では理に叶うた苦労でなくては何にもならぬが苦労という理が働かねば万事出来上がらぬ、神様は霊妙不可思議なる恩徳にて陰より御苦労下さる故、世界万ずが成り立つ、人間始め一切は我の力で生まれ出て生きて居るのでない、神の力なり、胎内に宿し込むのも月日なり、生まれ出すのも月日、世話となり。

 此の大恩を報ゆるには人間、他に報ゆる事なし、只互々に人を助ける人の為互いに勤むる是れより外にない、神の分心たる人間なれば天の理に添い、人として此の世に出たる勤め、物事勤めると云う理が無くては切れる、天の理に切れる、つとは切れる理、たいしょくてんの尊とめるは続ぎ、くにさづちの尊此の世は日々一切万物が切れたものが続がり又切れて続がりて此の世の用をなす、人間も此の世の縁を切られたれば生きれぬ、勤むる理が留めるという。

 苦労と云う理より尊い事はない、苦労の理より徳は出来ぬ、人間も御苦労様という事程結構な尊重すべき事はないのである。

 御教祖の御苦労の恩徳に依って御道が初まる、皆是れと同じ、誠が無くては人と切れる、神に切れる理となる、心勤めて神に続がる、神様には心一つたり勤めるものは無い、有形の物は世界万物神のものなり、人間の物は心一つよりない、神の道は胸三寸心の道、心の内に仕事がなくてはならん、心の働きあって形に現われ神に近づく親心を以って一列は隔てなく人を育てる、人に満足さすと云うのが親様の御道である。

 互い助け合い立て合いは人間の勤め其の人を助けた世の中に勤めし効能の理によって天理より我が身に徳を授け下さるなり、此の世は万物皆助け合い立て合いにて立つ世界故互いに人に満足与えるという心は最も美しき心にて神の心なり。

 人間社会天の親様即ち天理に対する勤め、効能の有無により多少によりて神は徳を授け給う、一人限り働いた勤めただけの値は神より其の身に与え給うもの故、たとえば他の人に損害迷惑をかけ、或いは人を害して我に利益を得る、天理を害し社会に功なき働きをなして、たとえ我が身に利益をなすとても人間上にては利益を得た様なれども天の理より見れば徳を授かる事出来ぬ埃ゆえ皆働きが無駄事となり且人を害せし罪は我に戻り我が身の天徳を欠き難儀不自由、病気災難の道を作る、故に人間は日々心の理、勤め働く理により徳を積むものと日々に徳を落としつつあるものとある。

 例えば一日に一円の価値ある働きをなし一円五十銭の値、日当を取り又は一円五十銭を衣食住に費やし我が身に付けるとすれば五十銭は天理を食い込んで行く理となる、前世の徳を削って行く、又一円五十銭価値ある働きをなして一円の物を我が身に付けて倹約し足納なして行けば五十銭の理は天理、社会に勤める我が身に陰徳を積んで行く理。

 しかして人間は万物の霊長故心の働きが身の働きより大きい、同じ身体を使うて働いて一日に五十銭の日当が貰えぬ者と五円六円にも当る人と有る如く、心の働き前々の徳、其の価値を有する故なり、若し心の働きが無くして物事の目先も利かず只々五体を働くだけの者であれば働きの効能は小なり、又日々に人の恩を着てがが勤むる理なくして過分のおごり、我が身に付け過ぎ天恩に尽きれば身の徳が保てぬ、神は昔より色々と助ける道を拵えて恩の報じ道、報じ場を作りて心魂が畜性道に落ちぬよう導き下されたものなり、

 神は人間を屋形として御心入込んで世界の陽気を楽しみくださる思召し故に人間は病、難儀不自由して苦悶すべき筈で造化下されたものでない、八方の神様一つとなって此の世界が造られ万物一切は合い互いの理によりて生命を保ついわゆる生成化育して此の世が立ち行き、人間も互い助け合い、もたれ合いて立って居る、男一人女一人でも立たぬが如く人間一人/\に単独の生活をなし得べきものでない、必ず相寄り相助けて生存の目的が達せられるものである。

 宇宙全体は神の一体、人間は其の一小分身であり、其の個人が集まりていわゆる団体を形成し社会的共同生活によって存在し又進歩を見られるものである、互い助け合いは神の心、天地の理法にして即ち人間の勤めなり、もし此の助け合いの精神が無いとすればとても人生の目的は達し得られないもの也。

 神言 我が身立つよう、我が身一人先へ助かりたいと云う心の理は世界の理で有るなれど自分の甘い事にしようと思えば其の場のよき事ばかりするなれど理から見れば天の理では甘い事にならん、人を倒そうと云う心あれば我が身が倒れるが理、人を掛けようと云う心なれば我が身が掛かる、人に損を掛けたら我が身損せにゃならん事が出来て来るのが理、人を助けたら我が身が助かる、人を立てたら我が身が立つと仰せ下さる。

 宇宙間万物は皆それぞれの役目を勤めそれぞれの働き、それそれの用をなすは皆人間の為に成ってある、人間もそれぞれ家業応分に働いている、之れは一人一名の此の世に出たる勤めなり、人間の勤めは神の働きと同じ故神の代理なり、皆神様と同じ事をして居るのが人間である。

 食物拵え川井戸の水はかわいと云うてくもよみの尊飲み食い出入り、例えば子供に乳を飲ます、大小便此の世話をする婦人は皆くもよみの尊と同じ事して居る、東朝明星養いの神様、又鍬鎌等を携えるとか総て働きに出る、引き出すは男の理でをふとのべの尊、西宵明星働き引き出し神様皆男女陰陽の理なり。

 神様陰陽御夫婦の理は何事にも御添い下さる、月様には日様、水には必ず温みが添いて流れ、火には水気が添いて光り、燃える目は月様なるが日様が添うて見える、物を云う聞く時は言葉はかしこねの尊なれどもたいしょくてんの尊が添うて切り下さらねば物云えぬと同じく、つきよみの尊働きの時は裏にくにさづちの尊が回って御働き下さる、人間も男一人女一人で子の出来ぬと同じ、くもよみの尊御守護の時は裏にをふとのべの尊が回って御守護下さる、をふとのべの尊御働きの時には裏にくもよみの尊が回りて御働き下さる、皆人間のする事は一つもない、神様なり男神は男に入込み下され女神は女に入込み下され世界も身の内も同一に守護下さる、皆人間の自由用が神の自由用働きである。

 人間が寄りて社会という、人間は神の社なり、男見れば男神、女見れば女神と思えと仰せられる、何でも人を神と思う、皆社会の人は是れ神なり此の心にならねば真の敬神という、真の尊王という事に成らぬ、そこから真の愛国というものが起るなり。

神言 口と心と行いと三つ違わぬように日々守らねばならん、何事も胸と口とが違うては神の心に是れは叶わん。

 誠となれば胸と口とが違いそうな事はない、なれど口と心と違うと云うはいがみかがみが有るから違うのである、真実に神の心に叶わねば如何程心尽くしたるとも自分の心には真実と思うて尽くし運んで居りても理の取り違い、通り間違い有れば心だけの理通りただけの理が現われるから通り違いはすまい、通り違い有ってはならん、汚ればかり如何程誰に相談しても叶わん月日退く、と仰せられて有る也。

 

言葉の大切なる心得可き根元の理

 善に仕えば月日なり、悪に仕えば計斗羅喉なり善き詞にて国を治め人を助く悪しき言葉にて国を乱し人を倒す我が身を倒す恐るべし慎むべし、和歌五音七律なり是れより成りたるは倭言葉なり、元本天神教え下されたるなり。

 木火土金水五つこの五つに月日にて七律日月火水木金土人間口程充満成る物はなし、心を真に改め陰徳を積みたる人の言葉は風に草木のなびくと同じ事なり、尊き人の言葉にて人心柔らぎ悪人も善人となり邪を正と改め国乱を平治し衆民太平謡い歓喜を唱うは最初真実の風即ち言葉口なりことばは口の陽なり、心は奥なり陰なり言葉の元は五音なり、あやちは六台六物なり、六台とはかしこねの尊也。

 神様の御話しをなし又御諭しをなす時総て誠から出た言葉は月日の代理である、得を積んだ人の息程人が動く、又天皇陛下より下し給う御詔勅、教祖の御言葉是れ皆神様の御言葉也、此の世は言葉の理で治まる世界である。

 又賢いと云うは言葉にて人を満足する様得心の出来る様、治まるよう舌一枚の動かし方にて風を吹かして行く事、風の吹かし加減によって人間は人に不足腹立ちさす事も喜ばす事も出来る、此の言葉は心の根より出る、木の葉でも幹から出る如く心に誠が無くては人の助かる、満足与える事が出来ん、其の真実の言葉が出ぬ。

 情けと慈悲から云うた事はどうしても人が有難いと感ずるようになる、たとえ一時は腹立ち反対するとも後には頭を下げ従う事になる、情けと慈悲の心でさえあればどんな事にも勝てん、此の二つは月日であるから月日の代理である、月日様に勝つ事は出来ない、此の世は誠さえ有れば神が守護あるにより結構に通れる、誠の無いものは通れぬ、御道一条は尚更の事、此の世は月日の誠真実と云う実の世なり。

 人間は神様元々長らくの御苦労下さって五十音の吹き分け出来る、同じく聞分けが出来る故、如何なる事も自由用に言葉を以って通じ陽気に勇み面白く世を渡る事が出来る、物が云えず聞き分け出来ねば獣類の如きなり。

 言葉の理、働きにて如何なる得も積む事出来るが又如何なる害毒を成し及ぼす事もできる。他の動物は一音か二音だけが云えんのである、神の大恩を知らずして強欲悪気の心を以って人を倒し人心を害する風は神の理として守護出来ぬ理を生ず、其の理に迫れば物の云えぬ身を借れ。又畜生にでも落とさねばならん理が出来る。

 言葉は六く誠の神様の御働きなり、言葉の理にて世の中の人を助ける徳を有する人は勿論、或いは美声を有して人に楽しみ喜ばしむる徳は皆天の理に叶うた心の理有る也。

 又徳が無ければ人が聞かぬ用いぬ、徳を積んだ人の言う事は人の為になる、誠のない心から出る息は害をなす、暴風にて物を倒し害をなすと同じ。

 

五音之元本

       い ろ は せ す

 五倫五体  キ オ ア エ ウ

 月     シ コ カ ケ ク

 日     チ ソ サ テ ス

 金 神   ニ ト タ ネ ツ

 被軍星   ヒ ノ ナ ヘ ヌ

 朝明星   ミ ホ マ メ フ

 五 柱   リ モ ヤ レ ム

 神 也     ヲ   エ ル

       土 火 金 木 水

 いは水で月様、ろは火で日様は続ぎくにさづち様、せは勢せいと云うてつきよみ様、すはくもよみ様、んはかしこね様、六くと云うて心である、んは五音の本ではない、是れが五音にて皆戻る、十二音ずつ四つ四十八文字、一日が出来て一と月が出来、一月が出来て一年、一年が出来て一代が出来、四つの理、五柱とかしこね様なるが月様には必ず日様が御添いなり、つきよみ様にはくにさづち様、くもよみ様にはおおとのべ様、かしこね様には必ずたいしょくてん様、故に八方の神となるなり。

 木火土金水、咽、舌、歯、唇、歯茎、身の内の方と字の理から説く方とあり、身の内から説く四十八文字は皆身の内に有り、又世界で説くのは空海上人が一つの歌に綴られ仏法の経文にかたどりたるが、文字はそれより以前から有ったもの。

 親神様の教えは言葉に理が有るのは言葉が先に出来て文字が後に出来た故、天地開闢以来幾千年の間、人間によろずの事を仕込み下されて天理から名がつき言葉が出来て居る故に言葉が元なり、名に理がある、言葉に理が有る也、文字は種々様々の品を分ける為のもの故、言葉は理があって、言葉有り、言葉あって文字あり、仏教が一の枝、文字が二の枝と仰せられた、故に世界に昔から云うて居る事の理が天の理から出て居る。名もついて居る、神様は云うていれども元知らぬと仰せなり。

 世上で云うとか諺に云うのも歌に謡うのも皆神様が云わすのや、歌わすのや、歌の流行するのでも世上は歌で知る、又夢を見るのも月日なりと仰せられる。

 例えば病人の諭しでも其の人の云う言葉の理を分ける、神が云はすと仰せらる、言葉一切天理をはずれては云えん、無きもの故(又病む時は言葉がなまる)云う事となり、ふりに現わるる所で皆見分けるなり。

 

りきもつの訳

 木の実一但し、くだもの穀物二、野菜三、右三品は人体五行と同一に御守護下さるなり、魚類四陰にて水気入込み暖かみは世界より受ける、鳥類五陽にて暖かみ入込み、水気は世界より受ける人間りきもつは種と卵より生ずる物を食するは天の理なり、生まれながら親と同じ形なるものはりきもつとは云はぬ、水と米は充分むまい舌に合わしてある、是れがからい、冬あまいが夏にがいが、春すいが秋、此の四つを合するとむまいとなる、即ち四合わせ内の仲よろしいがむまいという仕合せのよい内という、此の味わいでしたというなり、夫婦息見えん月日和合にて息出る言葉、風見えるかしこね様の御守護なり。

 五穀第一米、第二麦、第三粟、第四きび、第五稷、一種ひえと云うものあり、食にあらず。野菜、第一大根、第二かぶら、第三人参、第四ごぼう、、第五芋、第六蓮根七芹八、つる物に生ず一切の野菜、右八方八柱の神なり、八百屋というは此の理より始まる、山に自ら生ずる、芋に自然著あり、五穀と野菜を菩薩と云うなり。

 

(衣食住)機の理

 身体にまとうを衣と云う、又着物と云う、衣の元を反物と云う、之の元は機と云う、はたとは織物なり一機四端は一年四季の理、一端一季の理、一端三丈は一季三ヶ月の理一丈は一と月一機十二丈は一年十二ヶ月の理、巾九寸は夜昼九つ、子午の理、四つおさ、九寸巾は四九三百六十筋、一年日数の理なり、二端を一匹と云うは半年の理にて牛馬は人間に比較すれば半年の理より具備せず、一機は一年一人の理、二反は半年一匹の理、人間には一年の理、備わる首より上冬夏の理、首より下春秋の理、牛馬全体にて人間の首より下と同一の理なる故に半年二端を一匹と云うなり。

一人一年一機。一匹半年二反、人間首より上冬夏の理を具備す、首より下春秋の理を具備す、牛馬全体人間首より下と同一の理也。

 

着物の理

 着物襦袢帯七五三しめ縄七着物五襦袢三帯七五め三なわ着物一反七つに裁つは七は切ると云う理にて身にまとう事をきると云うは切ると云う理なり、是れ第七たいしょくてんの尊なり五は襦袢にして五体にまとう十の半なる理にして襦袢即ち十半にして、五つに裁つなり是れ第五くもよみの尊なり三は続ぎにて縄なり帯なり結ぶ続ぐと云う理なり一筋を左右より二つ結びて三となる縄と帯とは同一の事にて是れ第三くにさづちの尊の司りにして産王様と云うし七たいしょくてんの尊め五くもよみの尊なわ三くにさづちの尊右三神いづれも女神なり故に此の三品とは着物襦袢帯しんしよしんだいとは身上身体の事也、女の大切なる物なり。

 

膳の理

 膳とはろっくに揃いし真実を云うろっくとは即ち六つ也、飯、汁、壷、平、猪口、箸の六也。以上六つ揃いしを本膳と云う、飯は洗米を六台に載せて煮たるものにして六つ揃い又ろっくの台にする本なる故に五膳と云う、一品にて総名を取る也、是れ第六かしこねの尊にて男の理て亭主なり、汁は菜なり妻なり七なり妻は内の事を知ると云う理にて汁と云う。

 是れ第七たいしょくてんのみこと、汁は女の理にて妻の事にて菜と云う、飯菜夫婦壷は男一之道具の理にて是れつきよみの尊、四品が理なり、平い女一之道具の理、是れくにさづちの尊、三品が理なり、猪口はいざなぎ、いざなみの尊なり、ちょくとは直しいと云う理にて身体直に保つ理にて男女の道直しが天理、猪口は直し箸は月日二柱之神、食する口はくもよみの尊、左右の手はおおとのべの尊以上十柱之神なり台は地四方正面にて東西南北なり載する器は天なり食物は神の心なり味わい也。

 水霊 火霊二つが元本なり、又六台はかまどの事也、かまどは九胴と云う也。

          三国狭土   七大食天

             平      汁

 膳は八方の理 地の理 いざなぎ 猪口 いざなみ  

             壷      飯

          四月 読   六かしこね

 膳は五つ有って五ぜん、箸は月日様、食物は神の心味わい。母の乳を飲むも同一、天の続ぎのじき物なり食物は天と身体の続ぎの命なり、天の実が入って下さる故生きる食物入れてある内満ちとる時は満ち潮の理、食後は蓋をあお向けにするは引き潮の理。

 

文具の理

 身体は子、丑寅は墨、卯は中の水、辰巳はすずり(女一の道具も同じ理)、午は机、是れはおもたりの尊様故台なり地なり膳でも総て乗せる台は日様、未申は紙、酉は筆の毛、戌亥は筆の立って居る全部軸(男一の道具も同じ)万事神様の事や人の事、人を助ける事又人の為に頼まれて書く時は例えば机に向いて御諭しでも書く時は我が身がくにとこたちの尊様の理、万事我が身の事書く時は我が身がいざなみの尊様の理なり、書く手はおおとのべの尊様、皆神様が御守護下さる、膳の理、文具の理、此の二つ尊き大切なる事也。

 

宮社堂館家之理

 社と云うは男の体を云う体とは首より下を云う立ち始めは戌亥の理にて腰也、腰は身体中骨の要也、竜頭なり此の要にて身体立つ也、故に人間立たざるを腰抜けと云う表は腹、裏は背、両側は左右のあばらなり棟は胸なり棟より雨垂れ落ちる故に胸の下を水落と云う也、雨は水雨垂れ落ちも水落というも同一なり、両わきは被風なり。

 社と云うは八柱の神の代なり、しろなり体なり、乳は棟の紋なり、腰腹あばら胸背わき水落、乳しりは地形なり地場なり、神前鈴は男一之道具、鳥居は天なり、堂と云うは胴と云う理にて女の体を云う、戌亥は立て始めの理にて腰、表は腹、裏は背、両側はあばら、棟は胸、雨垂れ落ちは水落、被風両わき、乳は棟の紋玄関口陰門会堂本堂御堂とも云う、人間参詣して中へ這入りて礼拝すれは子懐胎、胎と同一にて下向は出産、同一なり、堂は中へ這入りて礼拝する故女の胴体の理なり。

 社は神を鎮座して中へは入らず外より礼拝す男の体の理なり、もっとも神の社と云うは天地の理身体の理なり、頭顔は上、即ち神、胴体は下即ち八代なり、社と云うも堂と云うも皆天より其の形を教え其の理を下げ給う故に左の肩右の肩と云うは左右の形は肩なり、左は月様、右は日様乳七夕の二星なり。

 

宮の理

 みとは水、火風三つ、やとは八柱の神、人間首より上をみと云う、下体をやと云う、やとは八形の理、人間住家とする所を館と云う、やかたとは八形の理、世界にては八方の理、館は家と同一なり、右何れもしりは地形也、宮、社、堂、館、家皆同じく月日二神より其の形を教え給う。(いざなみの尊様の御腹より元々人間生まれ出したる此の理で宮と云うものが後世に出来た、(子袋の理)なり。

 

鳴り物の意味

 なると云うは言葉に理ある故音の鳴るも木の実の成るも物事の成るも理は同じ、是れを字で書けば違いあれば共文字は物事色々の品を分ける為に後に出来るもの、名は元なり、言葉が先にて天理より名が付く名に理が有る也、なると云うは月様の理、世界くるりと包め給うて守護下さるで何事も成って居る理、又神楽勤めに鳴り物九つを使うと云う理は、此の世人間は月日、御苦労九から始まり九の(苦)世界人間は九の胴というは九つの道具の借り物也、目、耳、鼻、口、へそ一の道具、手足首の九つ、又世界の人間は産に広まり(三)水火風三つ衣食住三つにて命を続ぐ、人間は心と口と行いとの三つで、三三が九と云う、此の九(苦)を勤めるを人間の勤めとす、故に神様の勤めにも九つの道具を使う理なり、人間万物は天地神様の息で育ち成人する所の理を合わす神の心と調子を合わす理なり。

 拍子木で辛を取るを人間宿し込み体内で理が増すのも産まれるも夜昼成人するも粒毛草木育つも花咲くも実の乗るも、味の付くも万物皆月日の指図、四季日夜四季にて定まる定規なり、木は真直ぐよく添え付く故其の陰陽の理が合えばなる、心合えば成る故に上役の人にて拍子木を辛という。

 琴は、こは月日親様の光の理とは十柱の神の理、糸十三筋は、十柱神三は天地人又一年十二ヶ月に潤の一と月を入れてある又世界万の事が神の光也。

 鼓は羯鼓もほぼ同じ理、つは切る事、みは水の事、水は続ぎ上下同じ丸く中を縄にて十文字にかけ続ぎ締めて有るは切る事を続ぐ(続ぎの神様の理にて)天地抱き合わせの世界に夫婦の縁を続ぎ下さる所の理を打つ。

 胡笈とは人間万物事のきゅうが第一心の味わいこは月日の光、きゅうは九つの道具の理、天地陰陽張り合い、持ち合い心のこきゅう。又息をする事をこきゅうという。

 すり鉦、金は此の世の続ぎの理、心の合うをかねと云う双方の事をするをかねると云うが如く、又物事に当りて成す事をすると云う如く又二本の棒にて打つは一家では夫婦の理にて心を合わして刷れ合わぬ様心に立て合うてすれば心の合うをちんちんと云う如くきまりよく何事もちんちんとよく成る理。

 笛とは風、人間上下共に其の風なり夫は夫の風、妻は妻の風其の風さえかけばなる、吹けばなる風栄、物の殖え栄える理、即ち風は息言葉なり、風は天地の息にて万物生きて行く最も大切なるもの也、穴八つは八方揃うて吹くと云う理。

 各々其の風本分を守り睦まじければ物が殖える成る理、太鼓大きい事を大という、こは光る遠音響くは太鼓也。表裏張り〆たるは月日、天地を抱きしめる理。ぐるりを鋲にて締めて有る、鋲は月日の理、此の世界を月日で締めている理、誠は月日の心にて大きく光り遠く響く物の長たる理、琵琶の糸三筋は水火風三つの理にて天地人を続ぎ合いの理で、(三味線もほぼ同じ理)胴徐総ェ締め心のねじめが第一なり。笙とは正しき真を笙と云う、又人間に子の宿る時情合いを正という、濁りなき心の理、正の事とは違わん事を云うなり。

 九つの鳴り物を入れて勤めをするは月日、夜昼二苦身の内世界九つの理を合わして二九十八、十八は陽気と云うて二九となる。心の苦を忘れ心勇めは肉となる、身体は肉が元、水気温みが是れ陽気也、神の心に合わして勤めは神勇む神、勇めば人間万物皆勇むゆえ、陽気勤めと云う。又ひちりき、鳳、笛、龍笛の三徐曹№墲キ是れは最も古くより伝えられたるが総て此の世は三つ揃わねば完全成らぬもの音律の名を一、平、双、黄、盤、大中小の三曲、又祥事弔事四季等に依って奏楽の法式有りて俗に八十八曲と云う此の雅楽の由来中々深し。

 

神前供物之理

 三平   干物        榊   五行のきれ
 鏡餅   水    木の実

  神祠 神酒            玉  鏡  剣
     洗米   塩   辛味
     生鯛   野菜       榊   五行のきれ

 神前五列の供物は五行の理にて五行とは木火土金水。
木甲乙、火丙丁、土戌己、金庚辛、水壬癸、五倫五体にて十干なり。

 神酒は木の理にて甲乙、餅は火の理にて、壬癸、野菜は八つ七つ丑寅、八七鋼の理、たいしょくてんの尊なり。木の実(果実)は六物の揃いし理、かしこねの尊即ち風、辛味は月様、味、干物(乾物)は日様味。魚は陰鳥は陽、塩はたいしょくてんみごとに月日の味籠もりて味の王と云う、辛い、甘い、苦い、酸い四の王。

 

供物道具並びに飾付け之理

 三宝は水火風、膳はろっくに揃いし理、翠とはみずの理、真菰は生れ落ち菰より出世する理なり、水玉は人間の心なり、此の玉の水の如く一名一人の心澄まして仲良く和合して暮らす心を親神に供うるなり、此の事を水の大恩を知ると云う、之れ朝之明星なり、三つの燈明は人間の行いなり、身体明るう暮らす、世界明るう通る行いを親神に供うるなり、明るうとは身に暗い行いをせぬ事なり、此の事を火の大恩を報ゆると云う。

 三つ一つの理にて宵の明星なり水玉は朝の明星真心、燈明は宵の明星誠行い、心は夜行いは昼、鏡は月日二方の御身輝く理にて鏡と云うなり、神殿の左右に建て供うる榊は神の気なり、神は人の心とは逆なりさかきなり人間も五才迄の小児は大人の心とは逆なり、神のきなり、毎例も青々として変らぬものなり、故に三才心と云うも同じ事なり、それ故に小児の髪の毛を月代と云い、さかいき、さかきの理なり、月代さかいき榊さかきかみのきなり、さんさい心なり、何時も変らぬ青々として陽気な者なり、満五つ即ち六十月之間は欲もなく心配もなく案じ心もなくして神の気も同じ事なり、神の気、髪の毛。

 

身の内一家に於ける七福神元本之理

 夫婦を始め家内中睦に揃うて丹精尽くすを七福神と云う、睦に揃うは六にて家内仲良くむつまじい事なり、揃うて丹精尽くすは七なり、睦即ち六金神、六金神とは金銭睦に融通するを云う、六神金神くにさづちの尊、丹精尽くすは鋼の理にてたいしょくてんの尊切る神なり、金神続ぎ鋼の神は切る。

 真心にて丹精尽くせば毘沙門天にて切り分け与え下さるなり、其の理を以って例えば拾円を壱円拾枚に替える事を人に頼む時は切ってくれとというは拾円は円く睦にて六金神切ってくれる人は毘沙門天にして第七たいしょくてんの尊変化座しまし切る事一切を司る神なり。

 恵比寿、大黒、福録、芸豊、布袋、弁財天、以上六金神と毘沙門天にて七福神なり、六神くにさづちの尊の変化にて一神たいしょくてんの尊の変化なり。

 大黒天平常男一の道具の形二俵の米俵は睾丸二つなり、担ぎたる袋はきんのうなり手に持ちつ槌は即ちくにさづちなり、大きなる頭巾をかぶりたるは○○なり下を向きて足納す、是れは世界にて大国主命にて金持ち長者なり、現今の銀行株主なり、福録神は女一の道具の平常なり、夫婦睦まじく暮らせは福は睦く録と云う理、側に鶴の居る理はつるはたつると云うて男一道具の理なり、○の一の道具は男一の道具を起る役なり、弁財天美女の姿に見ゆるは○○○○○○せんとするときの心はたとえ醜き女房でも美女の○○○する、其の心の理を現わしたるなり、芸豊の頭の長きは男の○○○○○○形の理、布袋の腹の大きい女懐胎になりし姿なり、恵比寿の足の立たざる姿は婦人産する時の風体なり、抱えし赤鯛は懐胎せし子の生れ出たるなり、懐胎は海鯛の理にて赤鯛は赤子の理なり、釣針はたいしょくてんの尊、胎内にて肉縁を切り分け下さる理、釣り糸はおおとのべの尊胎内より引き出し下さる理、釣竿はくにさづちの尊にして産を司る理、竿と云うは産の王と云うなり、猿王権現猿田彦之命又庚申とも祭るなり恵比寿を少彦命と礼拝するは人間は分丈相応に金銭を持てば少なくとも足納して喜んで居れば福の神少彦尊なり、又にこっと笑って暮らせば恵比寿様なり、毘沙門天の姿は産する時の婦人の力みの理を現したるなり、笑う門には福来り、怒る門には鬼来ると云う、家内仲よく笑うて居れば福神の祭り怒る心は鬼なり、世上には鬼と云う者は居らぬものなり、腹立ち怒り強欲重欲の心が鬼なり、悪気なり鬼は心の内より出で福は外より入るなり、内は我が身なり他人は外なり、往古より節分に煎り豆を巻くに福は内、鬼は外と云うは正しく反対なり、なぜなれば福は世界外に在り、鬼は我が内銘々の心に在り、故に福は外、鬼は内より節分とは身体にては万事思い断ち思い切る事にて世界にては万芽切る事なり、  一日にては夜丑の下の刻一年にては十二月中終わり、正月節の始めにて四季四節、旬の始めての大節なり、豆を煎るは悪気の芽を出さぬ理、鰯の頭を用うるは目鼻口耳の四つを祝う理にて祝は四、即ちゆわし心思い始めに此の四つの使い方を祝うなり、鬼の目刺しを差すは強欲重欲、怒る心の眼を出さぬ理なり、よく/\往古よりの式来たりの例を見て其の元本の理を考え人心を改良すべきなり。

 

神様之御顕現

 伊勢国五十鈴川の水上に鎮座まします日本総社内宮外宮様はいざなぎいざなみ様月日二神御入込み下されたる天照皇大神宮なり。天は水、水月様、照は火日様、す諾め冊おみ親様なり。八幡大神春日大神御添い下さるはつきよみの尊、くにさづちの尊にして月日様の一の道具神様なり。

 讃岐国琴平山に鎮座まします金毘羅宮の御神体は大己貴命にして即ち大国主命なり、くにさづちの尊の変化にして金の神きんぴら様なり、舟神と崇む舟は続ぎの理にて女一の道具と同じ理なり、帆柱、櫂、櫓、皆男一の道具と同じ理にして舟を自由自在にするなり、此の金毘羅宮に癩病の者一心不乱に一願を籠むれば御利益著しく在りたるは続ぎの御守護下さる神の変化故なり。

 山城国男山に鎮座まします八幡大神の御神体は、神功皇后の御腹より降誕まします誉田別皇子即ち応神天皇なり、此の八幡宮は武将神と崇む破軍星の御心即ち、つきよみの尊の変化ましますものなり、悪気逆徒を制し下さる神様なり。

 山城国伏見に鎮座まします稲荷神社と云うは往古即ち神代之時天の親神始めて人間に米を与えられたる時、種配りを命ぜられたる神なり、心正直にしてよく勤労せられし故、米の神様と成り給う、人間其の往古其の時分神代之頃の如く正直真心狂わねは稲荷様と同様の位あれ共だん/\人間の心悪気盛んなる故に皆下りたるなり、例えば今の米屋が稲荷様と同じ理也、米買うもの正直にやれば御得意様と米屋主は敬えど代金は怠惰し又払わざる時は皆ののしりを請けるなり、命の親たる米なれば其の心得大切にすべきものなり、世間に往々狐為に騙らかされ路に迷い困難する者あり、狐は卑しき獣類心にして金銭出入り交際を偽り或いは命の親たる米屋を騙したる種の生ずる故に一の獣類たる狐の為に困難するは恥ずかしき次第なり、よく/\注意専一なり。

 家々かまどの上に祭る三宝大荒神は人間の命、世界水火風三つの宝、身体にては水気温熱呼吸の三なり、此の三つは平常一秒間も欠ぐべからざる物なれど洪水、大火事、暴風となる時は恐るべき大の荒神なり、故に三宝大荒神と崇むなり、かまどは六台の事なり、六台とは木、火、土、金、水、風の六つにて命を保つ故に九の土と云うなり、くど九つ胴、、六台に三つ載る理。

 出雲大社は大国主命、第三くにさづちの尊の御変化なり、縁結びの神又弁才天と祭るも同じ、金毘羅宮も同じ、金の神と祭る金銭も続ぎ舟も続ぎ全て乗り物は皆女の理なり、弁財天美女の姿を描きたるはくにさづちの尊の御徳を現わす、恨み残念三代持越せば癩病と云うは此の神様の立腹、此の神様は人間万物続ぎ一切、又表の神様ゆえ見える所美しき、奇麗なるは何物に限らず表の続ぎは此の神様の御神徳の現われ故例えは、人間も如何なる美人と云うても癩病、皮膚病の如く皮続ぎ腐れ破れ或いは体内の続ぎ切れて病体と成れば醜き姿となるが如く此の神様の心に叶い其の道に徳を積んだ心の理が美人と現われるなり、人を続ぐは人を立てる天の理を立てるも同じ理、又音声の美はかしこねの尊の御神徳。

 又つきよみの尊は昔より弓矢八幡大明神と祈りたる軍の神様にて勢いの神と云う、破軍星軍を破ると書くと如く誠を立て貫きて悪を破る勢いの強き立ちきつたる御心にて此の神様の徳に依って世界万物は倒れず立って居る万の物事成り立つ納めの神、誠を以って世界を立てる事に強い善に突っ張り抜く挫けぬという神様なり、勢いが弱くては何事も立たぬものなり、故に人間も天の理を守りて誠を立て人を立て、理を立てて行けばつきよみの尊の御心故、破軍星と云う、向かうて来るものが皆ことごとく負けてしまう突き破らるゝなり、立てる事に強き神様なり、人間の埃と云うは我が身の思惑を立てんとして誠を失い天の理を立てぬ破る故我が身が立たぬようになるなり。

 御教祖は天保九年秋戌の十月より神様の御命を承り給い立てゝ下された、用い下されたも同一(戌亥が建て始まり)其の神様の思惑を立てるために我が身我が家我が子を犠牲にしてあらゆる迫害の中幾度の監獄、如何なる御艱難も御厭いなく其の突き立った御心を五十年間くるわず御通り下され神の思召しを立ち貫き下されて此の道が立始まり立教となった、御教祖は有形の物は人に施されたけど心は即ち神を立てられたものである、教祖には恩の送り様がないとの神様の御言葉も有り、故に御道は人間の親たる神の思惑を立てる道なれば人間の我が身勝手の思惑を立てよと思うは間違う故神に水くさい、成り立ちぬ人間心で成り立つ道でない、人間心はすっきりいらんとの御言葉なり。

 又此の神様は道教えの神と云う、地蔵神とも云うて道分け例えば此方は山、此方は海という、こう行けば間違う、こう行けば道という教えが此神様が抜けてある人は出来ぬ。

 此の神様の御心は八方八神の括り故、此の理が立てば皆理が治まる、一日立つ一月立つ一年立つと天理を読み給う理、万納めの神様にてつきよみの尊と云う、人間も万事成り立ちせざれば十分胸の内に治めて有れば如何なる人にも十分満足与える事が出来る。

 又五行の道では礼というは此の神様より出て居る人を大切にする、人は互いに立て合い助け合う礼儀という、此の理が無くては畜生に等し、人間も古き昔は野蛮時代で獣類の如く力づくで倒し合い強い者が弱い者を倒し、喧嘩ばかり家宅の取り合いと云う風な悪気で有ったもので神がだん/\戒め成人に応じて教えを布き善道に導きて育て下さって進んで来た、例えば獣類は親も子もない目上目下の順序も恩を知る事も或いは色情でも誰彼の区別なく義理も情けも礼儀作法もない、人の作物我がの作物の区別もない只食う事ばかりの心、大小便及び汚い事も掃除する事も何も知らぬ如く人間も追々成人して神に近つくに従い人を立てる事、行儀作法などが分かって来る、あたかも子供が成人するに従いて何かに分かって来るが如く、人間も神の世に進むに従って心が進んで行くから我が欲の汚い心が清浄な立て合い助け合いの神の心に進んで居る、故に下等社会程此の理が心に無いのである、だん/\心が汚れると獣類に近くなる、それで段々此の理の無いもの程下等に住まい暮らしが立たぬ難儀をする神様もだん/\と子供の成人を待ち兼ねる、神の思惑之ればかりなり、又成人次第見えて来るぞやと仰しゃって有る通り子供時代には大人の教育しても分からん如し。

 故に御道は皆深い尊い事が云うて有るなれど我々の心が進んで行かねば聞いても分からん。神世は是れから先に出来るのである。なり、神は何から何迄拵えが出来て居ると御言葉にある通り神の守護により世界が神の世に進んで居る。例えば昔は日本の内輪一国一郡でも取り合いをして居た如く又川向うの火事と云うて眺めて居た如く、今は他県の火事でも全国が知り全国から互い助け合うようになった如し。

 又聖徳太子様は此の神様の御変化なり建築大工業の守り神と祭り来るは立ち木建物立ち柱と云う大工業は此の神様の理、建てる役、正しい定規を以って立てるゆがんだ傾いた物は立たん倒れる宇宙間一切の建築物は此の神様の理に依りて建って居る、倒れぬ也、かの昔より城頭棟頭にしゃちを飾りたるは此の神様の理を以って立って倒れぬという理なり。甘露台勤めに鼻高面としゃちほこを此の神様の所に飾るは此の神の御神徳をかたどりたるもので鼻高と云う理が此の神様に有る、鼻柱顔の辛鼻で顔が立つ鼻も立つという理は此の神様の理なり。筋道を立てるという、誠を立てる道を立て人を立て親を親上を上と立て女なれば夫に貞女操立てる如し。成すべき事をきちん/\と成す、人に恩を受けば恩を返す如き皆筋道を立てる理、鼻は人道ともいう、人の道を守りて崩さず立てる誠一筋というが如く鼻は世界の花と云うも同じ理、花も種々ある如し、人間の花も種々、花は実を結ぶもの、人間の鼻は考える道具。其の考えたる事を行う故一つ/\実が入る理成ってくる。

 例えばあの人は鼻を高うして居るというが如く人間は成すべき事を成して踏むべき道をふみ、何所へ出ても恥ずかしからぬ道を通り立派に行うて居れば鼻高うしてぴんとして居れると同じ、低いは其の反対で立てて居らぬ人にすべき事をせぬ、例えばこうすればよいに、あゝすればよいけれどと思う事をせずに置くが如く、成さねば実が乗らぬ、其の成さんのは埃から成さん其の因縁で物が与わらぬからようせぬ、故に人の中に出ても鼻低うして居らにゃならんが如し、全て鼻の高低等は前世の理なり。

 鼻筋の潰れたる者は前世に以上の理に依り我行うべき理を立てずして大いに人の恩をかぶりて来たる理、鼻筋の立つは此の神様男一の道具も同じ理、例えば一道具を使って伝来の財産も潰し身を持ち崩し家が立たぬから鼻落ちるが如し、又一の道具が立たねば一家世界も立たぬ。鼻は舵取り鼻の落ちた者に考えのよいものはない、又鼻高天狗はたいしょくてん様の理で切れ物が上手なり、思い切るから立つ全て天狗など云う事は理想を給いたもので昔話なれど一に勢いと云うて天狗は神故に人間の心の勢いに乗って働くものなり、恐れて逃げるような弱い心の時には天狗に逃げて居る、是れは理を云うたものなり。

 天理の事を読むからつきよみの尊天理の風を守るから大日如来天理の道を守るから不動明王
 大日如来はかしこねの尊の御変化此の神様一番大役故一世は、大日如来と変化し給う、世界中のものが物を云うて居る。日々に大きいと云う意味、此の神様休みなし、人体でも肺は生まれてから死ぬるまで夜昼一つも息は休まぬ如く、かしこねの尊は風の神、誠の神様故人を憎まぬ治める神なり、人に満足与えると云う御心にて堪忍の風というて不足腹立ちを風に出さず寛大にしてどんな者にも分かる様説いて聞かす如何なる事でも善き方/\と物事の治まる様/\人に足納与えるよう、誠から優しく言葉を吹かすのがかしこねの尊の智恵なり、それ故に如何なる事も皆善悪が分かりて世が治まるなり。

 聞かすという助けると云うは心を治めるも同じ此の世は言葉の理で治まる世界なり陰陽和合によりて陽気を生ず水気と温みが合うから風が出る如く天の理に合えば誠の風知恵が出る、御教祖が月日の御心に合致せられて神様の御言葉が出たるに依り世界助けの御道が始まる、教祖の神聖なる言行風儀は天理の風なり。又神がかりの言葉の一条が天の自由用と云うなり。

 人間も天の理に合わぬ天理に切れて居る心を以って働き居ては陽気に勇む事が出来ず、智恵も出ぬ一身が治まらん、例えば人と人との心が合わず仲が悪ければ物云わぬ心、合わして睦まじければ家内の中でも陽気、又人と交際して智が付く如く例えば子供が学校に行きて一年の間に非常に智恵が付いたという、是れは先生が教える事を一心に覚えて守って居るからである、全て心の合うた先生につかねば智恵が付かんが如し、教える師匠は我に取ってはくにとこたちの尊、君臣の間は主君がくにとこたちの尊親子にては親がくにとこたちの尊、夫婦の間は夫がくにとこたちの尊、皆水と火陰と陽が合うて成り立つ世界、故に親に切れ主人に切れ師に切れ兄弟親戚に切れ人に切れて居ては天の理に切れて居る。天の理に合わぬのであるから何程苦心しても頭が進んで行かん。

 又此の神様は義の神様、義理と云うも同じ、此の神様から義と云う事は出て居る。全て皆月日両神から出るなれど月日二神からかしこねの尊に美と云う事は御任せになって居る。人と交際、言葉一条、白紙に文字を書いたらもう直すと云う事が出来んと同じく云うた事を違えん。云うた事の違わぬという定役をたがえぬ如く人間は義が大切、義理の道万事義と云う事は此の神様未申、羊に我と書く、羊程義の堅いものはない、羊は虎に向う時は朋友を助けるために我も/\と皆先に/\進んで行く、食われるという我が身を虎にあてごうて朋友を助けようとする性を持つ。昔の武士道でも義で持って居た、例えば武士に二言なしと云いて義を守り、又向うが刀を捨てれば自分も刀を捨てて掛る如し、義を立て、不義なる事は死しても成さんという義を重んじた事、是れ義の徳也、羊でもかしこねの尊の理が付いて居るから其の性が有る、神様が羊にも虎にも狗にも十二支に御変化下さって開闢の間潜って通って下さった故に其の理が動物にある、人間には勿論義が無くてはならぬ、義は誠、我が身の小さい欲を捨てて例え我が身を犠牲にしても人を助けると云う、又国家の万人の為に尽くすという真実誠なれば其の心は神と同一、必ず神に分通する故天晴れの働きが出来る神は人間の心に乗って働き給う故誠に依って神の働きが現れる。神言に、我が身捨ててもと云う心なれば神が働く。と仰せある通り、人間は我が身を案じ身欲から心が小さく穢く暗くなって徳を落とす真の誠なれば天が守り給う故、天運尽きず長久なり。誠が無くして此の世の役にも立たず又人にをなし埃を積み、天の龍頭が切れて神退けば人間程脆いものはない。

 何所に居てもどおして居てもいわゆる畳の上からでも死なねばならん。天の龍頭さえ切れねばどんな危ない所でも大丈夫通れる。たとえあられの如く飛び来る弾丸の中を潜っても又昔で云えば矢の中でも身に当る理がなくては当らぬ。例えば昔の太閤秀吉でも徳川家康でも天が世の中に必要有って守って御座った故殺されず天下を統一したと同じ。

 昔より臆病者が世に勲功を残し、天下に天晴れの名を残した者はない。もし秀吉や家康が臆病者で戦場を恐れて出なかったとすれば斯くの事業は出来ないが如く神は心に乗って働き有るものなり。又国家の為世の為に犠牲となって功労を残して死したる魂は直ちに生まれ出でて国家の上に立つ天徳を以って世に現れる故万人の尊敬を受ける。上に立たるる人は皆前世に世の為に尽くされた因縁ある魂にて、是れが因縁心の道なり。

 御教祖が照之丞を助ける為に我が子の命を神に捧げて助け給う教祖の真実を神が見定めて、天保九年より教祖を神の社として天下り給う。教祖は二十五年の命を縮めて魂一つとなって存命通りと働くと仰せられ、又一列の子供が成人したならば教祖は再び生まれ出ると仰せられたのであるが勿論一代を犠牲にして世界の為に働かれた御方々が再び世に出られぬ様な事では此の世に神は無きも同然暗闇も同じ。

 此の世は神の世界で一寸先の分からぬ人間の自由になる世界ではない。人の神魂は神の分心故、代々此の世に出て居るものなり。身体はいわゆる水の泡同然のものなるが、魂は神と共に不滅なり。人間の生死は全く神の支配にて決して人力の左右すべきものに非ずして神の自由に在り。又我が身の欲を去って我が身を犠牲にして人の為国の為に尽くすという位な真実が有れば此の神様入込み給うて実が利くなり、我が身の欲で田地や山林や財産を持ち又金を貯めようとするような間は此の神様の通力が利かぬ故言葉一で世の為をするとか息で働く天徳は出来ん、身薄になくては出来ん身薄にならねば此の神の実が利かん。

 世の中に芸人とか歌或いは浪花節とか鳴り物を以って人を喜ばす事に達者なものも理は同じ、又天性美声にして人に珍重敬慕を受ける人は此の神様の理に叶うたきれいな心にて前世に人の為になる言葉を使いてある理で或いは人を喜ばせ人を助け其の道に徳を積んだ因縁有るなり、すべて陽気に面白く話しをして人を喜ばすとか勇むとか笑わす方面は此の神様の理に叶う方であるが、之れの反対で我の欲心から色々と人を害する、人の心を煩わしい人の腹立ち恨むような悪口そしり話や悪風を吹かす方は皆我の徳を落として行くなり。

 声のよいと云う理は中々意味が深い也。又鳴り物は人間言葉の理と同じく鳴り物の一番はが第一位のものなり。是れは心の格好という理で、心の格好は悪しき所を立替せねば格好よくならぬ、又三味線は鳴り物の中でも広く用いられ僅か三筋にて最も美妙なる音調を発し人心に陽気を与えるものなるが、三味とは言葉の理にて三つの味わいと云う理で強いと弱いと中程全て言葉は心の現われにて人を助ける事も人を苦しめる事も大にしては世を治める事も世を乱す事も皆言葉が働いて居るもので大切のものなるが、例えば御道一条或いは一家の子弟を教育するにも何時も柔らかな言葉だけでも育たぬ、助からぬ者あり、却って其の者一生をあやまる事あり、強気厳しき教育にて助かり、生涯の出世さす者とあり、皆云うに云えぬこきゅうがある如く、兎に角埃無ききれいな即ち誠親心より施す言葉はたとえきびしき内にも温かき味わいのあるのみならず、人心を感化し教訓するの力あるもの故、人の心育つなり。

 不動明王はおおとのべの尊の御変化不動は動せぬという理。 盤石の如くと云うて人を助ける為には、誠の為には心を変えぬという理なり。かの仏像に炎の中に真っ黒の像が剣を以って泰然たる姿を描きたるはたとえ如何なる中でも心を動せず苦労を厭わぬという。

 此の神様の御心の姿を教え給う御道なれば如何なる悪因縁埃の中も切りぬきて埃にまびれぬ心を倒さぬ、人を助けるためには真心を変えん誠一筋押し通すと云う真実、定まったのが不動の精神。

 又此の神様とつきよみの尊二神で秋が出来て居る故御心も此の二神同じ所が有る、酉戌亥秋の神、力の神、働きの神、御守護も御添い下さる。此の神様は出世神とも云うて人間は自慢や高慢では出世出来るものではない、低い心で万事行き届く心を開き自分が守り行うて実力を拵え価値さえあれば自然に神が引き出しなさる、万物引き出しの神様、引き出し下さるは何の為かといえば万引き与えて満足与え下さる神故に人間も人に引き与える、満足与えるという、全て我が働き骨折りして人に十分与えると云う心になるから我が身に力が備わる。

 又恩を返すと云う事に力を入れて人に引き与えすれば自身に力が出来る(殊に御道は此の理が大切なり)身の内では筋の御守護、筋は全身に行き渡って働いて居る、たとえ一小部分でもいささか一分でも足らんとか短かったら筋を釣って伸縮の自由叶わぬ如くで隅から/\迄行き届く一つの抜け目なく八方に心を配りよく行き届く神様人間も其の心の理で十分物事を心に納める、それ故に人に満足が与えられるなり。

 筋は骨の行き渡る所は筋が行き渡って居るが如くで此の神様の理は人のするだけの事はする人に引けん人のなす事、人の知る事は我が成せん知れんという事はない、人に負けん後れぬ劣らぬ人より優るという心、例えば十あるものを六七分知りて私は是れでよい分かったと思うて居る如きものゆえ高慢、私は行き届かんまだ/\十分学びて上達せにゃならんと自分の短所欠点と人の長所が見えて人を見下げる心切る心なく、心使いの低い柔らかにして熱心の強い心から日々に得が付いて上達する。

 又人がこう云うから人がどうしたからとて心がたよ/\して倒れるような真実の定まらぬ薄弱な心では何事も出来ん。たとえ人がどう云おうとも我が是れをやりぬかねばおかんという変らんくるわん、真実の据わった辛が立つから延び上がる事が出来る。此の心の無いような者は役に立たん、と云うのは世の中は多くは埃に染まりて徳を落とすので有るから自分の前世の悪性質を切り天の理を胸に納め心澄まして誠一筋押し切って世の中の為人を助ける技量実力の天徳を得るに意思の強固なる迷わん動せん強気誠を立ち抜く真実親心が不動明王なり。

 御教祖が雛形、教祖が如何なる中も世界の子供助けるために盤石の如き心にて御苦労下された故、此の道が出来立った、もし御教祖が御苦労艱難に堪えられず中途御心倒し心を変えて居られたら、神の思惑たる此の道どうなって居るかと云う、其の強気誠が末代まで光り輝くのである。

 又高慢は学ぶ事を学ばず自身行わずに理屈で人を押さえるとか知らん事でも知り顔をする人よりえらそうに思うても自身に行わぬ、通らぬたしかに心に分からん事はうそになる、又自分で分からん事や無い事云うて人を迷わし人に迷惑を与える。高慢では力は出来ん、高慢から去るから力が与わる、心に力の出来るは此の神様つきよみ様の理。

 例えば理屈が達者になって人を押さえて見た所が其の実人を教育する仕込む、全て実力がなくては役に立たぬ、又身の内は此の神様の入込んではし/\迄何所でも伸縮自由自在出来るは此の位優しい素直な心はない、十人は/\に人を引き出す押し出す人を連れると云う神様なり、自分の気に合わぬ者にも気を合わして行くのが引き連れる心。又人間は心が低う無くては行き届かず低い心で働かねば徳が取れぬ。どんな人の云う事でも聞分けるという度量の広い人を容るゝという理で我が心広く大海になる埃の中にも正味有り、よき所は心に治める又力は血、地からという意味ありて低い所にある水は低い所/\と流るゝもので此の世の中に水程強い力あるものなし。

 水程やさしいすなおなものはない、例えば下駄をはいて居て力出すよりも足を地に落として踏ん張る方が力が出るようなもので我が身の低い程力が出る如し、草木でも根張りが下に下にと下りるほど上に延長して大本になる程多く花実が稔る如く、又親は根で有る、(一切の親)根に切れては実が乗らん、肥がなければ太らん如く、道を治むるにも我が心落として師に仕え、十分勉強して恩を返す、根にを肥する程自分に徳が出来る大人となる。

 例えば人に従うとか頭を下げる人を立てる事がうるさいから頭を下げて物を学ぶとか習う事をせず、初めから物知り顔で先生顔がしたいようなもので、たとえ如何なる賢人、聖人というても天下に名を輝かす様な御方でも生まれながらに物を知っては御座らぬ、幼少の時代には或いは学校で先生に習い、だん/\目上や先輩に習い従うて自分が先生になる、元々より先に生まれて又先に学んで居るものが先生、昔からでも一世に名を挙げられた位の御肩は皆師に従い苦労せし修養の根が有って世に現れた如し。

 又世の中に物のよく出来る人、出世せる人は或いは高慢も強く人を見下げるように見える人もあれど其の実は心が届いて働きが多く強くしてある熱心が強いから徳を積んで高慢の埃無く理に叶うから出世成功出来るなり。  又心の届かん物事の出来ぬ人に満足与えん人は天理にては高慢なり、例えば高慢の埃に前世から迫って居る故に心には行き届かそう満足与えよと思うてもようせぬ、天から押さえられて居る。つる類は皆此の神様の理故どんな事にも人より延び上がって下向きに頭を垂れると云うのが此の神様の御心の理が現れる、かの藤は美しい花を咲かして高い所から下にうつむいて花を見せる、人間も如何程出世しても心を低めて人に花を見せる心の味わい此の理がおおとのべの尊の御心に叶う所を人間に見せて居って下さる、さがりやさがるほど人の見上げる白藤の花、咲いて実のない山吹の花、つる類は何でも他の物につるが優しく添うて伸びる、其のものよりどしてもう一段伸び出るという性、低い柔らか、やしゅうて実力の勢いが強いもの。又人間に対する高慢は人の云う事成す事つきくずす、或いは我が身を顧みる智恵無く人を恨み人が行き届かぬように思い又人を見下げ我がえらいように思うて我が事を鼻にかける、人に折れそれのない高い心高慢から人の云う事でも耳に入らん。用いん人に情けのない小さい心から胸の内が暗くなる。

 神様に対するの高慢は己が前世より今世のよごした埃が十分有りながらそれを祓うて心を磨く事、心に主とせず又気付かずして清浄なるように思うて自分の目的や思惑を立てようとする心で道を通る心、我の勝手思惑あれば天の理を正直に守る、即ち神に素直になる事が出来ん故高慢が有っては話が納まらん、教え通り行えん、例えば日夜の身上の大恩を思い神様の御守護で働かして貰えた、さして頂けると云う心でなくして之れは我が力で成したものだ、我が助けたものだ、我が働いて我が食うて居ると思う、心は神に対する高慢神の理を突き崩す理。故に形は人に与えて?心は与える、尽くす心なき理である。

 道に年限重ねて人を助ける位置に在る人には神様に対する理の諭しが有る。人を出世させようと思う誠の心が我が身の出世出来る心である。欲と高慢大嫌いと御教祖は始終仰せられたり。

 

瓜と茄子の歌

 人間一名一人の心を改め誠となりて互いに心を合わして成しうる事は成り何事も成就す、又心を合わさずして成したる事は成就せず、たとえ成りても後破れ易くして成したる事仇となる事多し、故に万事成就は真より成るなり、是れ真実といゝて誠の実なり根元の証拠なり茄子と瓜、なすとは事成就する理にて事を成す、真実の成ると云う事、又うりは愁いと云いて花多く咲きても実成る事少なく、あぎ花多し故に昔より、たかいやまから谷底みれば、うりやなすびのはなざかり、これわいどん/\どあれわいどん/\ど、此の歌の意味は月日様が永の年限、人間のする事成す事を高い所より御眺め下された、其の眺め下された中に人間思い/\にて心に巧み身に行う業にて宝を求めよ財を殖やそうとして真実の花を咲かす者もあれば、又愁いを招く花咲かし嘘偽りにて財を殖やそ宝を得ようと思うて種々行う者の盛りと云う歌なり。

 紫は色の王にて青と赤との合いたる色なり。青赤は月日の真なり、故に千に一つもあざ花なく始めより終わり迄実が成りて誠の理なり。瓜は葉青くつる青く成る実も青くなれども肝心の咲く花が黄なり。故に瓜はあだ花多く成る実は十に五つ三つに一つ位のものなり。人間行う業も心を合わさずしたる事は十度の事を行いても都合よくして五度位なり跡五度愁いを招きて悲しみの種となるなり。

 故によく/\心を改め我より人に心を合わし睦まじくし、事を行い真の花を咲かし誠の実成らすべし、謀反の心にて咲かしたる花はいかに栄える共長く保たず折角子孫に譲りても、却って仇となるなりたとえ我が身一代栄華に暮らすとも子孫の難儀に及ぶ事鏡に懸けて見る如く明らかなり。

 又一つの意味は此の度は谷底にてはだん/\と多く用木が見えて有るぞやと仰せられ谷底に用木有ると云う事。歌は神が時世を知らず此の近年に至りてどじょうすくいが流行する此の理は愈々神様旬刻限が至りて神因縁の深き魂をすくい集めらるゝ理である(前世の因縁寄せて中護する)但し此の意味は最も重要なる事なれど文書に書き現わす事出来ん。

 

松竹梅の理 

 松は秋にてつきよみの尊、竹は春にてくにさづちの尊、松は人間身体骨足の理、色は辛を云う(紺故)。

 松は皮はまにあわず松茸は秋生じ人間食物に与え下され男一の道具の理、竹は人間身体皮及び一の道具の理色は外側を云い(緑又は青竹ともいう)筍は春生じ人間食物に与え下され女一の道具の理故に竹は皮のみ用い辛のなきものなり、松の辛竹の皮と云う男女一の道具の理なり。梅は松竹共に合わしたる理なり。芽の出ぬ先花開く人間夫婦夜交合の理、花は色なり香りは情なり、実は子の宿りたる理熟して酢きは秋の理、人間宿り始め冬夜の理十月となれば秋宵の理なり、梅干として永く保つ所は真実は永き理なり、松竹梅男女交合子の宿ると同一の理なり、植えて楽しみ絵に書きて眺め又歌に詠むなり。

 

菊桐之訳

 御紋菊は草花の王なり、人間味の内に取りては耳にて聞く、鼻にて考う理下より事情を聞き御政事下さる理紋と云うも花と云うも同じ理、きくと云うは人間にては耳にて聞くと云う名なり、花というは人間鼻の理にて形の名なり、眼は目と同じ葉は歯と同じ即ち口也、四役何れも四の理にて四四十六菊は 天皇陛下の御紋也、桐は五七の桐 皇后陛下の御紋也、両方五つは身の内に取りては五倫五体の理、真中七つは思い切り見分け聞分けの誠の神内を治め続ぎ下さる理なり。

 

正月祝の訳並びに門松を立てる理

 正月とは此の世の人間を月様が正しき御心にて始め下されたる故に年の始めを正月と云いて今に祝うなり。元日とは日様なり松を立てるは雄松雌松を左右に建て七五三を張りて年徳大善神と祭り礼拝するは年徳とは十二ヶ月三百六十日は皆月日の守護にて一年の内に五穀野菜綿糸一切御与え下され又立ち木魚鳥迄人間の為に御守護下さる故に此の恩徳を受け年々立つなり。

 松と云うは三代目辛の立つを待つという理にて三年目に芽出で辛のたつまでは古葉落ちる事なし。木の芽は一年が人間一代と同じ理なり。門松は三だんなるを理とす我が身夫婦一代子の夫婦で二代孫の夫婦にて三代なり、孫を産む者を我が身よりはよめと云うは是三代の世の芽を出す理にてよめという、孫の代となりていう時は二代を父母と云い三代をじじばばと云う我が身より前後を父母祖父母子孫と云いて五代のものなり。

 七五三はしめなり。其の七は天神七代、五は五倫五体、三は産み広め産の理、奈良長谷七里を七日にて一廻り人間最初五分より生じて五尺となる、産で三度産み下されし理ににて着物七襦袢五帯三身の内にまといて居るは是れ神の八形の証拠也、鏡餅一と重ねの理は月日二方の御身輝く理にて鏡と云う天地也故に夫婦心円く柔らかにして仲善く揃うて暮らす心を供えるなり、

 みきと云うは正しき真っ直ぐなる気を供うるなり。故に木の直なるを幹と云い横に出るを枝というなり。木の実を供うるは最初人間食物の始めは木の実なり、正月七日五日八日より十二日まで三日十三日より十五日まで十五日の間をしめの内と云うは月様十五日となれば満月と成り給う、人間もまる十五歳となれば一人前なり。数の子は元いざなみ様が九億九万九千九百九十九人の子数を腹に持ち下されたる理、鰊という妊娠の理にてにしんと云う七日十五日に粥を食するは人間元泥海より昇りたる理にてかゆとはかいにて海なり、正月元日より十五日迄の祝いと云うは元本始まりの理を忘れぬ為人間に親神様が教え下されて今に形を行うものなり。

 

嶋臺之訳

 大倭の国にて国式祝いと云うて婚礼酒宴の座にて第一の祝いとする嶋臺の理それ人間は夫婦結婚を始めとす故に祝うべきなり大事なる祝いというなり、我々住居家とする国は嶋なり、臺なり水の中なる浮き島なり睦くなる台なり、敷島なり松竹梅鶴亀老人夫婦の爺婆熊手箒男熊手女は箒を持って掃除する形を現わしたるは此の世の掃除をする程清き芽出度い事はなし、人間身体胸の内を掃くははくとは白にて白く清らか奇麗にするなり。

 胸の内の悪しき埃を祓いたるを六根清浄潔白と云うなり、六根とは六つの根即ち胸にて六つとは目にて見一、鼻で考える弐、口にて言葉使う参、耳にて聞くが四、香い或いは臭気をかぐが五、飲み食いにて六なり、此の六つの本を司る根を胸と云うなり根は水なり心なり男の心にて積む埃は大きく、女の心にて積む埃は細かなり、男の埃は第一欲しい、腹立ち、憎い、高慢四つありて男神戒め給う、女の埃は第一惜しみ、恨み、我が身可愛、欲此の四つ女神戒め給う、右互いに男はあらき埃女はこまかき埃を祓うたらお前百までわし九十九迄共に白髪と成るまでもと云う様に長生きして子の代孫の代を安心して楽しむ理なり。

 鶴は立つると云いて男一の道具の理なり、亀は続ぎの理にて女一の道具の理なり。鶴は千年亀は万年と古より唱えて寿を祝いするものなり。松は三代芽の真の立つを待つと云う理にて人間なれば孫の夫婦揃う迄じじばば揃うて長生きして其の三代芽の辛の立ちしを見て足納し喜んで往生するを待つという芽出度いと云うは三代目夫婦揃いしを爺婆見て喜びたるを言うなり。

 松は三代芽の出ぬ先は古葉落ちぬものにて誠に目出度いものなり。竹は一年にて親と同一となる故に親子たけだけと云いて中節揃いしものなり、ちゅうは中にして、せつは節なり、ふしなりふしより芽出で枝生ず、一年も十一月中十二月節より即ち冬至小寒の中節、春は二月の中三月節にて始まり夏は五月中六月節夏至小暑の中節秋は八月中九月節にて始まりかくのごとく四季中節にて成長するなり。二代芽子といえども孫代となればだけだけの理なり。

 梅はふえる理なり。殖えるは陰陽和合夫婦交合にて子の宿り月止まると云いて泊まると云うも宿るというも同じ事なり。月様は陰なり男なり宿りし腹は日様也陽なり女なり。梅は芽出でぬ先に花咲きて匂い芳しく花は色匂いは情夫婦和合なり。色情とはいろかとゆいて花の香りと云うも同一にて花香りいろか梅の花は寒に咲くを常とす寒は一日にて夜丑の刻芽の出ぬ先、人間朝となれば目を覚まして見る事が一番先なり。なれ共夫婦交合の時は見る事無くても行うもの花咲き情写る梅の実結びたるは人間子の宿りたる理なり。故に梅は殖える理にて目出度く祝うものなり。

 人間夫婦有りて子孫兄弟伯父伯母甥姪従兄弟と段々殖えて繁昌し村を成し郡となり国と成り世界出来たるなり。水の中なる島なり大倭は日の本島国にて往古はおのころしまと云い秋津州とも言い現今にて大日本という大和の国が国の始まり故日本を大倭と言う。

 

身体と世界五倫五台十干十二支之元本

五倫は五柱の尊の御心なり。五体とは五柱の臺なり体なり、代なり臺と云うも体と云うも代と云うも同じ事也。五柱も尊の御心とは、月様日様、金星、水星、木星なり金星とは第三源助星、木星とは第四破軍星、水星とは第五朝明星なり、五柱の尊の台とは第一くにとこたちの尊、第二おもたりの尊、第三くにさづちの尊、第四つきよみの尊、第五くもよみの尊なり、木火土金水是れ五行也、裏表となりて十幹となる。裏倫表体十幹とは、甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、

木  火  土  金  水  なり。五倫はえなり五台はとなり干支なり、えは甲、丙、戊、庚、壬のえなり。ととは乙、丁、己、辛、癸の五つなり。戊己子くにとことちの尊、丙丁午おもたるの尊、庚辛辰巳くにさづちの尊、甲乙戌亥つきよみの尊、壬癸卯くもよみの尊右、五柱は幹也。

 未申かしこねの尊、丑寅たいしょくてんの尊、酉おおとのべの尊三柱之神は枝也。

男身体五倫五体之理

 髪 甲    陰茎 乙    木にて 甲乙
 顔 丙    尻  丁    火にて 丙丁
 頭 戊    胴  己    土にて 戊己
 髭 庚    睾  辛    金にて 庚辛
 口 壬    腹  癸    水にて 壬癸

女身体五倫五台之理

  髪 甲    足  乙    木にて 甲乙
  顔 丙    尻  丁    火にて 丙丁
  頭 戊    胴  己    土にて 戊己
  鬢 庚    陰門 辛    金にて 庚辛
  口 壬    腹  癸    水にて 壬癸

 

男女交合の五倫五体本元之理

 男は五倫女は五臺にて即ち女は五つの臺なり、女臺となりて此の世の人間始めたるなり、是れ陰陽和合の始めなり、男女交合の時男の胴尻は天なり女の胴尻は地なり。男の腹は雲なり女の腹は海なり、男女陰茎陰門は空気なり交合の気淫の催すは男の腹に在る腎なり、是れ世界にて雲に含みし水より、壬なり陰茎より陰門に移る、是れ甲より辛に移り女の腹なる子宮に宿るなり、宿ると言うは月泊まるなり。是れ人間子種の始まりなり十月の間夜昼生まるは春朝成長して世渡りするは夏昼死する時は秋宵なり。

  木 男 陰茎 甲    女 両足 乙
  火 男 尻  丙    女 尻  丁
  土 男 胴  戊    女 胴  己
  金 男 睾  庚    女 陰門 辛
  水 男 腹  壬    女 腹  癸

 五倫五臺重なりて重となる即ち十是れ夫婦なり男女呼吸風風として六物六臺となる台に子宿りし理なり。○○○時男の頭の渦巻きが月様女の額が日様、男の眉破軍星、女の眉源助星、男の耳九曜星、女の耳十一体星、男の目宵の明星、女の目朝の明星、男の鼻口七夕の二星、女の鼻口いざなぎいざなみの二尊なり鼻口が夫婦なり。ふうふ風風○○見る事も聞く事も考える事も言葉使う事も用無く只胸一つなり、六つ共根に帰りて○○○○○写る、天は地、地は天にうつるなり。

 此の時一心の心は、男は満月十六日夜子の刻九つ時なり、女は朔日午の刻九つ時なり。裏表男頭冬至、女の顔夏至、男の背筋秋分にて秋の彼岸の中日、女の腹へそ春分にて春の彼岸の中日、男の呼吸女の息の交じるは大寒大暑にて冬夏の土用なり、甲辛交じるは秋冷気春暖気土用なり、胸にかえりてことごとく気となりて○○より○○に入り世界にては雲より空気の中に種あり海中に降る理是れ子種宿りたるなり。此の理を月日二神様いざなぎの尊を男種、いざなみの尊を女苗代として○○の道を教え下された人間御造化始め世界御造り下されたるなり、地と天とを形取りて夫婦を拵え来るでな之れは此の世の始めだし、男一心真心満月の理月様いざなぎ様に入込み心と成りたるなり。女一心真心日様いざなみ様に入込み心と成りたるなり。

 

身の内に於ける高天原龍宮の訳

 高天の原龍宮は人間身体にては○○○○の時にて子種を男より女へ宿し込み下さる時の理なり。高天原とは、男の腹世界にては雲なり、龍宮は女の腹の中なる、子宮高天原より天人天下るは男より子種女の腹に入る。天人の絵に美人を描きたるは○○の時の男の心の理を顕したるなり。天人琴や笙を持って居る理は子の宿る時の○○正の事や笙琴は鳴り物の王也、正の事は真なり、誠は六物六臺かしこねの尊なり、鳴り物はかしこね様子の宿らぬ時の○○は親神様人間夫婦仲良く暮さす為○○○に守護下さるなり。くもよみの尊善女と変化なせし理は此の天人と同一にてよき女という事なり。龍宮とは子宮なり、子は最初一○○水なり、水はくにとこたちの大大大尊、元本は龍王の理、故に子宮は龍宮なり。子の宿ると云うも月泊まるというも同一の理、龍宮乙姫と云うは女の体を云う世界何ようも天より種を雲にて含まし大海へ下げ下さる也。

 右身の内に有る事は世界に有り、元々人間御造化下さるに付き身体と世界の理と同一に御造り下さる、人間一人を一年と積もりて九億九万九千九百九十九人の魂をいざなみ様の御腹より産み出し下さる故身の内に有る事は皆世界に有る也。

 

十二支之訳

 十二支の動物は人間に成るすぐ前のものである。一番人間に近づいたものなり。人間が最初は五分に生まれ長き年限の間に、八千八度生まれ替わったと仰って色々のものに変化して潜ったのみならず、神様も開闢(かいびゃく)の間皆潜って通って下さった。それで子丑寅卯と云うような十二支の名があるなり。人間でなく神様が此の十二支に御変化下されしもの故に、其の理が獣類に有る、 人間も此の年に生まれた者は因縁として此の性質が有る、しかし是れは大大体の事で大あらめの事なり、其の人/\にて性質は異なるものなれども、十二支の神に対する因縁の性質、此の理は必ず多少有る、又神様は人間をここまでに育て上げる為には実に容易ならん永々の間の御苦労を下されたものなり。

 例えば人間が狗位な時代には馬とか虎とか獅子とか云うようなものに、御変化して下されて在った、それで恐れて治まったので全く成人して人間と仕上げた上は神様は元の神と成り給う、神と云うものは、人間の姿にでも龍にでも大蛇にでも何にでもなる、人間の智恵では到底思い計る事の出来ない御力、いわゆる通力の有るものが即ち神である。

 辰巳と云うてくにさづちの尊も龍に御変化下さった故に金銭には龍が書いてある、此の世に昔より大きな恐ろしいものは皆月日が色々の者に変化して居られるなり、或いは悪気を戒め、善道に導き下された天地開闢の時は八十夫婦揃うた、之れは八方八社の理、此の時に開闢の時の親様はくにさづち様、月日様の思召しにより之れは女猿と変化して出たと仰せ下さる猿王権現と祭っているは此の神。産の王と云う神様なり。

 九億九万年は泥海中の御苦労下さった間、九千九百九十九年は開闢下されての後の年限故、一世天保九年から二世となる、但し九億九万と云うは分からん事を云い下さった事神様には御作り下されたものゆえ、年数は分かっているけれど人間には泥海の何にも分からん間を九おくと云うてある、仏教で西方十万億土というようなもので人間では分らん事。

 最初五分の人間が四寸に成長してより八千八たびと云うて鳥やけものをくぐる最初は魚の形、魚でもうろこやひれのないものからうろこの有る泳ぐ魚となり、魚から鳥となる、鳥でもだん/\発達して鷲や鶴のようになってから獣となる、獣類もだん/\生まれかわり死にかわり発達して、馬とか牛狗とか云う様なものになって人間と成ったもの也。最初魚から鳥に変化する第一歩はあひる、あひるは前世は魚故に前世をよう忘れん、水をよう離れん如くで人間も何程結構な話聞いても好きな道で怪我をする如きもので、それが即ち前世因縁故、是れを立て替えるのが御道一条人助ける善の方へ心を向け力を入れるに従って心の成長発達変化して(悪が取れる)、皆一世の間神様が変化さして育て上げて下さった全て水や火にかければ何物も色々変って来る如し、依ってだん/\今日の状態に迄人間も世界も進歩して来たものと仰せ下さるものなり。

 又人間が八寸に成人した時泥海中が水と土とが分りかけ一尺八寸の時、海山天地日月分りかけ三尺にて物を云いかけ、五尺に成人した時、海山天地世界も皆出来たと仰せ下さる、だん/\と成人に応じてじき物、りゅうけいも、不自由なきように与え下されて、水中をはなれて陸地にあがりて住むようになり万の事を人間に入込んで教え仕込み下された。

 人間も初めは裸体で又穴に住まい一穴に何人と住まうて段々子を産み繁殖す、それで今に穴のぞきと云う事を云う一回りと云うを七日間とするは、元奈良長谷七里四方の間に七日間に産み下ろしの理、今に生まれた時は一と七夜とは月様殖える方、死んだ時は一と七日は日様へる方三十日にて山城、伊賀、河内、産み下ろし三十日を一と月と云う大和国内に産み下ろしの人間が日本の人間故大和魂という、日本魂。天理から人間と現わして此の世に産み出して世界万物御作り下されたる親様の御苦労は容易でない、ようこそここ迄ついてきた、実の助けはこれからや、と仰せられる魂が落ちんように色々と神が入込んで神となり、仏と成り、宗教宗派種々と教えの道を拵えて一世の間、育てて下された故、元々より神の思惑たる陽気ずくめの真の神世に出来る人間と、成人して今その時季旬刻限が至ったのであるから最早是れ迄一世の間のようにあちこちと魂の変化は絶対にないことになる、例えば人間も一人前になったら片付く今迄の年限は子供の成人の時代なり、これから先が神の世となる。そこで此の度は二世界の立替の時故、此の度魂が落ちたらもう上げる事が出来ぬと仰せ下さるのである。

 前世やの因縁よせてしゅごする、これは末代しかと治まると御筆先に有る、是れは皆、人間の魂を分けて心通り神が役割を定め下さる事なり。

  (くにさづちの尊より三寸にて生まれ八寸と成長八寸の男女、五つ夫婦へ男五人、女五人宿仕込み給う、三寸五分にて生まれ一尺八寸と成長す右誤り也)

 (世界開闢)くにさづちの尊の御腹より男五人、女五人五つ夫婦、人間三寸にて生まれ、八寸と成長す此の八寸の人間に五つ夫婦ずつ即ち男二十五人女二十五人宿仕込み下さる八寸の女、男女十人子を生みて三寸五分より一尺八寸に成長す、一尺八寸の一と夫婦へ一と夫婦ずつ宿仕込んで、即ち男女五十人四寸に生まれ三尺と成長す、時に世界高低と水の三つに分る。此の三尺の人間二十五夫婦に一と夫婦ずつ宿仕込んで即ち二十五夫婦五十人の人生まる、是れ八寸に生まれて五尺と成長す、時に世界全く開闢す。八寸の人間男女十人五夫婦、一尺八寸の男女五十人二十五夫婦三尺の男女五十人二十五夫婦、五尺の人間男女五十人二十五夫婦以上八十夫婦百六十人、天地全く開闢す。それより九千九百九十九年間即ち、天保九年、戌年にて一世年限満ちる。八寸の男女人間の元祖、くにさづちの尊女猿と現れ是れ人間の先祖也。此の女猿より八十夫婦揃うて天地開闢せし時と此の度の御教祖より二世立替となるのと同一此の理大切也、天地開闢してより六千年の間は神代此の間は人間に万の事を教え仕込み下さる年限又神様も何でも人間を殖やそうとして居らるゝ時なり。是れより地神となりて一千五百年にて人間に尊名が付く地神の末に神日本磐余彦尊即ち神武天皇現われ給う、之れはいざなぎの尊の御魂、皇后は伊須気余理姫命はいざなみの尊の御魂是れ人皇の初まり、それより天保九年迄に二千五百にて一世満ちる。

 此の世の元創まりは泥の海と仰せられ、泥々とした水土の別れもなく、月日と云うもなく、人間もなく、世界もなく、只茫々とした泥の海にて北もなく、南もなく、東と云うもなく、西と云うもなく、只今のおぼろ月夜の如きもうろうとして真っ暗でもなく、明るい事もなく、其の中に二神あり是れ今日の月日二神なり。月様が、国床を見定められて、御立ち昇り、国の床を御立て下されし故、くにとこたちの尊と申し上げる、夜となく昼となく泥海中を御照らしなされましたが泥海中に只呆然と神が居たばかりでは何の楽しみもない神と云うて敬うものもなく気のいずむ事なり、是れより我々両神心を合わせ、どうか手足の付いた重宝な人間を拵え物を言わし、又世界を開闢して其の人間に我等両神心を入込み物を教えて守護すれば日がら刻限立つことならば此の人間に陽気遊散をさせ又其の他何事も見らるゝ事と其の人間に入込んで世界の陽気を見よとの御相談月様より日様になさる。

 日様も御同意にて殊のほか御面を笑み給い早速御承知に相成る。思いが足ったと云う理でおもたるの尊と申し上げる。又女は子を育つる役故上より種を授かれば其の身が重くなる理又此の理を以って人間も男より全ての指図を出す、女は之れに応じて働くのが順序となり、又女は夫の云う事にはそむいては成らんと云う事も皆此の神の理から出る。

 又日様が後より御現われ日を照らし給いし故人間夫婦も女は男より年下と云うも順序となる、又其の人間には何と何を食わしてどお云う事をさせよとの御相談 紋型の更に無き人間を拵えるには雛型種苗代道具がなくては作れぬ、所から泥海中を見澄まし給いいざなぎいざなみ様御二方を見出され是れを人間男女の雛型と定め又六社の神様を一々御承知の上貰い受け其の御心味わいを見て人間の道具と造り仕込み給う。

 いざなぎの尊様には月様の御神魂入込み給うて天を象り夫の理として父となり給い、いざなみの尊様には日様入込み給うて地を象り婦人の理として母と成り給いて創めて人間と云うものを此の世に生み出された、故に人間は正しく月日の子で有る月様の御心入込み男の魂となり、女は日様の御心入込み給うて女の魂と成る故男女は身心違う。なと云うて月様男一人、むと云うて日様女一人なむなむと宿仕込み下さる。

 例えば人間でも世の中に只一人や二人有るだけでは何の楽しい事も面白い事もない多人数有ってこそ其の中に陽気も生じ楽しみ有る。又親だけにて子が一人も無くば寂しい楽しみもないと同じ。又是れを例えて申さばここに一つの鉄瓶が有りとする、この鉄瓶の鋳型はいざなぎいざなみ二神とし、其の鉄と云う原料は月日二神で有って鉄を分けて別に鉄瓶を作ったものが即ち人間と云うが如し。器械で創造する雛型が容易ではない雛型が出来たら容易に出来る紋形の無き人間を拵えるに八方八神を集めて型を造られたる故に人間は神の八方と云うかの昔よりの式来りにて伊勢の大神宮を始め各神社の神楽として獅子を舞う法式は月日様泥海中に現われ人間を作り世界開闢する為に上に上がり下に沈み御苦労下されたる泥海中より御立ち上がり給いし元々の有様を象りたる理と悟るべきなり。又八柱の神様には一旦月日に御承知の上飲まれ給うて月日は皆食ってしもうて其の心味わいを見て其の性を人間と御造化下されしものなり。故に八方の神様は元々の御姿は無くなり是れより次第に御変化下さる人間始め万物に変化下されしものなり。故に人間の身体は即ち八社の神様の御変化成し下されたる其の実体なる事を知るべきなり。依って人体と神様と別々で無き事を知るべし。月日は天に御心現わし万物に御心入込み段々御変化なし下されて八柱様も皆同じ人間を成長さす為に御苦労下さる。人間の心一つを楽しみて居て下さるが神なり道具の神様は其の道/\だけ日夜御苦労下さるは是れを御楽しみとして御働き下さる。(人間我が子可愛いも同じ)

 食事の時はくもよみの尊が表に立ちおおとのべの尊が裏にて飲み食い出来る故此の二神の御働き聞く事物云う時はたいしょくてんの尊に立ちてかしこねの尊表にて出来る。言葉は此の二神の御働き色情の時はつきよみの尊だけでは出来ん。くにさづちの尊御二方の働き、例えば人間働くにも食事をせねば働けぬ、働くだけと云う事は出来んが如し。

 月日二神は見る事御骨折御働きなれど此の二神は何れの働きにも入込み給わされば出来ぬ。つきよみの尊は月様の一の道具神、くにさづちの尊は日様一の道具神。

 かしこねの尊たいしょくてんの尊は天に御座る即ち顔頭に御住まい下さる月日に添い給う、くにさづちの尊つきよみの尊は地の低い所に御住まい下さるが色情の大切なる御守護ある如く月日様より皆使うて御座るものなり、故に人間は勝手の事に神様を使う故迫る也(人間のものは只心一つだけなり。心は無形のものなり)交合の時はつきよみの尊くにさづちの尊代理にて、十柱の神共に御働き下さる、見る時は月日様代理となり給い、十柱の神御働き下され、物言う時はこしこねの尊代理となり給い、食事の時はくもよみの尊代理となって十柱の神共に御守護下さるなり。

 故に其の道に付いて障り有り病苦等は皆埃なる故人間の心に感ずる不快も同じく残念遊ばすものなり、一切の働きがにんげんが成すに非ず、神様の御働き也。元々泥海中にて人間造り給える時に月日より道具神様に末の楽しみを御諭しなされて承知致されたる深き意味有る所也。

 身の内借り物の真理神人の関係等最も大切なる秘密の奥意の真理山々有れども是れを文書にて公にする事は畏れ多き事にて且つ信仰修養の日浅き人にては泥海古記等の真実真味に至れば中々分らず却って誤解を抱く事無きに非ず依って大略として置き御研究お希望するものなり。又身上借り物と云う理が分れば何かの事も鮮やかと仰せられたが中々分った様で早速分らんものなり。

 

麒麟鳳凰之訳

 此の世に話だけで誰も見たる事なし麒麟鳳凰と云うもの在りきりんは大龍王の変化なりほうおうは大蛇神の変化なり 天皇の尊体を御龍体尊顔と云い御載り物を御龍輦と云う又御鳳凰輦と云うは 皇后の御召し物の名也 皇后御出入りの御門を日の御門と云う也麒麟とは尊き鱗と云う理、天皇の御怒りを逆鱗ましますと云う鱗逆立つ理なり。

 天啓に依って諭されたるに月様元々御姿。日様元々御姿。大蛇神と諭されたり。

 天皇 皇后両陛下は月日に象りて御位に即かせ給い現われ給うものにして即ち神の顕現御名代。神入り込み給うて国家の主宰親様。国土を統治し給う。

 大龍王とは大理王の意味を含む大とは一人と書く一人と申す理、理とは王に里と書くと書く此の天地間は里である里は国土なり里を治むるは王で有る王は国に一人で有る一人を以って天地を治めるので有る。

 王とは天地人の三つの事此の天地人の三つを一本の真柱楫を以って固める治むる故王なり一つの頭を頂いて主なり。  天子。天皇。明御神と申す国土の始め神也。故に天地と共に窮まり無き天津日嗣を一筋に受け継がせ給うのである故に尊顔を御龍顔御龍体と申し上ぐるは月日を象りて申すなり。

 皇后の御冠に三剣の理は日様三剣の理と同じ、皇祖天照皇大神。いざなみの尊月日入込み給い地神の創めにしてそれより一千五百年の後いざなぎの尊神日本磐余彦尊と現れ給い皇后は同じくいざなみの尊。月日入り込み給い人体と現われ給うて悪徒を制し日本を治め給う即ち人皇第一代神武天皇なり。

 爾来皇統連綿として天津日嗣を継がせ給うは即ち神の力也。故に皇上は臣民いわゆる俗人と異なりて君臣の分を天より定め給い。日本は神国として乱れず万世一系にして国土安寧に治まるべき国体也。

 しかして中古に至りて人間悪気盛んに成るに従い武臣が武家の棟梁となりて武士を統率せしめ給い為遂に時代はあたかも人間成人の経路として止むを得ず野蛮時代の如き理にして腕力武勇を以って衆人を制せざるべからざる時代は武人を以って其の威を張り制したるものなるが故皇室は其の主宰として歴代変らねど時勢の為武臣が権威を振るい花を持ちたる如きの其の旬刻限なりし時代と云うべきなり。

 しかして、君臣の道は変る事なし故に人間成人に及んで二世の立替の旬刻限及んで王政復古となりて明治の御代となり月日治める明らか治め給うの理と成りて其の文字の理の如く神代の古に帰り天皇が政事を取り給うて天下いよいよ太平に治まる御代の聖代と成れるなり是れ人間の成人が出来一人前となりたる理也。宝祚は天壌無窮にして何時の世何時に成りて君主が神の名代として上に立たせ給わざれば人間社会は太平に治まらざるなり。

 故に君に不忠は即ち神に不忠也。従って親に不幸は神に不幸なり。

 かくの如く我が国は神世の古より神の定め給う君臣の分定まりて天理に依りて歴代一系の神統は天の自由用を以って立たせ給い統治し給うべき神の御国なれば外国の皇室及び国体とは全く其の徳が異なるもの也。

 神の御心にのっとり忠孝を重んじて人道の根義とする世々に其の義を守り来たれる君主国にして世界に二つ無き国体にして万国に誇るべき神国即ち世界の根元の国と云う事なり。

 将来日本が世界の主宰として統一すべき国で有る事は天啓に依って明らか也。

 わが国体は昔より神国と云うは元々人間世界創めの元の国根の国にて神因縁の深き魂が日本に住む故。

 神の系と云うて例えば神の毛色が外国の人とは異なるが如く精神も異なり日本魂と云う気風が神の気を有する国。神を敬い上を立てる互いに立ち合い人を大切にする上下相互いに仁義礼智信等の誠即ち神の御心を定規として代々其の美徳を保ち世界に比類なき国体也。

 元来我が国は神道と云うて古来の御方又其の時代に於けるいわゆる英雄賢人を神と祭り来たれるが勿論其の御方々の御在世中に働かれたる功績誠が即ち神であるから其の御方は神に相違ないのである。依って其の神社仏閣に月日入り込み霊験有り御守護下されたるものなり。

 一例を申せば楠公は一身を捧げて誠忠を君に尽くされたる御方其の大なる至誠が神である、故に是れを後世の鏡として神と祭る即ち臣民の手本雛形也。是れの誠忠を我々が守れば守護は生き通しの月日が守護下されて神徳を授け給うものなり皆かくの如く人体と現われたる御方の働かれたる真実誠より貴きものなし又後世に神に祭り尊う御方の神魂は即ち此の世に代々現われて神徳を保ち栄えて居らるゝ証拠なり。

 故に日本は数多の神を代々其の神魂が出て居る神国なり。

 其の神国の中に生まれながら誠無き人を害し国家を害する如き人間は魂が神魂で無い証拠或いは牛馬の魂より人間に上って居る魂も多く有る九億九万と有るは九十九万九千九百九十九人是れだけの魂は元いざなみ様の直接腹より出た故神因縁深し故に此の度は前世の因縁寄せて守護する是れ末代しかと治まると仰せ下さるは魂を分けて下さる事なりしかして魂とは即ち心故心次第にて神は分けらるゝものゆえ心は人間の自由なり心次第にて無き因縁も付いて来る有る因縁も無くなる。

 御筆先第四号にも今日の日は何か珍し初め出し万因縁皆付いて来ると有るは此の事如何な因縁も末代の因縁が付く故に聞き分け出来ぬものは牛馬界に落とさるゝ事なり皆心通り心の道が因縁となるゆえ神は教えを敷きて霊救の恩寵を垂れ給い雛形を作りて心を磨かせ給う神様には誰に隔てはない憎い子供は一人もないが神因縁有って用木に使おうと思うても間に合わぬ者は使えぬ心違えは仕方がない。

 昔より色々の法とか術とか易学、人相、骨相、或いは九星学、世が進歩するに従いて物理化学が進み、或いは哲学、心理学、或いは千里眼とか催眠術とか種々の研究が進んで来て居る今日であるが。 神言に術やとか法がえらいと思うなよ心の誠是れが真実法やとて誰がするとは思うなよ此の世創めた神の成す事、人間はあざないものであるからに珍し事を法なぞという、これ迄も此の世初めてない事を大抵月日が教え来たれど此の度はまだ其の上に知らぬ事何も真実皆云うて聞かす。と仰せ下さる通りで皆神の誠より時代/\に教えられ成人に応じての仕込みである皆天理が根である是れ等全てのもの学問一切枝葉である末を知って本を知らざるは社会状態今日なり。

 故に此の根本宇宙の真理を明らかにして真に人心を救済し社会の平和幸福を進めいわゆる安心立命を得るには天理の神教によらさればならん御教祖は身の内借り物の理が分かれば何かの事も鮮やかと仰せられた世界中に分らん暗い事はなくなるのである。

 例えば如何に易学人相学等が達者で有っても我れが心を作る道我れが天徳を得て助かる事が出来ざれば一時的助けの道也永久に一般人心を向上し救済し真に神徳を得る事が必要なり。

 

泥海古紀之訳

 御筆先の内に。  今迄も神学古記あるけれど元を知りたるものはないぞや。その筈や泥海中の道すがら知りたるものはない筈の事。此の世の人間はじめ元の神だれも知りたる者はあるまい。泥海の中より守護教えかけそれがだん/\盛んなるぞや。此の度は助け一条教えるも是れもない事はじめかけるで。今迄に無い事はじめかけるのは元拵えた神であるから。月日には今迄どこにない事ばかり云うぞや承知して聞け。此の様な無い事ばかり云うけれど先を見ていよ皆まことやで。何分に珍し事をするからは如何な話も無い事ばかり。どのような無い事ばかり云うたとて先を見ていよ見える不思議や。どの様な事もだん/\知らしたら日本の古紀皆拵える。日本にも古紀をたしか拵えてそれ広げたらからはまゝなり。

 だん/\と何の話をするのも先なる事をばかり云うなり。
 何もかもない事ばかり説くけれどこれにまちごた事はないぞや。
 だん/\と筆に知らしてあるけれど悟りが無うて是れがむつかし。
 今迄はどんな話をしたとても何を云うても匂いばかりや。
 だん/\と子供の成人待ちかねる神の思わくこればかりなり。
 だん/\と無い事ばかり説き置いて先で見えたら是れが真事や。
 今迄も今が此の世の創まりと云うてあれども何の事やら。

 御教祖が天啓に依って御話し下され筆に残って居る所の泥海古記元々無き人間無き世界の創めに泥海中に於いて神様の元々の御姿として仰せられたる意味深淵なる御話しの中に月様は元の御姿は大龍王で有るとか日様は大蛇神で有るとか人魚いざなぎの尊、いざなみの尊白蛇、つきよみの尊しゃち、くにさづちの尊亀、くもよみの尊鰻、かしこねの尊かれい、たいしょくてんの尊ふぐ、おおとのべの尊黒蛇とか又人間の魂は三寸のどじょうに月日が入り込んで魂と定めたとか、段々珍しき事を仰せ下されるが是れは容易ならざる意味の深き尊い事で有る。是れは皆神が心の姿を仰せられたる事也。

 形でない心の姿を御使いなされた事なり理を仰せられたもので皆悟りなり。

 是れは一つの理想とも言うべきもので有ってあたかも日本に古事古記神代記とか種ゝなる古事伝説の不思議なる事が伝えられて有る如く是れは神が先の事を是れから先に現われる事を匂わせ給うた事なり故に其の実際実体は是れから先に現われて来る事なり。

 例えば仏教でも或いは十七面観世音十一面観世音とか或いは千体仏とか五百羅漢であるとか皆理想で有る。

 龍と云うものは実際見たものはない只理想が書いて有る。神のにおいで有る。

 登り龍降り龍を書き或いは龍が雲に乗って居る所龍が玉を持って居る是れは人間最高の理想が絵書いて有る。

又皇祖皇宗爾来皇上に現われ給う神統次には世の上に立ち治められたる如き御方は大抵は神の御化身が多く別なれども俗人は昔は野蛮時代にて追々進んで来て居るもの故実正の神代は是れから先に現われるので昔の事ではない。

 もっとも御心が有って形が現われるものなれば八方の神様の御変化御心の姿は其の形が現われるのであるが神と云うものは一定の限られた形のものでない無限の通力のあるもので世界中一手の守護御働きをなさる絶大なる力のもので小さいものと違う御変化は何時でも神は色々なる恐ろしき形優しき麗しき形を現わし給う。

 例えば神が人間の形を現わし給えば人間だけの力しかない人間だけの業通力しか利かぬ理である故に神は心一つと成って世界中働いて下さる也。是れ迄も八方八神は色々の物に変化せられてあるなり。又人間が一番完全なるものであって神の入込み給う所なり。

 人体を離れては神様の御自由用は見えぬ人体が即ち神様の御心の顕われ給う実体と云うべきものなり人間は借れて居るである身体は神様の物である。

 泥海古記に八方の神様の姿形を仰せられてある事は丁度月日様の身体の中をしらべた様なもの也身体の中に道具がある如くそれを皆一ツにまとめた物を拵えたも同じ事なり。

 心の理で申せば私の心には欲しいがある惜しいがある可愛があるとしらべて行く如く一ツにまとまったものが一名一人の精神となりて又誠となる如し。

 全て神様の御言葉は大抵現場に見えた事を雛形として先の大きな事が仰せられてあるもの故皆先を見通して先の事を匂わせて下さるが。一と度御言葉に出た事は遅いか早いか必ずある。人間と違うて神の云うた事は何時に成っても違う事はない千に一ツも違わん故に我々が心の成人次第に分かり来るものである。成人待ち兼ねるとも。見えん先から説いて置くぞや。とも仰せられて人間から見れば何十年先の事でも神は一目に見える故すぐそこに見えてある様に仰せらゝものなり。又一言説いたら百巻の書物と仰せられてある。子供に親の胸中を語っても分らわと同じ泥海古記でも御筆先一切説いて無い書かれただけ。成人年限至れば説いて下さる日必ずある也実際は今がまだ泥海世界である。

 故に泥海古記の実体のものは是れから出来る故に神言に日本にも古記が出来た事ならば云々。是れ末代の古記創まり。此の人数何処にあるとは思うなよ月日見分けて皆引きよせる。此の世の真実の神月日なりあとなる。神は皆道具神なり。人間を拵えよとてだん/\と寄せて使うた是れに神名を、と仰せられてある月日の道具となって此の世の創め出し(二世界)に功能あるものには神名を授ける此の事也。

 御教祖程強い粘い心の丁度親が我が子の為には如何な苦労もいとわず。執念の深いが如くでどんな事にも後へは引かんという例えば此の者を呑もうと思うたらきかんという云う様なもので其の強い親心真心の其の親心の姿を白蛇と仰せられた。例えば突っ張る力勢いの強い倒れぬ心はつきよみの尊続ぐ強い力の道具はくにさづちの尊。真実を見て役割をすると云うてある。

 又月日が道具神を食うてしまうて仕込んだと仰せ此の理が悟り。又くにさづちとつきよみと此の身の内に仕込みたるなりとあるは御教祖の御子様御兄弟の事なり元々泥海中になぎなみ二尊に月日が入り込んで人間作り創め給いしと同一なり。

 くもよみとかしこねとおおとのべたいしょくてんと寄せた事なりとある通り、月日が教祖に入り込み道具を仕込んで此の世創まりとして泥海中の雛形通り是れだけの道具神の魂を集めて此の道を初め給う。

 又御教祖に月日様が御入り込みなされたと云う訳はつまり御教祖の磐石の如き真実の強い狂わん不動意思の強固なる心に月日が乗って働きなされたのである依って教祖にあれ程迄の御力が出来たものなり。

 教祖には月日が八社の神を連れて入り込みなされたる故に八方の神様の理が教祖にまとまった依って御教祖が即ち天理王尊の御性格十柱神揃うて人間と産み現わされたも同じ(甘露臺)

 泥海古紀は実に深淵なる意味の存する所にして最も重要なる宇宙の大真理が見出す根元であって道を学ぶ者殊に人を教導する本教教師たるものは誠心誠意神意を悟り深く治めさして頂くべき要点であるしかして是れはいわゆる神秘的の奥儀の存在する所故最も畏れ多き意味ある故文書につづり難く個より真理の奥意は筆墨に依りて其の真味を悟る事は不可能の事に存する次第なり。

 

親心

 神様と人間との関係は人間親子と同じ事なり。神様には絶大無限の力あるだけ違う。

 神言 世界中神の為には皆我が子一列は皆親と思えよ。此の世を創めた神の事ならば世界一列皆我が子なり。あすからは親が働きするほどにどんな者でもそむき出来まい。

 一列の子供可愛いそれゆえに色々心尽くしきるなり。此の道は親が頼みや一列はどおぞしいかりしょうちしてくれ。人間も我が子かわいであろうがなそれを思うて思案してくれ。

 「反対する者も可愛い我が子念ずる者は尚の事念ずる者でも用いねば反対同様のもの」人間も我が子は可愛い一筋なり子供が何も知らぬ間も寝ても醒めても可愛から真心を尽くして世話をして居るものなり例えば子供は危ない所も怪我する事も如何なる事も知らずに遊んでいる又今食べたら腹がすく迄は分らん如く親は先を見通して用意をなし食べさし又子供の喜ぶを見て楽しんで居る如く天の親様も人間が知らぬ間に此の世に生まれ出して人間が知らぬ間も寝て居る間も夜昼片時も休み間なく御守護下さるのである。

 親と云うものは子が頼むから育てる頼まんから育てん世話せんというようなものではない。 親神様も人間がどうか此の世に出して下されと頼んだ訳ではない日々守って下されと頼まんでも十分心尽くして守護下さる。故に親様に対して人間は我が事は頼まんでもよいのである。人間が我が力で生まれ出よとして出たものではない。又神言に日々に親の思案と云うものは助けるもようばかり思てる。是れが親心誠なり。

 御教祖は真実親心月日の御心に通じて天保九年より神の御命を受けられ神の社として御苦労下されたゆえに世界中の人間助けの道を付ける為に永がの五十年間の御苦しみは述べ尽くす事出来ぬ実に涙なくては聞く事の出来ない御道すがらである。御身は云うに及ばず大切なる我が家も可愛い我が子も皆犠牲にして結構な御家柄でありながら貧のドン底に落ちきって衣食住の貧窮は勿論なり長の御艱難世上からは気違い狐狸と云われ給い近所親戚に至るまで長い間誰一人もより付くものも合い手になる者も無かったと仰せらる。

 神言 此の道もと草ばえの中から云えば辛働の仕損というは教祖や何も楽しみなしに一日の日の遊散もせずに越したはしんどおのしそんなれど年限の間ほのかのように説いたる事が今の所にちょと見えてある。と仰せある通り苦労艱難の仕通しで一代越して終わられた。家を出らるゝのは監獄位で或いは土間に住まい或いは食を絶ち一日の安楽もなかった其の苦しみの中から夫様にも可愛い子供様にも皆先立たれ給い一人御老体で御苦労下され八十九十になって何十回ともなく監獄に行かれる罪なきものが牢屋住まいなされる。

 世界ではほんにゴー婆やなあと云うて居るやろうと御教祖は始終仰ったと云う。

 我が身を忘れて世界の子供を助けるために永らく御苦労下された御教祖は苦労を苦労とも不自由を不自由とも思し召されなかった。子供(人間)可愛い一筋助けたい一筋。我々の如く食うとか着るとか安楽に住まうというような事は更に御心た無かったのである。

 御教祖の御苦労によって畜生道に落ち行かねばならんような我々の魂が二世界に出して頂いて助けて頂ける今日がある。

 此の度は神が表に表れてと仰せ下さる通り一世の間は色々教えの道をつけ木仏金仏にまで入り込み神とも仏ともなって助け導き成人を待って下されたのである。昔より大慈大悲の観世音となど申した如く皆月日なり。

 真言宗は弘法大師の誠が光る御苦労の徳禅宗は達磨大師日蓮宗は日蓮大師一向宗本願寺は親鸞上人の誠が後の世まで光って居る如く皆一宗を立てられたような御方は我が身を犠牲にし一代苦労ばかりで大廈高楼に住まいて布教せられた方は一人もない一代草鞋を履いたり破れた衣を着たり粗末な物を食べて世人を救い助けられた皆親心なり。其の誠が神に分通して月日入り込み働き下されたものが世の神となって御座る此の世は神の誠誠が神なり親の心を以って働くものは親の代理である人を踏み臺にして我が身が出世せよという様な心は親の心ではない子供の心なれば子供だけの徳が授からぬ神様は無形にして人間の心に乗って働き下さるもの故神意の発現は人間の心に在り。神言に月日には何叶わんと云わんでな心次第にどんな事でも。一列は皆メイ/\の胸次第どんな事でも叶わんでなし。 それ故に月日残念立腹が山々つもり重なりてある。

 「此の道は世界並みやと思うなよ是れ末代の古紀創まり」と仰せ下さる是れ迄の宗教とは違うと云う事である一世の間に人間も成人が出来一人前になって親の云う事聞けぬものは致し方なく見切らるゝ子供の心では通れぬ親の心を知りて通る親の云う事反対しては親の徳を持たす事出来ぬゆえ神の残念現るゝ旬刻限が御筆先にも出てある心次第にては牛馬道に落ちねばならん二世の立替子供片付けに親様が現れ下された容易ならざる事故五十年間も雛形御通り下さる此の片付けに落ちた魂は末代上る事出来んと仰せ下さる。

 日々天より一列の心を見澄まして御座る一日の日と申さるゝ刻限は迫り切ってある。

 十二下りのとめが大工の人数揃いきた神は道具さえ出来たらそれから先は神の力で世界は一夜の間にも働きをなさる其の道具の心を磨き上げるために助け一条の雛形を作り給う。

 泥海の心では神が入込む事出来ぬ心に理が治まらねば大工になれぬ磨けるものと磨けぬものと見定めて御座る。

 御教祖は足場になるなよ/\本普請に使うて貰えよと仰せられた。聞き込みの足らん者は当場の道具とも仰せられ又国家の為道の為尽くし運びをしたならば心に治まった理は末代の理なれどと仰せてある親様の代理。国の柱とも成って働くには心の成人出来ねばならん親の心人間我が子可愛い心を以って社会同胞に対する真実なれば神の心に叶う。

 教祖が谷底に落ち給うた理をよく考うべき也「此の先は谷底にてはだん/\と多く用木が見えてあるぞや。ダン/\と用木にては此の世を創めた親が皆入り込むで」月日の手足となって社会の助けに働く道具が将来の世の神となるべきもの末代の古記創まり二世界は神世(甘露臺世界)と治まるは必ず教祖と同じ天啓が末代続くのである此の度の親様の御道は宗教とは違う也。

 教祖の雛形を手本とし其の形の上は兎も角も。教祖の御心を雛形として我欲を去り真に人を助ける真実ならねば心に教祖を宿って頂く事は出来ぬ其の人を助けたる功能の理に依って我れに徳を授け下さる。

 我が心が作れる大きく成人の出来る道は人を助ける育てると云う慈悲心によりて我が心が作れる大木になるあたかも世界の草木が温か味ある陽気にて成長出来ると同じ寒冷の気候では成木せぬ如し。「中々人を助けるは真の誠助ける理が助かる」仰せあるは此の理なり。

 誠とは我が身欲のなきもの八埃は皆欲此の欲が取れぬから神が心に入り込み出来ぬ。八埃を払うて欲しいや惜しいがなくなるだけ心に神が宿り下さるで天理が明るく見分けが出来る情けも慈悲も心が大きくなる欲があるなら止めてくれ神の受け取り出来ぬからと仰せるるゝ此の欲と云うても重欲とか強欲とか云うようなものは無論分かった事である。神様は一世の間人間を養育下さって何千年前より智恵学問を仕込み教えの道も種ゝと今日迄に成人さして此の度はいよいよ親様の胸の内を語り神の思惑一条の為に。教祖五十年間も御苦労下されたるは今迄に分らん事を皆知らせ下さるのである。  人間には身びいき身勝手と云う是れが埃此の欲が容易に取れぬ例えば我が身は可愛いが人は可愛ゆくない我が子は可愛いが人の子は可愛くない我が身は出世したい人はかまわぬという如く近親他人と分け隔て此の欲の事を神は仰せ下さるなり。是れが取れねば真の親心と云う事にならぬ。欲が取れたらば神の心に通ずる。心は広くいわゆる大海になる濁らぬ澄む清浄になる故神が心に入り込んで下さるから真の情けが大きく広くなる大慈大悲と云うも同じ。


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