My Library Home

やしきたかじんのエピソード

Wikipediaより

2012年



たかじんのコンサート
たかじんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめであくまで歌とトークを重視したシンプルなスタイルである。3時間前後の内、大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、近年では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないことも特徴である(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)。観客からも「曲はレコード、CDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。それゆえほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2、3曲だけだったこともある(たとえば、ゲストでたかじん同様にコンサートの大半をトークに費やす円広志を迎えたときなどには、漫才に熱が入りすぎた(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。

コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りたとき意識を失い、生死をさまよったことがある。客席をまともに見ることが怖いため、ステージに立つときは必ずサングラスをかけている。トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。

コンサートのトーク時間が日本一長いことで有名であるが、このようなスタイルになったきっかけは、まだヒット曲に恵まれず泣かず飛ばずだったころどのようにすれば満員になるのか試行錯誤した結果であるという。

タレント活動
普段のしゃべる時のだみ声の地声と、歌うときの高く澄んだ甘い歌声とのギャップがあまりにも違うため関西以外ではたかじんが歌手であることを疑われることが頻繁にあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていた。上岡龍太郎はたかじんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」と言った。

歌手でありながら、1986年に日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年に上方お笑い大賞「審査員特別賞」を受賞(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退したための処置)。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。

放送禁止用語や放送局の出入り禁止や、名誉毀損(後述)も恐れないストレートな発言(友人であろうとも容赦なく批判する)で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、すべてのレギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている。 本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせ、現在もそれは変わらない。

読売テレビ製作の『たかじんnoばぁ?』でも、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークが評判を呼んでキー局の日本テレビでも放送されるようになる。たかじんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともあった。この「ガオー」がこの番組の名物となる。放送時間が深夜12 - 1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%を超え(関西地区)、読売テレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する事となった。この番組中に泥酔のため、たかじんの東京嫌い(後述)や、司会におけるスタイルを批判したゲストの立川談志に灰皿を投げつけ「気に入らんかったら帰れ」とスタジオから追い出し、犬猿の仲に発展したが、トミーズ雅に「放送できない」と止められた。また、内田裕也と安岡力也がゲストに来た際、内田が番組のお約束でもあったコントにも参加せず、番組途中で帰ったのにまったく怒らず、その後何事も無かったかのように力也とトークを続ける懐の深さもみせた。ただし内田が、たかじんのブラックリスト入りをしたのは言うまでもない。

家族
父の権三郎については(長期間絶縁状態にあったせいもあるが)極右思想の持ち主であったこと以外は一切公表しておらず、語りたくないと発言している。1987年2月23日付の朝日新聞のインタビューでは日新ステンレス(本社・大阪市、家鋪秀王社長、資本金5000万円、従業員約80人。いずれも倒産時)の社長で、父親と実兄が会社を経営していた事を明かしているが、同じく朝日新聞によると、その後日新ステンレスは自己破産している(負債総額は約105億円)。だが、高校時代に父の財布から金を盗もうとしたのがばれた時、顔の形が変わるほど殴られてしまい、それで盗みは悪い事だと自覚したという一面もある(そこまで言って委員会内での発言)。弟に関しては学校の校長をしていることも明かしている。

母の光子についても、言及はかなり少ないが、憎んでいるという。その一方で、母親と顔がそっくりと言い、「小学校のころ友達に『同じ顔の人が二人いると思ったらたかじん君とお母さんだった』と言われた」、「シャチハタ親子(シヤチハタネームで押したようにそっくりという意味)」などとも発言している。

過去に2度結婚しており、20代前半で別れた一人目の妻との間に一女がいる。離婚理由について「1人目は、風呂屋に行ったまま帰ってけぇへんねん」とギャグにしていた。2人目は「離婚届送ってきよった」と委員会で発言している。

読売新聞社員引き回し
新曲のキャンペーンで読売新聞大阪本社を訪れた際、取材記者が挨拶も無くアルバムを一瞥してテーブルに放り投げ開口一番「売れとるらしいな、で、なんや?」と訊ねる。記者のあまりの横柄さに激怒したたかじんは記者の髪の毛をつかんで引きずり回す事件を起こした。

味の素激昂事件
1992年12月、たかじんが司会をしていたテレビ朝日の深夜番組『M10』の料理コーナーで、たかじんが「こんにゃくサイコロステーキ」を調理中、隠し味にどうしても必要だった味の素が見つからず、番組スタッフや助手を務めていた服部栄養専門学校の生徒に「味の素はどこじゃー!!」と連呼したが誰も答えなかったため、アシスタントディレクター(後に小宮悦子と結婚した人物)を殴ったりスタジオのセットを破壊する出来事があった。その状況に慌てた共演のトミーズ雅が「仮に、味の素を入れたとしましょう」と軌道修正を図るフォローをしたが、「出来ん、味の素がないのに出来ない!」と調理を放棄し、最終的には「こんな腐った番組辞めたらぁ!!」と生本番中に帰った(後日、たかじんは別の番組で「ファックスで再三打ち合わせしたにもかかわらず、味の素を持って来なかったことに腹を立てた」と話している。また、この出来事でたかじんは右手を骨折した)。

生番組中に「味の素」と連呼したことで味の素本社から1000本の味の素が送られて、スタジオのセットやたかじんの楽屋の至るところに置かれるという後日談も生まれた。この差し入れは同社からの善意によるものとされているが、激怒した原因は打ち合わせをしたにも関わらず制作スタッフの怠慢で進行に支障を来したことから「味の素がなかったから」とすることは本意ではなく「あるかないかの問題ではなく制作業務としての当然の通達が全く機能していなかったためである」と本人が吐露している。

後に番組内で、たかじんは「騒動を引き起こした責任を取って、番組を自ら降板する」と宣言したが、トミーズ雅から説得されて一旦は慰留を受け入れることを決意するが、バーのマスター役のたかじんとトミーズ雅が有名人を迎えてトークをする『M10』の番組構成は、既に関東地区以外で放送されていた読売テレビの『たかじんnoばぁ?』と全く同じであったため、この事件で『自局制作の番組を模倣した番組』が関東ローカルで放送されていたことを知った読売テレビが、テレビ朝日と制作プロダクションのオフィス・トゥー・ワンに事情説明を求めるまでに発展したこともあって、翌1993年3月の期末改編を前に番組自体が打ち切られた。前後して『たかじんnoばぁ?』は日本テレビで『M10』の裏番組として放送を開始、他局でありながらメイン司会者が同じでセットや内容が酷似する番組が、一時的ではあるが関東地区で同時間帯に放送されていた。

同時に、彼の東京嫌いが決定的なものとなり、基本的にキー局や一部の地方局製作の番組に出演することはなくなった。そのため、現在でも『たかじんのそこまで言って委員会』や『たかじん胸いっぱい』などの冠番組の東京キー局や一部の地方局からの全国ネットの案件を門前払いし、徹底拒否している(前述の通り、TOKYO MXを除く関東の独立UHF局では放送を認めている)。

のちに『たかじんTV非常事態宣言』の企画で味の素大阪支社を訪れた際、味の素の会社内でもこの事件が伝説として語り継がれていることを知るのだった。

酒絡み
・大相撲の大阪場所で数多くの幕内力士と飲みに行ったが、たかじんと飲みに行った力士全員が一人の例外もなく全員怪我で休場に追い込まれるという事態になり、日本相撲協会がたかじんに力士との接触の自粛要請をするという異例の事態に発展した。

・京都会館のコンサートで、ステージ上にはタバコと水割りを用意させ、水割りがなくなるとボーイが取りに行くというもので、そういう状況で当時全く無名でヒット曲が皆無であったたかじんは延々としゃべり続けた(1ネタ40分程度)。客席はホステスばかりで香水の匂いが相当きつかったという。半ばエンドレスの状況であったため、ついに演奏中に京都会館の人間に電源を切られ、楽器の音と照明が消えると最後には緞帳を強制的に下ろされ、たかじんは京都会館を数年間出入り禁止になってしまった。

・客引きに「暴力バーあるんやったら入ったるわ」と言い、大阪・梅田にある阪急東通商店街の暴力バーに入り、ビール小瓶2本を注文し、その勘定が6万円程度だったことに激怒し、「俺を舐めとんか?何やこの勘定は。お前とこ暴力バーやろ。1本15万は取れるはずやろが。暴力バーが生半可なことすんなドアホ!!」と一喝した上で説教を始め、最後にビール小瓶2本分に相当する30万円払って帰った。金を払って帰る際に店の奥から若い連中が出てきて「兄貴ありがとうございます」と言った。この事は過去に『たかじんONE MAN』でたかじん本人が言っている。

テレビ・インターネット絡み
・休みの日は朝から晩までHDDに撮った録画したテレビ番組を鑑賞し、テレビ局の作る番組の動向をチェックしているという。

・大阪・八尾市にある旭食品が製造している「旭ポンズ」をテレビ・ラジオで絶賛したことがきっかけで、関西で大ヒット商品となり、たかじんが火付け役となって多くの著名人にも愛用されるようになった。他にも、通販の商品などたかじんが取り上げた商品はすべて注文が殺到し生産が追いつかない事態になっている。

・たかじんが番組中に激怒することがよくあると同時に、たかじんの発言に対し、共演者(特にゲスト)が口論となった末、本番中に帰ってしまうこともよくある。

・2009年7月11日放送の『たかじん胸いっぱい』で有吉弘行に「奇跡のチンピラ」とあだ名をつけられた。

競馬絡み
・本人のコンサートや、上記『たかじんNOマネー』や『たかじん胸いっぱい』等で語ったところによると、これまでに10頭もの馬を保有し、その中には下記に掲げるような4頭の個性的な「バカ馬」を保有したという。

・1頭目は、2,500万円を投じて購入したものの、極端な閉所恐怖症で、ゲート試験に合格できず競走馬デビューすらできなかった。

・2頭目は、非常に負けん気の強い馬だったが、デビュー戦でレース中逃げて先頭を走っているとき、後方から追い込んできた馬に噛み付くほど負けん気が強かった。

・3頭目は、虚弱体質であった。

・4頭目は、「自分の目で確かめなアカン」と思い、わざわざ北海道まで血統を頼りに買い付けに行き、ゴッドファーザーからドンコルレオーネと名付けた。だが、中央では全く勝てなかったためイヤになり、「地方に転籍させましょうか?」と言った周りの意見に耳を貸さず「もうエエから、誰かにやってくれ」とあげてしまった。その後、ドンコルレオーネは園田へ転籍し10連勝を飾ったという。


Page Top | My Library Home