My Library Home

靜寛院宮せいかんいんのみや

文部省

底本:『初等科國語 八』(1943年)



 鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の一戰に、德川慶喜(よしのぶ)は、はしなくも朝敵といふ汚名をかうむつた。
 すでに大政を奉還したかれに、逆心などあるべきではないが、しかし何事も時勢であつた。朝臣のうちには、あくまで德川を討たなければ、武家政治を土臺からくつがへして、新日本を打ち立てることができないとする硬論がある。幕臣にはまた、三百年の舊恩を思つて、主君の馬前に討死しなければ、いさぎよしとしないやたけ心がみなぎつてゐる。かれは「慶喜討つべし。」と叫び、これは「君側淸むべし。」といきまく。兩々相打ち相激して遂に砲火を交へ、しかも德川方がもろくも敗れたのである。たとへ、慶喜に不臣の心がなかつたとしても、朝敵の名をかうむるのは、けだし當然であつた。
 慶喜は、事のすこぶる重大なのを知つて、大阪から海路江戸へ歸つた。
 かれは、靜寛院宮に事の次第を申しあげて、切に天朝へおわびのお取り成しを願ひ、身は寛永寺の一院に閉ぢこもつて、ひたすらに謹愼の意を表した。

 靜寛院宮親子(ちかこ)内親王は、仁孝(にんかう)天皇の皇女、孝明天皇の御妹、明治天皇の御叔母(をば)君で、御幼名を和宮(かずのみや)と申しあげた。宮が、御兄孝明天皇の御心を安んじ奉り、國のため民のためには、水火の中をもいとはない御覺悟で、將軍家茂(いへもち)に嫁ぎたまうたのは、當時から七年前のことである。しかも、この御降嫁による公武一和の望みは、ほんの束の間の夢であつた。やがて長州征伐の大事が起つて、家茂はその陣中に薨(こう)じ、續いて杖柱とも頼みたまふ孝明天皇が崩御ましました。宮には、この兩三年、御涙の乾くひまもない御身であらせられた。

 慶喜叛逆(はんぎやく)の報がいち早く江戸に達した時、宮はさすがに御憤りをお感じになつたが、慶喜の言上するところを一々お聞きになるに及んで、事情止むを得なかつたかれの心中をあはれみたまうた。やさしい女性(によしやう)の御心に、熱火が點じられた。われ、かたじけなくも皇胤(くわういん)に生まれたとはいへ、ひとたび嫁しては德川の家を離れないのが女の道、德川の家は何とかして護らなければならない。そればかりか、追討の官軍がたちまち江戸表に押し寄せるとすれば、德川の恩義を思ふ舊臣たちが、おめおめと江戸城を明け渡すはずはない。その結果、江戸市中が兵火にかかれば、百萬の市民はどうなることか。德川の家を救ふことは、結局江戸百萬の市民を救ふことである──宮は、御心に深く決したまふところがあつた。
 一日、上﨟(じやうらふ)土御門藤(ふぢ)子は、宮の御文を奉持して、東海道を西へのぼつた。
 官軍は、今や潮のやうに東へ寄せて來る。德川の家は、まさに風前のともし火であつた。この間にも、主家の難を救はうと、朝廷へ寛大の御處置を請ひ奉る歎願書をたづさへた關東方の使者は、櫛の齒を引くやうに京都へ向かつたが、いづれも途中官軍に押さへられて、目的を達しない。無事京都に着くことのできたのは、宮の御使ひだけであつた。

 宮の御文は、實に言々血涙の御文章であつた。
「何とぞ私への御憐愍(ごれんびん)と思し召され、汚名をすすぎ、家名相立ち候やう、私身命に代へ願ひあげまゐらせ候。是非是非官軍さし向けられ、御取りつぶしに相成り候はば、私事も、當家滅亡を見つつ長らへ居り候も殘念に候まま、きつと覺悟致し候所存に候。私一命は惜しみ申さず候へども、朝敵とともに身命を捨て候事は、朝廷へ恐れ入り候事と、誠に心痛致し居り候。心中御憐察あらせられ、願ひの通り、家名のところ御憐愍あらせられ候はば、私は申すまでもなく、一門家僕(かぼく)の者ども、深く朝恩を仰ぎ候事と存じまゐらせ候。」
 德川を討たねば止まぬの硬論を持する朝臣たちも、この御文を拜見してひとしく泣いた。
 德川に對する朝議は、この時から一變した。それは全く義を立て、理を盡くし、情を述べて殘るところあらせられぬ宮の御文の力であつた。

 朝敵の汚名はすすがれ、德川の家名は斷絶を免れた。舊臣たちは、ほつと安堵(あんど)の胸をなでおろした。
 江戸城は、官軍方の西郷隆盛(さいがうたかもり)、德川方の勝安芳(かつやすよし)のわづか二回の會見で、しかも談笑のちに開城の約が成立した。
 江戸市民は、兵火を免れた。さうして、幸ひはただそれだけではなかつた。當時、歐米(おうべい)の強國は、ひそかにわが國をうかがつてゐたのである。現にフランスは德川方を應援し、イギリスは、薩長(さつちやう)を通じて官軍に好意を見せようとしてゐた。もし、日本が官軍と朝敵とに分れて、長く戰ふやうにでもなつたら、そのすきに乘じて、かれらは何をしたかもわからない。思へば、まことに危いことであつた。


Page Top | My Library Home