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大空のサムライ 坂井三郎

Wikipediaより

坂井 三郎(さかい さぶろう、1916年(大正5年)8月26日 - 2000年(平成12年)9月22日)は、大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員(パイロット)。太平洋戦争終戦時は海軍少尉、最終階級は海軍中尉。終戦までに大小多数の撃墜スコアを残す日本のエース・パイロットとして知られる。戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』は世界的ベストセラー。



【ガダルカナル島上空】
1942年(昭和17年)8月7日、ガダルカナル島上空にてアメリカ海軍のジェームズ・“パグ”・サザーランドのF4Fと交戦、これを撃墜。最近になって発見されたサザーランドの機体の残骸の銃跡すべてが当時の壮絶さを静かに物語っている。 そののちガダルカナル島の上空において、坂井はSBDドーントレスの編隊を「油断して直線飛行している」F4Fワイルドキャットの編隊と誤認して不用意に至近距離まで接近したため、坂井機は回避もままならないままSBDの7.62mm後部旋回連装機銃の集中砲火を浴びた。その内の一弾が坂井の頭部に命中、致命傷は免れたが右側頭部を挫傷し(そのため左腕が麻痺状態にあった)計器すら満足に見えないという重傷を負った。

坂井は被弾時のショックのため失神したが、海面に向けて急降下していた機体を半分無意識の状態で水平飛行に回復させている。一時は負傷の状態から帰還は無理と思い敵艦に体当たりを考えたが発見できず、帰還を決意した。まず止血を行い出血多量による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間に渡り操縦を続けてラバウルまでたどり着き、奇跡的な生還を果たした。

その後内地に帰還、横須賀海軍病院での長時間に及ぶ麻酔無しの手術により失明は免れたが、右目の視力をほぼ失い左も0.7にまで落ちた。同年10月飛行兵曹長に昇進。右目の視力を失ったことにより、搭乗員を辞めさせられそうになり、ラバウルより帰国して再編成中の251空(台南空を改称)に病院を脱走して駆けつけた。新しい司令には小園安名中佐が就任しており、事情を話したところ「坂井は片目でも若い者よりは使える」「おまえの空戦技術を若い搭乗員に教えてくれ」と言われ、ここに再び戦闘機の操縦桿を握ることとなった。1943年(昭和18年)2月豊橋航空隊で搭乗員として復帰後、やはり戦闘部隊の搭乗員としてはまだ十分に回復しているとは言えず、小園司令の「坂井はもうしばらく内地で若い者の面倒をみろ」との言葉で教官の任に就く、1943年(昭和18年)4月大村航空隊に異動、1944年(昭和19年)4月13日、横須賀海軍航空隊に配属された。

【硫黄島上空】

戦況の悪化、絶対国防圏の重要な一角であったサイパン島への米軍上陸を受け、海軍航空隊の総本山であった横須賀航空隊にもついに出撃命令が下り、1944年(昭和19年)6月22日、坂井を含めた零戦27機は、大村空で教官をしていた坂井を、横須賀空へ引っ張ってきた、ラバウルでの飛行隊長でもある中島正少佐の指揮下、硫黄島へ進出。ラバウル以来の久しぶりの戦地、右目の視力を失いつつも、最前線に戻ることとなった横須賀空の坂井は、硫黄島防衛に加え、マリアナ沖海戦に勝利したばかりで、マリアナ諸島沖に展開の米海軍機動部隊(第58任務部隊)を攻撃することも視野に入れつつ、三沢基地で練成中だった第252航空隊他と共に、零戦の他に艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星他も含めて急遽編成された「八幡空襲部隊」の傘下に入る。

坂井の硫黄島到着の2日後、まだ八幡空襲部隊が硫黄島に移動集結中であった6月24日早朝、先手を打って、米海軍第58任務部隊第1群のVF-1、VF-2、VF-50航空隊のグラマンF6F ヘルキャット戦闘機約70機が、空母ホーネット、空母ヨークタウン 、空母バターンを発艦して硫黄島に来襲。これをレーダー探知して、横須賀空の25機、そして252空と301空(戦闘601飛行隊)の32機、合計57機の戦闘機が6時20分に硫黄島上空に迎撃に上がる。梅雨前線の影響で高度4千メートル付近に厚い雲層が立ち込めるなか、迎撃機は雲上と雲下に分かれ、坂井を含めた雲下組は、離陸後、硫黄島西岸の雲下、高度3千メートルを急上昇中のところ、早くもこの時点で侵攻してきたF6Fヘルキャット戦闘機群に遭遇。坂井の属する雲下組は離陸の順番が遅かったことで、予定の高度をとれず、雲上組よりも不利な状況で、硫黄島防空戦に突入する。坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する。ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという以前の坂井にはあり得なかったようなミスで、敵戦闘機15機に包囲される。この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書「大空のサムライ」の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。

太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。坂井は体調不良のため、一時地上待機。7月4日に復帰した。

坂井の著書「大空のサムライ」の描写では、7月5日、横須賀空の残存兵力の全てとなった天山8機と零戦9機の合計17機のみで、米機動部隊、第58任務部隊の大艦隊に対し、白昼強襲をかけたとされている。戦闘機隊指揮官は、笹井中尉と海兵、飛行学生共に同期であった歴戦の山口定夫大尉、第二小隊長に坂井、第三小隊長は武藤金義飛曹長であった。 出撃前、横須賀空司令の三浦鑑三大佐より、「本日は絶対に空中戦闘を行ってはならない。雷撃機も魚雷を落としてはならない。戦闘機、雷撃機うって一丸となって全機、敵航空母艦の舷側に体当たりせよ。」との訓示がなされ、ここに実質的に日本海軍初の航空特攻命令が下されることになる。 攻撃隊は米側レーダーに捕捉され、敵艦隊に達する前に30機以上のF6Fヘルキャットに迎撃を受ける。命令にて零戦隊も空戦もできぬまま、天山は次々と大爆発を起こし、8機中7機までが瞬時に撃墜されてしまう。零戦隊自体も多勢に無勢で、山口大尉も含めて、零戦も5機までがここで撃墜されてしまう。撃墜を逃れたのは、命令に反して、反撃に転じた武藤飛曹長と坂井小隊3機の計4機のみであった。 坂井は反撃して、F6Fヘルキャット1機を撃墜するが、その間に武藤機ともはぐれた坂井小隊3機は、敵艦隊を引き続き捜索するが叶わず、坂井は硫黄島への帰還を決意する。ただ、片道を前提に、帰路は全く念頭に置いていなかった状況で、正確な現在地もつかめず、日没迫るなか、硫黄島への帰還は絶望的であったが、坂井の長年の勘で、日没後、奇跡的に硫黄島への帰還を果たす。結果的に坂井は、二番機で撃墜王の志賀正美一飛曹と三番機の白井勇二二飛曹の貴重な搭乗員の命も守ることとなる。坂井は暗闇の飛行場で、唯一撃墜を逃れた天山1機の誘導で先に帰還した武藤飛曹長と再会。生き残った4人で三浦大佐に報告に行くと、「御苦労だった。詳しくは明日聞こう」の一言。部屋は酒の匂いで満ちていたという。

しかし、横須賀航空隊の戦闘記録では、米機動部隊攻撃に発進したのは、最初の迎撃戦が行われた6月24日の午後とされており、編成も零戦23機、彗星艦爆3機、天山艦攻9機(内、横空零戦隊は9機)となっている。攻撃隊の総合被害は未帰還:零戦10機 天山艦攻7機(内、横空被害は未帰還零戦4機、天山艦攻7機)。坂井の著書で戦死したとされる山口大尉はこの攻撃では戦死していない。また坂井のF6F1機撃墜も、戦闘詳報ではF6F1機『撃破』とされている。 この攻撃の際、どのような指示がされたかは不明であるが、坂井の著書とは多くの点で違う事は事実である。 山口大尉が戦死したのは『7月4日』の第四次硫黄島上空邀撃戦であり、同日午後の米艦隊の艦砲射撃により残存機は全機破壊されている。7月5日に米機動部隊に攻撃した記録は無い。

硫黄島から帰還後の1944年(昭和19年)8月少尉に昇進。同年12月、最新鋭局地戦闘機「紫電改」を装備する第三四三航空隊(2代目。通称は『剣』部隊。以後、三四三空)戦闘七〇一飛行隊『維新隊』に異動となり、紫電改の操縦法などの指導に当たる。1945年(昭和20年)7月、再び横須賀航空隊勤務となり、そこで終戦を迎える。第三四三航空隊から横須賀航空隊への異動は、「空の宮本武蔵」の異名を取る撃墜王であり、友人でもあった横須賀航空隊の武藤金義少尉と交換という形であったが、その後武藤少尉が豊後水道上空の空戦において戦死したため、坂井は武藤少尉が自分の身代わりになって戦死したのではないかと終生気に病んでいた。

坂井には、僚機の被撃墜記録がない。これは簡単に達成できることではなく、同じく僚機被撃墜記録がないとされるドイツ空軍のエーリヒ・ハルトマンも1機撃墜(搭乗員は生還)されていた事実が判明したことから、第二次世界大戦の歴戦搭乗員の中でこれを成し遂げたのは判明している限りでは坂井だけである。

【坂井の戦術】
坂井は空中戦での必勝戦術は『敵よりも早く敵を発見し、有利な態勢から先制攻撃をしかけること』であり、これには視力が最も重要であることを繰り返し述べている。彼の視力の良さを象徴する言葉に「昼間に星が見えた」という。また空戦空域に入った際の見張り方を「前を2、後ろを9」の割合で索敵するとも言う(坂井は水平線より上を、同じく零戦エースの西沢広義は水平線より下の索敵を得意としていたらしい)。また、「100mを全力疾走しながら針の穴に糸を通すようなもの」と評したドッグファイト(巴戦)より一撃離脱の方が戦果が挙がるとしつつも、窮地に陥った時でも逆転できる「左捻り込み」の様な巴戦の技を持つことは、敵に対して精神的優位を保てると言う意味で重要であると述べている(そのような技を必要とする不利な状況に陥らないようにすることが更に重要とも述べているが)。また、零戦の「長大な航続力」を遠隔地の敵を攻撃でき、また燃料切れを気にせず空中戦に集中できる事から高く評価する一方で、戦争末期に沖縄に行く特攻機の護衛が出来なかったのを悔やんでいたらしく、最晩年のインタビューでは、航続距離が短い局地戦闘機の紫電改で直掩には懐疑的であった。しかし紫電改の防空力は零戦を凌駕しているとみとめている。ちなみに坂井三郎空戦記録の320ページに、「松山上空に日本に優秀な新鋭機が現れた」との米国側の報告書を引用する形で紹介し、紫電改を高く評価しており、評価は一定ではない。 加えて、「左捻り込み」をただの一度も実戦では使うことはなかった、という点でも坂井の空戦哲学の一部が垣間見える。戦後、P-40戦闘機を駆って一撃離脱に徹し零戦を撃墜した経験を持つアメリカ軍のエースが、(スコアでは坂井に及ばない事から)恥ずかしそうに彼に接したときには、機体性能のハンデを克服しその特性を最大限に生かして零戦に打ち勝った点を評価、最大の賞賛をもってアメリカ軍エースを称えたという。

飛行機を上手に操縦することが誇りであった彼の自慢は「ただの一度も飛行機を壊したことがないこと」、「自分の僚機(小隊の2・3番機)の搭乗員を戦死せしめなかったこと」であり、撃墜スコアではないことは彼の著作に何度も書き記されている。また低燃費航行にも長けており、最小燃費の最高記録保持者を自負していた(そのため、一番燃料を喰うと悪評の戦闘機を割り当てられ、フェリーさせられる羽目になった。しかしその悪評は、それまでの搭乗者の技量に原因があったもので、坂井はその機体で他の機体と変わらない立派な低燃費航行をして見せた)。

この坂井の撃墜技術は上記の技術や視力以前に「どんな手段であろうと敵機を撃破し、且つ生還し、また飛ぶ」と明快なもので「(空戦では)撃墜したら勝ちで、撃墜されたら負け」「挽回しようにも死んだら次が無い」といった当然の持論が撃墜王を撃墜王たらしめる所以と見られる。また搭乗機の特性や性能、能力を限界まで把握し(1000馬力は1000馬力しか出ない)、その範囲内で最大限戦うという至極当たり前の方法だった。

零戦の最大の武器は20mm機銃という一説があるが、坂井は「20mmは初速が遅く、ションベン弾」と低評価しており命中率が悪い上に携行弾数も7.7mmより少なく弾倉に被弾したら機が四散するほどの誘爆を起す危険を指摘している。しかし「敵機の翼付け根に一発でも命中すれば、翼が真っ二つになった」ともいい、その威力に関しては評価もしている。自身のスコアのほとんどは機首の7.7mm機銃でのものだったと語っている。 空戦に関しては「前縁いっぱいに一三ミリ砲の火を噴くアメリカ軍の戦闘機を羨ましく思った」と語る。

なお、特攻作戦については愚かな作戦と批判しており、「特攻で士気があがったと大本営は発表したが大嘘。『絶対死ぬ』作戦で士気があがるわけがなく、士気は大きく下がった」とインタビューに答えている。


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