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赤い戦闘機乗り

Wikipediaより

マンフレート・アルブレヒト・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェン(Manfred Albrecht Freiherr von Richthofen, 1892年5月2日 - 1918年4月21日)は、第一次世界大戦における帝政プロイセン陸軍の騎兵将校(航空士官)。第一次大戦参加各国で最高の撃墜機記録(80機撃墜、ほか未公認3)保持者。乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッドバロン」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれた。80機撃墜の翌日、フランスソンム川コルビエ近くで、英軍機を低空で追撃中にオーストラリア第53砲兵中隊の軽機銃に撃墜されて戦死 。



マンフレート・アルブレヒト・フライヘア・フォン・リヒトホーフェンは、第一次世界大戦における空中戦で前人未踏のスコアである80機撃墜(未公認2を除く)を達成した。 その紳士的な態度は天駆ける騎士と賞賛される。プロシア(ドイツ)では Der rote Kampfflieger (赤い戦闘機乗り)、敵国のフランスでは Le petit rouge (小さな赤)、Diable Rouge (赤い悪魔)と、イギリスでは Red Knight (赤い騎士)、あるいは Red Baron (赤い男爵)と呼ばれた。 数々の異名に「赤い」と付くのは、彼がエースとして両軍で名声を得た後、乗機全体を明るい赤で塗装したことによる。彼が全体赤色の機体を使用した期間は戦争後期の敗色濃い後半以降で、全ての乗機が赤色だったわけではない。

彼は、騎士道精神にあふれ、共同撃墜の場合は戦友に功名を譲るなど戦友愛をもち、ストイックで責任感が強く統率力にとんでいた。 身長はそれほど高くない(180センチ)が屈強な体格をもち、金髪を短く刈り上げたハンサムな彼は、ドイツ帝国きっての女性のあこがれの青年であった。 ゆっくりとした口調で語り、プライドが高く孤高を保った(しかし、戦友はそれをはにかみやの性格を隠す為のものであると考えていた)。 攻撃に熱中すると周囲の状況が全く見えなくなってしまうという大きな欠点があり、そのため幾度となく窮地に陥り、最後には致命的な結果を招いた。

彼の最初の公認記録は1916年9月17日、フランスのカンブレーピーリエー=プルシン上空で、ベルケに随伴して哨戒飛行中イギリス第11飛行中隊のモリス少尉とリーズ中尉のEF-2b型偵察機を単機で撃墜したことによる。 彼はこの戦果に大得意であった。ベルリンに住む宝飾職人の友人に、空中戦の日付と敵機の機種を刻んだ銀杯を発注する手紙を書いている(彼はこの習慣を、ドイツが経済封鎖され銀の供給が途絶えた頃まで続けており、銀杯の数は60個まで作ることができた)。しかし、彼の恩師といえるベルケは10月28日に40機撃墜の記録を残して僚機と空中衝突して戦死し、ベルケの飛行中隊の部下達も6週間のうちに6名が戦死、1名が負傷し、2名が神経症で搭乗割から消えていた。しかし、リヒトホーフェンはこの後も戦果をあげ続けた。 1916年11月23日にバポーム=アルベール上空で、マンフレートは当時のイギリス最高のエース、ラノー・ホーカー (Lanoe Hawker) 少佐のエアコー DH.2(デハビラント-2)と交戦、45分に及ぶ激闘の末に勝利して一躍有名になった。 彼は1917年1月までに16機を撃墜(他に1916年10月25日に英軍BE-12機の未公認撃墜1機)してプロイセン軍人最高のプール・ル・メリット勲章を受章した。

同月、彼はエリート・パイロットたちで編成される第11戦闘機中隊 (Jasta 11) の中隊長に任命された。この中隊は部隊の識別色として機体の配色に赤を採用したが、中でもリヒトホーフェンの乗機は全体が赤く、特に目立つ物であった。このことはドイツ国内のプロパガンダに使われ、敵にも「赤い戦闘機乗り」の名が知られるようになった。

1917年3月28日にティヨワで公認31機めとなる英軍ニューポール17戦闘機を撃墜した後の3月の末から4月の初め、5機編隊のリヒトホーフェン中隊は15機の英軍編隊を発見した。リヒトホーフェンは編隊から離れた敵機に対して攻撃すべく接近したが、射撃直前に敵弾が乗機エンジンと2個の燃料タンクに命中し、ガソリンを噴出しながら不時着した。危うく空中爆発の危機を乗り越えたリヒトホーフェンは、がむしゃら一方の突撃法に制動をかけた。はやりすぎることが自信過剰と不注意に繋がることを学んだが、ここ一番というときに防御が甘くなる欠点はこの後も完全には克服できなかった。初めての空戦での敗北であったが、それに恐れることもなく4月2日にはファルビュスで公認32機目の英軍のBE-2d複座機を早々に撃墜している。

1917年6月初めに、第1戦闘航空団 (Jagdgeschwader 1)指揮官に任命される。マンフレートは部下に空中戦理論を教えることで隊全体のスコアを上げている。そのため第1戦闘航空団は多くのエースを輩出し、連合軍から「フライング・サーカス」、「リヒトホーフェン・サーカス」と恐れられた。彼は自らの撃墜に関しては他の者が共同撃墜でその功績を単独で得ても「敵が撃墜されることに意義がある」として争わなかったが、部下の撃墜が他の者の功績となることに関しては「指揮官には自己へとは別の責任がある」として絶対に譲らなかった。

1917年7月6日リヒトホーフェンは戦闘中に撃墜確実の獲物として近接した英軍の廃棄寸前の旧式複座式FE-2から、同機機銃手ウッドブリッジ少尉による300mからの長距離射撃を受け、頭部に長さ10センチ以上の裂傷を負い不時着した。19日間の入院の後原隊復帰したが、部隊長は彼が未だ飛行任務に耐え得ないとして飛行中止を命じた。8月16日に命令を無視して復帰した後、同16日、26日および9月2日・3日に英軍機と交戦し4機を撃墜したが、基地に帰ると激しい頭痛とめまいや吐き気に襲われた。彼は今回の敗北では精神的にも大きく打撃を受け自信を喪失した。9月3日に自ら願い出て10月23日まで生まれ故郷へ帰休した。しかし、彼の母親によると、頭の傷は口が開いたままで、「息子が懐かしい家で休息をとりたいと願ったのは当然でした。しかし休めませんでした。」という。国民的な撃墜王が一人で過ごせる時間は少なかったのである。この負傷後、自信にあふれたリヒトホーフェンは影をひそめ、目下の者にも格式ばらなくなり、ひどく打ち解けた態度を示すようになったという。この撃墜時の不時着の時のことを語った彼のことばに「真の戦闘機パイロットは死ぬまで操縦桿から手を離しはしない」がある。

10月23日原隊に復帰した。しかし、彼が片腕と信頼した第11飛行中隊のクルト・ボルフ、第10飛行中隊のベルナー・フォスの二人の中隊長は戦死していた。11月23日と30日に英軍の単座機を撃墜し記録を公認63機とした。

【レッドバロン機の最後】

1918年4月21日、前日に2機の英軍戦闘機を撃墜して公式記録を80機としたリヒトホーフェンは、カピーの飛行場を僚機と共に飛び立った。 マンフレートのフォッカー Dr.Iは、第11飛行中隊と第5飛行中隊のアルバトロスD-V型機とフォッカーDr-I型三葉機との混成20機で飛行中、11機のソッピース キャメルで編成されたイギリス空軍第209戦闘機中隊に正面から遭遇しソンム川上空で空中戦となった。 当初リヒトホーフェンは、第5飛行中隊の先駆隊が空戦に突入したため、自機の位置から攻撃に参加せず周辺で旋回援護していた。しかし、上空に位置した第209戦闘機中隊の新人パイロットのウィルフリド・メイ (Wilfrid R. May) 中尉搭乗のキャメル機がドイツ軍僚機に攻撃をかけていたためこれを追撃。低空に逃げるメイ機を追いかけるうちに前線を越えて敵側領域に侵入してしまい、オーストラリア第14野砲旅団第53砲兵中隊のロバート・ブーイー射手による軽機銃の弾を胸と腹に受けて、同軍第11歩兵旅団司令部の陣地付近に不時着した。 リヒトホーフェンはオーストラリア軍兵士達が駆けつけたときには死亡していたが、胸からは未だ血が流れていた。また、遺品の財布の中には非常にチャーミングな少女の写真がはいっていたという。当時26歳、最終階級は大尉であった。

敵味方から最高のエースと賞賛された彼の戦死は連合軍の宣伝に利用され、葬儀の翌日写真や宣伝文がドイツ軍前線の背後にまかれた。撃墜当時は、死因となった胸と腹の貫通銃創を与えたのは、アーサー・ロイ・ブラウン (Arthur Roy Brown) 大尉機からの銃撃という報告があり、また空中戦の全てを観測できた者がいなかったことから、英空軍の士気を高めるために英軍機に撃墜されたと報じられた。


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