御神楽歌解釈



 

悪しきを払うてたすけたまえ 天理王命

というて二十一編唱える理は、人間には二十一悪しき節があるゆえに、それを取る為に二十一編唱える。

二十一の悪しき節の理

 二十一の悪しき節とは、根は八つ、枝が二十一、すなわち八つは、欲しい、惜しい、恨み、 腹立ち、可愛い、憎い、欲、高慢で、この心が二十一に使い分かれる。すなわち、 非道の欲しい、出し惜しみ、身惜しみ、骨惜しみ、恨み、嫉み、悋気、嫉妬、癇癪、かんてき、我が身と人の隔て、我が子と人の子の隔て、悪口、中ごと、笑い、謗り、強欲、じゅう欲、自慢、我慢、高慢と分かれる。

(ほしい)

(一) 非道の欲しいとは、我が身で丹精を尽くしてまとめずして身を怠り、あれが欲しい、これが欲しいと思い、人の眼をかすめたりくらましたり、天の眼をかすめたりくらましたりする心を、ひどうのほしいと云うなり。

(おしい)

(二) 出し惜しみとは、人から物を貰い、身分相応なる礼すべきものを礼せず、また、借りて返す時に、惜しみたり、返さざるが如き心を、だしおしみと云うなり。

(三) 身惜しみとは、我が身ですべきことを言葉で人を使う心を、みおしみと云うなり。

(四) 骨惜しみとは、我が骨折ってすべきことを人に骨折らし、例えば、一人当たり六分ずつなすべきことを、我が身は三つ位して、後の三つを人にさすが如き心づかいを、ほねおしみと云うなり。

(うらみ)

(五) 恨みとは、金銭、縁談、無理非道にて、総て繋ぎを切り、恨まれることを、うらみと云う。

(六) 嫉みとは、人の出世、勉強、繁盛することを忌々しい(いまいましい)と思い、また、人のよきことをよいと思わざる心を、そねみと云う。

(七) 悋気とは、男女互いに色情のことを疑う如き心を、りんきと云うなり。

(八) 嫉妬とは、多くは妻、妾の間に起こる心にて、人と互いにねたみ合うことを、しっとと云うなり。

(はらだち)

(九) 癇癪とは、すべての身上[目上]の者に腹を立てることで、その場にてはさほど無く、蔭で怒る心を、かんしゃくと云うなり。

(十) かんてきとは、すべて身下の者に表で怒ることで、妻、子、弟、妹、また召使い等の者に腹を立てる心を、かんてきと云う。

(可愛い)

(十一) 我が身と人の隔てとは、我が身ほど可愛いものはない。それ程に可愛いものなれば、人の身も同じく思えば良いなれど、それ程には思わず、例えば、美味しい物は我が身が食べ、まずい物は、人に食わそうとするが如き心を云うなり。

(十二) 我が子と人の子の隔てとは、我が子ほど可愛い者はない、人の心は誰も同じことなり。然るにそれを思わず、人の子の理を理と思わず、我が子の非を理と思い、例えば、我が子と人の子と一緒にいる所にて、人の子に隠して、我が子に物を与える如き心を隔てと云うなり。

(にくい)

(十三) 悪口とは、人に対して悪い所を知りて云わず、その人のいない所で、他の人に聞かすが如きことを、わるくちと云うなり。

(十四) 中ごと[仲言]とは、ある一人に人の悪しきことを聞き、その云われたる人に我が身が気にいられる為に、告げるが如きことを、なかごとと云うなり。

(十五) 笑いとは、人のやり損ないや、し損ない、人の失策の穴を見たり聞いたりして、気の毒やな、不敏やなと思わず、かえっておかしがる心を、わらいと云うなり。

(十六) 謗りとは、我が身に関係無きことでも人の欠点、人の失策の穴を探して、人と話し合うことを、そしりと云うなり。

(よく)

(十七) 強欲とは、人間は衣食住の三つの苦と、義理応報と云うこの四つの苦は、当然のことにて成さねばならぬことなり。なれども何ぼ足りても足ることを知らず、我さえ良くば人はどうでも倒れても構わん、我が身に付けようと、取り込むことを、ごうよくと云うなり。

(十八) じゅう欲[重欲]とは、例えば、人に払うべき金銭、やるべき金銭を払わずして、その金で人に金を貸し、その利子を我が身に取るが如きことを、じゅうよくと云うなり。

(こうまん)

(十九) 自慢とは、我が身が人に偉い者や達者な者と思わす為に、我のしてきたことの中で手柄らしきことをならべ、それに上手なる嘘を交えて、偉そうな顔をするが如き心を、じまんと云うなり。

(二十) 我慢とは、我が身を強い者や達者な者やと思わそう、見せようとの心で、無理に気張ることを、がまんと云う。例えば、人に対する話しの中に、我の六分を十分にする為に強情張るが如き心を、がまんと云うなり。

(二十一) 高慢とは、人を抑えて我が身が登ろうとし、知らぬことを知ったように見せたり、身分相応ならざる美服をまとうたり、人が丁寧に頭を下げてくれるのに我が身を誇りて、頭を下げざるが如き心を、こうまんと云うなり。

 人間たるもの以上、二十一の悪しき節無き者は無しなれど、親神様の大恩を奉ずるには、是非、払うべきものなり。この節を慎みたるを、誠の信心と云うなり。この二十一の悪しき埃にて前世より、今世へ生まれて、いかなる不幸せも、一心の置き所無き者も、不具な者も、かたわも、一人身も、産まず女も、難儀も、不自由も皆我が心にて、元々誠の良き魂に埃を染め込ましたるゆえなり。

 

一寸話し神の云ふこと聞いてくれ 悪しきのことは云はんでな
この世の地と天とをかたどりて 夫婦を拵へ来たるでな
これはこの世の始め出し 南無天理王命 
よおしよし

 この理は一寸のことではない、本元の理なり。地と天とを象りて、夫婦を拵え、その上、世界を拵えたと云うことを承知せねば、道が分らん。天地の心で出来た人間世界なら、天地、すなわちおやの懐に住まいする人間は、何ごとも我が身勝手の心が叶う道理は無し。月日二柱の心に叶う心一つで、何叶わんと云うことなし。思うままに自由用自在なるのは、この元一つの理さえ聞き分けすれば、よろずのことは神が守護するとの心を、よおしよしと云うなり。

 

悪しきを払うてたすけ急き込む 一れつ澄まして甘露台

 一れつ澄まして甘露台と九編唱える理は、人間は九つの道具の借り物ゆえ、その借り物の理が心に解るようにつとめをするなり。また、甘露台と云うのは、人間始めた時のおやの地場に頼むことを云うなり。

 九つの道具は目、耳、鼻、口、手、腕、胴体、足、男女一の道具の九つなり。人間は九つの穴あり。目に二つ、耳に二つ、鼻に二つ、尻に一つ、臍(へそ)に一つ、男、女一の道具一つで九つなり。九つの道具に心を一つ添えて、十分の働き出来るのは、十柱の神様の守護なり。九つの道具に一つ一つ楽しみを添えて貸してある。人間はこれを知らず、心の気ままから余計な方へ欲の手を延ばし、罪をつくり、悩む者は数知れず、罪、埃、悪戯、九つの道具の悪しきを払うて、九つの道具をもって人の悪しきをたすけることを急き込む。世界の人間この理が解って、悪しきを払えば助かる。その人間の心が澄むことを神様が急いておられることを、「悪しきを払うてたすけ急き込む、一れつ澄まして甘露台」と云うなり。

 

よろずよ八首の理(八方八柱神の理)

よろず世の世界一れつ見晴らせど 胸の解りた者はない

 くにとこたちの命様が、先にお出ましになりて、この世の人間を拵え下されてから、この世をお見澄ましなされて、拵えたる人間は、六台の根を知っている者はないことを、胸の解りた者はないと云うことなり。六台の根と云うは、人間元始まりの六台で、月、日、いざなぎ、いざなみ、月よみ、くにさづちの六台で、この六台により、人間をお造りになられた。

そのはずや説いて聞かしたことはない 知らぬが無理ではないわいな

 おもたりの命様が、お出ましになりて、くにとこたちの命様が、六台の根を知りている者はないと申されたことを、おもたりの命様が、それは知らぬこと、云うて聞かしたことも、説いて聞かしたこともない、知らぬが無理ではないと、仰せられしなり。

この度は神が表へ現れて 何か委細を説き聞かす

 これからは、神が現れて、どんなことでも、こんなことでも、説き聞かすと、くにさづちの命様が申されしことを云うなり。

このところ大和の地場の神方と 云うていれども元知らぬ

 大和地方を他国からは、かみがたと云うているが、なんで云うのやら元は知ろうまいと、月よみの命様が申されしことを云うなり。

この元を詳しく聞いたことならば いかな者でも恋しなる

 この世始めて無い世界、無い人間を拵えた本元の理を聞いたことならば、どんな者でも恋しなるでと、くもよみの命様が申されしことを云うなり。

聞きたくば尋ね来るなら云うて聞かす よろず委細の元なるを

 神の道について、この成り立ちの元々を聞きたいと思う者は、尋ね来るなら、よろず委細の元の因縁を聞かしてやろうと、かしこねの命様の御言葉であるなり。

神が出て何か委細を説くならば 世界一れつ勇むなり

 神の道について 尋ね来る者には、元始まりの話しを 詳しく、細かに説き聞かしたなら、世界一れつは勇むであろうと、たいしょく天の命様が仰せになられた。

一れつに早くたすけを急ぐから 世界の心も勇めかけ

 たすけの道を早く教えたいから、世界中の心、早く勇んで来いと、おおとのべの命様が申されし御言葉なり。

南無天理王命 よおしよし

 

一下り目

一つ 正月こえの授けは やれ珍しい

 正月とは、この世人間を月様が正しき御心にて、始め下されたゆえ、年の初めを正月というて、今も祝うておるなり。鏡と云うのは、月日二柱の御身の輝くことを鏡と云うなり。また、餅のお鏡も月日二柱の御身の輝く理にて、鏡と云う天地の理、まるきり、正しき理なり。ゆえに、夫婦心丸く柔らかにして、仲良く揃うて暮らす心を供えるなり。

 しめなわの理は、七五三なり。その七は天神七代の理なり、五は五倫五体の理、三は産で人間産み広めた理なり。祝いをする時の人重ねもちは、人間に月日入込んで守護下さる理。また、三日の祝いと云うのは、火と水と風の理なり。

 食べる時の豆腐は、白い心で四方正面に誠の心を柔らかに移す心なり。また、食べる時の数の子を使うのは、元みい様が九億九万九千九百九十九人の子数を腹にお持ち下された理を象りて、数の子を使うなり。

 五日は五倫五体の理。六日年越しと云うのは、六台始まりの理。七日七草節句と云うのは、天神七代の理。十一日事始と云うのは、大和国に人間を産み広めた日数の理。十四日年越しと云うのは、人間十五歳から大人なり、それで十四歳は子供の終わりごと、月様も十五日は満月。あずきの粥を炊いてよばれるは、月日の心なり。元人間泥海の中より生まれ上がりた理にて、小豆の粥をよばれるなり。

 正月元日より十五日までの祝いと云うのは、元始まりの理を忘れぬ為、神が人間に教えてくだされ、今に形を行うものなり。

 こえの授けと云うのは心の声なり、心通りの授けが出る。世界を思案して見よ。人をくらませばくらまし理が出る。うそを云えば人の用いがないようになる理が出る。善きことなれば人より用いられる理が出る。正しきは正しき理が出る。悪いことをすればその理が出る。何ごとも善し悪し共天の与えを天より受けること、心通りの授けは免れぬことを声の授けという。

 珍しいと云うのは、善悪ともに皆目の先につらつらと世上の鏡に現れることを、珍しいと云うなり。

二いに にっこり授け貰ろたら やれ頼もしや

 にっこりとは、月日二柱のお心に適う所の理をにっこりと云うなり。

三に さんざい心を定め

 散在心は、陽気の心なり。ようき心とは、足ることをしりたる心なり。足ることを知るは、陽気の元なり。いかほど物がたくさんでも、欲にきりがなくば気がいずむものなり。身は、借りものであると、心定めたならば、いつも心は陽気なものなり。その心さえ定めたならば、身の悩みはさらになし。埃を付けて悩むのも、皆足ることを知らぬゆえなり。

四つ よのなか

 世界四方正面の鏡の中で、陽気住まいする人間なれば、陽気心で暮らすのは月日親神の元々お定めの理なり。道なり。この月日親神の理と天の理の道とに適えば、身の悩みはなし、作物にも不作なしと云うことを、四つ世の中と云うなり。

五つ 理をふく

 人間五体というのは、水気、温み、皮つなぎ、骨つっぱり、飲み食い出入りの守護下さる五柱の神の体を云うなり。五柱の神の体を五輪五体というなり。君に忠、親に孝心、夫婦和合、兄弟仲良く睦びあい、人と人との助け合い、五倫の道を守る人と守らぬ人がある。守らぬ者には、守らぬ理が吹く、守る者には、守る理が吹く。その心一つの理は、身の内にも、世界にも心通り五柱の神の守護の理が現れてくることを、理をふくと云うなり。

六つ むしょうにでけまわす

 人間は六台の神の借りもの、世界はろっくの世界なり。天地はろっくの守護なれば、我の勝手心で行く道はなし。ろっくの守護なれば、我が心もろっくにして、借りもの六台とろっくの守護と、この三つの理を忘れぬよう、人を隔てぬよう、近道も、欲も、高慢も無きように我が心はいつもろっくにして、ろっくの道にはずれんようにすれば、六台の借りもの何叶わんということなし。この理をむしょうに出けまわすと云うなり。

七つ 何かにつくりとるなら

 なにの「な」は月様のことなり。また、なにの「に」は日様のことなり。月日は元の親なり。この親神様が、ない人間、ない世界をお造り下されたゆえ、また、この人間に堪能をさしたいゆえ、食物としての立毛一切、また、魚類にいたるまで皆人間の食べ物にお与え下されて、また、その他に花の類も、虫の類も皆人間の為、元々お造り下されていて、今に変わらず守護下さることなり。

 人間もこの恩を忘れずして、元始まりの人間の心となり、正しき心を離さねば、親神様のそのお育て下さる者を何によらずお与え下さることを、何かにつくりとるならと云うなり。

八つ やまとは豊年や

 やまととは地に云えば、日本のことなり。また、大きく云えば世界のことなり。世界をやまとと云う理は、八方の神のことなり。大和と云うのは、八柱の神の土地なり。それゆえに大和という。また、豊年と云うのは、善きことをすれば善きことが増える。悪しきことすれば悪しきことが増える。よって善悪共にこの理を、ほうねんと云うなり

九つ ここまでついて来い

 九は急所なり。九つの道具、九つの穴大切なり。この理聞き所なり。この理心に定めてついて来い、どうせいこうせいと云わん。皆銘々の心を定めてついて来いとのお話しを、九つ、ここまでついて来いと云うなり。

十ど とりめが定まりた

 悪しきは悪しきの道が幾重にもある。良き道は何ぼでもなお、定めて十分通りぬけたら、我が身はおろか、親、兄弟、夫婦、親類まで顔を良くして、十方へ名を広めることをとりめと云う。

 また、十柱の神様のお心に十分叶うように心を定めれば、よろずのこと何叶わんと云うことなし。また、世界中に十分叶うように心を定めれば、よろずのことなに叶わんと云うことなし。世界中に十分誠の理光ることは、当然なり。この親神の自由用自在の理を受けることを、とりめが定まりたと云うなり。

 

二下り目

とんとんとんと正月踊り始めは やれおもしろい

 とんとんとんとは、穏やかに栄える心なり。正月とは、正しきことをくるめ給う心なり。踊ると云うはのは、栄える栄えると云う心なり。

 おもしろいと云う心はどういうことなら、面白いと云うのは月日二柱の親神様のことなり。その親神様が正しき守護下さるお心を、おもしろいと云うなり。

二つ ふしぎなふしんかかれば やれにぎわしや

 不思議とは、二柱の神様の正しき理を不思議と云うなり。また、ふしんと云うのは、人間は神の子なら、その世界中の人間の心を、神の心と変わらぬように洗うてふき取ることを、ふしんと云うなり。その普請仕上げた所、神が十分入込んで自由用自在の働きをして、十分世界のたすけして、我が身も結構な守護を受けて暮らそうとの、この二つのことをにぎわしと云うなり。

三つ みにつく

 人間には、火と水と風とが三つ身につく。その他に身に付くものは何なれば、何ほど物がたくさんあろうとも、日々に食うて、着ることだけより身につかん。この心を定めて、これまでの強欲、悪戯の心を無きようにして、正しき日々の暮らしの心を定め守るなら、火と水と風とがいつも身に付くことを、三つみにつく、と云うなり。

四つ よなおり

 よと云う理は、この世は元よるから始めた世界なり。また、よは良きことなり。よき心を定めれば、その心を天地が受け取り、よき守護下さることを、よなおりと云うなり。

五つ いずれも つき来るならば

 五つと云う理は、人間の五輪五体は五柱の神様がお造り下されたことを、五つと云うなり。人間が皆正しき心になることを、いずれもと云うなり。この心につき来るならば、そのつき来る人は皆自分の心通りに、神が守護下さることを云うなり。

六つ むほんの根をきろう

 六つとは、六台の神がお積もり下さる心なり。六台なれば、何によらず世界はろっくに心を尽くすのがほんみちなり。本道はおおかん(往環)なり。

 むほんと云う理は六台の理を知らず、ろっくの道に外れる心の働きを皆むほんと云う。この根を切りて、おお(大)かんの心を定めていれば、謀反の根は切れる。また、親神様も謀反の根を切ると云われるのは、皆これ人間は神の借り物、身の内は、神の自由用なれば、死ぬも、生きるも神の心次第。なれば、患い、不時災難、逆さま事、地震、大風、凶作もなく、また、身体も世界も穏やかに暮らす、また、暮らさそうとの心を、謀反の根を切ろうとのことなり。

七つ 難渋をすくいあぐれば

 なんじゅうとは、難渋を助けるだけでは無し、何につけても真実誠の心を尽くすことを云うなり。また、人の難を我が身に引き受けて救い上げれば、皆、我が身の難を逃れると云うことなり。

八つ 病の根をきろう

 世界は八柱の神の守護なれば、その八柱の神様が間の抜けぬように十分の守護下さることを、第一に定めて日々を送れば、病というのは無し、八つの埃は無いものなり、病の根は抜ける通りなり。その抜けることを、病の根を切ろうと云うなり。

九つ 心を定めいようなら

 この道の理を聞いて、心を定めて、ここまでついて来た心を忘れぬように。ものごとは何によらず、十のもの九つまで仕上げても、一つ崩れれば理を失う。人間も心定めるには十日の日、九日まで定めても、一日狂うたら九日の理を失う。また、三十日は二十九日まで定めても、一日狂うたら二十九日の理を失う。この理を変わらぬように定めいようならと云う理なり。

十で ところの治まりや

 この理は、十方十柱の神様の心が治まるなら、人間身の内も治まる。世界も治まる。それで、所の治まりやと云う理なり。また、正月一に息、二ににたもの、三に散在手踊り、四にしっくり助け方、おやの息を掛けてくだされ、育てた時のさずけなり。

 一にいきとは、お息のさずけのことなり。このお息の授けは、元子種を泥海地場へ産み降ろし下された時の食物(じきもつ)なり。

 二ににたものとは、じきもつの授け。この食もつ、よろずの食べ物の理を一つにつづめて、食もつと授け下さることなり。

 三に散在手踊りとは、元無い人間を拵えようと、親神様の思いつかれた時の理を下さることなり。

 四にしっくり助け方とは、人の患いも、不時災難も、どんな難も我が身に引き比べて誠を尽くすことを云うなり。

 五ついつもの話し方とは、親神の教え通りを守り、どんな者でも見分けをせぬようにして、真実に思うて、悩むことに懺悔さす心の者を云うなり。

 六つ むごい言葉を出さぬようとは、人は皆兄弟との心を定めて、あくまで育てて、捨てる心もなし、捨て言葉も云わず、誠の心を離れぬ心を云うなり。

 七つ 何かの助け合いとは、何助けだけではない、互い互いの身の助け合いを心に第一と定めることを助け合いと云うなり。

 八つ やしきのしまり方とは、我が家を睦まじく治めて、親類も治めて、世界をどこまでも敵も無いように、また、隔てもないように心を尽くす人を云うなり。

 九つ ここでいつまでもとは、この心をいつまでも離さぬように定めて、ついて来る人の心を云うなり。

 十で ところの治め方とは、これまで通り十分に何ごとも外れぬように心を定めている者は、ところの治まりと云うなり。この人を一本の柱と云うなり。

 

三下り目

一つ ひのもとしょやしきの つとめの場所は世の元や

 ひのもとと云う言葉はどう云う理ならば、人間も世界も無い時には、日々と云うこともないものなり。

 人間も出来、世界も出来てから、日々と云うことが改まりたゆえ、この理をもって日様と云う。また、初八敷[庄屋敷、生屋敷]と云うのは、人間を始め、世界を始めた理で初八敷[庄屋敷、生屋敷]と云う。

 勤め場所と云うのは、何ごとによらず、人間の道を守るにつき、学ぶことを云う。また、この度つとめするのも、無い人間、無い世界を拵えた学びの形をこの地場ですることなり。皆この通り始め出すことを、この世の元と云うなり。

二つ 不思議なつとめ場所は たれに頼みはかけねども

 この不思議と云うのは、月日二柱の神の理を不思議と云うなり。また、つとめと云うのは、何のことなら、皆因縁の切れることを、「つ」と云うなり。切れるには、どうして切れることなら、この世は実の世なり。その実の世でありながら、万事のことに誠が無くて、嘘を云うたり、追従云うたり、高慢したり、人に高低あるように見下げたりするから、人にも嫌われ、交際無く、見捨てられる理が生える。この理を切れると云う。この切れることを、「つ」と云うなり。

 これを止めると云うのは、何ごとにも、人も我が身も隔てなく、内も世界も隔てなしの心を定めて日々送れば、皆世界より、誠が集まる。この理で、「つ止める」と云うなり。これ止めるのはこの地場で、この度話しを聞いて、その理を感じて、互い互い助け合いの心を忘れぬように心を定めさして下さるゆえ、誰に頼みはかけねどもと云うなり。

三つ 皆世界が寄り合うて 出け立ち来たるがこれ不思議

 皆と云うのは、世上で云うていながら、その言葉の元が解らん。皆の「み」は、どう云うことなら、世界中の人間は、元みい様から産み広められた理。また、皆の「な」は、くにとこたちの命様で、国どころは残らずこの神様のものなり。この理をもって、「みな」と云うなり。また、世界が寄りようてと云う理は、皆この親神様の守護でお寄せ下さることを云うなり。

 また、でけたち来たると云うのは、その寄り来る人に誠前生の理を定める人が出けるのを、月日二柱の神様より出けて来ることを、不思議と云うなり。

四つ ようようここまでついて来た 実の助けはこれからや

 この世は、世を照らす月様が初め夜から始めた理で、このよと云う。この理をもってようようと云う。また、ついて来たと云うのは、良い心を忘れずして、日々何でもと思うて楽しむ心を云うなり。

 実の助けはこれからやと云うのは、これまでの助けはただ結構と思うだけで、助けて貰うたのは、においがけのことなり。実と云うのは、心違いの懺悔をした上で、助けを貰うことをこれからやと云うなり。

五つ いつも笑われそしられて 珍し助けをする程に

 元、おやさまが、内の者にも謗られ、疑われて、世界の人に笑われ、謗られて、助けを教えて下されたことと、また、銘々も笑われ、そしられすることをいとわず助けをするならば、その心に乗りておや神様が、十分の守護を下さるとのお言葉なり。

 珍し助けと云うのは、これまでは、話し一助で助かることは無い。この度初めてのことであるから、珍しいと云うなり。

六つ 無理な願いはしてくれな ひとすじごころに成りて来い

 人間はあざないもので、長生きがしたい、豆で暮らしたい、年々豊作をとらして貰いたい。また、商売繁盛、不自由災難も無きよう、我が子も死なぬようにと願うことを、無理な願いと思う心は皆違うでな。我が子に取りて思案してみよ。わが子に難儀さそう、困らそうと思う親はあるまい。無理な願いと云うのはどう云うことなら、人はどうでも我がさえ良くばよいと思う心で願うことで、その心を無きようにして願うことを、一筋心と云うなり。

七つ 何でもこれから一筋に 神にもたれていきまする

 ただ何ごとも近道も、欲も高慢無きよう、人を隔てる心も無きようにして、十分たんのうの心を定めて、先の思案もなし、身の内の借りものも第一に忘れぬようにして、人間の勝手心を頼りにせぬ心を、一筋心と云う。この心で神にもたれよと云うなり。

八つ 病むほどつらいことは無い わしもこれからひのきしん

 病むと云うても病む元は知ろうまい。病むと云うのは、八方八柱の神様を無にすることなり。この神様を無にする元と云うのは、八つの埃が積もり重なるゆえ、神を無にする。その理が増えて、身の内へ守護下さる道具衆の神様から意見を受けて、身の苦しむことを人間にしては病むと云う。これほど辛いことはあるまい。心違いの無いようにして、八つの埃が積もらぬように心を定めて、日々陽気で暮らすことを、誠に日の寄進と云うなり。

九つ ここまで信心したけれど 元の神とは知らなんだ

 ここまで信心するまでは、我が身の内を守護下さる神とも、また、世界中の守護も、皆このおや神様の守護より他に無いことを知らずにこれまで暮らしていたことを、元の神とは知らなんだと云うなり。

十ど この度現れた 実の神には相違ない

 じつは正なり、正は正しきことなり、正しきは誠なり、誠はよろずの元なり、よろずの元は天理なり。その理解りて、現れたことを、実の神には相違ないと云うなり。

 

四下り目

一つ 人が何ごと云おうとも 神が見ている気をしずめ

 何ごと云おうとも、聞こうとも、見ようとも必ず天理の心を外さぬように、心を第一に治めているのが誠。神が見ていると云うのは、世上世界を眺めて見よ、誠はまことだけ、嘘はうそだけ、悪はあくだけ、良きはよきだけ、その人の心通りに理がある。親の眼に確かに見えてある程に。親の目に見落としは、善悪共にあると思うなよ。この理をもって見ている、気を鎮めと云うなり。

二つ ふたりの心を治めいよ 何かのこともあらわれる

 二人の心を治めいよと云うのは、月日二柱の心に叶う心を治めることなり。何につけてもよろずのことが皆現れると云うのは、そのはずのこと、いか程汚れたものでも水で洗えば、元の正体が速やかに解るであろう。人間も心を水で洗われると云うのは、月様はくにとこたちの命様なり、その神様は国の親神なり、水の神様なり、それゆえ、国床を見定め下さるゆえに、あらわれるは当然の理なり。この理によりて、何かのことも現れると云うなり。

三つ 皆見ていよそばな者 神のすること成すことを

 この理は近所隣の人ばかりやない、世界中のことなり。世界中は皆、月日のそばと云うのは、双方くるめてのことをそばと云うなり。神のすること成すことと云うのは、どう云うことならば、何ごとによらず思案してみよ。ものを造るにも目に見えぬのに生え出る、伸びる、花が咲く、実がのる、実が入る、赤らむ。人間もどうせいでも、でけると云うのは、宿る、産み降ろす、成人するとも同じことと云う。また、どうせいでも病むのも、死ぬのも、人間心でも、知恵でも、学問でも行こまい。世界も同じこと、どうせいでも寒くなる、暑くなる、風が吹く、雨が降る、夜昼の区別あるもの皆人間の業ではなし。これらのことを見ていよそばな者、神のすること成すことをと云うなり。

四つ よるひるどんちゃんつとめする そばもやかましうたてかろ

 夜昼と云うのは月日のことなり。夜でも、昼でも身の悩みにはつとめする。また、造りものにも、虫払いのつとめ、はえでのつとめ、みのりのつとめ。また、厄難よけのつとめ、疱瘡せんようのつとめも皆それぞれの理がある。その理を知らぬ者は喧しい、うたてい、おかしかろう、人の笑いは神が楽しむ。よろず勤め通りの守護をすると云うことなり。

五つ いつも助けがせくからに 早くようきになりてこい

 ようきと云うのはどう云うことなら、たんのう心をしることなり。たんのう心を知るには、たることを知るなり。足ることを知るには、ただ身の内の借り物を知るなり。身の内の借りものを知れば、何ぼ大きな身代でも皆借りものなり。また、いか程偉い者でも、見るに見られん難渋な者でも同じ兄弟。実の兄弟なれば捨てておくことがでけまい。かわいそうな、気の毒やと思う心だけでも月日は厚く受取るとの御言葉。ただこの心を定めて日々暮らすが第一の心。この心を早く定めて、そのまま直ぐに助けたいとのことなり。

六つ むらかた早くにたすけたい なれど心がわからいで

 この村方とは、一に地場の村方のことなり。このおや神様を違うと思うているゆえ、同じ人間心のように思うている。それゆえ、それだけの理がないと云うことなり。また、二つには世界中の村々の方もその通り。疑い心があるゆえに自由用自在の理がない。また、三つには銘々の身の内も同じこと、心は揃わぬ、それゆえに夫婦の仲でも、親子の中でも兄弟も皆銘々の心違って、その心通りの守護あるゆえに、皆それぞれに理が違う。

 また、助かる者と助からぬもの、幸せの良き者と悪しき者もみな心通りの守護によるもの。この理は皆心が解らん。この二つの理なり。

七つ なにかよろずの助け合い 胸の内より思案せよ

 互い互いの助け合いは、人にない物を与えるもの助け、人の出来ぬことをしてやるのも助け、人の難を我が身に引き受けて誠を尽くすもの助け。また、我が身のことを忘れ、人や世界の為を思うのも助け。皆この世は陰・陽なり。持つ、凭れ(もたれ)と云う心を第一に、胸の内より思案せよと云うなり。

八つ やまいのすっきり根はぬける 心は段々勇み来る

 八つの埃を神の攻めきりの理で取ればすっきり抜ける。何かよろずの助け合い、聞いた通りの心を万事定めれば、八方八柱の神の意見を受けるに及ばぬ理になる。この理を病のすっきり根は抜けると云う。

 また、互いの助け合いの心を第一と定めていれば、身の悩みはなし、不時災難も無し、無いことでも自由用自在も皆叶うことを、心は段々勇み来ると云うことなり。

九つ ここはこの世のごくらくや わしもはやばや参りたい

 ここはこの世の極楽やという理は、この地場のことを云う。この地場を極楽と云う。この理は元なり。この理を聞いて助かるなり。この理を聞いて、二柱の親神の十分な守護を受けるなり。

 また、この世の人間は月日御苦労、九から始まり九のせかい。人間を九のどうと云うのは、九つの道具の借りものゆえ、九のどうと云う。また、人間はさんで産み広まり、火水風三つ、衣食住三つにて、命を繋ぐ。人間は心と口と行いと三つで、三三が九と云う。この九をつとめるのを人間の務めとす。そして、その理で、十分幸いな思い通りの守護を受ける。この三つを合わせてこの世の極楽と云う。

 わしも早々参りたいと云う理は、この話しを聞きたい、聞いてその心を澄ましたい、澄まして幸いを受けたいとの言葉なり。

十ど この度胸の内 澄みきりましたがありがたい

 この教えを聞かせて貰うて、心を澄ましたゆえ、むねの内の掃除がすきやかに出来て、何ごともありがたいということなり。

 

五下り目

一つ ひろい世界のうちなれば 助けるところがままあろう

 身の悩みには、医者薬も助ける所、拝み、祈祷も助ける所。また、呪いも皆助ける所、諸神諸菩薩の参り所も助ける所なり。その数ある内に誠の助ける所は、この所よりなし。この証拠と云うのは、産屋、疱瘡の許し出す。これは、この世の人間始めたる証拠の道明らかにして、助け道明け下されることを云うなり。

二つ 不思議な助けはこの所 おびやほうその許し出す

 おびやは元より、疱瘡の助けは第一不思議なり。この元の大層なことが助かるなら、おびや、疱瘡の許し下される理を思案して、実の親神様や、親里やと真実思うことなら、親の諭しを疑い無しに心に行いを付けて、日々を陽きに定めれば、身の内一助は心次第に何叶わんと云うことなし。この悟りの付く者は、第一神様の自由用あるなり。

三つ みずと神とは同じこと 心のよごれをあらいきる

 水は神なり、神は水なり、水は素直なものなり。水は素直なれば、神は素直なものなり。素直でも十分の徳がある。その人間は神の子なら、人間はまた、その神に勝れた素直でなければ、自由用叶うはずなし。

 人間はあざないもので神の子でありながら、神の心に従わずして神を下目に見、より勝りた心をもち、我が身が欲しいままに、近道、欲、高慢、悪気、強欲の心を先に立てて、親の水にならぬゆえ、親の守護あるはずはなし。この理を思案して、神と水との心にまかれる者は直ぐと守護下さる。素直な水と神とでこの度攻めきることを、心の汚れを洗いきると云うなり。

四つ 欲のない者なけれども 神の前には欲はない

 この欲と云うのは何だけではない。欲しいも欲、惜しいもよく、隔ても欲、嘘、追従もよく、高慢も欲、恨みも欲、日々に心の変るのもよく、案じ心も、先の思案も世苦なり。人間は皆月日二柱の心のさいぶつ(才物、細工物)なり。月日にはただひとすじに世界を育てたい心ばかりなり。人間もその心なれば、ふた親の心に叶うものなり。このことを神の前には欲はないと云うなり。

五つ いつまで信心したとても 陽気づくめである程に

 手を合わせて拝むばかりが、信心ではなし、参るばかりが信心でなし、信心とは、誠一つを信心という。この誠と云うのは、人のつらさを一に知るところ、また、追従心無きところ、高慢心無きところ、人をくずにせんところ、疑い心無きところ、案じ心無きところなり。

 その信心は同じ信心する中に、心次第で理に隔てがつく。この隔ては銘々の心次第で理が解る。理が解れば、話しも真実に聞く。聞けば聞くほど、むねが解る。胸が解るに応じて理が生える。その理に応じて実がのることを、ようきづくめである程にと云うなり。

六つ むごい心をうちわすれ やさしき心に成りてこい

 このむごいと云うのは、天理に外れる心を惨いと云うなり。天理に無いことと云うのは、何ごとによらず世界兄弟の理を外して、人はどうでも我がさえ良くば良いと云う心は、みな天理にないことなり。

 また、やさしきと云うのは、この世はみな八方八柱の神様の守護の世界なり。その八柱の神様の心に叶う心に定めるのが、世界のしきなり。よってこの理をやさしき心に成りてこいと云う理なり。

七つ なんでも難儀はささぬぞえ たすけ一じょのこの所

 人間は皆何ごとにも心から難儀するものなり。その心と云うのは、我が身を大事と思うて、我が身を捨てることばかりの心種を蒔くことなり。実に我が身を大事に思うなら、この地場の人間世界を始め出したこの所で、どんなことでも皆教えることを聞き定めて、懺悔をして、また、心を澄ますことなら何敵わんと云うことなし。これを助け一条のこの所と云うなり。

八つ やまとばかりやない程に くにぐにまでへも助け行く

 くにぐには何の理で九にぐにと云うなら、人間は皆九つの道具の借りものならば、その夫婦を国々と云うなり。その夫婦二人に人間を宿し込み下さるゆえ、人間が広まる。その人間の住む所を国々という。

 そのくにぐにを助け行くと云う理は、何の悩みも憂い災難もなく、陽気遊山に暮さそうとの思召しのことなり。また、世界中もみな天理で教えを広めて助けすることを、国々までへも助け行くと云うなり。

九つ ここはこの世の元の地場 珍し所が現れた

 この地場は、人間世界初め出しの地場。また、人間が神の教えを聞いて、心の地場定めることを云う。

 また、珍しいと云うのは、人間始めた屋敷を知らして貰うたこと、無い人間、無い世界を始めたよろずの元を知らして貰うたこと、話し一条でどんなことをも皆助ける、悪しきことも皆現れることを、珍しい所が現れたと云うことなり。

どうでも信心するならば こうを結ぼやないかいな

 どうでもと云う心は、十柱の神様の心に十分叶うところの理、十方の世界満足さす誠の心定めることなり。

 こうと云う理は、心のこうなり。こうと云うのは誠一つの理を定めることなり。その誠の理で世界を喜ばし、親神様の教え通り十分定めた、その理をなるだけ心の磨きを付けて、いつまでもその理を外さぬ心を定めれば、四方正面の鏡、これは天地と云う。この理をもって、講を結ぶと云うなり。

 

六下り目

一つ 人の心というものは 疑い深いものなるぞ

 我が身の知らぬ確かな神の教えを本当にせずして、暮す心は疑い深いものなり。人間始まり、世界始まりの元は知ろうまい。その理を諭して、十分の助けさそうと思う月日の真実心配は、人間心で嘘と思うて、我が身身体の損を深く招く心が気の毒やと云うことなり。

二つ 不思議な助けをするからに いかなることも見定める

 何ごとも不思議から開く理なり。不思議は節から開く理なり。節は二柱の神様の義なり。この二柱の神様の知らぬことはなし。人間はみな月日二柱の神様の心のさいぶつなり。いかなることも見えるなり。また、人間を助けるにも、悩む所で、その人の心を見定める理を受けるなり。このことをいかなることも見定めると云うなり。

三つ 皆世界の胸の内 鏡の如くにうつるなり

 皆の「み」と云うのは、人間元はみい様より産み広めて貰うたものなり。皆の「な」と云うのは、世界中はくにとこたちの命様のものなり。この二つの理を、「みな」と云うなり。

 鏡の如くと云うのは、月日二柱の世界なれば見えん所無し。また、人を助けるにも悩みの理で、その人の胸の内が鏡の如くに映るなりと云うことなり。

四つ ようこそつとめについてきた これが助けのもとだてや

 つとめの「つ」は切ることなり。それを止めると云うのは、何ごとも世界中を切れぬように繋ぐゆえ、つとめと云うなり。これをつなぐ理は誠が無くては繋ぎが出来ぬ。この誠は、世界に隔ても無きよう近道も、欲高慢も無きようにして、また、世界中の互い互いの助け合い、我が身さえ良くば良きことと思う心の根を切り、日々足納して、情け心を第一として、世界中の人を神と崇める心を第一に定めて暮らすことを、繋ぐと云うなり。すれば、人も助かる、我が身も助かることを云うなり。

五つ いつもかぐらや手踊りや すえでは珍し助けする

 神楽や手踊りやと云うのは、無い人間、無い世界を拵えた元の雛型をすることなり。末では珍しい助けと云うのは、今の悩みの助けでなし。末の助けは真実次第で、病まず、死なず、弱り無きよう道で、百姓には肥の授け。また、産屋自由用、早めなりとも、延したりとも。子は望み通り、男なりとも、女なりとも。また、疱瘡せんようの請合いの守り。また、甘露台の上でつとめに掛けて、人間の心次第で助けようとの話し。さらにまた、どこへ行けども小遣い要らず、人に難儀さそうにもさしようの無きよう、しようにもしようの無きよう、風はいつでも、そよそよ風。世界の金気水も澄まして、何かと教えて暮らそうとのことなり。

六つ むしょうやたらに願い出る 受取るすじも千すじや

 無性やたらに願い出ると云うのは、人間は、ただ頼むだけでは皆頼む。なれども、人間は皆銘々に心が違う。その心を受取る。悪の中にも善があり、善の中にも悪がある。おとなしい者でも、埃の深い者もある。この理を見分け、聞分けして神にもたれよ。

 人間はあざないもので、天の理を知らぬゆえ、その理によって利益のあるないの道がある。どんな善人でも天の理に外れる者は皆悪しきやで。この理はどう云うものならば、悪人でも幸せの良き者もある。善人に見えても心違いの埃は現れる。また、物惜しみの深き者もあり、貧しい者もあり、心悪しき者もあり、恨み妬みの深き者もあり、案じ心の深き者もあり、隔て心の深き者もあり、嘘追従の心の者もあり、高慢心の深き者もあり、疑い心の深き者もあり、日々に心の変る者もある。また、目に映るところで心を真実にして、話しを聞いて、懺悔をして、心を定める者もある。その心通りを受取ることを千筋と云うなり。

七つ なんぼ信心したとても 心得違いはならんぞえ

 信心するには信心の心得第一なり。道を知らずに信心しては何にもならん。この理を第一に心得て願うなら、誠の信心と云うなり。信心と云うのは、誠一つが第一なり。人間の理は、世界兄弟を誠として、嘘、追従、欲、高慢、隔て心無きようにして、人間の皆互い互いの助け心、立て合いを信心と云う。誠心を生涯外さぬようにすることを、しんと云う。この理を外して、我が身さえ良くば良きことと思う心を元として、神に願いを掛けるのは、我が身の食わんものを芯として造るものなり。

八つ やっぱり信心せにゃならん 心得違いは出直しや

 やっぱりと云うは、八柱の神様の理を計ることなり。信心と云うのは、人間心を無きようにして、世界一れつ皆兄弟とし、また一つには、世界借りもの、田地、山林、金銀も、人間の食き物、立毛も皆世界中の元と心定めて、銘々に理を計ることなり。これを日々の信心と云うなり。

 今までの人間心で、身体の悩みを助けて貰いたいと思う心は、皆天の理に外れるなり。心得違いの信心はご利益がないゆえ、元々の誠の心になれば、ご利益があるゆえ、是非に迫りて誠の心になることを、心得違いは出直しやと云うことなり。

九つ ここまで信心してからは 一つのこうをも見にゃならぬ

 ここまでと云うのは、十のものを九つまで積んだ理なり。信心してからはと云うのは、十のものなら九つまで心を懺悔して、定めをつけることなり。また、十に一つの理が外れても、一つに帰る理の迫りを云うなり。このことは何だけではなしに、内々も三十日のうち二十九日まで睦まじく暮らしても、一日の罪で二十九日の睦まじき理が戻る。恩をきせる理で戻る。また、人を見下げる心でも戻る。この戻るところの理を外さぬように暮らす心を、一つの功[効]も見にゃならぬと云うなり。

十ど この度見えました 扇のうかがいこれ不思議

 とおどこの度見えましたと云う理は、十柱の神様の思召しと銘々の十分澄ました心を云うなり。扇の伺いこれ不思議とは、扇の伺いで理の解ることと、また、扇は末で開くものなり。人間は誠を積めば世界に名を輝かすなり。この扇はかなめあり。その要は、決まり一つで元から末まで治まりがあるものなり。銘々も心のかなめ一つで世界の人皆心澄まし、十分に親神様の自由用を受けさすよう、我が身の心のかなめ一つで出けると云う天理の自由用自在は、我が心より出せとのことなり。

 

七下り目

一つ ひとこと話しはひのきしん 匂いばかりを掛けておく

 一言話しは日の寄進と云う理は、この神様の話しのことなり。話しを一寸聞き、一寸定め、その諭しする者の誠と神の自由用を見せることを云う。

 匂いと云うのは、二柱の親神の理を云うなり。十分に助けを貰う心なら、一寸の自由用を雛型として心鎮めて聞くものなり。聞く心にあるものは、十分聞かすことなり。十分聞けば十分の理がある。一寸はちょっとだけのこと、その道をしっかり思案を定めて、どうせいこうせいは云わん。心通りの理があると云うことを、匂いばかりを掛けて置くと云うなり。

二つ 深い心があるなれば 誰も止めるでない程に

 この深いと云うのは、十柱の神様のことを云うなり。この神様の話しに身惜しみをすることを、止めると云う。何ごともこの道を行く者の心を妨げることを止めると云うなり。また、この道の心を笑う者も、そしる者も皆止める理。この道を止める心でいる者は我が身が止まる道がある。この道、この理を止めるでない程にと云うなり。

三つ みな世界の心には でんぢのいらぬ者はない

 田地と云うのは、人間が物を作る所を田地と云う。田地なら誰も欲しがるが、田地がありても人間息が無くては何にもならん。神様の田地は世界中の人間の心の誠を田地と云う。誠の心で蒔く種はどんな稔りするとも解らん。誠一つは柔らかい、永い、堅い、大きな切れ目も無い実やで。

 その取ろうと思う実の種は、皆世界中に現れることを知ろうまい。世界中から成る程の人や、成る程の家やと云われるは、これ自由用自在の元なり。天の理なり。誠で生える種は、田地を求める金もいらず、肥もいらず、年々不作なし、我が身においても病み患いも無し、憂い災難も無しと云う。十分大きな種は、心の誠一つにあるのやで。この理を思案して、田地を求める近道は後回しにして、何時いつまでも減らぬ自由用自在のもの種が、世界中より水の湧くが如くに柔らかに、切れ目無きように生え出ると云うことなり。

四つ よきぢがあらば一れつに 誰もほしいであろうがな

 良き地は誰でも欲しかろう。人間の地は物を造る所。神の心は、世界中人間の誠心の地を望む。誠の心は大きなもの。人間も誠の心を望まん者はあるまい。誠の心を望みながら、皆誠を尽くすこと嫌えば、世界に誠があるはず無し。世界に誠が無くても我が心に誠があれば、皆世界から誠が集まる。人間は神の田地であるゆえ、良き心、良き行いで日々暮らせば、憂い、災難、せつなみも無し。例え世界が誠でも我が心に誠が無くば、良き地に種を蒔かんのも同じことなり。

五つ いづれのかたも同じこと わしもあの地を求めたい

 どこの人でも同じこと、良き地を望まん者は無し。その田地は金が無くては、求められんと云うことは誰でも得心している。また、人間の誠の良き地は誰も望まん者は無し。この心の良き地が金も要らぬ、我が心の誠で、世界中に誠の心が皆出来ることは間違い無し。また、天の与えもこの心に与えることは疑いなし。

 人間はあざない者で、我が身の胸三寸で誠出すことは嫌うて、金は要らず、世界天地から多く取れる誠の実、取ること知らぬ。この理を胸の内より思案して、何ごとも見分け、聞き分け、誠の種は大きいものと、この心定めれば、良きあの人のようになれると云うことなり。

六つ 無理にどうせと云わんでな そこは銘々のむね次第

 心に無いことを無理にどうせいとも、こうせいとも云わん、銘々の心で思案して、良きことは思うままにするが良い。神様もその心通りの守りなり。

 思案してみよ。何程の悪人でも身の自由用はしている、さしている。心はみな同じ親の心やで。親の心は変らねど、銘々の心通りが現れる。善はぜんだけの理が現れる。悪はあくだけの理が現れる、高慢はこうまんだけの理が現れる、嘘はうそだけの理が現れる、隔てはへだてだけの隔てがつく、口先上手で周る人間は、なまくらと云う実がのる。人間は心通りの花が咲きて実がのる。この種が世界に生え出る。天に映る。善は楽しみの種となる、悪は悲しみの種となるゆえ、銘々に思案して、我が心の好いた種を蒔けと云うことなり。

七つ 何でも田地がほしいから 与えは何ほどいるとても

 何でも田地が欲しい心で金を拵える心が強いのは、これ皆ほこりの元なり。金を拵える心の元はどう云うことなら、惜しい、欲しいが第一の元、これが月日の第一の嫌い。この理を思案してみよ、埃が溜まれば身が悩む、憂い災難も皆招くことなり。金が欲しくても身が悩みたり、憂いが重なりたりしては金が出来まい。有る金も田地も減る道理なり。皆運は天にあるものなり。

 その天運を受けるのは我が心より受けるものなり。この理を思案して、田地を求める心をほかして、国の為、人の為に踏ん張る者が、与えは何程いるとてもと云うて、天恩をおくる思案が大きな物だねとなることと云うなり。

八つ やしきは神の田地やで まいたる種は皆はえる

 やしきと云うのはこの世と云うも同じ理なり。この世は八方八柱の神の守護なり。その内の田地と云う。この田地に蒔く種は心一つの理で生える。良き種蒔けば、良き物が生える。悪しき種を蒔けば、悪しき物が生える。

 それゆえ、金銀に心を寄せるに及ばず、心の誠で何ごとによらず人の為、世界の為と、我が為を思わず心を尽くす思案をして蒔いた種は、皆はえると云うこと。この生えると云うのは、世界中は八方八柱の神様が守護している世界なり。その蒔いたる種は、八方より生やす、と云うことなり。

九つ ここはこの世の田地なら わしもしっかり種をまこ

 この世は正しき月日二柱の世界なら、何ごとも善し悪しの理を思案すれば、誠一つの種は大きい物が見えるで。我が身思案の世苦だねは小さいものと心を定めて、何ごとも胸の内より思案して、誠一つの天地に誠の種を蒔けば、誠綺麗な花が咲き、誠大きな実がのる。

 また、無理に咲かせる花もあれども、この花は思惑の実を結ばぬ。人間も同じこと、無理に咲かせる花であれば、夕立雨の降るのと同じことなり。それゆえ、人間は第一国の為、人の為に我が身思案を外して尽くす心を、種蒔きと云うなり。

十ど このたび一れつに ようこそ種を蒔きに来た
 種をまいたるそのかたは こえを置かずにつくりとり

 世界は段々とこの理を聞いて、誠一つに心を定めて来る者には、ちょっと見える今の所でも身の内に悩みは無し、作る立毛に不作なし。世界の人の用いは深く、どこへ行けども金銀要らず、世界より成る程の人やと敬われ、用いられると云う理が生える。これを造り取りと云うことなり。

 

八下り目

一つ 広い世界や国なかに いしもたちきもないかいな

 広い世界に人間は、悪気の中から誠一つに心を定める者はあろうまいと云うことなり。広いとは限りなきこと。世界とは月日の輝きわたる所にて、この世のことなり。人間はこの世に生まれ出て、段々道を聞くに応じて道が解る。道が解れば誠が定まる。その心を、いしと云う。

 また、意思(いし)と云うのは、何ごとも固いところを石と云う。人を助ける心も堅く、人のこと云わんのも硬く、人を恨む心のなきことも難く、親心もかたく、義理も堅く、人の恩を忘れぬ心も難く、親類兄弟の付き合いも固く、誠心も硬く、この心を残らず堅く忘れぬように慎み深き心を石という。立木(たちき)と云うのは、その心を何時までも崩さねば、成る程の人と云うことが世界へ移る。これを立木と云うなり。

二つ 不思議なふしんをするなれど 誰に頼みはかけんでな

 ふしんと云うのは、節のことを云うなり。人間も胸の不振で病むと云う節が解る。世界に普請するにもそれぞれの道具がいる。身の内の普請するには、皆銘々のふしで、汚いものの中より綺麗なものが現れ、誠一つの理を定めて、欲しい、惜しいの欲を捨てる。この我が身の普請する者は、誰に頼んでするであるまい。皆銘々の胸の内よりすることなり。このふしんは、親神様が世を助け下さる真実の親の力で無くばいかんゆえ、誰に頼みは掛けんでなと云うことなり。

三つ 皆段々と世界から 寄り来たことなら出けて来る

 皆世界から病むことのつらさを節として、寄り来る人には話しを聞かして助けさす。この助かると云う節で懺悔し、また、心を切り継ぎする世界に誠が移る。誠が移ればどんどんと何ごとも世界から集まりて、心のまま思い通り出け立ち来ると云うことなり。

四つ よくの心をうち忘れ とくと心を定めかけ

 欲は第一神の残念なり。この欲にも色々の道がある。金銀、山林、田地ばかりではなし。皆銘々に思案してみよ、人間は皆息も身体も神の借り物。我が物は心一つより他はなし。人間は月日から日々に食うことと着ることだけ与えて貰えば、十分結構と足納して暮らすのが理なり。

 それ知らずして、皆人間は何によらず欲と云うのは、腹の立つのも、心の小さいのも、人のこと云うのも、日々に心変わるのも、隔てするのも、追従云うのも、人のこと笑うのも、骨惜しむのも、親に不幸も、兄弟に愛敬薄いのも、人を捨てるのも皆これ思案してみよ。元は、欲しい、惜しいの渋い種一つから生えるものなり。その心を速やかに切り継ぎして、誠一つ定めいよと云うなり。

五つ いつまでみ合わせいたるとも 内からするのやない程に

 人間は心で先の思案はいつに成りても要らぬもの。何時のいつまでも皆神の守護なり。人間心を定めつけることは第一の物だねなり。人間何ごとにても月日二柱の諭しに心をまかれるは第一の物種。

 この理を思案してみよ、人間身体は月日の貸し物、温み、水気は月日の出入りや、身の内自由用は月日の働きなり。世界もまた同じこと。生え出るものも、咲く花も、稔りするのも、わく虫もこれ皆月日自由用なり。人間も誠一つで月日の心に叶うものなり。身の内は申すに及ばず、世界中の自由用人間心で出来んことを、内からするのやない程にと云うことなり。

六つ むしょうやたらにせきこむな 胸の内より思案せよ

 神様を信心するに、無性に慌てこまんようとの御言葉なり。ただ、神様を信ずるにも、結構や、ありがたいと思うばかりでは何にもならん。この道をとくと思案して、その元を堅く硬く定めるなり。これは皆何ごとでも世界中は理で攻めたるものなり。人間も皆月日の理で出来たるものなり。

 そのことを皆思案してみよ、人間も世界も、皆理が元なり。その元の理はどう云うものなら、皆誠一つが天の理、人間の元、世界の元。何ごとも急くも、騒ぎも、驚きもせずして、誠一つを見よ、幾重の道もある。この道の次第の元を段々聞くに付けて、しっかり胸の内より思案して、世の元と誠の道は二つ無し、月日の話し胸の内より思案せよと云うことなり。

七つ なにか心が澄んだなら 早くふしんにとりかかれ

 この世の道理を聞き、道を聞き、元を尋ねて、解りた上は、早くむねの掃除をするが第一のことなり。物が解りて、むねと口と心が違うては、第一神の残念なり。その心を銘々に入れ替えて、神にもたれる心を思案せよと云うことなり。

八つ やまの中へといりこんで いしもたちきも見ておいた

 この神のことを知らん世界並の人を、山と云うなり。その中に石も立木もあると云うのは、誰でも我が身の身体を惜しまぬ者は無い。それでこの神に願いを掛ける。そこで神の理を聞く、聞くに応じて懺悔が出来る、すれば心が定まる。その定める心の真実を、意思も断ち気も見て於いたと云うことなり。

九つ このき切ろうかあのいしと 思えど神の胸しだい

 人間の心次第で神の用向きに使うことを、いしもたちきもと云うことなり。これ皆銘々の心次第。この木と云うても、切られるにも切られようがある。悪戯、極慾、また、この神の道を嫌う者は悪の大木なり。この者は誠の心の者に、かげをする心に当るゆえ、切り倒すとの御言葉なり。どう云うことなら月日退くと云うことなり。また、石も同じこと。何ぼ云うてもしぶとく、懺悔をせぬ者は誠の道の妨げに成るゆえ、月日退くと云うことなり。

十ど このたび一れつに すみきりましたが胸のうち

 十どと云うことは十分と云う心なり。十分すみきり見れば、何ごとも十分じゅうようが世界でできる。

 また、身の内も十分自由用が叶う。それを有難いと思う心を胸の内に定めると云うことなり。

 

九下り目

一つ 広い世界をうちまわり 一せん二せんでたすけゆく

 この理は、人間、心一つが働き所のことを云う。奉公するにもよく働き、何をしても定めの銭より一銭二銭と誠働けば、世界から人の気が集まるので、働くにも身体が忙しい。

 また、定めの銭より誠が無くて、骨を惜しめば、世界中に望む人が無くて、世界中を打ちまわりて苦労する道が現れる。

 これ皆何によらず心の誠一つからよるものなり。この理を思案して、何ごとによらず、道を失うても、光るのも、善し悪しの心一つに留まるものと云うことなり。

二つ 不自由無きようにしてやろう 神の心にもたれつけ

 不自由とは十分ものの無いこと。神の心にもたれつくのは、神は正直、心は誠、素直心一筋。人間もこの神の心に叶うように心を磨いてもたれつけば、何敵わんと云うことなし。十分と云うのは皆我が心で蒔く種やで。このことを世界中を見分け、聞き分けして、思案してみよ。人間は皆神の自由用、世界も神のままなり。人間の力にて行くことはさらに無いことなり。

 その証拠は、人間と云うものは我が身思案が頼りならば、この世で病む者も、死ぬ者も、貧に暮らす者も無し。どんな難儀するのも皆これは神にもたれずして、我が身の心にもたれるゆえ、生える種の理なり。このことを真実心改めて、神の心にもたれ付けば、いか程の悪人でも一夜の間にも心入れ替えて願えば、どんな難儀も、不自由も皆助けると云うことなり。

三つ みれば世界の心には よくが混じりてある程に

 欲は人間心で、我が身大事と思う心は皆よく。世界中は火と水と風が元。人間も、世界も、立毛も、さく花も、わく虫も皆この三つの元より育つものなり。人間心で我が子出来るでなし、人間心でその子成人出来るでなし、また、人間心でその子自由用させるでなし。立毛も人間心で生えるでなし、伸びるでなし、花咲くでなし、実がのるでなし。わく虫も同じこと。夜昼の区別もみな月日自由用なり。この元をよく思案して、自由用の出来る親神様にもたれて、心を澄まして、ようき一つにもたれるのが第一と云うことなり。

四つ 欲があるならやめてくれ 神のうけとりでけんから

 何によらず、皆銘々の我が身思案はよく。この世と云うのは、四方より正面の世界なら、四方正面もこの世を始めた月日が、元夜から始めた理で、よ、と云う、また、四方と云う。世界と云うのも同じことなり。人間はあざない者で元が解らんゆえ、この世に住みながら、この世の元知らず、それゆえようきの心をはずす。また、四方正面の理も同じこと。何ごとも我が身で知らぬゆえ、四方誠心が届かず、また、四方の人の難儀も難儀と思わずいる。

 世界中は何によらず月日貸しもの、人間は借りもの、借りものなれば先の思案はいらぬもの。どれだけの田地ありても、金銀ありても身の内月日退けば、皆人に渡すものなり。むねの内より思案してみよ、世界の立毛も同じこと。今の人間心では、我が身さえ良くば善きことと思うて、人の情けは紙より薄き心にて、人の弱みをつけねらう浅ましき世の有様。それでは一れつ同じ兄弟の義は立つまい。義の立たん所より国もみだれ、遠い国に渡す理があるのやで。それゆえ難渋を救いあぐれば、世界に誠があれば、いつになりても天の与えは違うことなし。我が身思案の慾だねは時をも待たず、身の内月日退くと云うことなり。

五つ いずれのかたも同じこと 思案さだめてついてこい

 このいずれは五つの礼儀をいずれと云う。このことはどう云うことなら、人間は五倫五体なれば、五つの礼あるものなり。

 五つの礼と云うのは、仁、義、礼、智、信という。

 仁は、月様の情けより出る。人を慈しむ養い育てると云う親心。

 義は、かしこねの命様から出る。云うたことを違えぬ、約束を違えぬと云う心。

 礼は、月よみの命様から出る。君に忠、親に孝行すると云う人を大切にする心、即ち互いに人を立てる心。

 智は、たいしょく天の命様から出る。互いに知り合うと云うて、我の知ったことは人に教える、互いに知りて行くと云う心。見分け、聞き分け、噛分ける心。

 信は、くにさづちの命様から出る。互いに睦まじく繋ぎあう、親しむと云う心、即ち人を繋ぐ心。

 また、地水火風空と云うのも、木火土金水と云うのも、じんぎれいちしん、と云うのも同じ五行の人道なり。

 この五つの礼を世界へ広めるには、

 一に家内睦まじい心、

 二に世界助ける心、

 三つに世界のどの人の心にも変らなきように付き合う心、

 四つに四方へ誠を運ぶ心、

 五つに何ごとも我が身勝手の強欲、貪欲無きように第一心に定めて、この神様に願う心になればと云うことなり。

六つ むりにでようと云うでない 心定めのつくまでは

 無理にどうせい、こうせいとも云わん。皆銘々の心次第やで、親神様は親の方から無理には云わん。人間は皆親に無理を与える、不足を与える理あり。

 思案してみよ。親神様の守りと云うのは、誠一つに十分の守り与えるのが、天の理やで。誠も出さず、欲しい、惜しいの根も切らず、誠より守りのない親に、また、素直な守護する親神様に、歪んだ心で真直ぐな素直な守りは出来まい。その心と云うのは着物に例えて話しする。歪んだ身体に着せた着物は真直ぐになるまい。この理を思案して、真直ぐの守りを欲しくば真直ぐの心に改めよ。心通りの守り出す。承知せよと云うことなり。

七つ なかなかこの度一れつに しっかり思案をせにゃならん

 なかなかと云うのは、心一つで大きな善し悪しの造りが現れることと、世界中の人は一れつに思案するなり。また、思案の内にどうでも思案定めにゃならん道があるで。これはどう云う道なら、これまでとは違うて、元無い人間、無い世界を始めたのも、無い食物与えたのも、無い文字を拵えて広めたのも、この度この世始めてから無い助けを教えるのも、また、無い話しを聞かすのも同じことやで。これみな月日の思惑、その年限来るゆえ、月日の急き込みちょっとのことでなし。世界の心切り継ぎさして、十分珍しい助けをさして暮らすとの年限ゆえ、陽気心を定めるなら、この世始めてからいまだこの上ない十分結構な助けにあうことなり。

 また、人間心はびかれば夢見たように散るや知れんで。これはどう云うことなら、親神の残念現れるなら、三千世界は一夜の自由用。人間心で越すに越されん、焼くに焼かれん、引くに引かれん、息も出来ぬ、明かりも見ん、心通りの一人限りの暗闇となる理やで。そのことを知らずして、人間心で恐ろしいと思う心は違う。悪しき理に廻りては、何ぼ思うてもその日が来たならば、どうもならんことを、しっかり思案をせにゃならんと云うことなり。

八つ やまの中でもあちこちと 天理王のつとめする

 世界は八方八柱の神様の世界、神の自由用で世界をやまと云う。その中でつとめする者はあれども、元を知りたる者は無し。何ぼつとめをしても、願いをかけても、元が解らねば何にもならん。

 世界並みの信心でも、心があくなら無になると云うことなり。この度天理の道は、何処のどこまでも助けあげて、このつとめさして元々の理も道も聞かしてやると云うことなり。

九つ ここでつとめをしていれど むねの解りた者はない

 人間の胸を胸と云うのは、目二つ、耳二つ、鼻一つ、口一つ、この六つの元を司る根ゆえ、胸という。また、人間は六台の神様の借りものなり。その理でむすめと云う、むすことも云う、むつまじいと云うのも同じこと、むねと云うのも同じ理なり。むねが解ればよろずのことが皆解る。

 思案してみよ、この世に住みながらこの世のことが解らんと云うのは、雨降るのも、風吹くのも、地震も、津波も、山の崩れも、雷もその元は知ろうまい。我が身の内でさえ、目の光るのはどう云う理で光るやら、食べ物はどう云う理で食べるやら、また、どう云う理で食えんようになるやら、どう云う理で出るやら、出んやら、また、どうして寒くなるやら、暑くなるやら、さっぱり解るまい。それではいか程つとめをしても何も解らん。この元を詳しく聞いて、身の内も、世界もよろずの元を聞いて、心を定めるのが確かな真心と云うなり。この元の話しすれども心澄まして聞く者はなし、心すまして願う者なしと云うことなり。

とても神名を呼びだせば 早くこもとへたずねでよ

 この元へ尋ね出て、我が身の世界も十分に元を聞き、心を定めて、そのことを第一として真実あれば、誠が世界に映る。世界に映れば、世界より皆こもとに尋ね出て来ると云うことなり。

 

十下り目

一つ 人の心というものは ちょいとにわからんものなるぞ

 人間はあざない者で、悪しき人にも良き所があり、良き人にも悪しき所がある。それを知らずして、互いに人の悪しきことばかり思い合い、腹を立て合い、恨み合いするのが皆埃や。

 また、我が身には悪しきことは思わず、ただ良きことばかり思うて、人はあれだけの悪人でも助かっているのに、と云うような思いで念ずる心が第一ほこり。また、人を助けるにもその通り。この人は良き人やのに、ご利益がないと思う心は皆違う。神は四方正面、隔ては無し。くぼんだ所に水が寄ると云う理を考えて、懺悔するにも、さすにもその心を第一に定めて、考えさせと云うことなり。

二つ 不思議な助けをしていれど 現れでるのが今始め

 不思議なたすけと云うのは、人間の身体は残らず神の自由用、身は借りもの、世界も借りもの、物も、立毛も、夜昼の区別も、咲く花も、吹く風も、降る雨も、天気も皆神の守護。その世界に住む人間は、これまで何も知らずにいた。我が身体を我が元と思うていながら、身体の悩みがどう云うことやら知らずに年月を暮らしていた。

 この度、身の内の悩みは申すに及ばず、この他世界中の難も、天理に引き合わせて懺悔をすれば、皆話し一条ですきやかに助かるのは、その難は皆人間の埃から起こるゆえ、この埃を払えば助かるなり。この心の埃は皆銘々の強欲、貪欲の心の現われであると云うことなり。

三つ 水の中なるこのどろう はやくいだしてもらいたい

 世界中は皆水の中なり。世界は素直なものなり。その中に住む人間心を泥と云うなり。泥と云うものなら、ただ人間は食うことと着ることだけで、欲は要らず、その他世界中は皆兄弟、互い互いの助け合い、まこと心が天の理なり。

 人間はそれを知らずして、足ることを知らず、なんぼでも足らん足らんの心をつのりているゆえ、十分に守護下さる親神の恩を知らず、日々心をいずめて、恩ある親神を恨みに思う。

 人間の我が子育てるも同じこと、恩有る親を恨みて暮らすのも、また、親神の恩を忘れて暮らすのも同じこと。これみな泥という。これ皆はやくいだして貰いたいと云うことなり。

四つ 欲にきりない泥みずや 心すみきれごくらくや

 欲とは、我欲、この世苦は恐ろしきもの。世の中のこと何ごとも胸の内より思案してみよ。欲しい、惜しいの欲ばかりではこの世は自然と乱れる。これ理なり。また、我が身も病み患い、自然と幸せの悪しきなるのも、人に嫌われにくまれ、世の人の望みを失い、地獄のつらき道に入り難儀するのも、元は、欲しい、惜しいのもの種の稔りやで。

 何ごとも世界中は真ことでなくば治まらず、誠の道は御苦楽の道。極楽は日々の常の楽しみを云う。世苦にきりない心を澄ませば、世界から真ことが集まりて、日々楽しむと云うことなり。

五つ 何時いつまでもこのことは はなしの種になる程に

 今まで世界の人間は皆ぼんぷ心で、我がさえ良くば良いように思うて、埃を付けて暮らすゆえ、身の内も悩む、不時災難も重なる。世界も狭くなりて、身の不自由したり、さしたり、難渋なことが重なる。

これからは「神様の話し」を聞いて、欲、高慢もなし、案じも無し、隔てもなし、心澄まして暮らせば、身の悩みも無し、若死にもなし、火難、水難も無し、年々の凶作もなし。只結構と、世界に話しの切れ目無きと云うことなり。

六つ むごい言葉を出したるも 早く助けをいそぐから

 むごいと云うのは、人間は六台の神の供え物、その身体に肥をすることをむごいと云うなり。人間はみな神様のさいぶつなり。神の子なり。神の自由用なれば、何叶わんと云うことなし。何敵わんと云うのは、立毛作るも同じこと、修理肥をかえるも同じこと。

 人間の修理肥は心を磨くのがこえなり。この磨きは、欲も無いよう、隔ても無いよう、高慢も無きよう、何ごとも出すことは先に出して、我が身につけることは後で楽しむ心で暮らせば、天の理なり。人間の道なり。この道と云う言葉はむごきように聞こえれども、むねの内より思案して心勇んで来るならば、どの様なことも叶わんでなしと云うことなり。

七つ 難儀するのも心から 我が身恨みである程に

 なんぎというのは、くにとこたちの命様月様なり。この神様はこの上もなき親神様なり。その心は素直な心、世界中の者には、皆かけ隔てもなし、真直ぐな心の大きなお方なり。

 人間はそれを知らずして、心の小さい、気の短い、欲の深い、かけ隔ての深い、恨みの深い、案じの深い、足ることを知らぬ者なり。それで真直ぐな心の大きな、素直で隔てのない親神様の心と合わぬゆえ、あたる所が身の内思案の物だねとなり、不時災難となり、また、世界の難を受けるのも皆銘々の心から、我が身恨みである程にと云うことなり。

 八つ 病はつらいものなれど 元を知りたる者はない

 八柱の神様は世界を守護下さる八方の神様なり。人間も八柱の神様の守護なり。その神様がまわるで、やまいと云う。また、世界では火難、水難、立毛に虫がわく、大風の難もあり。その八柱の神様が回ると云うのも、皆人間の八つのほこりが強いゆえなり。

 このたび神様の話しを聞いて、ほしい、おしい、可愛い、憎い、恨み、腹立ち、よく、こうまん、うそ、ついしょう無きようにして、世界中は兄弟と心を定めて、真実に互い互いの助け合いの心に定め替えてみれば、身の内の悩みも、世界の難も皆たすかることを、元を知りたる者はないと云うことなり。

九つ この度までは一れつに 病の元は知れなんだ

 人間は、皆この世に住みながら、身の内自由用しているのも何も知らずに暮らしていた。この度神様のかりものを聞いてみれば、身の内自由用も、息も、世界も皆かりものなれば、世界も、我が身も無きと思えよ。親神様の心に叶わん人間心で埃を付けるゆえ、皆銘々の心通りの理が現れて、身の内悩みとなることを感心したることを、やまいのもとは知れなんだと云うことなり。

十ど この度現れた やまいの元は心から

 十どは十柱の神様の十分の働き、十方へ目のつく所なり。人間も平生我が程良き者は無きように思うて暮していても、身の悩む時には、神様の話しに迫りて、助かることを解りたら、十ど我が身の心得違いに相違ないということなり。

 

十一下り目

一つ ひのもとしょやしきの 神のやかたのぢば定め

 初屋敷と云うのは、地場は申すに及ばず、日の元[本]のやしき、また、世界中も正しき八式、人間も正しき借りもの。やかたと云うのは、地場は神のぢば、屋形は神のやかたのことを云うてある。初やしきとはいにしえよりの地名なり。

 しょやはあめつちのこと。始まりの時月日二柱現れた、神代のやしきなり。それゆえ神のやかたなり。世界中の人間の生まれ出たる、元の地場なり。また、それだけではない、世界中の人の身体も月日のさいぶつなり。

 その身体のぢばと云うのは、人間の心なり。心に懺悔して、ただ誠一筋に心定めれば、その心に月日が入込み、どんな守護も下さることなり。それで心を澄まして、銘々神様の自由用受取る心に入れ替え、世界助ける心なれば、神のぢばと同じことなり。その心の者が増えるほど神のやかたも広まると同じ理なり。これをぢば定めと云うなり。

二つ ふうふ揃うてひのきしん これが第一ものだねや

 夫婦とはめおと心を合わせて信心するだけではない。夫はおっとのふう、おんなは女のふう、兄はあにのふう、弟はおとうとのふう、姉はあねのふう、いもうとは妹のふう、親はおやのふう、子はこのふう、これ皆心の風なり。

 心のふうと云うのは、おっとは月様の如く清く、涼しく、大きく、穏やかにして、家内を育てる心。

 女は日様の如く赤く明らかにして、何ごとも包み隠す心無く、ただ一筋に夫の心を推し量り、合わん所を合わして通り、竈(かまど)の下の灰に至るまで、始末の仕方を夫に伺えば、内々十分睦まじいと云う。それ世界成る程の者と云うなり。

 親に孝行の道を立て、その家を治めれば、そのくに治まる。我身思案のよくだねを切り捨てて、よき心に切り継ぎして人の為、くにの為と互い互いの誠の尽くし合いを日のきしんと云う。これが真実の種と云うことなり。

三つ みれば世界が段々と もっこにのうてひの寄進

 世界中が段々と神の話しを聞いて、もっこ(畚)担うてと云うのは、この元の講を関心して、いつも心で担うて、忘れぬように定め付けたら、人としんどいことするにも、しんどいことを我身に担う。そのしんどいと云うのは仕事だけでは無し。何ごとも誠を尽くして人を助けるのは、人の荷を助けるのも同じこと。また、我身思案の慾を忘れ、家を整え、世界の人の荷を持つのも同じこと。これを日のきしんと云うことなり。

四つ 欲を忘れてひのきしん これが第一こえとなる

 欲と云うのは、この世の苦なり。この世の苦と云うのは、世へ迫ることを苦と云うなり。世界に迫ると云うのは、皆人間の心から迫ると云うものなり。人はどうでも我が身さえ良くば良きように思う心が、皆迫りとなる。人もまたその心あれば、我が身の迫りになる。

 思案してみよ、我が身が柔らかなれば、人も柔らか、世界も柔らか。我が身の心が大きくなれば、世界の心も大きい、世界が大きければ、世に迫らん。世に迫らにゃ世の苦はない。世の苦が無くば、慾を知らんと云うことなり。何ごとも我が心からとくと思案して、我がさえ良くば良いと云う種を忘れてしもうたら、世界の日の寄進という

 また、善し悪しの理は銘々の心より生えて、花は世界に咲くものなり。我が心からとくと思案して我さえ良くば良きと思う種を忘れて、人の荷を持ち、世界の荷をもつ。その真実の心をよくを忘れて日のきしんと云う。これが第一徳となるのは、立毛に肥を置くのと同じことと云うなり。

五つ いついつまでもつち持ちや まだあるならばわしもいこ

 人間の身の自由用の肉をつちと云うなり。このにくを持つには、身の内が悩んでいては持てまい。身の悩みは心の埃一つに留まる。その肉を何時いつまでも持ちたくば、埃をなんぼでも散華し、まだまだあれば、また、何ぼでも懺悔し、心の切り継ぎすれば、このつちいつ何時までも持てるものなり。また、世界中もさんげして、善の心を定めていれば、世界から離れることはなし、すればその土の暮らしが何処までも広う出来ることを、つちもちと云うなり。この理はまだあるなら、わしもわしもと願うと云うなり。

六つ むりにとめるやない程に こころあるなら誰なりと

 この道は無理に進めもせず、また、この道のあるものを止めるやない程に。この道は誠の道。天の理、助ける理。助けの元、ただ身の悩みの助けだけではなし、世界中の助け道。この助け、大社高山あとまわし、谷底から助けするなり。

 高山より谷底は見下げて見るなり。高山のお池の水は切れるとも、谷底の水は月日自由用切れ目なし、高山にて水がつくなら、姿があるまい。この道を止める心でいる者は我が身が止まるで。どう云うことなら月日退く。息はあるまい。誠心のある者は、高低の隔て無く一同に月日受取ると云うことなり。

七つ なにか珍しつち持ちや これがきしんとなるならば

 やしきは八柱の神のや敷なれば、世界は皆やしき。その理で銘々の家の下を屋敷と云う。そこに住む人間も身の内も皆神のやしき。このやしきの土と云うのは、身の内の肉なり。そのにくを減らしてでも人の為、世界の為と尽くすことなら、天理に叶うて、やしきの姿を失っても、一夜の間にも天よりお渡し下さるこのつちもちは、誠大きい、ものだねとなることなり。

八つ やしきのつちを掘りとりて ところかえるばかりやで

 このや敷は銘々の八つの心得違いの式をやしきと云う。この心得違いの埃を速やかにとりて、懺悔すれば、ところ替えるばかりやと云うのは、十柱の神様が銘々の心の頃合いにかわりて、十分な守護を下さることを云うなり。

 また、拝むばかりや、参るばかりで結構と思うなら、皆腐りだねの信心なり。その理はどう云うことなら、暇も費やす、銭も使うて参りながら、何にもならん。それだけ八敷の土が減る道理。また、話しを聞き、道を聞いて、ことは十分解りても、心定めねば同じ腐り種なり。これをところ替えるばかりやでと云うなり。

九つ この度までは一れつに むねがわからんざんねんな

 何ことも信心の道も解らず、理も解らず、懺悔も出来ず、心も定まらず、何も解らんことをしていることを、なんと月日の残念と云うなり。

十ど ことしはこえ置かず 十分ものをつくりとり
 やれ たのもしや ありがたや

 十分の理が解りて、今年はこの年になりて、どうこうの肥を置かずに、世界から誠が集まるで、月日の守護、どうも頼もしい。有難やと云うことなり。

 また、信心と云うても、拝むばかりや、頼むばかりや、参るばかりではいかんと云うことが解る。参らんでも、拝まんでも、頼まないでも親の教え通り心を定めて、互い互いの助け合いの心一つで十分何ごとも叶うことを、こえを置かずに造り取りと云うなり。

 

十二下り目

一つ いちにだいくの伺いに なにかのことも任せおく

 もと神のやしろから一に助けは、だいくに渡すと云う。その大工より、天からお諭し下された言葉を真実より行い、心に定めて、世界を助ける心の人はまことに大きな苦労がある。これを大苦という。この苦をいとわずして、人も世界も助けたいと思う心の者を神が守護して、いかなことでも助けさすと云うことなり。

二つ 不思議なふしんをするならば 伺いたてて云いつけよ

 もん型無いふしんするには伺い立ててするがよい。また、身の内のふしんも心の懺悔、また、心の定め。精一杯に尽くして、分らん時に親にもたれて、伺い立てて、またその上伺いの言葉を悟りて、懺悔さすことを言いつけよと云うなり。

三つ 皆世界から段々と 来たるだいくににおいがけ

 より来る人に隔てはなけれど、その来る人の心に隔てがある。隔てと云うのは何ぼ悪気、強欲な者でも一夜の間にも心入れ替えて、その心を生涯忘れぬ者を、これをだいくという。においと云うのは月日二柱の親神様が心を映す所をにおいと云う、これをだいくと云う。また、細工と云う。人間も心を損じ、身体を損じ、その損じ所の心の懺悔で、身体を自由用さすのは細工と云う。また、大工と云う。これをにおいがけと云うことなり。

四つ よき棟梁があるならば 早くこもとへよせておけ

 棟梁(とうりょう)と云うのはどう云うことなら、十方のりょうなり。十方のりょうとあらば、人間も世界も十分のりょうなり。十分のりょうなれば、十分心を定めて、十分世界を助けて、十分人の難渋を哀れみて、銘々も自由用自在の守護を受けるものを寄せて置けと云うことなり。

五つ いずれ棟梁よにんいる 早く伺いたててみよ

 よにんと云うのは、かみしも四方正面、四方へどうでも助けたいと思召しで、よにんと云う。また、よにんと云うのは、たくさんその心に叶う者がいると云うことなり。

六つ 無理にこいとはいわんでな いずれ段々付き来るで

 無理にどうせいともこうせいとも云わん。難しいと思えば、懺悔しても、心定めても何にもならん。

六代の借りものの理を定め、むねの内より思案してみよ、天地を離れて身の内はなし。この理定めれば、誠よりどんな人も段々付き来ると云うことなり。

七つ なにか珍しこのふしん 仕掛けたことならきりはない

 なにかこれまで、もん型無い話を聞かして、人間の助けをするに、人間心を取らすのは難しい。

 人間心はぼんぷ心という。凡夫心は思うことの多いもの。その心をすっきり取らすのは中々一寸のことでなし、一寸取りても、沢山付ける。付けたり、取りたり、取らしたりする心を定めさすのは、なかなか容易でいかんというお言葉なり。

八つ やまの中へとゆくならば あらきとうりょうつれてゆけ

 世界中の凡夫心、天理の道を知らぬ者をやまとと云うなり。その所へ助けに行く大工を荒木棟梁という。荒木とは、細かい話ししても、聞き分けが出来ねば、懺悔が出来ん。懺悔が出来ねば神も助けが出来んから、荒い話でも聞き分けて、荒い懺悔しただけでも、神は助けたとの手引きで利益を渡すとのことなり。

九つ これはこざいく棟梁や たてまえとうりょうこれかんな

神の道を守り、理も段々と聞き分けて、心を定めて、人も助けているうちに、身体や心の違うた者に懺悔をさすのは、荒い話ではいかん。理の理を教え、元の元を聞かして、道の道を調べて、誠のある無しを考え、世界の理と天の理を引き比べて、何につけても抜け目の無いように諭す者を、小細工棟梁と云う。この心に磨きに磨きを掛ける者を、これ、かんな(鉋)と云うなり。

十ど この度一れつに 大工のにんもそろいきた

このだいくは、何世のことにも神の自由用の道を明けさす人。自由用も皆それぞれに懺悔しあい、心を磨きあい、親神様の輝く如く日々常に心を磨くと云うことなり。この十本の柱残らず揃うたことを云うなり。

南無天理王命 

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