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天理教教典



目次

第一章 おやさま |  第二章 たすけ一条の道 |  第三章 元の理 |  第四章 天理王命 |  第五章 ひながた |  第六章 てびき |  第七章 かしもの・かりもの |  第八章 道すがら |  第九章 よふぼく |  第十章 陽気ぐらし

 

第一章 おやさま

「我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世 界一れつをたすけるために天降つた。みきを神のやしろに貰い受けた い。」
とは、親神天理王命が、教祖中山みきの口を通して仰せになつた最初の 言葉である。
 家人は、この思いがけぬ啓示にうち驚き、再三言葉を尽して辞退した が、親神は厳として退かれぬにより、遂に、あらゆる人間思案を断ち、 一家の都合を捨てて、仰せのままに順う旨を対えた。
 時に、天保九年十月二十六日、天理教は、ここに始まる。

  よろつよのせかい一れつみはらせど
  むねのハかりたものハないから         一  1

  そのはづやといてきかした事ハない
  なにもしらんがむりでないそや         一  2

  このたびハ神がをもていあらハれて
  なにかいさいをといてきかする         一  3

 世界中の人間は、我が身思案に頼つて、心の闇路にさまようている。 それは、元なる親を知らず、その心に触れぬからである。親神は、これ をあわれに思召され、この度、教祖をやしろとして表に現れ、その胸の うちを、いさい説き聽かされる。

  いまなるの月日のをもう事なるわ
  くちわにんけん心月日や           一二 67

  しかときけくちハ月日がみなかりて
  心ハ月日みなかしている           一二 68

 教祖の姿は、世の常の人々と異るところはないが、その心は、親神の 心である。しかし、常に、真近にその姿に接し、その声を聞く人々は、 日頃の心安さになれて、その話に耳をかそうとしないばかりか、或は憑 きものと笑い、或は気の違つた人と罵つた。
 かかる人々に、親神の教を納得させるのは、並大抵なことでなかつた とはいえ、教祖が月日のやしろにおわす真実を納得させずしては、いつ までも、たすけ一条の道は啓かれず、陽気ぐらしへの立て替えは望めな い。されば、教祖は、頑是ない子供をはぐくみ育てるように、世の人々 の身にもなつて、説き聽かせ、或は筆に誌し、又は、親神の自由自在の 働きを目のあたり知らせ、身を以て行に示すなど、うまずたゆまず導か れた。
 教祖は、世界の子供をたすけたい一心から、貧のどん底に落ち切り、 しかも勇んで通り、身を以て陽気ぐらしのひながたを示された。更に、 親神が教祖をやしろとして、じきじき表に現れている証拠として、よろ づたすけの道あけであるをびや許しをはじめとし、親神の守護を、数々、 目のあたりに示して、疑い深い人々の心を啓かれた。
 更に、教祖は、

  このよふハりいでせめたるせかいなり
  なにかよろづを歌のりでせめ          一 21

  せめるとててざしするでハないほどに
  くちでもゆハんふでさきのせめ         一 22

  なにもかもちがハん事ハよけれども
  ちがいあるなら歌でしらする          一 23

とて、親神の思召を伝えられ、

  だん/\とふてにしらしてあるほどに
  はやく心にさとりとるよふ           四 72

と、後々繰り返し繰り返し思案させるよう、心を配られた。この事は、 後日、

 これまでどんな事も言葉に述べた処が忘れる。忘れるからふでさきに 知らし置いた。            (明治三七・八・二三)

と仰せになつたように、おふでさきは、耳に聽くだけでは、とかく忘れ がちになり易い人々の上を思い、筆に誌して知らされた親神の教である。 そして、何人にも親しみ易く、覚え易いようにと、歌によせてものされ たばかりでなく、屡々、譬喩を用いて理を説かれたのも、深い親神の思 召を うなずき易く、理解し易いように、との親心からである。即ち、

  このさきハみちにたとへてはなしする
  どこの事ともさらにゆハんで          一 46

  やまさかやいばらぐろふもがけみちも
  つるぎのなかもとふりぬけたら         一 47

  まだみへるひのなかもありふちなかも
  それをこしたらほそいみちあり         一 48

と、神一条の道を進む者の道すがらを、山坂や、茨の畔などにたとえて、 この道は、一時はいかに難渋なものであろうとも、一すじに親神にもた れて通り切るならば、段々、道は開けて、細道となり、遂には、たのも しい往還道に出られると、希望と楽しみとを与えて、励まされた。そし て、自ら真先にかかる中を勇んで通り、陽気ぐらしのひながたを示され た。
 又、人の心を水にたとえ、親神の思召をくみとれないのは、濁水のよ うに心が濁つているからで、心を治めて、我が身思案をなくすれば、心 は、清水の如く澄んで、いかなる理もみな映ると教えられた。そして、 我が身勝手の心遣いを、埃にたとえては、親神をほおきとして、心得違 いのほこりを、絶えず掃除するようにと諭された。
 更に又、陽気ぐらしの世界の建設を普請にたとえては、これに与る人 達を、しんばしら、とうりやう、よふぼくなどと称んで、その持場々々 の役割を示すなど、人々が容易に理解して、早く心の成人をするように と心を尽された。
 このように、子供可愛い一条の親心から、譬喩を用いて分り易く教え ると共に、いかにもして、親神の理を得心させたいとの思召から、初め、 親神を神といい、次に月日と称え、更にをやと仰せられるなど、成人に 応じ、言葉をかえて仕込まれた。
 即ち、神というては、この世を創めた神、元こしらえた神、真実の神 などと、言葉をそえて親神の理を明かし、或は、

  たすけでもをかみきとふでいくてなし
  うかがいたてゝいくでなけれど         三 45

と仰せられ、神というも、これまでありきたりの拝み祈祷の神でなく、 この世人間を造り、古も今も変ることなく、人間の身上や生活を守護し ている真実の神であると教えられた。
 次いで、親神を月日と称え、目のあたり天に仰ぐあの月日こそ、親神 の天にての姿であると眼に示して教え、世界を隈なく照し、温みと潤い とを以て、夜となく昼となく、万物を育てる守護を説き聽かせて、一層 の親しみと恵とを感じさせるよう導かれた。それと共に、

  いまゝでも月日のやしろしいかりと
  もろてあれどもいづみいたなり         六 59

  このあかいきものをなんとをもている
  なかに月日がこもりいるそや          六 63

とて、赤衣を召されたのも、教祖が月日のやしろにおわす真実を、眼に 示して納得させようとの思召からである。ここに、月日親神に対する信 仰と、月日のやしろたる教祖への敬慕の心とが、次第に一つとなり、教 祖の言葉こそ親神の声である、との信念を堅めるようになされた。
 更に又、

  いまゝでハ月日とゆうてといたれど
  もふけふからハなまいかゑるで        一四 29

とて、それから後は、をやという言葉で、親神を表し、

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる        一四 35

と仰せられた。人間の我が子を慈しみ育てる親心によせて、親神は、た だに、神と尊び月日と仰ぐばかりでなく、喜びも悲しみもそのままに打 ち明け、すがることの出来る親身の親であると教えられた。そして、一 層切実に、親神への親しみの情を与えると共に、月日のやしろたる教祖 こそ、まことに一れつ人間の親である、との信頼と喜悦の心を、たかめ るように導かれた。
 このように、明かに、鮮かに、親神を信じることが出来るよう導かれ たのであるが、なお、胸のわからぬ人々の心ない反対や、世間からのと め立てが絶えず、それ故に、ふりかかる教祖の御苦労を思うては、時と してはためらい、時としてはまどう者もあつた。教祖は、これをもどか しく思い、ざんねん、りつぷくなどの言葉で厳しく急き込む半面、

  こらほどにさねんつもりてあるけれど
  心しだいにみなたすけるで          一五 16

  いかほどにさねんつもりてあるとても
  ふんばりきりてはたらきをする        一五 17

などと、温かい親心を宣べて、常に、子供達の心の成人の上に、心を配 られた。
 かくて、教祖は、口に、筆に、又、ひながたによつて、種々と手を尽 し、心を配つて教え導き、陽気ぐらしへのたすけ一条の道をはじめられ た。更に、深い思わくから、親神天理王命の神名を、末代かわらぬ親里 ぢばに名附け、又、一れつのたすけを急き込む上から、姿をかくして、 存命のまま、恆に、元のやしきに留り、扉を開いて、日夜をわかたず守 護され、一れつ子供の上に、尽きぬ親心をそそがれている。
 まことに、人は、ただ教祖によつて、初めて親神を拝し、親神の思召 を知る。教祖こそ、地上の月日におわし、我等の親にてあらせられる。

 

  にんけんをはじめたしたるこのをやハ
  そんめゑでいるこれがまことや         八 37

 

 

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第二章 たすけ一条の道

  月日にハせかいぢうゝハみなわが子
  たすけたいとの心ばかりで           八  4

 親神は、一れつの人間に、陽気ぐらしをさせたいとの親心から、教祖 をやしろとして表に現れ、よろづいさいの真実を明かして、珍しいたす け一条の道を教えられた。

  つとめてもほかの事とわをもうなよ
  たすけたいのが一ちよばかりで        一六 65

 この親心から、よろづたすけの道として教えられたのが、つとめ一条 である。

  このよふをはじめかけたもをなぢ事
  めづらし事をしてみせるでな          六  7

  このよふをはじめてからにないつとめ
  またはじめかけたしかをさめる         六  8

 このつとめは、親神が、紋型ないところから、人間世界を創めた元初 りの珍しい働きを、この度は、たすけ一条の上に現そうとて、教えられ たつとめである。即ち、これによつて、この世は、思召そのままの陽気 な世界に立て替つてくる。

  つとめでもどふゆうつとめするならば
  かんろふだいのつとめいちゞよ        一〇 21

 このつとめは、かんろだいをしんとして行う。

  にんけんをはじめかけたるしよこふに
  かんろふたいをすゑてをくぞや        一七  9

 かんろだいとは、人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠としてすえ る台で、人間の創造と、その成人の理とを現して形造り、人間世界の本 元と、その窮りない発展とを意味する。

  しんぢつのつとめの人ぢう十人の
  心を神がうけとりたなら            六 18

  それからハどのよな事もたん/\と
  神のをもわくみなときゝかす          六 19

  にち/\に神の心わせゑたとて
  人ぢう十人そろいなけねば           六 20

 このつとめは、又、かぐらづとめとも教えられ、親神の創造の理をか たどり、選ばれた十人のつとめ人衆が、夫々、面をつけ、歌に調子を合 せて、奏でる九つの鳴物の調べに心を揃え、親神の守護の理を手振にあ らわしてつとめる。実に、かぐらづとめは、人間創造の元を慕うて、そ の喜びを今に復えし、親神の豊かな恵をたたえ、心を一つに合せて、そ の守護を祈念するつとめである。

  みなそろてはやくつとめをするならバ
  そばがいさめバ神もいさむる          一 11

 つとめ人衆が、親神にもたれ、呼吸を合せてつとめる時、その心は、 自と溶け合うて陽気になり、親神の心と一つとなる。この一手一つに勇 む心を受け取つて、親神もまた勇まれ、神人和楽の陽気がここに漲る。

  またさきのよふきづとめをまちかねる
  なんの事ならかぐらつとめや          四 29

 かぐらづとめは、又、よふきづとめとも仰せられる。まことに、よふ きづとめは、親神の思召さながらの陽気をたたえて、その成就を祈願す るつとめである。

  どのよふなたすけするのもみなつとめ
  月日ゆうよにたしかするなら          七 83

  しんぢつの心あるなら月日にも
  しかとうけやいたすけするぞや         七 84

 つとめ人衆が、思召通りに陽気につとめる時、親神は、その真心を受 け取つて、自由自在の守護を現される。

  このつとめせかいぢううのたすけみち
  をしでもものをゆハす事なり          四 91

  にち/\にはやくつとめをせきこめよ
  いかなるなんもみなのがれるで        一〇 19

  とのよふなむつかしくなるやまいでも
  つとめ一ぢよてみなたすかるで        一〇 20

 されば、よふきづとめは、又、たすけづとめとも教えられ、いかなる 願もかなえられるつとめである。

  たすけでもあしきなをするまてやない
  めづらしたすけをもているから        一七 52

  このたすけどふゆう事にをもうかな
  やますしなすによハりなきよに        一七 53

 たすけづとめは、ただ、身上のさわりや、災難や、苦悩をたすけるつ とめであるばかりでなく、進んでは、病まず、死なず、弱らない、珍し い守護をなされるつとめである。

  しんぢつの心しだいのこのたすけ
  やますしなずによハりなきよふ         三 99

  このたすけ百十五才ぢよみよと
  さだめつけたい神の一ぢよ           三 100

  そのゝちハやまずしなすによハらすに
  心したいにいつまでもいよ           四 37

  またさきハねんけんたちた事ならば
  としをよるめハさらにないぞや         四 38

 人々の心が澄みきつて、真実の心となつた暁には、たすけづとめによ つて、甘露を授けられる。これを頂けば、人は、よく百十五歳の定命を 保ち、なお、心次第によつては、いつまでも生きさせてやろうと教えら れる。

  このつとめなにの事やとをもている
  せかいをさめてたすけばかりを         四 93

  はや/\と心そろをてしいかりと
  つとめするならせかいをさまる        一四 92

 このつとめは、人間個々の身上や事情に限らず、更に、豊かな稔りや 平和の栄えなど、広く世界の上に、親神の恵を及ぼすつとめである。
 ここに、恵は遍く一れつに及び、人類は、ひとしく親神の子として、 兄弟姉妹であることに目覚め、互に立て合い扶け合うて、世界は、一つ 心の陽気ぐらしの世と立て替る。
 親神は、更に又、いき・てをどりのさづけによつて、身上たすけの道 を教えられた。

  このさきハなんほむつかしやまいても
  いきとてをどりみなたすけるで        一二 50

  どのよふなむつかしくなるやまいでも
  これなをらんとゆうでないぞや        一二 51

 即ち、さづけは、親神が一名一人の心の真実を見定めて、たすけ一条 のために渡される、こうのうの理である。人々が、授かつたその日の心 を生涯の理に治めて、陽気普請のよふぼくとなり、天の理を取り次がせ て頂くところ、親神は、願う心の誠真実を受け取り、自由自在の守護を もつて、いかなる難病をもたすけられる。さづけの理は、たすけ一条を 誓う一日の日の真心に授けられる、生涯末代の宝であつて、この理をう けて、親神のよふぼくの馳せ巡るところ、広い世界に不思議なたすけは 相ついで現れる。
 まことに、つとめとさづけとは、親神が、世界一れつに、陽気ぐらし をさせてやりたい、との切なる親心によつて教えられた、たすけ一条の 道である。これによつて、病の根は切れ、あしきは祓われて、世界は陽 気によみがえる。
 かくて、世界人類は、親神の篤き守護をたたえて、心ますます勇み、 親神は、又、これを受けて、恵は、いよいよ深く、ここに、神人は共に 和楽して、陽気溢れる世界が、この地上に実現される。

 

  あしきをはらうてたすけせきこむ
  いちれつすましてかんろだい

 

 

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第三章 元の理

 親神は、陽気ぐらしを急き込まれる上から、教祖をやしろとして、こ の世の表に現れた、奇しきいんねんと、よふきづとめの理を、人々によ く了解させようとて、元初りの真実を明かされた。

 この世の元初りは、どろ海であつた。月日親神は、この混沌たる様を 味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに 楽しもうと思いつかれた。
 そこで、どろ海中を見澄されると、沢山のどぢよの中に、うをとみと が混つている。夫婦の雛型にしようと、先ずこれを引き寄せ、その一す じ心なるを見澄ました上、最初に産みおろす子数の年限が経つつたなら、 宿し込みのいんねんある元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせよう と約束し、承知をさせて貰い受けられた。
 続いて、乾の方からしやちを、巽の方からかめを呼び寄せ、これ又、 承知をさせて貰い受け、食べてその心味を試し、その性を見定めて、こ れ等を男一の道具、及び、骨つっぱりの道具、又、女一の道具、及び、 皮つなぎの道具とし、夫々をうをとみとに仕込み、男、女の雛型と定め られた。いざなぎのみこと いざなみのみこととは、この男雛型・種、 女雛型・苗代の理に授けられた神名であり、月よみのみこと くにさづ ちのみこととは、夫々、この道具の理に授けられた神名である。
 更に、東の方からうなぎを、坤の方からかれいを、西の方からくろぐ つなを、艮の方からふぐを、次々と引き寄せ、これにもまた、承知をさ せて貰い受け、食べてその心味を試された。そして夫々、飲み食い出入 り、息吹き分け、引き出し、切る道具と定め、その理に、くもよみのみ こと かしこねのみこと をふとのべのみこと たいしよく天のみこと との神名を授けられた。
 かくて、雛型と道具が定り、いよいよここに、人間を創造されること となつた。そこで先ず、親神は、どろ海中のどぢよを皆食べて、その心 根を味い、これを人間のたねとされた。そして、月様は、いざなぎのみ ことの体内に、日様は、いざなみのみことの体内に入り込んで、人間創 造の守護を教え、三日三夜の間に、九億九万九千九百九十九人の子数を、 いざなみのみことの胎内に宿し込まれた。それから、いざなみのみこと は、その場所に三年三月留り、やがて、七十五日かかつて、子数のすべ てを産みおろされた。
 最初に産みおろされたものは、一様に五分であつたが、五分五分と成 人して、九十九年経つて三寸になつた時、皆出直してしまい、父親なる いざなぎのみことも、身を隠された。しかし、一度教えられた守護によ り、いざなみのみことは、更に元の子数を宿し込み、十月経つて、これ を産みおろされたが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて三寸 五分まで成人して、皆出直した。そこで又、三度目の宿し込みをなされ たが、このものも、五分から生れ、九十九年経つて四寸まで成人した。 その時、母親なるいざなみのみことは、「これまでに成人すれば、いず れ五尺の人間になるであろう」と仰せられ、につこり笑うて身を隠され た。そして、子等も、その後を慕うて残らず出直してしもうた。
 その後、人間は、虫、鳥、畜類などと、八千八度の生れ更りを経て、 又もや皆出直し、最後に、めざるが一匹だけ残つた。この胎に、男五人 女五人の十人ずつの人間が宿り、五分から生れ、五分五分と成人して八 寸になつた時、親神の守護によつて、どろ海の中に高低が出来かけ、一 尺八寸に成人した時、海山も天地も日月も、漸く区別出来るように、か たまりかけてきた。そして、人間は、一尺八寸から三尺になるまでは、 一胎に男一人女一人の二人ずつ生れ、三尺に成人した時、ものを言い始 め、一胎に一人ずつ生れるようになつた。次いで、五尺になつた時、海 山も天地も世界も皆出来て、人間は陸上の生活をするようになつた。
 この間、九億九万年は水中の住居、六千年は智慧の仕込み、三千九百 九十九年は文字の仕込みと仰せられる。

   月日よりたん/\心つくしきり
   そのゆへなるのにんけんである      六 88

 

  このよふのしんぢつの神月日なり
   あとなるわみなどふくなるそや      六 50

   にんけんをはぢめよふとてたん/\と
   よせてつこふたこれに神なを       六 51

 この世の元の神・実の神は、月日親神であつて、月様を、くにとこた ちのみこと 日様を、をもたりのみことと称える。あとなるは皆、雛型 であり、道具である。更に申せば、親神は、深い思召の上から、その十 全の守護を解りやすく詳しく示し、その夫々に神名をつけられたのであ る。

  しかときけこのもとなるとゆうのハな
  くにとこたちにをもたりさまや         一六 12

 思えば、親神は、この世人間を造られたばかりでなく、長の歳月、限 りない親心をもつて、その成人を守護し、時に応じて旬々の仕込みをな された。人類の成人とその文化の発達とは、悉く親神の篤い守護による。

  月日にわせかいぢううをみハたせど
  もとはじまりをしりたものなし        一三 30

  このもとをどふぞせかいへをしえたさ
  そこで月日があらわれてゞた         一三 31

 親神は、この真実を明かし、一れつ人間に陽気ぐらしへの道を教えよ うとて、教祖をやしろとして表に現れられた。即ち、最初産みおろしの 子数の年限が経つた暁は、元のやしきに連れ帰り、神として拝をさせよ うとの、元初りの約束に基く。

  にんけんをはじめだしたるやしきなり
  そのいんねんであまくたりたで         四 55

  このよふをはぢめだしたるやしきなり
  にんけんはじめもとのをやなり         六 55

  月日よりそれをみすましあまくだり
  なにかよろづをしらしたいから         六 56

 親神は、この約束により、人間創造の母胎としての魂のいんねんある 教祖を、予めこの世に現し、宿し込みのいんねんある元のやしきに引き 寄せて、天保九年十月二十六日、年限の到来と共に、月日のやしろに貰 い受けられた。この人と所と時とに関するいんねんを、教祖魂のいんね ん、やしきのいんねん、旬刻限の理という。

  この月日もとなるぢばや元なるの
  いんねんあるでちうよぢさいを         八 47

  このはなしなんでこのよにくどいなら
  たすけ一ぢようけやうのもと          八 48

 かくて、親神は、教祖の口を通して、親しく、よろづいさいの真実を 明かされた。それは、長年の間、一れつ人間の成人に応じて、修理肥と して旬々に仕込まれた教の点睛である。即ち、ここにいよいよ、親神直 直のだめの教が垂示された。けだし、十のものなら九つまで教え、なお、 明かされなかつた最後の一点、元の親を知らして、人類に、親神の子供 たるの自覚を与え、一れつ兄弟姉妹としての親和を促し、親子団欒の陽 気ぐらしの世と立て替えようとの思召からである。これを、

  このよふを初た神の事ならば
  せかい一れつみなわがこなり          四 62

  せかいぢう神のたあにハみなわがこ
  一れつハみなをやとをもゑよ          四 79

  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんというわさらにないぞや        一三 43

と教え、更に又、

  月日にわにんけんはじめかけたのわ
  よふきゆさんがみたいゆへから        一四 25

  せかいにハこのしんぢつをしらんから
  みなどこまでもいつむはかりで        一四 26

  このさきハせかへぢううハどこまでも
  よふきづくめにみなしてかゝる        一〇 103

と仰せられている。陽気ぐらしこそ、人間生活の目標であり、理想であ る。これを実現しようと、よふきづとめを教えて、たすけ一条の道をつ けられた。よふきづとめの理は、実に、この元初りの真実による。

 

  ちよとはなしかみのいふこときいてくれ
  あしきのことはいはんでな
  このよのぢいとてんとをかたどりて
  ふうふをこしらへきたるでな
  これハこのよのはじめだし

 

 

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第四章 天理王命

 親神を、天理王命とたたえて祈念し奉る。
 紋型ないところから、人間世界を造り、永遠にかわることなく、万物 に生命を授け、その時と所とを与えられる元の神・実の神にています。

  このよふのにんけんはじめもとの神
  たれもしりたるものハあるまい         三 15

  どろうみのなかよりしゆごふをしへかけ
  それがたん/\さかんなるぞや         三 16

 親神は、人間世界の根本にていまし、この世を創められたばかりでな く、この世の有りとあらゆるもの、悉く、その守護によらぬものとては ない。しかも、その自由の守護の程は、眼に、身に、心に、ありありと、 感じることが出来る。まことに、元の神・実の神にています。
 即ち、天では月日と現れ、さやけくも温かい光をもつて、余すくまな く、一れつにこの世を照らされる。

  このよふのぢいと天とハぢつのをや
  それよりでけたにんけんである        一〇 54

 人は、天地の間に生を享け、至妙な自然の調和の中に生存している。 遍く月日の光を身に頂いているように、隔てなく天地の恵に浴している。 天地は月日の理で、人は、天地抱き合せの、親神の懐に抱かれて、限り ない慈しみのまにまに生活している。

  このよふのしんぢつのをや月日なり
  なにかよろづのしゆこするぞや         六 102

 親神は、元初りに当り、親しく、道具、雛型に入り込み、十全の守護 をもつて、この世人間を造り、恆にかわることなく、身の内一切を貸し て、その自由を守護し、又、生活の資料として、立毛をはじめとし、万 一切を恵まれている。
 その守護の理は、これに、神名を配して、説きわけられている。

 くにとこたちのみこと 人間身の内の眼うるおい、世界では水の守 護の理。
 をもたりのみこと 人間身の内のぬくみ、世界では火の守護の理。
 くにさづちのみこと 人間身の内の女一の道具、皮つなぎ、世界で は万つなぎの守護の理。
 月よみのみこと 人間身の内の男一の道具、骨つっぱり、世界では 万つっぱりの守護の理。
 くもよみのみこと 人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上 げ下げの守護の理。
 かしこねのみこと 人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の 理。
 たいしよく天のみこと 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直の時、 息を引きとる世話、世界では切ること一切の守護の理。
 をふとのべのみこと 出産の時、親の胎内から子を引き出す世話、 世界では引き出し一切の守護の理。
 いざなぎのみこと 男雛型・種の理。
 いざなみのみこと 女雛型・苗代の理。

 即ち、親神天理王命の、この十全の守護によつて、人間をはじめとし、 万物は、皆、その生成を遂げている。

  たん/\となに事にてもこのよふわ
  神のからだやしやんしてみよ          三 40・ 135

 この世は、親神の身体であつて、世界は、その隅々にいたるまで、親 神の恵に充ちている。そして、その恵は、或は、これを火・水・風に現 して、目のあたりに示し、又、眼にこそ見えぬが、厳然たる天理として、 この世を守護されている。即ち、有りとあらゆるものの生命の源であり、 一切現象の元である。
 実に、この世は、理ぜめの世界であつて、一分のすきもなく、いささ かの遺漏もない。天地自然の間に行われる法則といわず、人間社会にお ける秩序といわず、悉く、奇しくも妙なる親神の守護ならぬはない。

  このせかい一れつみゑる月日なら
  とこの事でもしらぬ事なし           八 51

  月日よりみなそれ/\とみさだめて
  善とあくとをみハけするぞや          八 52

 親神は、人の心はもとより、総てを見ぬき見透し、善悪共に見分けて、 思召のままに守護されている。

  にんけんのわが子をもうもをなぢ事
  こわきあふなきみちをあんぢる         七  9

  それしらすみな一れハめへ/\に
  みなうゝかりとくらしいるなり         七 10

  このせかいなにかよろづを一れつに
  月日しはいをするとをもゑよ          七 11

 しかも、親神は、どこまでも、一れつ子供を愛撫される親にています。 しかるに、この親心を悟らず、天地を無視し、己が力を過信して、我ま まな心を遣い、得手勝手な行をしているのは、万一切を支配し、総てを 見ぬき見透されている親神の眼から見れば、あたかも独り歩きする幼児 のようで、これほど危いことはない。

  どのよふなくどきはなしをするのもな
  たすけたいとの一ぢよばかりで         七 26

  一れつのむねのうちよりしんぢつに
  はやくわかりた事であるなら          七 27

  それからハ月日よろづのしはいする
  なにかよろづのたすけするぞや         七 28

 親神は、これをあわれと思召し、種々言葉を尽して、一れつたすけの 限りない親心を明かし、よろづいさいの真実を教えて、自由自在の珍し い守護を見せられる。

  月日にハせかいぢううハみなわが子
  かハいいゝばいこれが一ちよ         一七 16

 親神は、人間の実の親にています。親神は、ただ一すじに、一れつの 子供に陽気ぐらしをさせたいと望ませられ、教祖をやしろとして表に現 れ、元初りのいんねんあるぢばにおいて、たすけ一条の道を啓かれた。
 ぢばは、天理王命の神名を授けられたところ、その理を以て、教祖は、 存命のまま、永久にここに留り、一れつを守護されている。

  どのよふなたすけするのもしんちつの
  をやがいるからみなひきうける         七 101

 実に、天理王命、教祖、ぢばは、その理一つであつて、陽気ぐらしへ のたすけ一条の道は、この理をうけて、初めて成就される。

 

  あしきをはらうてたすけたまへ
  てんりわうのみこと

 

 

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第五章 ひながた

 教祖は、口や筆で親神の教を説き明かされると共に、身を以てこれを 示された。この道すがらこそ、万人のひながたである。
 教祖は、寛政十年四月十八日、前川半七正信の長女として生れ、名を みきと申される。
 幼少の頃から、慈悲と同情の心に篤く、又、深く道を求め、世塵を脱 けて、生涯を信仰に捧げたい、と熱願されたが、奇しきいんねんの理に よつて、大和国山辺郡庄屋敷なる、中山氏という元のやしきに迎えられ、 善兵衞の妻となられた。
 以来、益々信心の道に心を磨かれると共に、人の妻として、忠実やか に夫に従い、両親に仕え、家人をいたわり、篤く隣人に交り、又、家業 に精を出された。かくて、慈悲と同情の天禀は、愈々深められ、高めら れて、よく怠者を感化し、盗人を教化されたばかりでなく、自分を無き ものにしようとした者に対してすら、その罪を責めることなく、我が身 の不徳のいたすところとして、自然のうちにこれを徳化せられた。又、 預つた乳児が病んだ時には、我が子、我が身の命を捧げ、真心をこめ、 命乞をして、瀕死の児を救われた。
 天保九年十月二十六日、齢四十一歳を以て、月日のやしろと召されて からは、貧に落ち切れ、との思召のままに、貧しい者への施しにその家 財を傾けて、赤貧のどん底へ落ち切る道を急がれた。
 この行は、家人や親戚知人に、理解され難く、厳しい忠告や激しい反 対のうちに、十数年の歳月を重ねられた。かかるうちに、夫は出直し、 一家は愈々どん底へと向つたが、この大節のさなかに、一身一家の都合 を越えて、同年、末女こかんを大阪に遣し、天理王命の神名を流された。
 このように、常人の及ばぬ信念は、却つて人々の冷笑を呼び、離反を 招いて、遂には、訪ねる者もなく、親子三人で食べるに米のない日々を 過された。父なき後、一家の戸主となつた秀司は、青物や柴の商によつ て、日々の生計をはかつた。しかも、教祖は、かかる中にも、人の難儀 を見ては、やつと手にした米を、何の惜気もなく施された。
 或る年の秋祭の日に、村の娘たちが、今日を晴れと着飾つて、嬉々と しているのに、娘盛のこかんは、晴着はおろか着更さえもなくて、半分 壊れた土塀のかげから、道行く渡御を眺めていたこともある。又、夏に なつても吊るに蚊帳なく、冬は冬とて吹きさらしのあばら屋に、あちら の枝を折りくべ、こちらの枯葉をかき寄せては、辛うじて暖をとり、点 す油にこと欠く夜は、月の明りを頼りに、糸つむぎなどして過されたこ ともある。
 十年に亙る長い年月の間、かかる窮迫の中にも、教祖は、常に明るい 希望と喜びとをもつて、陽気ぐらしへの道を説かれた。そして、時には、 水と漬物ばかりで過されながら、「世界には、枕もとに食物を山ほど積 んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんというて、苦しんでいる 人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がす る。親神様が結構にお与え下されてある」と、子達を励まされた。
 月日のやしろとなられてから、このようにして二十余年を過されたが、 やがて、をびや許しによつて示された珍しいたすけが、道あけとなり、 教祖を生神様として慕い寄る者が、近郷一帯にあらわれた。教祖は、こ れらの人々に、病の元は心からと教え、不思議なたすけを示されたこと は数知れぬほどで、不治といわれた難病も、教祖の前には決して不治で はなかつた。盲人もその場で眼を開き、気の狂うた人も、すきやかに正 気に復した。
 かくて、輝かしい道の黎明は訪れたが、それは又同時に、新な苦難へ の門出でもあつた。嫉妬、猜疑、無理解から起る弁難攻撃、或は又、白 刃を抜いての乱暴狼藉などが、それであつた。かかる煩わしい生活に明 け暮れされたが、教祖は、益々心勇み、陽気なかぐらづとめを教え、て をどりの手をつけられた。まことに、そこには、過去三十年に亙つてな められた苦難の陰影はなく、又、白刃の下をくぐられた酷しい日々の片 影さえも窺えない。ただ、一れつの子に、親神の胸のうちを知らせよう、 との親心あるばかりである。
 更に、筆をとつて、たすけづとめのしんである人間宿し込みのぢばと、 かんろだいの理を明かし、つとめの人衆について教え、なお、証拠まも りや、いき・てをどりのさづけを渡すなど、たすけ一条の道を示された。
 かかる中にも、厳寒酷暑を問わず、十数度に余る獄舎への御苦労が続 いたが、聊かもこれを意にかけず、ひたすら、疑い深く理解の鈍い人心 を教化しようと、日夜、手を尽し心を砕き、或は温かく或は鋭く、折に ふれ、人に応じて導かれた。
 かように行き届いた導きによつて、教は、大和はもとより、五畿内か ら関東、東海に伸び、山陽、四国に及んだ。かくて、教祖を慕う白熱の 信仰は、人々の足をぢばへぢばへと運ばせたが、なおも、教祖は、親神 の思召のまにまに、終始、かぐらづとめを急き込まれた。
 しかし、迫害は歳を追うて激しさを加え、つとめすることは、直に、 教祖の獄舎への御苦労となつたが、教祖は、何処においでになつても、 平常と少しも変られないばかりか、これを、却つて、表に出るとか、働 きに行くとか仰せられて、迎えの役人を、やさしく労われた。
 かかる態度によつて仕込みを受けた人々は、このひながたを慕うて、 たすけ一条の上には、我が身どうなつてもと、勇み立つたが、高齢の教 祖に、これ以上の御苦労をかけるには忍びなかつた。
 かくて過ぎゆくうちに、明治十九年陰暦十二月八日、教祖の身に異状 がうかがわれた。この時、「これは世界の動くしるしや」と仰せになつ たが、人々は、どうした親神の思召であろうかと、憂慮のうちに種々と 協議を重ね、心の練合いに日を過した。そして、一同の協議に上つた問 題で、思案に余る困難な事情を悉く披瀝して、十数度に亙り、繰り返し 繰り返し、押しての願を以て理を伺つた。これに対して示された思召は、 常に一貫して、たすけづとめの急き込みで、

さあ今と言う、今と言うたら今、抜き差しならぬで。承知か。

と、厳しい言葉で、のつぴきならぬ重大時機の迫つている事を暗示され た。そして又、

心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。

と、己が身上を台として、一同の決心を促し、

さあ/\実があれば実があるで。実と言えば知ろまい。真実というは 火、水、風。
さあ/\実を買うのやで。価を以て実を買うのやで。

とて、胸のおき処を諭された。
 かくも明確に思召を承りながら、直につとめにとりかかれなかつたの は、徹し切れない人間心のはかなさとはいえ、教祖の身にふりかかる御 苦労を、気遣うたからである。
 その年も暮れ、明けて明治二十年陰暦正月二十五日にいたつて、気分 甚く勝れられず、どうしたことかと思召を伺えば、

さあ/\すっきりろくぢに踏み均らすで。さあ/\扉を開いて/\、 一列ろくぢ。さあろくぢに踏み出す。さあ/\扉を開いて地を均らそう か、扉を閉まりて地を均らそうか/\。

との仰せであつた。真意を解しかねた一同が、扉を開く方が陽気でよか ろうとの思いから、扉を開いてろくぢにならし下されたいと申上げると、

一列に扉を開く/\/\/\。ころりと変わるで。

と仰せられた。
 明くれば二十六日、教を開かれた元一日の縁の日であり、しかも、つ とめを急き込まれることが、極めて急であるので、今は、最早や躊躇し ている場合でないと、一同深く心に決して、万一に備える準備を整え、 常になく鳴物までもいれて、つとめにかかつた。
 教祖は、休息所にやすまれながら、この陽気なかぐらづとめの音を聞 かれ、いとも満足げに見うけられたが、北枕で西向のまま、静かに眠り にはいられた。齢、正に九十歳。
 教祖は、現身の寿命を二十五年縮めて、姿をかくされたが、魂は永久 に元のやしきに留り、存命のまま、一れつ子供の成人を守護されている。

 

  にんけんをはじめたをやがも一にん
  どこにあるならたつねいてみよ         八 75

 

 

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第六章 てびき

 人は皆、苦しみを厭い、楽しみを求め、悩みを避け、喜びを望む。親 神が、陽気ぐらしをさせたいとの思召で、人間世界を造られたからであ る。
 しかるに、世には、病苦にさいなまれ、災厄におそわれ、家庭の不和 をかこち、逆境にもだえるなど、その身の不幸をなげいている人が多い。 それは、親神を知らず、その深い親心を知らないからである。
 親神は、一れつ人間の親におわす。しかるに、人は、この真実を知ら ず、従つて、互にひとしく親神を親と仰ぐ兄弟姉妹であることも知らず に、銘々が勝手に生きているように思いあやまり、われさえよくばの我 が身思案や、気ままな行をして、他の人々の心を傷つけ曇らし、世の親 和を害ない紊しているばかりでなく、それがために、己れ自らの心をも 傷つけ曇らせていることを気附かずにいる。

  月日にハたん/\みへるみちすぢに
  こわきあふなきみちがあるので         七  7

  月日よりそのみちはやくしらそふと
  をもてしんバいしているとこそ         七  8

 親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、い じらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝え て、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるし を見せられる。

  なにゝてもやまいいたみハさらになし
  神のせきこみてびきなるそや          二  7

  せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
  神のみちをせてびきしらすに          二 22

 即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反 省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈 愛のてびきに外ならぬ。
 しかるに、親神の深い心を知らぬ人々は、ただ眼前の苦しみや悩みに 心を奪われて、ややもすれば、あさはかな人間思案から、人を怨み、天 を呪い、世をはかなみ、或は理想を彼岸に求めたりする。

  にんけんもこ共かわいであろをがな
  それをふもをてしやんしてくれ        一四 34

  にち/\にをやのしやんとゆうものわ
  たすけるもよふばかりをもてる        一四 35

  一れつのこどもハかわいばかりなり
  とこにへたてわさらになけれど        一五 69

  しかときけ心ちがゑばせひがない
  そこでだん/\ていりするのや        一五 70

 親神は、これらの人々に、隔てない切々の親心を明かし、人間の我が 子を慈しむ親心に照して、よく思案をするがよいと、いとも懇に教えら れている。
 およそ、人の親にして、我が子を愛しないものはない。子の行末を思 えばこそ、時には、やむなく厳しい意見もする。この切ない親心がわか れば、厳しいうちにも慈しみ深い親神の心尽しの程がくみとられて、有 難さが身にしみる。
 ここに、かたくなな心は開かれ、親神の温かい光を浴びて、心はよみ がえる。そして、ひたすら、篤い親心に添いきる心が定る。かくて、真 実に心が定れば、親神は、すぐとその心を受け取り、どんな自由自在の 理も見せられる。親神は、それを待ちわびておられる。

  しんぢつに心さだめてねがうなら
  ちうよぢざいにいまのまあにも         七 43

  いまゝでハとんな心でいたるとも
  いちやのまにも心いれかゑ          一七 14

  しんぢつに心すきやかいれかゑば
  それも月日がすぐにうけとる         一七 15

 しかし、人間心のはかなさは、折角、てびきを頂いて、心を定めても、 時がたてば、一旦定めた心もいつのまにか動いて、形ばかりの信心にお ち、知らず識らずのうちに、又もや、親心に反する心を遣うたり、行を したりして、しかも、気附かずにいる場合が多い。

神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、 十日経つ、三十日経てば、ころつと忘れて了う。 (明治三一・五・九)

と示されている所以である。故に、

日が経てば、その場の心が弛んで来るから、何度の理に知らさにゃな らん。 (明治二三・七・七)

と仰せられ、ともすれば弛みがちな心をはげまして、なおも心の成人を 促される上から、信心するうちにも、幾度となく、身上や事情の上に、 しるしを見せ、心を入れ替える節を与えられる。この篤い親心を悟つて、 益々心を引きしめて通つてこそ、生涯変らぬ陽気づくめの理を見せて頂 ける。
 かくて、教の理が胸に治り、心が次第に成人するにつれて、大難は小 難に、小難は無難に導かれる親心が、しみじみと感じられて、今まで喜 べなかつたことも、心から喜べるようになり、今まで楽しめなかつたこ とも、心から楽しめるようになる。
 陽気づくめの境地への力強い足どりが、こうして進められてゆく。

 

  しやんして心さためてついてこい
  すゑハたのもしみちがあるぞや         五 24

 

 

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第七章 かしもの・かりもの

  たいないゑやどしこむのも月日なり
  むまれだすのも月日せわどり          六 131

 人体のこの精巧な構造、微妙な機能は、両親の工夫で造られたもので もなければ、銘々の力で動かせるものでもない。すべては、親神の妙な る思わくにより、又、その守護による。

  にんけんハみな/\神のかしものや
  なんとをもふてつこているやら         三 41

  にんけんハみな/\神のかしものや
  神のぢうよふこれをしらんか          三 126

 この世に生れさせて頂き、日々結構に生活しているのも、天地抱き合 せの、親神の温かい懐で、絶えず育まれているからである。即ち、銘々 が、日々何の不自由もなく、身上をつかわせて頂けるのも、親神が、温 み・水気をはじめ、総てに亙つて、篤い守護を下さればこそで、いかに 己が力や智慧を頼んでいても、一旦、身上のさわりとなれば、発熱に苦 しみ、悪寒に悩み、又、畳一枚が己が住む世界となつて、手足一つさえ 自由かなわぬようにもなる。ここをよく思案すれば、身上は親神のかし ものである、という理が、自と胸に治る。

  めへ/\のみのうちよりのかりものを
  しらずにいてハなにもわからん         三 137

 銘々の身上は、親神からのかりものであるから、親神の思召に隨うて、 つかわせて頂くのが肝腎である。この理をわきまえず、我が身思案を先 に立てて、勝手にこれをつかおうとするから、守護をうける理を曇らし て、やがては、われと我が身に苦悩を招くようになる。これを、

人間というは、身の内神のかしもの・かりもの、心一つが我が理。 (明治二二・六・一)

と教えられている。

人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つ の心より、どんな理も日々出る。どんな理も受け取る中に、自由自在と いう理を聞き分け。 (明治二二・二・一四)

自由自在は、何処にあると思うな。めん/\の心、常々に誠あるのが、 自由自在という。 (明治二一・一二・七)

 即ち、身の内の自由がかなうのも、難儀不自由をかこつのも、銘々の 心遣い一つによつて定まる。それを、心一つが我の理と教えられる。
 しかるに、人は、容易にこの理が治らないままに、あさはかな人間心 から、何事も自分の勝手になるものと思い、とかく、己一人の苦楽や利 害にとらわれて、一れつの和楽を望まれる親心に、もとる心を遣いがち である。親神は、かかる心遣いを、埃にたとえて、戒められている。
 元来、埃は、吹けば飛ぶほど些細なものである。早めに掃除さえすれ ば、たやすく綺麗に払えるが、ともすれば積りやすくて、油断をすれば、 いつしか、うずだかく積りかさなり、遂には、掃いても拭いても、取り 除きにくくなるものである。

  よろづよにせかいのところみハたせど
  あしきのものハさらにないぞや         一 52

  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり         一 53

 心遣いも、銘々に、我の理として許されてはいるが、親神の心に添わ ぬ時は、埃のように積りかさなり、知らず識らずのうちに、心は曇つて、 本来の明るさを失い、遂には手もつけられぬようになる。かかる心遣い をほこりと教えられ、一人のほこりは、累を他に及ぼして、世の中の平 和を紊すことにもなるから、常によく反省して、絶えずほこりを払うよ うにと諭されている。
 このほこりの心遣いを反省するよすがとしては、をしい、ほしい、に くい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八種を挙げ、又、 「うそとついしよこれきらい」と戒められている。
 親神は、これらの心遣いをあわれと思召され、身上や事情の上に、し るしを見せて、心のほこりを払う節となし、人々を陽気ぐらしへと導か れる。

  せかいぢうむねのうちよりこのそふぢ
  神がほふけやしかとみでいよ          三 52

  めへ/\にハがみしやんハいらんもの
  神がそれ/\みわけするぞや          五  4

  めへ/\の心みのうちどのよふな
  事でもしかとみなあらわすで         一二 171

  これみたらどんなものでもしんぢつに
  むねのそふちがひとりてけるで        一二 172

 即ち、いかなる身上のさわりも事情のもつれも、親神がほおきとなつ て、銘々の胸を掃除される篤い親心のあらわれと悟り、すべて、現れて 来る理、成つて来る理をよく思案するならば、自と、心のほこりを払う ようになる。かくして、ほこりさえ綺麗に掃除するならば、あとは珍し いたすけに浴して、身上は、病まず弱らず、常に元気に、守護頂ける。

  ほこりさいすきやかはろた事ならば
  あとハめづらしたすけするぞや         三 98

 しかるに、人は、心の成人の未熟さから、多くは定命までに身上を返 すようになる。身上を返すことを、出直と仰せられる。それは、古い着 物を脱いで、新しい着物と着かえるようなもので、次には、又、我の理 と教えられる心一つに、新しい身上を借りて、この世に帰つて来る。

  きゝたくバたつねくるならゆてきかそ
  よろづいさいのもとのいんねん         一  6

 人間には、陽気ぐらしをさせたいという親神の思いが込められている。 これが、人間の元のいんねんである。
 しかるに、人間は、心一つは我の理と許されて生活すうちに、善き種 子もまけば、悪しき種子もまいて来た。善き事をすれば善き理が添うて 現れ、悪しき事をすれば悪しき理が添うて現れる。

 世界にもどんないんねんもある。善きいんねんもあれば、悪いいんね んもある。 (明治二八・七・二二)

 およそ、いかなる種子も、まいてすぐ芽生えるものではない。いんね んも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の 理を見せられることもある。己一代の通り来りによるいんねんならば、 静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺 め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自 分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。
 親神が、種々といんねんを見せられるのは、それによつて人々の心を 入れ替えさせ、或は勇ませて、陽気ぐらしをさせたい、との篤い親心か らであつて、好ましからぬいんねんを見せられる場合でさえ、決して、 苦しめよう困らせようとの思召からではない。いかなる中も、善きに導 かれる親心にもたれ、心を治めて通るならば、すべては、陽気ぐらしの 元のいんねんに復元されて、限りない親神の恵は身に遍く、心は益々明 るく勇んで来る。
 人の幸福は、その境遇に在るのではなく、人生の苦楽は、外見によつ て定るのではない。すべては、銘々の心の持ち方によつて決まる。心の 持ち方を正して、日々喜び勇んで生活すのが、信心の道である。
 即ち、身上かしもの・かりものの理をよく思案し、心一つが我の理で あることを自覚して、日々常々、胸のほこりの掃除を怠らず、いかなる 場合にも、教祖ひながたを慕い、すべて親神にもたれて、人をたすける 心で通るのが、道の子の心がけである。そこには、自他の心を曇らす何 物もなく、ただ、親神の思召のままに生活させて頂き、連れ通り頂いて いる喜びがあるばかりである。

 

  このよふハ一れつハみな月日なり
  にんけんハみな月日かしもの          六 120

 

 

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第八章 道すがら

 親神のてびきによつて信仰に入り、教の理を聴きわけて、かしものの 理もよく胸に治り、心のほこりも次第にぬぐわれ、いんねんの悟りもつ いたなら、ものの観方が変つてくる。
 見えるまま、聞えるままの世界に変りはなくとも、心に映る世界が変 り、今まで苦しみの世と思われたのが、ひとえに、楽しみの世と悟られ て来る。己が心が明るければ、世上も明るいのであつて、まことに、 「こゝろすみきれごくらくや」と教えられている所以である。
 しかるに、人の心は常に変りやすい。朝の心は必ずしも夕の心ではな い。とかく、身近に起る事柄に心を動かされて、朝に明るい心も、夕に は暗くなりがちである。一度は、教に感激して信仰に志しても、やがて 喜び勇めなくなることもあれば、折角、たすけて頂いても、又も、身上 のさわりや事情のもつれで、心が動揺する時もある。この中にあつて、 常に己が心を省みて、いかなることも親神の思わくと悟り、心を倒さず に、喜び勇んで明るく生活すのが、道の子の歩みである。この心の治め 方をたんのうと教えられる。
 親神の胸に抱かれ、ひたむきに信仰に進むものは、我が身にふりかか るいかなる悩みや苦しみにも、溺れてしまうことなく、むしろ素直に成 つて来る理を見つめて通るから、悩みや苦しみも、かえつて喜びに転じ てくる。かくて、真にたんのうの心が治れば、前生のいんねんは納消さ れる。これを、「たんのうは前生いんねんのさんげ」と諭される。
 たんのうは、単なるあきらめでもなければ、又、辛抱でもない。日々、 いかなる事が起ろうとも、その中に親心を悟つて、益々心をひきしめつ つ喜び勇むことである。かくて、身上のさわりも事情のもつれも、己が 心の糧となり、これが節となつて、信仰は一段と進む。これを、「節か ら芽が出る」と諭される。
 日々常々、何事につけ、親神の恵を切に身に感じる時、感謝の喜びは、 自らその態度や行為にあらわれる。これを、ひのきしんと教えられる。

  なんでもこれからひとすぢに
  かみにもたれてゆきまする           三下り目 7

  やむほどつらいことハない
  わしもこれからひのきしん           三下り目 8

 身上の患いをたすけて頂いた時、親神の守護が切実に身にしみる。病 んだ日のことを思いかえし、健かな今日の日を思えば、心は言い知れぬ 喜びに躍る。身上壮健に働ける幸福を、しみじみと悟れば、ひたすら親 神にもたれて、思召のままにひのきしんに勇み立つ。

  よくをわすれてひのきしん
  これがだいゝちこえとなる          一一下り目 4

 ひのきしんに勇む心には、欲はない。この求めるところなく、ただ黙 黙と骨身惜しまず尽す行為こそ、やがて、銘々の生活に美わしい実を結 ぶ肥となる。

  みれバせかいがだん/\と
  もつこになうてひのきしん          一一下り目 3

  なにかめづらしつちもちや
  これがきしんとなるならバ          一一下り目 7

 少しでも普請の役に立ちたいと、もつこを担うて、日々、土持のきし んをする。心は益々明るく勇み立つて、それが何よりのひのきしんにな る。これは誰にも出来るが、実地に身に行うて、初めて、その言い知れ ぬ味がわかる。
 ひのきしんは、信仰に燃える喜びの現れで、その姿は、千種万態であ る。必ずしも、土持だけに限らない。欲を忘れて、信仰のままに、喜び 勇んで事に当るならば、それは悉くひのきしんである。
 ひのきしんは、一時の行為ではなく、日常の絶えざる喜びの行為であ る。しかも、その喜びは、自分一人に止るのではなく、他の人々をも感 化し、心あるものは、次々と相携えて、その喜びを共にするようになる。

  ふうふそろうてひのきしん
  これがだいゝちものだねや          一一下り目 2

 親神は、「ふうふそろうてひのきしん」と教えられる。夫を化し、妻 を導いて、夫婦共々に心を揃え、日々ひのきしんに勇むところ、一入そ のむつまじさが溢れ出て、一家に春の明るさと和ぎが漂う。これを、 「だいゝちものだねや」と仰せられる。
 一家の陽気は隣人に及び、多くの人々は、われもわれもと相競うて、 ひのきしんにはげみ、世界には、一手一つの陽気が漲つてくる。かくて、 親神の望まれる陽気ぐらしの世が現れる。

  いつ/\までもつちもちや
  まだあるならバわしもゆこ          一一下り目 5

 たんのうの心が治り、ひのきしんに身が勇んで、欲を忘れる時、ここ に、親神の思召にかなう誠真実があらわれる。その日々の姿には、何の 裏表もなく、清らかさと明るさが溢れてくる。そして、親神の思召をそ のままに読みとり、さながらに身に行えるようになる。
 かかる誠真実に徹するのが、心の成人を遂げた所以であつて、親神は、 それを待ちわびておられる。

  いまゝでハせかいぢううハ一れつに
  めゑ/\しやんをしてわいれども       一二 89

  なさけないとのよにしやんしたとても
  人をたすける心ないので           一二 90

  これからハ月日たのみや一れつわ
  心しいかりいれかゑてくれ          一二 91

  この心どふゆう事であるならば
  せかいたすける一ちよばかりを        一二 92

 この篤い親心に、そのまま添いたいと念ずるにつけ、人の難儀を見て は、じつとしておられず、人の苦しみをながめては、看過すことが出来 なくなる。自分に出来ることなら、何事でも喜んで行い、なんでも、た すかつて貰いたいとの言行となる。そして、多くの人々に導きの手を与 えるにをいがけとなり、人だすけとなる。それは、己の利害に偏らず、 一れつ兄弟姉妹の真実に目覚め、互立て合い扶け合いの念から、人の苦 しみを我が苦しみとなし、我が身を忘れて、人に尽すひたぶるの行為と なつてあらわれる。

  このさきハせかいぢううハ一れつに
  よろづたがいにたすけするなら        一二 93

  月日にもその心をばうけとりて
  どんなたすけもするとをもゑよ        一二 94

 かくて、教祖のひながたにならい、たすけにはげむ。口と心と行とは 常に一致して、うまずたゆまず、理をみつめて進む。その日々は、人の 眼から見れば、一寸には弱いもののようにも思われる。しかし、これこ そ、親神の心に通う誠真実であるから、真にそのまま受け取つて頂くこ とが出来るので、ながい眼で見れば、これほど堅く強いものはない。

誠程強いものはない、誠は天の理である。誠であれば、それ世界成程 と言う。(明治二一・六・二)

 誠真実は、親神の思召に添い、天の理にかなう心であるから、親神は、 この誠真実をすぐと受け取つて、いかなるたすけもひき受けられる。

  しんちつに心にまことあるならば
  どんなたすけもちがう事なし         一三 71

誠一つの理は天の理、天の理なれば直ぐと受け取る、直ぐと返えすが 一つの理。 (明治二三・四・一七)

 自分の心に誠真実の理が治れば、心ない人の口説に煩わされることな く、常に変らぬ喜びと力に溢れて、明るく陽気に進むことが出来る。そ こに正しく、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分むつまじい という一つの理が治り、他をも自ら化し、一波は万波を呼んで、更に多 くの人々の心の躍動を呼び起す。

 

  だん/\になにかの事もみへてくる
  いかなるみちもみなたのしめよ         四 22

 

 

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第九章 よふぼく

 たすけて頂いた喜びは、自ら外に向つて、人だすけの行為となり、こ こに、人は、親神の望まれる陽気ぐらしへの普請の用材となる。これを よふぼくと仰せられる。
 親神は、一れつたすけの切なる思わくから、多くのよふぼくを引き寄 せようと急き込まれる。

  一寸はなし神の心のせきこみハ
  よふぼくよせるもよふばかりを         三 128

  よふぼくも一寸の事でハないほどに
  をふくよふきがほしい事から          三 130

  この人をどふゆう事でまつならば
  一れつわがこたすけたいから         一三 85

 よふぼくには、男女の別もなく、貴賤の差もない。その用向には、時 と所にしたがい相違があろうとも、心一つの理によつて、ひとしく、親 神のよふぼくたるに変りはない。

  この木いもめまつをまつわゆハんでな
  いかなる木いも月日をもわく          七 21

 思えば、親神の類ない陽気普請に、よふぼくとして引き寄せられるの は、実に、道の子の幸である。しかし、心が直くなくては、折角引き寄 せられても、役に立たぬから、親神は、時に応じ事に当つて、種々様々 とていれをされる。これをしつかり心に治めさえすれば、身上のさわり も事情のもつれも、ただ道の花として喜びの中に受け取れる。

  にち/\によふほくにてわていりする
  どこがあしきとさらにをもうな         三 131

 かくて、引き寄せられて親里に帰り、別席順序を運ぶ。だんだんの席 を重ね、話の理によつてほこりを払い、行を正すうちに、心は澄んで、 たすかりたいとの願は、たすかつて貰いたいとの念となる。そこに、さ づけの理が授けられて、心は生れかわる。さづけの理は、よふぼくたる 銘々の心に授けられる天の与えである。このさづけの理が心に治つて、 初めて、こうのうを見せて頂ける。

精神の理によつて働かそう。精神一つの理によつて、一人万人に向か う。神は心に乗りて働く。心さえしつかりすれば、神が自由自在に心に 乗りて働く程に。 (明治三一・一〇・二)

と示されている。即ち、さづけの理を授けられたものは、日々常々の心 遣いが大切である。さづけの理を頂いたその日の心を、生涯の心として 通つてこそ、親神は、いつも変らぬ鮮かな守護を下さる。

  たん/\とよふぼくにてハこのよふを
  はしめたをやがみな入こむで         一五 60

  このよふをはじめたをやか入こめば
  どんな事をばするやしれんで         一五 61

 およそ、よふぼくの使命は、たすけ一条にある。それは、自らはげん で、天の理をよく心に治め、身をもつて教の実を示しつつ、一言の話を 取り次ぐにをいがけに始まる。そして、更に進んでは、なんでもたすか つて貰いたいとの一念から、真心こめてさづけを取り次がせて頂くとこ ろに、珍しいたすけの実が現れる。
 それは、見えた形の巧拙によるのではない。ただ、たすかつて貰いた いとの切なる願に基いて、真実を尽して取り次ぐから、親神は、その心 をそのまま受け取つて、珍しい守護を見せられる。即ち、己が力による のではなく、親神が、よふぼくに入り込んで、働かれるからである。
 かくて、よふぼくは、さづけを取り次いで、病む人々にたすかつて貰 うのであつて、自分がたすけの主ではなく、どこまでも、親神のよふぼ くに外ならぬ。されば、よふぼくたるものは、日々、ひたすら己が心を 治めて、曇りない天の理を映すことが肝腎である。銘々が常に、教祖の ひながたをたどり、俗にいて俗に墮せず、進んで土地ところの手本雛型 となつてこそ、真にその使命が全うされる。
 身上を病んで苦しむ者に、さづけを取り次ぎ、せんすべない事情に悩 む者に、教の理を取り次ぐのが、よふぼくの進む道である。それは単に、 あの痛み、この憂いを除くだけではなく、寧ろ、かかる苦しみを見せて 頂いている、その人の心を、しんからたすけさせて貰うのである。
 人は本来、己が力で生きているのではない。しかも、己が力で生きて いると思い誤り易いのが人の常で、そこには、涯しない心の闇路がある ばかりである。たすけとは、かかる人々に、親神の思召を取り次いで、 その守護のまにまに、暗黒の境涯から光明の世界へと導くことである。
 まことに、この道は、心だすけの道である。心がたすかれば、身上や 事情の苦しみ悩みは、自らいやされ、解決される。それは、親神の思召 にそのまま添いきるからである。

  心さい月日しんぢつうけとれば
  どんなたすけもみなうけやうで         八 45

 よふぼくは、仮令、年限の理に浅い深いの相違があろうとも、教祖ひ ながたの道を慕い、ひたむきなたすけ一条の心から、あらゆる困難を乗 り越え、温かい真心で、一すじにたすけの道に進むなら、何人でも、親 神の守護を鮮かに頂くことが出来る。

  しんぢつにたすけ一ぢよの心なら
  なにゆハいでもしかとうけとる         三 38

  わかるよふむねのうちよりしやんせよ
  人たすけたらわがみたすかる          三 47

 ひたすら、世の人の上に親神の守護を願いつつ、我が身を忘れて行う うちに、親神に守られ、その胸に抱かれて、自身もいつしか心は成人し て、明るく陽気に救われて行く。
 よふぼくとしての丹精の效があらわれ、道を求めるものが、次第に相 寄り相集つて、教会名称の理が許される。それは、なんでもという精神 の理に許されるもので、よふぼくの役目は、ここに一段と光を添える。
 教会は、神一条の理を伝える所であり、たすけ一条の取り次ぎ場所で ある。その名称の理を、真によく発揚するには、ここに寄りつどうもの が、ぢばの理に添い、会長を心として、心を一つに結び合うのが肝腎で ある。かくて、教会生活は、国々所々における人々の和楽を深め、互に 扶け合いつつ、心の成人を遂げる陽気ぐらしの雛型となる。
 されば、会長の使命は、常に元を忘れずに、自ら進んで深く教の理を 究め、心を治めて、道の先達となり、誠真実をもつて、人々を教え導く にある。かくて、その徳に薫化された人々の心は、自と成人し、共に和 し共に結んで、教の実は挙げられて行く。

 

  しんぢつにたすけ一ぢよてあるからに
  なにもこわみハさらにないぞや         三 77

 

 

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第十章 陽気ぐらし

 たすけの道にいそしむ日々は、晴れやかな喜びに包まれ、湧き上る楽 しさに満たされる。それは、常に、温かい親神の懐に抱かれ、人をたす けて我が身たすかる安らぎの中に身を置くからである。これが、陽気ぐ らしの境地である。
 親神は、陽気ぐらしを見て、共に楽しみたいとの思わくから、人間を 創められた。されば、その思召を実現するのが、人生の意義であり、人 類究極の目的である。

  いつまでしん/\したとても
  やうきづくめであるほどに          五下り目 5

 明るく勇んだ心、それは陽気な心である。この陽気な心で日々を送る ところに、真の幸福があり、生き甲斐がある。いか程長く道をたどつて も、心が勇まずに、いずんでいては、親神の心にかなわぬ。親神の守護 のままに、日々、喜びと楽しみの中に生活すのが、人の世のこの上ない 味である。閉された心の窓を開き、遍き親神の光を身に受ける時、自ら 暗い迷いの雲は晴れて、明るい喜びの中に立つ。陽気ぐらしとは楽しみ づくめの生活である。
 陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆 皆心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者 苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん・ (明治三〇・一二・一一)

 人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘 れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗 い歩みがあるばかりである。

勝手というものは、めん/\にとつてはよいものなれど、皆の中にと つては治まる理にならん。 (明治三三・一一・二〇)

 一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘 れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう。
 一手一つの心に、自由の守護が頂ける。いかに多くのものが相集つて も、一手一つの理を欠くならば、親神に受け取つて頂けない。人皆、相 互に一つの道の理に心を合せ、互立て合い扶け合うてこそ、陽気に勇ん で生活して行ける。真の陽気ぐらしは、ここに全うされる。

心を合わせ頼もしい道を作りてくれ。あれでこそ真の道であると、世 界に映さにゃならん。 (明治三五・九・六)

 親神にもたれ、教祖を慕い、教の理を省みつつ、互に心を合せ扶け合 うて、陽気に生活すならば、ここに、たのもしい道が現れて、その喜び は世界にひろまつて行く。親神は、これを望ませられる。

  せかいぢうみな一れつハすみきりて
  よふきづくめにくらす事なら          七 109

  月日にもたしか心がいさむなら
  にんけんなるもみなをなし事          七 110

  このよふのせかいの心いさむなら
  月日にんけんをなじ事やで           七 111

 親神の守護を身に受けつつ、人々相扶け合うて、明るく浄く、勇んで 生を楽しむ境涯に生きる。それは、親神の思召のまにまに、いそしむ日 日であり、正しくきりなしぶしんである。そして、この明るい心に、自 ら豊かな恵が与えられて、心は更に勇み立つ。子供の成人を待ちかねら れる親神は、この陽気ぐらしを見て、共に喜び共に勇まれる。
 人々は、この親心にもたれつつ、世界中皆一れつは隔てない親神の子、 兄弟姉妹という理を心に治めて、高きものも低きものも、遠きものも近 きものも、相互に扶け合い、常にたゆまず、ひながたの道をたどり、陽 気に勇んで、心のきりなしぶしんにいそしむならば、やがては、全人類 の心も入れ替り、世は自と立て替つてくる。
 かくて、世界一れつの心が澄みきる時、たすけ一条の思召が成就して、 親神の守護は余りなく垂れ、ここに、人の世は、未だかつてない至福を 受ける。これぞ、楽しみづくめの世界、神人和楽の陽気づくめの世界で あり、真正の平和世界である。
 思えば、人類社会は、久しく文化の進展を遂げながらも、徒らに迷い を重ね、行方も知らぬ闇路にさすらいつつ、今日にいたつた。それは、 互に争を事とし、争を経ることによつて、己のよき生命を楽しめるもの と、思いあやまつて来たからである。しかも他面、人は平けく安らかな 生活をのみ求め望んで止まない。これは、限りない矛盾撞著である。こ の矛盾を解き、撞著を治めるのが、たすけ一条のこの道である。これこ そ、人類に真の心の支えを与え、光ある行手を教える唯一の道である。
 世界は、平和を求めて止まない。しかし、真の平和世界は、ただ人間 相互が争わぬだけで、全うされるものではない。よしや、それは争のな い姿であつても、光溢れる平和の訪れではない。真の平和世界は、親神 の理によつてのみ築かれる。この親神の道が、人々の胸に正しく治めら れ、すべてが、己が利欲を忘れ、温かい親神の守護の下、互扶けの真実 の働きにつとめ合い、親神の待ち望まれる陽気づくめの世界になる時、 この世ながらの限りない生気溢れる楽土が全うされる。

 惟うに、親神が、教祖を月日のやしろとして現れ出でられるや、人間 の陽気ぐらしを見て、共に楽しもうとの、人間世界創造の思召を告げ、 専らたすけ一条の道を宣べて、たすけづとめを教え、又、いき・てをど りのさづけによつて、一れつたすけを急き込まれた。このたすけの理を 明かそうと、元の理を説き、所定の人と所と時の立て合いによつて、こ の教を始めた所以を諭し、ここに、親神を天理王命とたたえて、祈念す ることを教えられた。
 かくて、教祖が、教を宣べ、身を以てこれを証し、ひながたを示され たのも、親神の深い思わくによるものであつて、正に、教祖ひながたは、 道の生命である。
 人は、先ず、身上や事情にてびきを頂き、親神を知る。そして更に、 身上は、これ皆、親神のかしものなることを納得し、守護のあるところ を悟り、ほこりを払い、心のふしんにつとめる。かくして進む成人の道 すがらには、雨の日も風の日もある。しかも、その中に、日々たんのう の心を治め、又、ひのきしんに勇む。そして、治められた誠真実は、自 ら他に及び、一人の道は多くの人々の道となる。即ち、道の子はよふぼ くを志し、さづけの理を頂いて、たすけ一条にいそしみ、天の理を取り 次ぎ、道の先達となる。ここに、不思議なたすけの実が次々とあらわれ、 魂は続々と更生されて行く。
 かくて、我も人も共に和し、一手一つの心に、楽しみづくめの陽気ぐ らしの世界が守護頂ける。それは、親神の望まれる真の平和世界であり、 これぞ、この道の目標である。道の子は、存命のまま導かれる教祖に抱 かれ、ひたすら、世界人類の平和と幸福を祈念しつつ、たすけの道に弥 進む。

 

  このみちハどふゆう事にをもうかな
  このよをさめるしんぢつのみち         六  4

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