天理教教祖伝逸話篇(五) 第八十一話から第百話



81 さあお上がり |  82 ヨイショ |  83 長々の間 |  84 南半国 |  85 子供には重荷 |  86 大きなたすけ |  87 人が好くから |  88 危ないところを |  89 食べ残しの甘酒 |  90 一代より二代 |  91 踊って去ぬのやで |  92 夫婦揃う手 |  93 八町四方 |  94 ちゃんとお茶が |  95 道の二百里も |  96 心の合うた者 |  97 煙草畑 |  98 万劫末代 |  99 大阪で婚礼が |  100 人を救けるのやで

 

八一 さあお上がり

 上原佐助は、伯父佐吉夫婦、妹イシと共に、明治十四年五月十四日 (陰暦四月十七日)おぢば帰りをして、幸いにも教祖にお目通りさせて頂いた。 教祖は、大層お喜び下され、筍と小芋と牛蒡のお煮しめを、御手ずか ら小皿に盛り分けて下され、更に、月日に雲を描いたお盃に、お神酒 を注いで下され、
 「さあ、お上がり。」
と、おすすめ下された。この時、佐助は、三十代の血気盛りであった。
 教祖は、いろいろとお話し下されて後、スッとお手を差し伸べられ、 佐助の両手首をお握りになって、
 「振りほどくように。」
 と、仰せられたが、佐助は、全身がしびれるような思いがして、ただ、 「恐れ入りました。」 と、平伏するばかりであった。
 妹のイシ(註、後に辻川イシ)が、後年の思い出話に、「その厳かな有様は、と ても口には言えません。ハッとして、思わず頭が下がりました。」 と、 語っている。
 この時、教祖の温かい親心とお力を、ありありとお見せ頂いて、佐 助は、いよいよたすけ一条に進ませて頂こうとの、確固たる信仰を抱 くようになった。

八二 ヨイショ

 明治十四年、おぢばの東、滝本の村から、かんろだいの石出しが行 われた。この石出しは、山から山の麓までは、真明組の井筒梅治郎、 山の麓からお屋敷までは、明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いてい たというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田 藤吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて 頂いた。
 その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門 まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖 が、お居間からお出ましになって、
 「ヨイショ」
と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしま った。
 一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激し た、という。

八三 長々の間

 宮森与三郎が、お屋敷の田圃で農作業の最中、教祖から急にお呼び 出しがあった。急の事であったので、「何事かしら、」 と、思いながら、 野良着のまま、急いで教祖の御前に参上すると、その場で、おさづけ の理をお渡し下された。その上、
 「長々の間、御苦労であった。」
と、結構なねぎらいのお言葉を下された。

註 宮森與三郎がおさづけを頂いたのは、明治十四年五月のことである。

八四 南半国

 山中こいそが、倉橋村出屋鋪の、山田伊八郎へ嫁入りする時、父の 忠七が、この件を教祖にお伺いすると、
 「嫁入りさすのやない。南は、とんと道がついてないで、南半国道 弘めに出す 。なれども、本人の心次第や。」
と、お言葉があった。親は、あそこは山中だからと懸念したが、こい そは、「神様がああ仰せ下さるのやから、嫁にやらして頂きまする。」と 言うて、明治十四年五月三十日(陰暦五月三日)に嫁入った。
 すると、この山田家の分家に山本いさという人があって、五年余り も足腰が立たず寝たままであった。こいそは、神様を拝んでは、お水 を頂かせる、というふうにしておたすけさせて頂いていたところ、翌 年、山中忠七が来た時に、ふしぎなたすけを頂き、足腰がブキブキと 音を立てて立ち上がり、一人歩きが出来るようになった。又、同村に、 田中ならぎくという娘があって、目が潰れて、七年余り盲目であった。 これも、こいそが、神様を拝んでは、神様のお水で目を洗うていたと ころ、間もなく御守護を頂いた。それで、近村では、いざりの足が立 った、盲も目が開いた、と言って、大層な評判になって、こいそを尋 ねて来る者が、次から次へと出て来た。

八五 子供には重荷

 明治十四年晩春のこと。ここ数年来、歯の根に蜂の巣のように穴が あき、骨にとどいて、日夜泣き暮らしていた松井けい(註。当時三十一才)は、 たまたま家の前を通りかかった鋳掛屋夫婦のにをいがけで、教えられ た通り、茶碗に水を汲んで、
 なむてんりわうのみこと
と唱えて、これを頂くと、忽ち痛みは鎮まり、二、三日のうちに、年 来の悩みがすっかり全快する、というふしぎなたすけを頂いた。
 そのお礼詣りに、磯城郡耳成村木原から、三里の道のりを歩いて、 おぢばへ帰り、教祖にお目通りした。教祖は、三升の鏡餅を背負うて 来た、当時八才の長男忠作に、お目をとめられて、
 「よう、帰って来たなあ。子供には重荷やなあ。」
と、お言葉を下された。
 忠作は、このお言葉を胸に刻んで、生涯忘れず、いかなる中も通り 切って、たすけ一条に進ませて頂いた。

八六 大きなたすけ

 大和国永原村の岡本重治郎の長男善六と、その妻シナとの間には、 七人の子供を授かったが、無事成人させて頂いたのは、長男の栄太郎 と、末女のカン(註、後の加見ゆき)の二人で、その間の五人は、あるいは夭 折したり流産したりであった。
 明治十二年に、長男栄太郎の熱病をお救け頂いて、善六夫婦の信心 は、大きく成人したのであったが、同十四年八月の頃になって、シナ にとって一つの難問が出て来た。それは、永原村から約一里ある小路 村で六町歩の田地を持つ農家、今田太郎兵衞の家から使いが来て、 「長男が生まれましたが、乳が少しも出ないので困っています。何ん とか、預かって世話してもらえますまいか。無理な願いではございま すが、まげて承知して頂きたい。」 との口上である。
 その頃、あいにくシナの乳は出なくなっていたので、早速引き受け るわけにもゆかず、「お気の毒ですが、引き受けるわけには参りませ ん。」 と、断った。しかし、「そこをどうしても」と言うので、思案に 余ったシナは、「それなら、教祖にお伺いしてから。」 と返事して、直 ぐ様お屋敷へ向かった。そして、教祖にお目にかかって、お伺いする と、
 「金が何んぼあっても、又、米倉に米を何んぼ積み上げていても、 直ぐには子供に与えられん。人の子を預かって育ててやる程の大き なたすけはない。」
と、仰せになった。この時、シナは、「よく分かりました。けれども、 私は、もう乳が出ないようになっておりますが、それでもお世話出来 ましょうか。」 と、押して伺うと、教祖は、
  「世話さしてもらうという真実の心さえ持っていたら、与えは神の 自由で、どんなにでも神が働く。案じることは要らんで。」
とのお言葉である。これを承って、シナは、神様におもたれする心を 定め、「お世話さして頂く。」と先方へ返事した。
 すると早速、小路村から子供を連れて来たが、その子を見て驚いた。 八ヵ月の月足らずで生まれて、それまで、重湯や砂糖水でようやく育 てられていたためか、生まれて百日余りにもなるというのに、やせ衰 えて泣く力もなく、かすかにヒイヒイと声を出していた。
 シナが抱き取って、乳を飲まそうとするが、乳は急に出るものでは ない。子供は癇を立てて乳首をかむというような事で、この先どうな る事か、と、一時は心配した。
 が、そうしているうちに、二、三日経つと、不思議と乳が出るよう になって来た。そのお蔭で、預かり児は、見る見るうちに元気になり、 ひきつづいて順調に育った。その後、シナが、丸々と太った預かり児 を連れて、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、その児をお抱き上げ下 されて、
 「シナはん、善い事をしなはったなあ。」
と、おねぎらい下された。シナは、教祖のお言葉にしたがって通ると ころに、親神様の自由自在をお見せ頂けるのだ、ということを、身に 沁みて体験した。シナ二十六才の時のことである。

八七 人が好くから

 教祖は、かねてから飯降伊蔵に、早くお屋敷へ帰るよう仰せ下され ていたが、当時子供が三人ある上、将来の事を思うと、いろいろ案じ られるので、なかなか踏み切れずにいた。
 ところが、やがて二女のマサヱは眼病、一人息子の政甚は俄かに口 がきけなくなるというお障りを頂いたので、母親のおさとが教祖にお 目にかからせて頂き、「一日も早く帰らせて頂きたいのでございますが、 何分櫟本の人達が親切にして下さいますので、それを振り切るわけに もいかず、お言葉を心にかけながらも、一日送りに日を過しているよ うな始末でございます。」 と、申し上げると、教祖は、
 「人が好くから神も好くのやで。人が惜しがる間は神も惜しがる。 人の好く間は神も楽しみや。」
と、仰せ下された。おさとは重ねて、「何分子供も小そうございますか ら、大きくなるまでお待ち下さいませ。」 と、申し上げると、教祖は、  「子供があるので楽しみや。親ばっかりでは楽しみがない。早よう 帰って来いや。」
と、仰せ下されたので、おさとは、「きっと帰らせて頂きます。」 とお 誓いして帰宅すると、二人の子供は、鮮やかに御守護を頂いていた。 かくて、おさとは、夫の伊蔵に先立ち、お救け頂いた二人の子供を連 れて、明治十四年九月からお屋敷に住まわせて頂く事となった。

八八 危ないところを

 明治十四年晩秋のこと。土佐卯之助は、北海道奥尻島での海難を救 けて頂いたお礼に、船が大阪の港に錨を下ろしたその日、おぢばへ帰 って来た。そして、かんろだいの前に参拝して、親神様にお礼申し上 げると共に、今後の決心をお誓いした。
 嬉しさの余り、お屋敷で先輩の人々に、その時の様子を詳しく話し ていると、その話に耳を傾けていたある先輩が、話をさえ切って、お い、それは何月何日の何時頃のことではないか。 と言った。日を数え てみると、全く遭難の当日を言いあてられたのであった。その先輩の 話によると、
 「その日、教祖は、お居間の北向きの障子を開けられ、おつとめの扇 を開いてお立ちになり、北の方に向かって、しばらく、
 『オーイ、オーイ。』
と、誰かをお招きになっていた。それで、不思議なこともあるものだ、 と思っていたが、今の話を聞くと、成る程と合点が行った。」 とのこ とである。 これを聞いて、土佐は、深く感激し、たまらなくなって、 教祖の御前に参上して、「ない命をお救け下さいまして、有難うござい ました。」 と、畳に額をすり付けて、お礼申し上げた。その声は、打 ちふるえ、目は涙にかすんで、教祖のお顔もよくは拝めないくらいで あった。その時、教祖は、
 「危ないところを、連れて帰ったで。」
と、やさしい声でねぎらいのお言葉を下された。この時、土佐は、長 年の船乗り稼業と手を切って、いよいよたすけ一条に進ませて頂こう と、心を定めたのである。

八九 食べ残しの甘酒

 教祖にお食事を差し上げる前に、誰かがコッソリと摘まみ喰いでも して置こうものなら、いくら教祖が召し上がろうとなされても、どう しても、箸をお持ちになったお手が上がらないのであった。
 明治十四年のこと。ある日、お屋敷の前へ甘酒屋がやって来た。こ の甘酒屋は、丹波市から、いつも昼寝起き時分にやって来るのであっ たが、その日、当時未だ五才のたまへが、それを見て、付添いの村田 イヱに、「あの甘酒を買うて、お祖母さんに上げよう。」 と、言ったの で、イヱは、早速、それを買い求めて、教祖におすすめした。
 教祖は、孫娘のやさしい心をお喜びになって、甘酒の茶碗をお取り 上げになった。
 ところが、教祖が、茶碗を口の方へ持って行かれると、教祖のお手 は、そのまま茶碗と共に上の方へ差し上げられて、どうしても、お飲 みになる事は出来なかった。
 イヱは、それを見て、「いと、これは、教祖にお上げしてはいけませ ん。」 と言って、茶碗をお返し願った。
 考えてみると、その甘酒は、あちこちで商売して、お屋敷の前へ来 た時は、食べ残し同然であったのである。

九〇 一代より二代

 明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せて頂いた時のお話に、
「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち 受けている。』 と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、 二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理にな るのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の 者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも 白いんねんになるねで。」
と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。

九一 踊って去ぬのやで

 明治十四年頃、岡本シナが、お屋敷へ帰らせて頂いていると、教祖 が、
 「シナさん、一しょに風呂へ入ろうかえ。」
と、仰せられて、一しょにお風呂へ入れて頂いた。勿体ないやら、有 難いやら、それは、忘れられない感激であった。
 その後、幾日か経って、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が、
 「よう、お詣りなされたなあ。さあ/\帯を解いて、着物をお脱 ぎ。」
と、仰せになるので、何事かと心配しながら、恐る恐る着物を脱ぐと、 教祖も同じようにお召物を脱がれ、一番下に召しておられた赤衣のお 襦袢を、教祖の温みそのまま、背後からサッと着せて下された。
 その時の勿体なさ、嬉しさ、有難さ、それは、口や筆であらわす事 の出来ない感激であった。シナが、そのお襦袢を脱いで、丁寧にたた み、教祖の御前に置くと、教祖は、
 「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ 着て、踊って去ぬのやで。」
と、仰せられた。
 シナは、一瞬、驚いた。そして、嬉しさは遠のいて心配が先に立っ た。 「そんなことをすれば、町の人のよい笑いものになる。」 また、 おぢばに参拝したと言うては警察へ引っ張られた当時の事とて、「今日 は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん。」 と、思った。ようやく、 覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬこと が出来なくてもよい。」 と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上か ら羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。
 気がついてみると、町外れへ出ていたが、思いの外、何事も起こら なかった。シナはホッと安心した。そして、赤衣を頂戴した嬉しさと、 御命を果たした喜びが一つとなって、二重の強い感激に打たれ、シナ は心から御礼申し上げながら、赤衣を押し頂いたのであった。

九二 夫婦揃うて

 梅谷四郎兵衞が、入信して間のない頃、教祖にお目にかかると、
 「夫婦揃うて信心しなされや。」
と、仰せ下された。早速、妻のタネに、「この道というものは、一人だ けではいかぬのだそうであるから、おまえも、ともども信心してくれ ねばならぬ。」 と話したところ、タネも、素直にしたごうた。そこで、 先輩に教えられた通り、茶椀に水を入れ、おぢばに向かって、
なむてんりわうのみこと
と、三遍唱えて、その水を二人で分けて飲み、お誓いのしるしとした。

九三 八町四方

 ある時、教祖は、中南の門屋にあったお居間の南の窓から、竹薮や 田圃ばかりの続く外の景色を眺めておられたが、ふと、側の人々に向 かい、
 「今に、ここら辺り一面に、家が建て詰むのやで。奈良、初瀬七里 の間は家が建て続き、一里四方は宿屋で詰まる程に。屋敷の中は、 八町四方と成るのやで。」
と、仰せられた。

註 「おさしづ」に、
 小さい事思てはならん。年限だん/\重なれば、八町四方に成る 事分からん。      (明治二七・一一・一七)
 年限々々、これまで存命の間経ち来たと言う。一里四方宿屋もせ にゃならんと言う。一里四方も未だ狭いなあ、とも言うてある。        (明治二六・二・六 刻限)

九四 ちゃんとお茶が

 ある日、立花善吉は、その頃の誰もがそうであったように、大阪か ら歩いておぢばへ帰って来た。こうして、野を越え山を越え又野を越 えて、十里の道のりを歩いて、ようやく二階堂村まで来た。そこで、 もう一辛抱だと思うと、おのずと元気が出て、歩きながら得意の浄瑠 璃の一節を、いかにも自分で得心の行くように上手に語った。が、お 屋敷に近づくと、それもやめて、間もなく到着した。こうして、教祖 にお目にかかると、教祖は、立花を見るなり、
 「善吉さん、良い声やったな。おまえさんが帰って来るので、ちゃ んとお茶が沸かしてあるで。」
と、仰せになった。このお言葉を聞いて、立花は、肌えに粟する程の 驚きと、有難い嬉しいという感激に、言葉も出なかった、という。

九五 道の二百里も

 明治十四年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川 東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、二、三年前か ら眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽 したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。
 家族一同心配しているうちに、年が明けて明治十五年となった。年 の初めから、この上は、世に名高い大和国音羽山観世音に願をかけよ うと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて 来てくれた。宮森は、既に数年前から入信していたのである。早速お 願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見える ようになった。
 そこで、音羽山詣りはやめにして、三月五日に、夫婦とりきの三人 連れでおぢばへ帰らせて頂き、七日間滞在させて頂いた。その三日目 に、妻のさきは、「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片 方だけなりとお救け下され。」 と、願をかけたところ、その晩から、 さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は、 次第によくなって、すっきりお救け頂いた。この不思議なたすけに感 泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。
 そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩い て十六日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、 「どうしても帰任せよ。」 との厳命である。困り果てた忠三郎が、「如 何いたしましょうか。」 と、教祖に伺うと、
 「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし。」
との仰せであった。
 このお言葉に感激した鴻田は、心の底深くにをいがけ・おたすけを 決意して、三月十七日新潟に向かって勇んで出発した。こうして、新 潟布教の第一歩は踏み出されたのである。

九六 心の合うた者

 明治十四、五年頃、教祖が、山沢為造にお聞かせ下されたお言葉に、
 「神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。『寄り合うて いる者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすね で。』と、仰っしゃりますねで。」
と。

九七 煙草畑

 ある時、教祖は、和泉国の村上幸三郎に、
 「幻を見せてやろう。」
と、仰せになり、お召しになっている赤衣の袖の内側が、見えるよう になされた。幸三郎が、仰せ通り、袖の内側をのぞくと、そこには、 我が家の煙草畑に、煙草の葉が、緑の色も濃く生き生きと茂っている 姿が見えた。それで幸三郎は、お屋敷から自分の村へもどると、早速 煙草畑へ行ってみた。すると、煙草の葉は、教祖の袖の内側で見たの と全く同じように、生き生きと茂っていた。それを見て、幸三郎は、 安堵の思いと感謝の喜びに、思わずもひれ伏した。
 というのは、おたすけに専念する余り、田畑の仕事は、作男にまか せきりだった。まかされた作男は、精一杯煙草作りに励み、その、よ く茂った様子を一度見てほしい、と言っていたが、おたすけに精進す る余り、一度も見に行く暇とてはなかった。が、気にかからない筈は なく、いつも心の片隅に、煙草畑が気がかりになっていた。そういう 中からおぢばへ帰らせて頂いた時のことだったのである。幸三郎は、 親神様の自由自在の御働きと、子供をおいたわり下さる親心に、今更 のように深く感激した。

九八 万劫末代

 明治十五年三月二十六日(陰暦二月八日)、飯降伊蔵が、すっかり櫟本を引 き払うて、教祖の御許へ帰らせて頂いた時、教祖は、
 「これから、一つの世帯、一つの家内と定めて、伏せ込んだ。万劫 末代動いてはいかん、動かしてはならん。」
と、お言葉を下された。

九九 大阪で婚礼が

 明治十五年三月のある日、土佐卯之助は、たすけ一条の信仰に対す る養父母の猛烈な反対に苦しみ抜いた揚句、親神様のお鎮まり下さる お社を背負うて、他に何一つ持たず、妻にも知らせず、忽然として、 撫養の地から姿を消し、大阪の三軒屋で布教をはじめた。
 家に残して来た妻まさのことを思い出すと、堪らない寂しさを感じ ることもあったが、おぢばに近くなったのが嬉しく、おぢばへ帰って 教祖にお目にかかるのを、何よりの楽しみにしていた。教祖のお膝許 に少しでも長く置いて頂くことが、この上もない喜びであったので、 思わずも滞在を続けて、その日も暖かい春の日射しを背に受けて、お 屋敷で草引きをしていた。
 すると、いつの間にか教祖が背後にお立ちになって、ニッコリほほ えみながら、
 「早よう大阪へおかえり。大阪では、婚礼があるから。」
と、仰せられた。土佐は、「はい。」とお受けしたが、一向に思い当る人 はない。謎のような教祖のお言葉を、頭の中で繰り返しながら大阪の 下宿へかえった。すると、新しい女下駄が一足脱いである。妻のまさ が来ていたのである。まさは、夫の胸に狂気のようにすがり付き、何 も言わずに顔を埋めて泣き入るのであった。やがて、顔をあげたまさ は、「私と、もう一度撫養へかえって下さい。お道のために、どんな苦 労でもいといません。今までは、私が余りに弱すぎました。今は覚悟 が出来ております。両親へは私からよく頼んで、必ずあなたが信心出 来るよう、道を開きます。」 と、泣いて頼んだ。
 今、国へかえればどうなるか、よく分かっていたので、「情に流れて はならぬ。」 と、土佐は、一言も返事をしなかった。
 その時、土佐の脳裡にひらめいたのは、おぢばで聞いた教祖のお言 葉である。土佐家への復縁などは、思うてもみなかったが、よく考え てみると、大阪で嫁をもらう花婿とは、この自分であったかと、初め て教祖のお言葉の真意を悟らせて頂くことが出来た。 「自分が、国を 出て反対攻撃を避けようとした考え方は、根本から間違っていた。も う一度、国へかえって、死ぬ程の苦労も喜んでさせてもらおう。誠真 実を尽し切って、それで倒れても本望である。」 と、ようやく決心が 定まった。

一〇〇 人を救けるのやで

 大和国神戸村の小西定吉は、人の倍も仕事をする程の働き者であっ たが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはか なみながら日を過ごしていた。又、妻イヱも、お産の重い方であった が、その頃二人目の子を妊娠中であった。
 そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治十五年三月頃 のことである。それで、病身を押して、夫婦揃うておぢばへ帰らせて 頂き、妻のイヱがをびや許しを頂いた時、定吉が、「この神様は、をび やだけの神様でございますか。」 と、教祖にお伺いした。
 すると、教祖は、
 「そうやない。万病救ける神やで。」
と、仰せられた。それで、定吉は、「実は、私は胸を病んでいる者でご ざいますが、救けて頂けますか。」 と、お尋ねした。すると、教祖は、
 「心配要らんで。どんな病も皆御守護頂けるのやで。欲を離れなさ いよ。」
と、親心溢れるお言葉を頂いた。このお言葉が強く胸に喰い込んで、 定吉は、心の中で堅く決意した。家にもどると早速、手許にある限り の現金をまとめて、全部を妻に渡し、自分は離れの一室に閉じこもっ て、紙に「天理王尊」と書いて床の間に張り、
 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、一心に神名を唱えてお願いした。部屋の外へ出るのは、便所ヘ行 く時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いした。す ると不思議にも、日ならずして顔色もよくなり、咳も止まり、長い間 苦しんでいた病苦から、すっかりお救け頂いた。
 又、妻のイヱも、楽々と男児を安産させて頂いた。早速おぢばへお 礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、教祖は、
 「心一条に成ったので、救かったのや。」
と、仰せられ、大層喜んで下さった。定吉は、「このような嬉しいこと はございません。この御恩は、どうして返させて頂けましょうか。」
 と、伺うと、教祖は、
 「人を救けるのやで。」
と、仰せられた。それで、「どうしたら、人さんが救かりますか。」と、
お尋ねすると、教祖は、
 「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで。」
と、仰せられ、コバシ(註、ハッタイ粉に同じ)を二、三合下された。そして、
 「これは、御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや。」
と、仰せられた。
 そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこち らも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り、御供を持 っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって、信心する人がふえ て来た。


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