天理教教祖伝逸話篇(四) 第六十一話から第八十話



61 廊下の下を |  62 これより東 |  63 目に見えん徳 |  64 やんわり伸ばしたら |  65 用に使うとて |  66 安産 |  67 かわいそうに |  68 先は永いで |  69 弟さんは、尚もほしい |  70 麦かち |  71 あの雨の中を |  72 救かる身やもの |  73 大護摩 |  74 神の理を立てる |  75 これが天理や |  76 牡丹の花盛り |  77 栗の節句 |  78 長者屋敷 |  79 帰って来る子供 |  80 あんた方二人で

 

六一 廊下の下を

 明治十一年、上田民蔵十八才の時、母いそと共に、お屋敷へ帰らせ て頂いた時のこと。教祖が、
 「民蔵さん、私とおまはんと、どちらの力強いか、力比べしよう。」
と、仰せになり、教祖は、北の上段にお上がりになり、民蔵は、その 下から、一、二、三のかけ声で、お手を握って、引っ張り合いをした。 力一杯引っ張ったが、教祖は、ビクともなさらない。民蔵は、そのお 力の強いのに、全く驚歎した。
 又、ある時、民蔵がお側へ伺うと、教祖が、
 「民蔵さん、あんた、今は大西から帰って来るが、先になったら、 おなかはんも一しょに、この屋敷へ来ることになるのやで。」
と、お言葉を下された。民蔵は、「わしは百姓をしているし、子供もあ るし、そんな事出来そうにもない。」 と思うたが、その後子供の身上 から、家族揃うてお屋敷へお引き寄せ頂いた。
 又、ある時、母いそと共にお屋敷へ帰らせて頂いた時、教祖は、
 「民蔵はん、この屋敷は、先になったらなあ、廊下の下を人が往き 来するようになるのやで。」
と、仰せられた。
 後年、お言葉が、次々と実現して来るのに、民蔵は、心から感じ入 った、という。

六二 これより東

 明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼 病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もそ の効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄 屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救 けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定 まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。 教祖にお目にかかったところ、
 「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親 孝行に免じて救けて下さるで。」
と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞 在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、 日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。
 明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣を お救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。
 又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝し たところ、
 「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、 案じることは要らんで。」
と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂い ていた、ということもあった。
 こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅 固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖から お言葉があった。
 「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ 運べ。」
と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山 本に伝えた。
 かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂 くようになった。

六三 目に見えん徳

 教祖が、ある時、山中こいそに、
 「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」 と、仰せになった。
 こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見 えん徳頂きとうございます。」 と、お答え申し上げた。

六四 やんわり伸ばしたら

 ある日、泉田藤吉(註、通称熊吉)が、おぢば恋しくなって、帰らせて頂い たところ、教祖は、膝の上で小さな皺紙を伸ばしておられた。そして、 お聞かせ下されたのには、
 「こんな皺紙でも、やんわり伸ばしたら、綺麗になって、又使える のや。何一つ要らんというものはない。」
と。お諭し頂いた泉田は、喜び勇んで大阪へかえり、又一層熱心にお たすけに廻わった。しかし、道は容易につかない。心が倒れかかると、 泉田は、我と我が心を励ますために水ごりを取った。厳寒の深夜、淀 川に出て一っ刻程も水に浸かり、堤に上がって身体を乾かすのに、手 拭を使っては功能がないと、身体が自然に乾くまで風に吹かれていた。 水に浸かっている間は左程でもないが、水から出て寒い北風に吹かれ て身体を乾かす時は、身を切られるように痛かった。が、我慢して三 十日間程これを続けた。
 又、なんでも、苦しまねばならん、ということを聞いていたので、 天神橋の橋杭につかまって、一晩川の水に浸かってから、おたすけに 廻わらせて頂いた。
 こういう頃のある日、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂 くと、教祖は、
 「熊吉さん、この道は、身体を苦しめて通るのやないで。」
と、お言葉を下された。親心溢れるお言葉に、泉田は、かりものの身 上の貴さを、身に沁みて納得させて頂いた。

註 一っ刻は、約二時間。

六五 用に使うとて

 明治十二年六月頃のこと。教祖が、毎晩のお話の中で、
 「守りが要る、守りが要る。」
と、仰せになるので、取次の仲田儀三郎、辻忠作、山本利八等が相談 の上、秀司に願うたところ、「おりんさんが宜かろう。」という事にな った。
 そこで、早速、翌日の午前十時頃、秀司、仲田の後に、増井りんが ついて、教祖のところへお伺いに行った。秀司から、事の由を申し上 げると、教祖は、直ぐに、
 「直ぐ、直ぐ、直ぐ、直ぐ。用に使うとて引き寄せた。直ぐ、直ぐ、 直ぐ。早く、早く。遅れた、遅れた。さあ/\楽しめ、楽しめ。ど んな事するのも、何するも、皆、神様の御用と思うてするのやで。 する事、なす事、皆、一粒万倍に受け取るのやで。さあ/\早く、 早く、早く。直ぐ、直ぐ、直ぐ。」
と、お言葉を下された。
 かくて、りんは、その夜から、明治二十年、教祖が御身をかくされ るまで、お側近く、お守役を勤めさせて頂いたのである。

六六 安産

 前川喜三郎の妻たけが、長女きみを妊娠した時、をびや許しを頂き に、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、教祖は、
 「よう帰って来た。」
と、仰せられ、更に、
 「出産の時は、人の世話になること要らぬ。」
と、お言葉を下された。
 たけは、産気づいた時、家には誰も居なかったので、教祖の仰せ通 り、自分で湯を沸かし、盥も用意し、自分で臍の緒を切り、後産の始 末もし、赤児には産湯をつかわせ、着物も着せ、全く人の世話になら ずに、親神様の自由自在の御守護によって、安産させて頂いた。

註 前川きみの出生は、明治十三年一月二十五日である。よってをび や許しを頂いたのは、その前年明治十二年と推定される。

六七 かわいそうに

 抽冬鶴松は、幼少から身体が弱く、持病の胃病が昂じて、明治十二 年、十六才の時に、危篤状態となり、医者も匙を投げてしまった。
 この時、遠縁にあたる東尾の伝手で、浅野喜市が、にをいをかけて くれた。そのすすめで、入信を決意した鶴松は、両親に付き添われ、 戸板に乗せてもらって、十二里の山坂を越えて、初めておぢば帰りを させて頂き、一泊の上、中山重吉の取次ぎで、特に戸板のお許しを頂 いて、翌朝、教祖にお目通りさせて頂いた。すると、教祖は、
 「かわいそうに。」
と、仰せになって、御自身召しておられた赤の肌襦袢を脱いで、鶴松 の頭からお着せ下された。
 この時、教祖の御肌着の温みを身に感じると同時に、鶴松は夜の明 けたような心地がして、さしもの難病も、それ以来薄紙をはぐように 快方に向かい、一週間の滞在で、ふしぎなたすけを頂き、やがて全快 させて頂いた。
 鶴松は、その時のことを思い出しては、「今も尚、その温みが忘れら れない。」 と一生口癖のように言っていた、という。

六八 先は永いで

 堺の平野辰次郎は、明治七年、十九才の頃から病弱となり、六年間、 麩を常食として暮らしていた。ところが、明治十二年、二十四才の時、 山本多三郎からにをいがかかり、神様のお話を聞かして頂いたその日 から、麩の常食をやめて、一時に鰯を三十匹も食べられる、という不 思議な御守護を頂いた。
 その喜びにおぢばへ帰り、蒸風呂にも入れて頂き、取次からお話を 聞かせて頂き、家にかえってからは、早速、神様を祀らせて頂いて、 熱心ににをいがけ・おたすけに励むようになった。こうして、度々お ぢばへ帰らせて頂いているうちに、ある日、教祖にお目通りさせて頂 くと、教祖が、
 「堺の平野辰次郎というのは、おまえかえ。」
と、仰せになって、自分の手を差し出して、
 「私の手を握ってみなされ。」
と、仰せになるので、恐る恐る御手を握ると、
 「それだけの力かえ。もっと力を入れてみなされ。」
と、仰せになった。それで、力一杯握ったが、教祖が、それ以上の力 で握り返されるので、全く恐れ入って、教祖の偉大さをしみじみと感 銘した。その時、教祖は、
 「年はいくつか。ようついて来たなあ。先は永いで。どんな事があ っても、愛想つかさず信心しなされ。先は結構やで。」
と、お言葉を下された。

六九 弟さんは、尚もほしい

 明治十二、三年頃の話。宮森与三郎が、お屋敷へお引き寄せ頂いた 頃、教祖は、
 「心の澄んだ余計人が入用。」
と、お言葉を下された。
 余計人と仰せられたのは、与三郎は、九人兄弟の三男で、家に居て も居なくても、別段差し支えのない、家にとっては余計な人という意 味であり、心の澄んだというのは、生来、素直で正直で、別段欲もな く、殊にたんのうがよかったと言われているから、そういう点を仰せ になったものと思われる。
 又、明治十四年頃、山沢為造が、教祖のお側へ寄せてもらっていた ら、
 「為造さん、あんたは弟さんですな。神様はなあ、『弟さんは、尚も ほしい。』と仰っしゃりますねで。」
と、お聞かせ下された。

七〇 麦かち

 お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、教祖がお出 ましになって、
 「私も手伝いましょう。」
と、仰せになって、よくお手伝い下された。
 麦かちの時に使う麦の穂を打つ柄棹には、大小二種類の道具があり、 大きい方は「柄ガチ」と言って、打つ方と柄の長さがほぼ同じで、こ れは大きくて重いので、余程力がないと使えない。が、教祖は、高齢 になられても、この「柄ガチ」を持って、若い者と同じように、達者 にお仕事をして下された。
 明治十二、三年頃の初夏のこと。ある日、カンカンと照りつけるお 日様の下で、高井や宮森などが、汗ばみながら麦かちをしていると、 教祖も出て来られて、手拭を姉さん冠りにして、皆と一しょに麦かち をなされた。
 ところが、どうしても八十を越えられたとは思えぬ元気さで仕事を なさるので、皆の者は、若い者と少しも変わらぬお仕事振りに、感歎 の思いをこめて拝見した、という。

七一 あの雨の中を

 明治十三年四月十四日(陰暦三月五日)、井筒梅治郎夫婦は娘のたねを伴っ て、初めておぢばへ帰らせて頂いた。大阪を出発したのは、その前日 の朝で、豪雨の中を出発したが、おひる頃カラリと晴れ、途中一泊し て、到着したのは、その日の午後四時頃であった。早速、教祖にお目 通りさせて頂くと、教祖は、
 「あの雨の中を、よう来なさった。」
と、仰せられ、たねの頭を撫でて下さった。更に、教祖は、
 「おまえさん方は、大阪から来なさったか。珍しい神様のお引き寄 せで、大阪へ大木の根を下ろして下されるのや。子供の身上は案じ ることはない。」
と、仰せになって、たねの身体の少し癒え残っていたところに、お紙 を貼って下さった。たねが、間もなく全快の御守護を頂いたのは、言 うまでもない。
 梅治郎の信仰は、この、教祖にお目にかかった感激とふしぎなたす けから、激しく燃え上がり、ただ一条に、にをいがけ・おたすけへと 進んで行った。

七二 救かる身やもの

 明治十三年四月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中とい うのに、坐骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわ れ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々治療の限りを 尽したが、その効果なく、本人はもとより家族の者も、奈落の底へ落 とされた思いで、明け暮れしていた。
 何んとかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が 居ると聞いて、行ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、 平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出 し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村めざして帰って来た。
 そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、
 「救かるで、救かるで。救かる身やもの。」
と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しいお話をお聞かせ下された。 そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。 幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持になって帰途につ いた。
 家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜ ず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、
  なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如く とれた。
 そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者 にして頂き、明けて明治十四年の正月には、本復祝いを行った。幸三 郎四十二才の春であった。感謝の気持は、自然と足をおぢばへ向かわ しめた。
 おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。 教祖は、
 「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、 救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、 しっかりおたすけするように。」
と、仰せられた。
 幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓った のであった。

七三 大護摩

 明治十三年九月二十二日(陰暦八月十八日)転輪王講社の開筵式の時、門前 で大護摩を焚いていると、教祖は、北の上段の間の東の六畳の間へ、 赤衣をお召しになったままお出ましなされ、お坐りになって、一寸の 間、ニコニコとごらん下されていたが、直ぐお居間へお引き取りにな った。
 かねてから、地福寺への願い出については、
 「そんな事すれば、親神は退く。」
とまで、仰せになっていたのであるが、そのお言葉と、「たとい我が身 はどうなっても。」 と、一命を賭した秀司の真実とを思い合わせる時、 教祖の御様子に、限りない親心の程がしのばれて、無量の感慨に打た れずにはいられない。

七四 神の理を立てる

 明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急 き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が 躊躇していると、教祖は、
 「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理 を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰し て人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、 二つ一つの返答をせよ。」
と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。
 そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」 ということになった。
 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐ らづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、こ れもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。
 又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻 とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未 だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうし たら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないと いう上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、  「さあ/\鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三 になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取る ねで。これよう聞き分け。」
という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。 山沢為造は、十二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ 場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。

七五 これが天理や

 明治十二年秋、大阪の本田に住む中川文吉が、突然眼病にかかり、 失明せんばかりの重態となった。隣家に住む井筒梅治郎は、早速おた すけにかかり、三日三夜のうちに、鮮やかな御守護を頂いた。翌十三 年のある日、中川文吉は、お礼詣りにお屋敷へ帰らせて頂いた。
 教祖は、中川にお会いになって、
 「よう親里を尋ねて帰って来なされた。一つ、わしと腕の握り比べ をしましょう。」
と、仰せになった。
 日頃力自慢で、素人相撲の一つもやっていた中川は、このお言葉に 一寸苦笑を禁じ得なかったが、拒む訳にもいかず、逞ましい両腕を差 し伸べた。すると、教祖は、静かに中川の左手首をお握りになり、中 川の右手で、御自身の左手首を力限り握り締めるように、と仰せられ た。
 そこで、中川は、仰せ通り、力一杯に教祖のお手首を握った。と、 不思議な事には、反対に、自分の左手首が折れるかと思うばかりの痛 さを感じたので、思わず、「堪忍して下さい。」 と、叫んだ。この時、 教祖は、
 「何もビックリすることはないで。子供の方から力を入れて来たら、 親も力を入れてやらにゃならん。これが天理や。分かりましたか。」
と、仰せられた。

七六 牡丹の花盛り

 井筒たねが父から聞いた話。井筒梅治郎は、教祖が、いつも台の上 に、ジッとお坐りになっているので、御退屈ではあろうまいか、とお 察し申し、どこかへ御案内しようと思って、「さぞ御退屈でございまし ょう。」 と、申し上げると、教祖は、
 「ここへ、一寸顔をつけてごらん。」
と、仰せになって、御自分の片袖を差し出された。それで、梅治郎が その袖に顔をつけると、見渡す限り一面の綺麗な牡丹の花盛りであっ た。ちょうど、それは牡丹の花の季節であったので、梅治郎は、教祖 は、どこのことでも、自由自在にごらんになれるのだなあ、と思って、 恐れ入った。

七七 栗の節句

 教祖は、ある時、増井りんに、
 「九月九日は、栗の節句と言うているが、栗の節句とは、苦がなく なるということである。栗はイガの剛いものである。そのイガをと れば、中に皮があり、又、渋がある。その皮なり渋をとれば、まこ とに味のよい実が出て来るで。人間も、理を聞いて、イガや渋をと ったら、心にうまい味わいを持つようになるのやで。」
と、お聞かせ下された。

七八 長者屋敷

 教祖が、桝井キクにお聞かせ下されたお話に、
 「お屋敷に居る者は、よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家 に住みたい、と思うたら、居られん屋敷やで。
 よいもの食べたい、よいもの着たい、よい家に住みたい、とさえ 思わなかったら、何不自由ない屋敷やで。これが、世界の長者屋敷 やで。」
と。

七九 帰って来る子供

 教祖が、ある時、喜多治郎吉に、
 「多く寄り来る、帰って来る子供のその中に、荷作りして車に積ん で持って行くような者もあるで。又、風呂敷包みにして背負って行 く人もあるで。又、破れ風呂敷に一杯入れて提げて行く人もある。 うちへかえるまでには、何んにもなくなってしまう輩もあるで。」
と、お聞かせ下された。

八〇 あんた方二人で

 明治十三、四年、山沢為造が二十四、五才の頃。兄の良蔵と二人で、 お屋敷へ帰って来ると、当時、つとめ場所の上段の間にお坐りになっ ていた教祖は、
 「わしは下へ落ちてもよいから、あんた方二人で、わしを引っ張り 下ろしてごらん。」
と、仰せになって、両手を差し出された。
 そこで、二人は、畏れ多く思いながらも、仰せのまにまに、右と左 から片方ずつ教祖のお手を引っ張った。しかし、教祖は、キチンとお 坐りになったまま、ビクともなさらない。
 それどころか、強く引っ張れば引っ張る程、二人の手が、教祖の方 へ引き寄せられた。二人は、今更のように、「人間業ではないなあ。成 る程、教祖は神のやしろに坐します。」 と、心に深く感銘した。


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