天理教教祖伝逸話篇(三) 第四十一話から第六十話



41 末代にかけて |  42 人を救けたら |  43 それでよかろう |  44 雪の日 |  45 心の皺を |  46 何から何まで |  47 先を楽しめ |  48 待ってた、待ってた |  49 素直な心 |  50 幸助とすま |  51 家の宝 |  52 琴を習いや |  53 この屋敷から |  54 心で弾け |  55 胡弓々々 |  56 ゆうべは御苦労やった |  57 男の子は、父親付きで |  58 今日は、河内から |  59 まつり |  60 金米糖の御供

 

四一 末代にかけて

 ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のま わりをお歩きになり、
 「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり 踏み込め。」
と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、
 「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏して も、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで。」
と、仰せになった。
 後日、儀三郎の孫吉蔵の代に、村からの話で、土地の一部を交換せ ねばならぬこととなり、話も進んで来た時、急に吉蔵の顔に面疔が出 来て、顔が腫れ上がってしまった。それで、家中の者が驚いていろい ろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄り達の口から、教祖が 地固めをして下された土地であることが語られ、早速、親神様にお詫 び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは、鮮やかにす っきりとお救け頂いた。

註 年寄り達とは、中田しほと、その末妹上島かつの二人である。 しほは、儀三郎の長男の嫁。

四二 人を救けたら

 明治八年四月上旬、福井県山東村菅浜の榎本栄治郎は、娘きよの気 違いを救けてもらいたいと西国巡礼をして、第八番長谷観音に詣った ところ、茶店の老婆から、「庄屋敷村には生神様がござる。」と聞き、 早速、三輪を経て庄屋敷に到り、お屋敷を訪れ、取次に頼んで、教祖 にお目通りした。すると、教祖は、
 「心配は要らん要らん。家に災難が出ているから、早ようおかえり。 かえったら、村の中、戸毎に入り込んで、四十二人の人を救けるの やで。なむてんりわうのみこと、と唱えて、手を合わせて神さんを しっかり拝んで廻わるのやで。人を救けたら我が身が救かるのや。」
と、お言葉を下された。
 栄治郎は、心もはればれとして、庄屋敷を立ち、木津、京都、塩津 を経て、菅浜に着いたのは、四月二十三日であった。
 娘は、ひどく狂うていた。しかし、両手を合わせて、
 なむてんりわうのみこと
と、繰り返し願うているうちに、不思議にも、娘はだんだんと静かに なって来た。それで、教祖のお言葉通り、村中ににをいがけをして廻 わり、病人の居る家は重ねて何度も廻わって、四十二人の平癒を拝み 続けた。
 すると、不思議にも、娘はすっかり全快の御守護を頂いた。方々の 家からもお礼に来た。全快した娘には、養子をもろうた。
 栄治郎と娘夫婦の三人は、救けて頂いたお礼に、おぢばへ帰らせて 頂き、教祖にお目通りさせて頂いた。
 教祖は、真っ赤な赤衣をお召しになり、白髪で茶せんに結うておら れ、綺麗な上品なお姿であられた、という。

四三 それでよかろう

 明治八年九月二十七日(陰暦八月二十八日)、この日は、こかんの出直した日 である。庄屋敷村の人々は、病中には見舞い、容態が変わったと言う ては駆け付け、葬式の日は、朝早くから手伝いに駈せ参じた。
 その翌日、後仕舞の膳についた一同は、こかん生前の思い出を語り、 教祖のお言葉を思い、話し合ううちに、「ほんまに、わし等は、今まで、 神様を疑うていて申し訳なかった。」 と、中には涙を流す者さえあっ た。
 その時、列席していたお屋敷に勤める先輩が、「あなた方も、一つ、 講を結んで下さったら、どうですか。」 と、言った。そこで、村人達 は、「わし等も、村方で講を結ばして頂こうやないか。」 と、相談がま とまった。
 その由を、教祖に申し上げると、教祖は、大層お喜び下された。
 そこで、講名を、何んと付けたらよかろう、という事になったが、 農家の人々ばかりで、よい考えもない。そのうち、誰言うともなく、 「天の神様の地元だから、天の元、天元講としては、どうだろう。」 とのことに、一同、「それがよい。」 という事になり、この旨を教祖に 伺うと、
 「それでよかろう。」
と、仰せられ、御自分の召しておられた赤衣の羽織を脱いで、
 「これを、信心のめどにして、お祀りしなされ。」
と、お下げ下された。こうして、天元講が出来、その後は、誰が講元 ということもなく、毎月、日を定めて、赤衣を持ち廻わって講勤めを 始めたのである。

四四 雪の日

 明治八、九年頃、増井りんが信心しはじめて、熱心にお屋敷帰りの 最中のことであった。
 正月十日、その日は朝から大雪であったが、りんは河内からお屋敷 へ帰らせて頂くため、大和路まで来た時、雪はいよいよ降りつのり、 途中から風さえ加わる中を、ちょうど額田部の高橋の上まで出た。こ の橋は、当時は幅三尺程の欄干のない橋であったので、これは危ない と思い、雪の降り積もっている橋の上を、跣足になって這うて進んだ。 そして、ようやくにして、橋の中程まで進んだ時、吹雪が一時にドッ と来たので、身体が揺れて、川の中へ落ちそうになった。こんなこと が何回もあったが、その度に、蟻のようにペタリと雪の上に這いつく ばって、
 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、一生懸命にお願いしつつ、やっとの思いで高橋を渡り切って宮堂 に入り、二階堂を経て、午後四時頃お屋敷へたどりついた。そして、 つとめ場所の、障子を開けて、中へ入ると、村田イヱが、「ああ、今、 教祖が、窓から外をお眺めになって、
 『まあまあ、こんな日にも人が来る。なんと誠の人やなあ。ああ、 難儀やろうな。』
と、仰せられていたところでした。」 と、言った。
 りんは、お屋敷へ無事帰らせて頂けた事を、「ああ、結構やなあ。」 と、ただただ喜ばせて頂くばかりであった。しかし、河内からお屋敷 まで七里半の道を、吹雪に吹きまくられながら帰らせて頂いたので、 手も足も凍えてしまって自由を失っていた。それで、そこに居合わせ た人々が、紐を解き、手を取って、種々と世話をし、火鉢の三つも寄 せて温めてくれ、身体もようやく温まって来たので、早速と教祖へ御 挨拶に上がると、教祖は、
 「ようこそ帰って来たなあ。親神が手を引いて連れて帰ったのやで。 あちらにてもこちらにても滑って、難儀やったなあ。その中にて喜 んでいたなあ。さあ/\親神が十分々々受け取るで。どんな事も皆 受け取る。守護するで。楽しめ、楽しめ、楽しめ。」
と、仰せられて、りんの冷え切った手を、両方のお手で、しっかりと お握り下された。
 それは、ちょうど火鉢の上に手をあてたと言うか、何んとも言いあ らわしようのない温かみを感じて、勿体ないやら有難いやらで、りん は胸が一杯になった。

四五 心の皺を

 教祖は、一枚の紙も、反故やからとて粗末になさらず、おひねりの 紙なども、丁寧に皺を伸ばして、座布団の下に敷いて、御用にお使い なされた。お話に、
 「皺だらけになった紙を、そのまま置けば、落とし紙か鼻紙にする より仕様ないで。これを丁寧に皺を伸ばして置いたなら、何んなり とも使われる。落とし紙や鼻紙になったら、もう一度引き上げるこ とは出来ぬやろ。
 人のたすけもこの理やで。心の皺を、話の理で伸ばしてやるのや で。心も、皺だらけになったら、落とし紙のようなものやろ。そこ を、落とさずに救けるが、この道の理やで。」
と、お聞かせ下された。
 ある時、増井りんが、お側に来て、「お手許のおふでさきを写さして 頂きたい。」 とお願いすると、
 「紙があるかえ。」
と、お尋ね下されたので、「丹波市へ行て買うて参ります。」 と申し上 げたところ、
 「そんな事していては遅うなるから、わしが括ってあげよう。」 と、仰せられ、座布団の下から紙を出し、大きい小さいを構わず、墨 のつかぬ紙をよりぬき、御自身でお綴じ下されて、
 「さあ、わしが読んでやるから、これへお書きよ。」
とて、お読み下された。りんは、筆を執って書かせて頂いたが、これ は、おふでさき第四号で、今も大小不揃いの紙でお綴じ下されたまま 保存させて頂いている、という。

四六 何から何まで

 ある日、信者が大きな魚をお供えした。お供えがすんでから、秀司 が、増井りんに、「それを料理するように。」と、言い付けた。りんは、 出刃をさがしたが、どうしても見付からない。すると、秀司は、「おり んさん、出刃かいな。台所に大きな菜刀があるやろ。あれで料理して おくれ。」 と言った。出刃はなかったのである。
 りんは、余りのことと思ったので、ある日お暇を願うて、河内へも どった。ちょうど、その日は、八尾のお逮夜であったので、早速、八 尾へ出かけて、出刃庖丁と薄い刺身庖丁と鋏など、一揃い買うて来て、 お屋敷へ帰り、お土産に差し上げた。秀司もまつゑも大層喜んで、秀 司は、「こんな結構なもの、お祖母様に見せる。一しょにおいで。」 と 促した。教祖にお目にかかって、留守にしたお礼を、申し上げると、 教祖は、それをお頂きになって、
 「おりんさん、何から何まで、気を付けてくれたのやなあ。有難い なあ。」
と、仰せになって、お喜び下された。りんは、余りの勿体なさに、畳 に額をすり付けて、むせび泣いた、という。

註 八尾のお逮夜 毎月二回、十一日と二十七日に、八尾の寺と久宝 寺の寺との間に出た昼店。

四七 先を楽しめ

 明治九年六月十八日の夜、仲田儀三郎が、「教祖が、よくお話の中に、
 『松は枯れても、案じなし。』
と、仰せ下されますので、どこの松であろうかと、話し合うているの ですが。」 と言ったので、増井りんは、「お祓いさんの降った松は枯れ る。増井の屋敷の松に、お祓いさんが降ったから、あの松は枯れてし まう。そして、あすこの家は、もうあかん。潰れてしまうで。と、人 人が申します。」 と、人の噂を、そのままに話した。そこで、仲田が、 早速このことを、教祖にお伺いすると、教祖は、
 「さあ/\分かったか、分かったか。今日の日、何か見えるやなけ れども、先を楽しめ、楽しめ。松は枯れても案じなよ。人が何んと 言うても、言おうとも、人の言う事、心にかけるやない程に。」
と、仰せ下され、しばらくしてから、
 「屋敷松、松は枯れても案じなよ。末はたのもし、打ち分け場所。」
と、重ねてお言葉を下された。

四八 待ってた、待ってた

 明治九年十一月九日(陰暦九月二十四日)午後二時頃、上田嘉治郎が、萱生 の天神祭に出かけようとした時、機を織っていた娘のナライトが、 突然、「布留の石上さんが、総髪のような髪をして、降りて来はる。怖 い。」 と言うて泣き出した。いろいろと手当てを尽したが、何んの効 能もなかったので、隣りの西浦弥平のにをいがけで信心するうち、次 第によくなり、翌月、おぢばへ帰って、教祖にお目にかからせて頂い たところ、
 「待ってた、待ってた。五代前に命のすたるところを救けてくれた 叔母やで。」
と、有難いお言葉を頂き、三日の間に、すっきりお救け頂いた。時に、 ナライト十四才であった。

四九 素直な心

 明治九年か十年頃、林芳松が五、六才頃のことである。右手を脱臼 したので、祖母に連れられてお屋敷へ帰って来た。すると、教祖は、
 「ぼんぼん、よう来やはったなあ。」
と、仰っしゃって、入口のところに置いてあった湯呑み茶碗を指差し、
 「その茶碗を持って来ておくれ。」
と、仰せられた。
 芳松は、右手が痛いから左手で持とうとすると、教祖は、
 「ぼん、こちらこちら。」
と、御自身の右手をお上げになった。
 威厳のある教祖のお声に、子供心の素直さから、痛む右手で茶碗を 持とうとしたら、持てた。茶碗を持った右手は、いつしか御守護を頂 いて、治っていたのである。

五〇 幸助とすま

 明治十年三月のこと。桝井キクは、娘のマス(註、後の村田すま)を連れて、 三日間生家のレンドに招かれ、二十日の日に帰宅したが、翌朝、マス は、激しい頭痛でなかなか起きられない。が、厳しくしつけねば、と 思って叱ると、やっと起きた。が、翌二十二日になっても、未だ身体 がすっきりしない。それで、マスは、お屋敷へ詣らせて頂こう、と思 って、許しを得て、朝八時伊豆七条村の家を出て、十時頃お屋敷へ到 着した。すると、教祖は、マスに、
 「村田、前栽へ嫁付きなはるかえ。」
と、仰せになった。マスは、突然の事ではあったが、教祖のお言葉に、 「はい、有難うございます。」 と、お答えした。すると、教祖は、
 「おまはんだけではいかん。兄さん(註、桝井伊三郎)にも来てもらい。」
と、仰せられたので、その日は、そのまま伊豆七条村へもどって、兄 の伊三郎にこの話をした。その頃には、頭痛は、もう、すっきり治っ ていた。
 それで、伊三郎は、神様が仰せ下さるのやから、明早朝伺わせて頂 こう、ということになり、翌二十三日朝、お屋敷へ帰って、教祖にお 目にかからせて頂くと、教祖は、
 「オマスはんを、村田へやんなはるか。やんなはるなら、二十六日 の日に、あんたの方から、オマスはんを連れて、ここへ来なはれ。」
と、仰せになったので、伊三郎は、「有難うございます。」 と、お礼申 し上げて、伊豆七条村へもどった。
 翌二十四日、前栽の村田イヱが、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖は、
 「オイヱはん、おまはんの来るのを、せんど待ちかねてるね。おま はんの方へ嫁はんあげるが、要らんかえ。」
と、仰せになったので、イヱは、「有難うございます。」 と、お答えし た。すると、教祖は、
 「二十六日の日に、桝井の方から連れて来てやさかいに、おまはん の方へ連れてかえり。」
と、仰せ下された。
 二十六日の朝、桝井の家からは、いろいろと御馳走を作って重箱に 入れ、母のキクと兄夫婦とマスの四人が、お屋敷へ帰って来た。
 前栽からは、味醂をはじめ、いろいろの御馳走を入れた重箱を持っ て、親の幸右衞門、イヱ夫婦と亀松(註、当時二十六才)が、お屋敷へ帰って 来た。
 そこで、教祖のお部屋、即ち中南の間で、まず教祖にお盃を召し上 がって頂き、そのお流れを、亀松とマスが頂戴した。教祖は、
 「今一寸前栽へ行くだけで、直きここへ帰って来るねで。」
と、お言葉を下された。
 この時、マスは、教祖からすまと名前を頂いて、改名し、亀松は、 後、明治十二年、教祖から幸助と名前を頂いて、改名した。

註 レンド レンドは、又レンゾとも言い、百姓の春休みの日。日は、 村によって同日ではないが、田植、草取りなどの激しい農作業を目の 前にして、餅をつき団子を作りなどして、休養する日。 (近畿民俗学会「大和の民俗」、民俗学研究所「綜合日本民俗語彙」)

五一 家の宝

 明治十年六、七月頃(陰暦五月)のある日のこと。村田イヱが、いつもの ように教祖のお側でお仕えしていると、俄かに、教祖が、
 「オイヱはん、これ縫うて仕立てておくれ。」
と、仰せられ、甚平に裁った赤い布をお出しになった。イヱは、「妙や なあ。神様、縫うて、と仰っしゃる。」 と思いながら、直ぐ縫い上げ たら、教祖は、早速それをお召しになった。
 ちょうどその日の夕方、亀松は、腕が痛んで痛んで困るので、お屋 敷へ詣って来ようと思って、帰って来た。教祖は、それをお聞きにな って、
 「そうかや。」
と、仰せられ、早速寝床へお入りになり、しばらくして、寝床の上に ジッとお坐りになり、
 「亀松が、腕痛いと言うているのやったら、ここへ連れておいで。」
と、仰せになった。それで、亀松を、御前へ連れて行くと、
 「さあ/\これは使い切れにするのやないで。家の宝やで。いつで も、さあという時は、これを着て願うねで。」
と、仰せになり、お召しになっていた赤衣をお脱ぎになって、直き直 き、亀松にお着せ下され、
 「これを着て、早くかんろだいへ行て、
 あしきはらひたすけたまへ いちれつすますかんろだい
 のおつとめをしておいで。」
と、仰せられた。

五二 琴を習いや

 明治十年のこと。教祖が、当時八才の辻とめぎくに、
 「琴を習いや。」
と、仰せになったが、父の忠作は、「我々の家は百姓であるし、そんな、 琴なんか習わせても。」 と言って、そのままにして、日を過ごしてい た。
 すると、忠作の右腕に、大きな腫物が出来た。それで、この身上か ら、「娘に琴の稽古をさせねばならぬ。」 と気付き、決心して、郡山の 町へ琴を買いに行った。
 そうして、琴屋で、話しているうちに、その腫物が潰れて、痛みも すっきり治まった。それで、「いよいよこれは、神様の思わくやったの や。」 と、心も勇んで、大きな琴を、今先まで痛んでいた手で肩にか ついで、帰路についた、という。

五三 この屋敷から

 明治十年、飯降よしゑ十二才の時、ある日、指先が痛んで仕方がな いので、教祖にお伺いに上がったところ、
 「三味線を持て。」
と、仰せになった。それで、早速その心を定めたが、当時櫟本の高品 には、三味線を教えてくれる所はない。「郡山へでも、習いに行きま しょうか。」 と、お伺いすると、教祖は、
 「習いにやるのでもなければ、教えに来てもらうのでもないで。こ の屋敷から教え出すものばかりや。世界から教えてもらうものは、 何もない。この屋敷から教え出すので、理があるのや。」
と、仰せられ、御自身で手を取って、直き直きお教え下されたのが、 おつとめの三味線である。

註 飯降よしゑは、明治二十一年結婚して、永尾よしゑとなる。

五四 心で弾け

 飯降よしゑは、明治十年十二才の時から三年間、教祖から直き直き 三味線をお教え頂いたが、その間いろいろと心がけをお仕込み頂いた。 教祖は、
 「どうでも、道具は揃えにゃあかんで。」
 「稽古出来てなければ、道具の前に坐って、心で弾け。その心を受 け取る。」
 「よっしゃんえ、三味線の糸、三、二と弾いてみ。一ッと鳴るやろ が。そうして、稽古するのや。」
と。

五五 胡弓々々

 明治十年のこと。当時十五才の上田ナライトは、ある日、たまたま 園原村の生家へかえっていたが、何かのはずみで、身体が何度も揺れ 動いて止まらない。父親や兄がいくら押えても、止まらず、一しょに なって動くので、父親がナライトを連れて、教祖の御許へお伺いに行 くと、
 「胡弓々々。」
と、仰せになった。それで「はい。」 とお受けすると、身体の揺れる のが治まった。
 こうして、胡弓をお教え頂くことになり、おつとめに出させて頂く ようになった。

五六 ゆうべは御苦労やった

 本部神殿で、当番を勤めながら井筒貞彦が、板倉槌三郎に尋ねた。 「先生は、何遍も警察などに御苦労なされて、その中、ようまあ、信 仰をお続けになりましたね。」 と、言うと、板倉槌三郎は、「わしは、 お屋敷へ三遍目に帰って来た時、三人の巡査が来よって、丹波市分署 の豚箱へ入れられた。あの時、他の人と一晩中、お道を離れようか、 と相談したが、しかし、もう一回教祖にお会いしてからにしようと思 って、お屋敷へもどって来た。すると、教祖が、
 『ゆうべは、御苦労やったなあ。』
と、しみじみと、且つニコヤカに仰せ下された。わしは、その御一言 で、これからはもう、かえって、何遍でも苦労しよう、という気にな ってしもうた。」 と、答えた。
 これは、神殿が、未だ北礼拝場だけだった昭和六、七年頃、井筒が、 板倉槌三郎から聞いた話である。

註 板倉槌三郎は、明治九年に信仰始。よって、教祖のお言葉をお聞 かせ頂いたのは、明治九年、又は十年頃と推定される。

五七 男の子は、父親付きで

 明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子 供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一 の道具を蛭にかまれた。その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、 三日経つと、大層腫れて来た。別に痛みはしなかったが、場所が場所 だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種 種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。
 その頃、同村の喜多治郎吉の伯母矢追こうと、桝井伊三郎の母キク とは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母ことに、信心をすす めてくれた。ことは、元来信心家であったので、直ぐ、その気になっ たが、楢蔵の父惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ信心する者を笑っ ていたくらいであった。そこで、ことが、「わたしの還暦祝をやめるか、 信心するか。どちらかにしてもらいたい。」 とまで言ったので、惣五 郎はやっとその気になった。十一年一月(陰暦 前年十二月)のことである。
 そこで、祖母のことが楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目に かかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、
 「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」
と、お言葉を下された。それからというものは、祖母のことと母のな かが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、 はかばかしく御守護を頂けない。
 明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、 ことが楢蔵を連れてお詣りしてい ると、辻忠作が、
「『男の子は、父親付きで。』 と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さん が連れて詣りなされ。」 と、言ってくれた。それで、家へもどってか ら、ことは、このことを惣五郎に話して、「ぜひお詣りしておくれ。」 と、言った。
 それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れておぢ ばへ詣り、夕方帰宅した。ところが、不思議なことに、翌朝は、最初 の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、 すっきり全快の御守護を頂いた。家族一同の喜びは譬えるにものもな かった。当時十才の楢蔵も、心に沁みて親神様の御守護に感激し、こ れが、一生変わらぬ堅い信仰のもととなった。

五八 今日は、河内から

 明治十年頃のこと。当時二十才の河内国の山田長造は、長患いのた め数年間病床に呻吟していた。
 ところが、ある日、綿を買い集めに来た商人から、大和の庄屋敷に は、不思議な神様が居られると聞き、病床の中で、一心に念じておす がりしていると、不思議にも気分がよくなって来た。湯呑みで水を頂 くにも、祈念して頂くと、気分が一段とよくなり、数日のうちに起き られるようになった。
 この不思議な御守護に感激した長造は、ぜひ一度、庄屋敷へお詣り して、生神様にお礼申し上げたいと思い立った。家族は、時期尚早と 反対したが、当人のたっての思いから、弟与三吉を同行させて、二本 の松葉杖にすがって出発した。ところが、自宅のある刑部村から一里 程の、南柏原へ来ると、杖は一本で歩けるようになった。更に、大和 へ入って竜田まで来ると、残りの一本も要らないようになった。そこ で、弟を家へかえして、一人でお屋敷へたどりついた。
 そして、取次から、「あんたは、河内から来られたのやろう。神様は、 朝から、
 『今日は、河内から訪ねて来る人があるで。』
と、仰せになっていたが、あんたの事やなあ。神様は、待っていられ るで。」と聞かされて、大層驚き、「本当に、生神様のおいでになる所 やなあ。」 と、感じ入った。
 かくて、教祖にお目通りして、数々のやさしいお言葉を頂き、約一 週間滞在の上、すっきり御守護頂いたので、お暇に上がると、
 「又、直ぐ帰って来るのやで。」
と、お言葉を下さった。
 こうして、かえりは信貴山越えで、陽気に伊勢音頭を歌いながら、 元気にかえらせて頂いた、という。

五九 まつり

 明治十一年正月、山中こいそ(註、後の山田いゑ)は、二十八才で教祖の御 許にお引き寄せ頂き、お側にお仕えすることになったが、教祖は二十 六日の理について、
 「まつりというのは、待つ理であるから、二十六日の日は、朝から 他の用は、何もするのやないで。この日は、結構や、結構や、と、 をや様の御恩を喜ばして頂いておればよいのやで。」
と、お聞かせ下されていた。
 こいそは、赤衣を縫う事と、教祖のお髪を上げる事とを、日課とし ていたが、赤衣は、教祖が、必ずみずからお裁ちになり、それをこい そにお渡し下さる事になっていた。
 教祖の御許にお仕えして間もない明治十一年四月二十八日、陰暦三 月二十六日の朝、お掃除もすませ、まだ時間も早かったので、こいそ は、教祖に向かって、「教祖、朝早くから何もせずにいるのは余り勿体 のう存じますから、赤衣を縫わして頂きとうございます。」 とお願い した。すると教祖は、しばらくお考えなされてから、
 「さようかな。」
と、仰せられ、すうすうと赤衣をお裁ちになって、こいそにお渡し下 された。
 こいそは、御用が出来たので、喜んで、早速縫いにかかったが、一 針二針縫うたかと思うと、俄かにあたりが真暗になって、白昼の事で あるのに、黒白も分からぬ真の闇になってしまった。愕然としてこい そは、「教祖」と叫びながら、「勿体ないと思うたのは、かえって理に添 わなかったのです。赤衣を縫わして頂くのは、明日の事にさして頂き ます。」と、心に定めると、忽ち元の白昼に還って、何の異状もな くなった。
 後で、この旨を教祖に申し上げると、教祖は、
 「こいそさんが、朝から何もせずにいるのは、あまり勿体ない、と 言いなはるから、裁ちましたが、やはり二十六日の日は、掃き掃除 と拭き掃除だけすれば、おつとめの他は何もする事要らんのやで。 してはならんのやで。」
と、仰せ下さった。

六〇 金米糖の御供

 教祖は、金米糖の御供をお渡し下さる時、
 「ここは、人間の元々の親里や。そうやから砂糖の御供を渡すのや で。」
と、お説き聞かせ下された。又、
 「一ぷくは、一寸の理。中に三粒あるのは、一寸身に付く理。二ふ くは、六くに守る理。三ふくは、身に付いて苦がなくなる理。五ふ くは、理を吹く理。三、五、十五となるから、十分理を吹く理。七 ふくは、何んにも言うことない理。三、七、二十一となるから、た っぷり治まる理。九ふくは、苦がなくなる理。三、九、二十七とな るから、たっぷり何んにも言うことない理。」
と、お聞かせ下された。


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