天理教教祖伝逸話篇(二) 第二十一話から第四十話



21 結構や、結構や |  22 おふでさき御執筆 |  23 たちやまいのおたすけ |  24 よう帰って来たなあ |  25 七十五日の断食 |  26 麻と絹と木綿の話 |  27 目出度い日 |  28 道は下から |  29 三つの宝 |  30 一粒万倍 |  31 天の定規 |  32 女房の口一つ |  33 国の掛け橋 |  34 月日許した |  35 赤衣 |  36 定めた心 |  37 神妙に働いて下されますなあ |  38 東山から |  39 もっと結構 |  40 ここに居いや

 

二一 結構や、結構や

 慶応四年五月の中旬のこと。それは、山中忠七が入信して五年後の ことであるが、毎日々々大雨が降り続いて、あちらでもこちらでも川 が氾濫して、田が流れる家が流れるという大洪水となった。忠七の家 でも、持山が崩れて、大木が一時に埋没してしまう、田地が一町歩程 も土砂に埋まってしまう、という大きな被害を受けた。
 この時、かねてから忠七の信心を嘲笑っていた村人達は、「あのざま を見よ。阿呆な奴や。」 と、思い切り罵った。それを聞いて忠七は、 残念に思い、早速お屋敷へ帰って、教祖に伺うと、教祖は、
 「さあ/\、結構や、結構や。海のドン底まで流れて届いたから、 後は結構やで。信心していて何故、田も山も流れるやろ、と思うや ろうが、たんのうせよ、たんのうせよ。後々は結構なことやで。」
と、お聞かせ下された。忠七は、大難を小難にして頂いたことを、心 から親神様にお礼申し上げた。

二二 おふでさき御執筆

 教祖は、おふでさきについて、
 「ふでさきというものありましょうがな。あんた、どないに見てい る。あのふでさきも、一号から十七号まで直きに出来たのやない。 神様は、『書いたものは、豆腐屋の通い見てもいかんで。』 と、仰っ しゃって、耳へ聞かして下されましたのや。何んでやなあ、と思い ましたら、神様は、『筆、筆、筆を執れ。』 と、仰っしゃりました。 七十二才の正月に、初めて筆執りました。そして、筆持つと手がひ とり動きました。天から、神様がしましたのや。書くだけ書いたら 手がしびれて、動かんようになりました。 『心鎮めて、これを読ん でみて、分からんこと尋ねよ。』 と、仰っしゃった。自分でに分か らんとこは、入れ筆しましたのや。それがふでさきである。」
と、仰せられた。
 これは、後年、梅谷四郎兵衞にお聞かせ下されたお言葉である。

二三 たちやまいのおたすけ

 松村さくは、「たちやまい」にかかったので、生家の小東家で養生の 上、明治四年正月十日、おぢばへお願いに帰って来た。
 教祖は、いろいろと有難いお話をお聞かせ下され、長患いと熱のた めにさくの頭髪にわいた虱を、一匹ずつ取りながら、髪を梳いておや りになった。そして、更に、風呂を沸かして、垢付いたさくの身体を、 御手ずから綺麗にお洗い下された。
 この手厚い御看護により、さくの病気は、三日目には、嘘のように 全快した。

二四 よう帰って来たなあ

 大和国仁興村の的場彦太郎は、声よしで、音頭取りが得意であった。 盆踊りの頃ともなれば、長滝、苣原、笠などと、近在の村々までも出 かけて行って、音頭櫓の上に立った。
 明治四年、十九才の時、声の壁を破らなければ本当の声は出ない、 と聞き、夜、横川の滝で、「コーリャ コリャ コリャ」と、大声を張 り上げた。
 昼は田で働いた上のことであったので、マムシの黒焼と黒豆と胡麻 を、すって練ったものをなめて、精をつけながら頑張った。すると、 三晩目のこと、突然目が見えなくなってしまった。ソコヒになったの である。
 長谷の観音へも跣足詣りの願をかけたが、一向利やくはなかった。 それで、付添いの母親しかが、「足許へ来た白い鶏さえ見えぬのか。」 と、歎き悲しんだ。こうして三ヵ月余も経った時、にをいがかかった。 「庄屋敷に、どんな病気でも救けて下さる神さんが出来たそうな。そ んなぐらい直ぐに救けて下さるわ。」という事である。
 それで、早速おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いたところ、 教祖は、ハッタイ粉の御供を三服下され、
 「よう帰って来たなあ。あんた、目が見えなんだら、この世暗がり 同様や。神さんの仰っしゃる通りにさしてもろたら、きっと救けて 下さるで。」
と、仰せになった。彦太郎は、「このままで越すことかないません。治 して下さるのでしたら、どんな事でもさしてもらいます。」とお答え した。すると。教祖は、
 「それやったら、一生、世界へ働かんと、神さんのお伴さしてもろ うて、人救けに歩きなされ。」
と、仰せられた。「そんなら、そうさしてもらいます。」と彦太郎の 答が、口から出るか出ないかのうちに、目が開き、日ならずして全快 した。その喜びに、彦太郎は、日夜熱心に、にをいがけ・おたすけに 励んだ。それから八十七才の晩年に到るまで、眼鏡なしで細かい字が 読めるよう、お救け頂いたのである。

二五 七十五日の断食

 明治五年、教祖七十五才の時、七十五日の断食の最中に、竜田の北 にある東若井村の松尾市兵衞の宅へ、おたすけに赴かれた時のこと。 教祖はお屋敷を御出発の時に、小さい盃に三杯の味醂と、生の茄子の 輪切り三箇を、召し上がってから、
 「参りましょう。」
と、仰せられた。その時、「駕篭でお越し願います。」 と、申し上げる と、
 「ためしやで。」
と、仰せられ、いとも足取り軽く歩まれた。かくて、松尾の家へ到着 されると、涙を流さんばかりに喜んだ市兵衞夫婦は、断食中四里の道 のりを歩いてお越し下された教祖のお疲れを思い、心からなる御馳走 を拵えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、
 「えらい御馳走やな。おおきに。その心だけ食べて置くで。もう、 これで満腹や。さあ、早ようこれをお下げ下され。その代わり、水 と塩を持って来て置いて下され。」
と、仰せになった。市兵衞の妻ハルが、御馳走が気に入らないので仰 せになるのか、と思って、お尋ねすると、
 「どれもこれも、わしの好きなものばかりや。とても、おいしそう に出来ている。」
と、仰せになった。それで、ハルは、「何一つ、手も付けて頂けず、水 と塩とだけ出せ、と仰せられても、出来ません。」と申し上げると、
 「わしは、今、神様の思召しによって、食を断っているのや。お腹 は、いつも一杯や。お気持は、よう分かる。そしたら、どうや。あ んたが箸を持って、わしに食べさしてくれんか。」
と、仰せられた。
 それで、ハルは、喜んでお膳を前に進め、お茶碗に御飯を入れ、「そ れでは、お上がり下さいませ。」 と、申し上げてから、箸に御飯を載 せて、待っておられる教祖の方へ差し出そうとしたところ、どうした 事か、膝がガクガクと揺れて、箸の上の御飯と茶碗を、一の膳の上に 落としてしまった。ハルは、平身低頭お詫び申し上げて、ニコニコと 微笑をたたえて見ておられる教祖の御前から、膳部を引き下げ、再び 調えて、教祖の御前に差し出した。すると、教祖は、
 「御苦労さんな事や。また食べさせてくれはるのかいな。」
と、仰せになって、口をお開けになった。そこで、ハルが、再び茶碗 を持ち、箸に御飯を載せて、お口の方へ持って行こうとしたところ、 右手の、親指と人差指が、痛いような痙攣を起こして、箸と御飯を、 教祖のお膝の上に落としてしまった。ハルは、全く身の縮む思いで、 重ねての粗相をお詫び申し上げると、教祖は、
 「あんたのお心は有難いが、何遍しても同じ事や。神様が、お止め になったのや。さあ/\早く、膳部を皆お下げ下され。」
と、いたわりのお言葉を下された。
 こうして御滞在がつづいたが、この様子が伝わって、五日目頃、お 屋敷から、こかん、飯降、櫟枝の与平の三人が迎えに来た。その時さ らに、こかんから、食事を召し上がるようすすめると、教祖は、
 「おまえら、わしが勝手に食べぬように思うけれど、そうやないで。 食べられぬのやで。そんなら、おまえ食べさせて見なされ。」
と、仰せられたので、こかんが、食べて頂こうとすると、箸が、跳ん で行くように上へつり上がってしまったので、皆々成る程と感じ入っ た。こうして、断食は、ついにお帰りの日までつづいた。
 お帰りの時には、秀司が迎えに来て、市兵衞もお伴して、平等寺村 の小東の家から、駕篭を借りて来て竜田までお召し願うたが、その時、  「目眩いがする。」
と、仰せられたので、それからは、仰せのままにお歩き頂いた。
 「親神様が『駕篭に乗るのやないで。歩け。』と、仰せになった。」 と、お聞かせ下された。

二六 麻と絹と木綿の話

 明治五年、教祖が、松尾の家に御滞在中のことである。お居間へ朝 の御挨拶に伺うた市兵衞、ハルの夫婦に、教祖は、
 「あんた達二人とも、わしの前へ来る時は、いつも羽織を着ている が、今日からは、普段着のままにしなされ。その方が、あんた達も 気楽でええやろ。」
と、仰せになり、二人が恐縮して頭を下げると、
 「今日は、麻と絹と木綿の話をしよう。」
と、仰せになって、
 「麻はなあ、夏に着たら風通しがようて、肌につかんし、これ程涼 しゅうてええものはないやろ。が、冬は寒うて着られん。夏だけの ものや。三年も着ると色が来る。色が来てしもたら、値打ちはそれ までや。濃い色に染め直しても、色むらが出る。そうなったら、反 故と一しょや。
 絹は、羽織にしても着物にしても、上品でええなあ。買う時は高 いけど、誰でも皆、ほしいもんや。でも、絹のような人になったら、 あかんで。新しい間はええけど、一寸古うなったら、どうにもなら ん。
 そこへいくと、木綿は、どんな人でも使うている、ありきたりの ものやが、これ程重宝で、使い道の広いものはない。冬は暖かいし、 夏は、汗をかいても、よう吸い取る。よごれたら、何遍でも洗濯が 出来る。色があせたり、古うなって着られんようになったら、おし めにでも、雑巾にでも、わらじにでもなる。形がのうなるところま で使えるのが、木綿や。木綿のような心の人を、神様は、お望みに なっているのやで。」
と、お仕込み下された。以後、市兵衞夫婦は、心に木綿の二字を刻み 込み、生涯、木綿以外のものは身につけなかった、という。

二七 目出度い日

 明治五年七月、教祖が、松尾市兵衞の家へお出かけ下されて、御滞 在中の十日目の朝、お部屋へ、市兵衞夫婦が御挨拶に伺うと、
 「神様をお祀りする気はないかえ。」
と、お言葉があった。それで、市兵衞が、「祀らせて頂きますが、どこ へ祀らせて頂けば宜しうございましょうか。」 と、伺うと、
 「あそこがええ。」
と、仰せになって、指さされたのが、仏壇のある場所であった。余り に突然のことではあり、そこが、先祖代々の仏間である事を思う時、 市兵衞夫婦は、全く青天に霹靂を聞く思いがした。が、互いに顔を見 合わせて、肯き合うと、市兵衞は、「では、この仏壇は、どこへ動かせ ば、宜しいのでございましょうか。」 と、伺うた。すると教祖は、
 「先祖は、おこりも反対もしやせん。そちらの部屋の、同じような 場所へ移させてもらいや。」
との仰せである。
 そちらの部屋とは、旧客間のことである。早速と、大工を呼んで、 教祖の仰せのまにまに、神床を設計し、仏壇の移転場所も用意して、 僧侶の大反対は受けたが、無理矢理、念仏を上げてもらって、その夜、 仏壇の移転を無事完了した。そして、次の日から、大工四名で神床の 工事に取りかかった。教祖に、
 「早ようせんと、間に合わんがな。」
と、お急ぎ頂いて、出来上がったのは、十二日目の夕方であった。翌 朝、夫婦が、教祖のお部屋へ御挨拶に上がると、教祖はおいでになら ず、神床の部屋へ行ってみると、教祖は、新しく出来た神床の前に、 ジッとお坐りになっていた。そして、
 「ようしたな。これでよい、これでよい。」
と、仰せ下された。それから、長男楢蔵の病室へお越しになり、身動 きも出来ない楢蔵の枕もとに、お坐りになり、
 「頭が痒いやろな。」
と、仰せになって、御自分の櫛をとって、楢蔵の髪をゆっくりお梳き 下された。そして、御自分の部屋へおかえりになった時、
 「今日は、吉い日やな。目出度い日や。神様を祀る日やからな。」
と、言って、ニッコリとお笑いになった。夫婦が、「どうしてお祀りす るのかしら。」 と思っていると、玄関で人の声がした。ハルが出てみ ると、秀司が、そこに立っていた。早速、座敷へ案内すると、教祖は、
 「神様を祀る段取りをされたから、御幣を造らせてもらい。」
と、お命じになり、やがて、御幣が出来上がると、御みずからの手で、 神床へ運んで、御祈念下された。
 「今日から、ここにも神様がおいでになるのやで。目出度いな、ほ んとに目出度い。」
と、心からお喜び下され、
 「直ぐ帰る。」
と、仰せになって、お屋敷へお帰りになった。
 仏壇は、後日、すっきりと取り片付けた。

二八 道は下から

 山中忠七が、道を思う上から、ある時、教祖に、「道も高山につけば、 一段と結構になりましょう。」 と、申し上げた。すると、教祖は、
 「上から道をつけては、下の者が寄りつけるか。下から道をつけた ら、上の者も下の者も皆つきよいやろう。」
と、お説き聞かせになった。

二九 三つの宝

 ある時、教祖は、飯降伊蔵に向かって、
 「伊蔵さん、掌を拡げてごらん。」
と、仰せられた。
 伊蔵が、仰せ通りに掌を拡げると、教祖は、籾を三粒持って、
 「これは朝起き、これは正直、これは働きやで。」
と、仰せられて、一粒ずつ、伊蔵の掌の上にお載せ下されて、
 「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで。」
と、仰せられた。
 伊蔵は、生涯この教えを守って通ったのである。

三○ 一粒万倍

 教祖は、ある時一粒の籾種を持って、飯降伊蔵に向かい、
 「人間は、これやで。一粒の真実の種を蒔いたら、一年経てば二百 粒から三百粒になる。二年目には、何万という数になる。これを、 一粒万倍と言うのやで。三年目には、大和一国に蒔く程になるで。」
と、仰せられた。

三一 天の定規

 教祖は、ある日飯降伊蔵に、
 「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみ て下され。」
と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真 っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、
 「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」
と、仰せられ、更に続いて、
 「隙がありませんか。」
と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そ こで、「少し隙がございます。」 とお答えすると、教祖は、
 「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の 定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」
と、お教え下された。

三二 女房の口一つ

 大和国小阪村の松田利平の娘やすは、十代の頃から数年間、教祖の 炊事のお手伝いをさせて頂いた。教祖は、
 「おまえの炊いたものを、持って来てくれると、胸が開くような気 がする。」
と、言うて、喜んで下された。お食事は、粥で、その中へ大豆を少し 入れることになっていた。ひまな時には、教祖と二人だけという時も あった。そんな時、いろいろとお話を聞かせて下されたが、ある時、
 「やすさんえ、どんな男でも、女房の口次第やで。人から、阿呆や と、言われるような男でも、家にかえって、女房が、貴方おかえり なさい。と、丁寧に扱えば、世間の人も、わし等は、阿呆と言うけ れども、女房が、ああやって、丁寧に扱っているところを見ると、 あら偉いのやなあ、と言うやろう。亭主の偉くなるのも、阿呆にな るのも、女房の口一つやで。」
と、お教え下された。
 やすは、二十三才の時、教祖のお世話で、庄屋敷村の乾家へ嫁いだ。 見合いは、教祖のお居間でさせて頂いた。その時、
 「神様は、これとあれと、と言われる。それで、こう治まった。治 まってから、切ってはいかん。切ったら、切った方から切られます で。」
と、仰せられ、手を三度振って、
 「結構や、結構や、結構や。」
と、お言葉を下された。

三三 国の掛け橋

 河内国柏原村の山本利三郎は、明治三年秋二十一才の時、村相撲を 取って胸を打ち、三年間病の床に臥していた。医者にも見せ、あちら こちらで拝んでももらったが、少しもよくならない。それどころか、 命旦夕に迫って来た。明治六年夏のことである。その時、同じ柏原村 の「トウ」という木挽屋へ、大和の布留から働きに来ていた熊さんと いう木挽きが、にをいをかけてくれた。それで、父の利八が代参で、 早速おぢばへ帰ると、教祖から、
 「この屋敷は、人間はじめ出した屋敷やで。生まれ故郷や。どんな 病でも救からんことはない。早速に息子を連れておいで。おまえの 来るのを、今日か明日かと待ってたのやで。」
と、結構なお言葉を頂いた。もどって来て、これを伝えると、利三郎 は、「大和の神様へお詣りしたい。」 と言い出した。家族の者は、「とて も、大和へ着くまで持たぬだろう。」 と止めたが、利三郎は、「それで もよいから、その神様の側へ行きたい。」 と、せがんだ。あまりの切 望に、戸板を用意して、夜になってから、ひそかに門を出た。けれど も、途中、竜田川の大橋まで来た時、利三郎の息が絶えてしまったの で、一旦は引き返した。しかし、家に着くと、不思議と息を吹き返し て、「死んでもよいから。」 と言うので、水盃の上、夜遅く、提灯をつ けて、又戸板をかついで大和へと向かった。その夜は、暗い夜だった。
 一行は、翌日の夕方遅く、ようやくおぢばへ着いた。既にお屋敷の 門も閉まっていたので、付近の家で泊めてもらい、翌朝、死に瀕して いる利三郎を、教祖の御前へ運んだ。すると、教祖は、
 「案じる事はない。この屋敷に生涯伏せ込むなら、必ず救かるの や。」
と、仰せ下され、つづいて、
 「国の掛け橋、丸太橋、橋がなければ渡られん。差し上げるか、差 し上げんか。荒木棟梁 々々々々。」
と、お言葉を下された。それから、風呂をお命じになり、
 「早く、風呂へお入り。」
と、仰せ下され、風呂を出て来ると、
 「これで清々したやろ。」
と、仰せ下された。そんな事の出来る容態ではなかったのに、利三郎 は、少しも苦しまず、かえって、苦しみは去り、痛みは遠ざかって、 教祖から頂いたお粥を三杯、おいしく頂戴した。こうして、教祖の温 かい親心により、利三郎は、六日目にお救け頂き、一ヵ月滞在の後、 柏原へもどって来た。その元気な姿に、村人達は驚歎した、という。

三四 月日許した

 明治六年春、加見兵四郎は妻つねを娶った。その後、つねが懐妊し た時、兵四郎は、をびや許しを頂きにおぢばへ帰って来た。教祖は、
 「このお洗米を、自分の思う程持っておかえり。」
と、仰せになり、つづいて、直き直きお諭し下された。
 「さあ/\それはなあ、そのお洗米を三つに分けて、うちへかえり たら、その一つ分を家内に頂かし、産気ついたら、又その一つ分を 頂かし、産み下ろしたら、残りの一つ分を頂かすのやで。
 そうしたなら、これまでのようにもたれ物要らず、毒いみ要らず、 腹帯要らず、低い枕で、常の通りでよいのやで。すこしも心配する やないで。心配したらいかんで。疑うてはならんで。ここはなあ、 人間はじめた屋敷やで。親里やで。必ず、疑うやないで。月日許し たと言うたら、許したのやで。」
と。

三五 赤衣

 教祖が、初めて赤衣をお召しになったのは、明治七年十二月二十六 日(陰暦十一月十八日)であった。教祖が、急に、
 「赤衣を着る。」
と、仰せ出されたので、その日の朝から、まつゑとこかんが、奈良へ 布地を買いに出かけて、昼頃に帰って来た。それで、ちょうどその時、 お屋敷へ手伝いに来ていた、西尾ナラギク(註、後の桝井おさめ)、 桝井マス(註、後の村田すま)、仲田かじなどの女達も手伝うて、 教祖が、
 「出来上がり次第に着る。」
と、仰せになっているので、大急ぎで仕立てたから、その日の夕方に は出来上がり、その夜は、早速、赤衣の着初めをなされた。赤衣を召 された教祖が、壇の上にお坐りになり、その日詰めていた人々が、お 祝いの味醂を頂戴した、という。

三六 定めた心

 明治七年十二月四日(陰暦十月二十六日)朝、増井りんは、起き上がろうと すると、不思議や両眼が腫れ上がって、非常な痛みを感じた。日に日 に悪化し、医者に診てもらうと、ソコヒとのことである。そこで、驚 いて、医薬の手を尽したが、とうとう失明してしまった。夫になくな られてから二年後のことである。
 こうして、一家の者が非歎の涙にくれている時、年末年始の頃、(陰 暦十一月下旬)当時十二才の長男幾太郎が、竜田へ行って、道連れになった 人から、「大和庄屋敷の天竜さんは、何んでもよく救けて下さる。三日 三夜の祈祷で救かる。」 という話を聞いてもどった。それで早速、親 子が、大和の方を向いて、三日三夜お願いしたが、一向に効能はあら われない。そこで、男衆の為八を庄屋敷へ代参させることになった。 朝暗いうちに大県を出発して、昼前にお屋敷へ着いた為八は、赤衣を 召された教祖を拝み、取次の方々から教の理を承わり、その上、角目 角目を書いてもらって、もどって来た。
 これを幾太郎が読み、りんが聞き、「こうして、教の理を聞かせて頂 いた上からは、自分の身上はどうなっても結構でございます。我が家 のいんねん果たしのためには、暑さ寒さをいとわず、二本の杖にすが ってでも、たすけ一条のため通らせて頂きます。今後、親子三人は、 たとい火の中水の中でも、道ならば喜んで通らせて頂きます。」 と、 家族一同、堅い心定めをした。
 りんは言うに及ばず、幾太郎と八才のとみゑも水行して、一家揃う て三日三夜のお願いに取りかかった。おぢばの方を向いて、
 なむてんりわうのみこと
と、繰り返し繰り返して、お願いしたのである。
 やがて、まる三日目の夜明けが来た。火鉢の前で、お願い中端座し つづけていたりんの横にいたとみゑが、戸の隙間から差して来る光を 見て、思わず、「あ、お母さん、夜が明けました。」 と、言った。
 その声に、りんが、表玄関の方を見ると、戸の隙間から、一条の光 がもれている。夢かと思いながら、つと立って玄関まで走り、雨戸を くると、外は、昔と変わらぬ朝の光を受けて輝いていた。不思議な全 快の御守護を頂いたのである。
 りんは、早速、おぢばへお礼詣りをした。取次の仲田儀三郎を通し てお礼を申し上げると、お言葉があった。
 「さあ/\一夜の間に目が潰れたのやな。さあ/\いんねん、いん ねん。神が引き寄せたのやで。よう来た、よう来た。佐右衞門さん、 よくよく聞かしてやってくれまするよう、聞かしてやってくれます るよう。」
と、仰せ下された。その晩は泊めて頂いて、翌日は、仲田から教の理 を聞かせてもらい、朝夕のお勤めの手振りを習いなどしていると、又、 教祖からお言葉があった。
 「さあ/\いんねんの魂、神が用に使おうと思召す者は、どうして なりと引き寄せるから、結構と思うて、これからどんな道もあるか ら、楽しんで通るよう。用に使わねばならんという道具は、痛めて でも引き寄せる。悩めてでも引き寄せねばならんのであるから、す る事なす事違う。違うはずや。あったから、どうしてもようならん。 ようならんはずや。違う事しているもの。ようならなかったなあ。 さあ/\いんねん、いんねん。佐右衞門さん、よくよく聞かしてや ってくれまするよう。目の見えんのは、神様が目の向こうへ手を出 してござるようなものにて、さあ、向こうは見えんと言うている。 さあ、手をのけたら、直ぐ見える。見えるであろう。さあ/\勇め、 勇め。難儀しようと言うても、難儀するのやない程に。めんめんの 心次第やで。」
と、仰せ下された。
 その日もまた泊めて頂き、その翌朝、河内へもどらせて頂こうと、 仲田を通して申し上げてもらうと、教祖は、
 「遠い所から、ほのか理を聞いて、山坂越えて谷越えて来たのやな あ。さあ/\その定めた心を受け取るで。楽しめ、楽しめ。
 さあ/\着物、食い物、小遣い与えてやるのやで。長あいこと勤 めるのやで。さあ/\楽しめ、楽しめ、楽しめ。」
と、お言葉を下された。りんは、ものも言えず、ただ感激の涙にくれ た。時に、増井りん、三十二才であった。

註 仲田儀三郎、前名は佐右衞門。明治六年頃、亮・助・衞門廃止の 時に、儀三郎と改名した。

三七 神妙に働いて下されますなあ

 明治七年のこと。ある日、西尾ナラギクがお屋敷へ帰って来て、他 の人々と一しょに教祖の御前に集まっていたが、やがて、人々が挨拶 してかえろうとすると、教祖は、我が子こかんの名を呼んで、
 「これおまえ、何か用事がないかいな。この衆等はな、皆、用事出 して上げたら、かいると言うてない。何か用事あるかえ。」
と、仰っしゃった。すると、こかんは、「沢山用事はございますなれど、 遠慮して出しませなんだのや。」 と答えた。その時、教祖は、
 「そんなら、出してお上げ。」
と、仰っしゃったので、こかんは、糸紡ぎの用事を出した。人々は、 一生懸命紡いで紡錘に巻いていたが、やがて、ナラギクのところで一 つ分出来上がった。すると、教祖がお越しになって、ナラギクの肩を ポンとおたたきになり、その出来上がったのを、三度お頂きになり、
 「ナラギクさん(註、当時十八才)、こんな時分には物のほしがる最中であ るのに、あんたはまあ、若いのに、神妙に働いて下されますなあ。 この屋敷は、用事さえする心なら、何んぼでも用事がありますで。 用事さえしていれば、去のと思ても去なれぬ屋敷。せいだい働いて 置きなされや。先になったら、難儀しようと思たとて難儀出来んの やで。今、しっかり働いて置きなされや。」
と、仰せになった。

註 西尾ナラギクは、明治九年結婚の時、教祖のお言葉を頂いて、 おさめと改名、桝井おさめとなる。

三八 東山から

 明治七年頃、教祖は、よく、次のような歌を口ずさんでおられた、 という。
「東山からお出やる月は
さんさ小車おすがよに
いよさの水車でドン、ドン、ドン」
節は、「高い山から」の節であった。

三九 もっと結構

 明治七年のこと。西浦弥平の長男楢蔵(註、当時二才)が、ジフテリアに かかり、医者も匙を投げて、もう駄目だ、と言うている時に、同村の 村田幸四郎の母こよから、にをいがかかった。
 お屋敷へお願いしたところ、早速、お屋敷から仲田儀三郎が、おた すけに来てくれ、ふしぎなたすけを頂いた。
 弥平は、早速、楢蔵をつれてお礼詣りをし、その後、熱心に信心を つづけていた。
 ある日のこと、お屋敷からもどって、夜遅く就寝したところ、夜中 に、床下でコトコトと音がする。「これは怪しい。」 と思って、そっと 起きてのぞいてみると、一人の男が、「アッ」と言って、闇の中へ逃げ てしまった。後には、大切な品々を包んだ大風呂敷が残っていた。
 弥平は、大層喜んで、その翌朝早速、お詣りして、「お蔭で、結講で ございました。」 と、教祖に心からお礼申し上げた。すると、教祖は、  「ほしい人にもろてもろたら、もっと結構やないか。」
と、仰せになった。弥平は、そのお言葉に深い感銘を覚えた、という。

四〇 ここに居いや

明治七年、岡田与之助(註、後の宮森与三郎)十八才の時、腕の疼きが激しく、 あちこちと医者を替えたが、一向に快方へ向かわず、昼も夜も夜具に もたれて苦しんでいた。それを見て、三輪へ嫁いでいた姉のワサが、 「一遍、庄屋敷へやらしてもろうたら、どうや。」と、にをいをかけ てくれた。
 当人も、かねてから、庄屋敷の生神様のことは聞いていたが、この 時初めて、お屋敷へ帰らせて頂いた。そして、教祖にお目通りすると、  「与之助さん、よう帰って来たなあ。」
と、お言葉を下された。そのお言葉を頂くと共に、腕の疼きは、ピタ ッと治まった。その日一日はお屋敷で過ごし、夜になって桧垣村へも どった。
 ところが、家へもどると、又、腕が疼き出したので、夜の明けるの を待ちかねて、お屋敷へ帰らせて頂いた。すると、不思議にも、腕の 疼きは治まった。
 こんな事が繰り返されて、三年間というものは、ほとんど毎日のよ うにお屋敷へ通った。そのうち、教祖が、
 「与之助さん、ここに居いや。」
と、仰せ下されたので、仰せ通り、お屋敷に寝泊まりさせて頂いて、 用事を手伝わせてもらった。そうしないと、腕の疼きが止まらなかっ たからである。
 こうして、与之助は、お屋敷の御用を勤めさせて頂くようになった。


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