天理教教祖伝逸話篇(九) 第百六十一話から第百八十話



161 子供の楽しむのを |  162 親が代わりに |  163 兄弟の中の兄弟 |  164 可愛い一杯 |  165 高う買うて |  166 身上にしるしを |  167 人救けたら |  168 船遊び |  169 よう似合うやろな |  170 天が台 |  171 宝の山 |  172 前生のさんげ |  173 皆、吉い日やで |  174 そっちで力をゆるめたら |  175 十七人の子供 |  176 心の澄んだ人 |  177 人一人なりと |  178 身上がもとや |  179 神様、笑うてござる |  180 惜しみの餅

 

一六一 子供の楽しむのを

 桝井キクは、毎日のようにお屋敷へ帰らせて頂いていたが、今日は、 どうしても帰らせて頂けない、という日もあった。そんな時には、今 日は一日中塩気断ち、今日は一日中煮物断ち、というような事をして いた。そういう日の翌日、お屋敷へ帰らせて頂くと、教祖が仰せにな った。
 「オキクさん、そんな事、する事要らんのやで。親は、何んにも小 さい子供を苦しめたいことはないねで。この神様は、可愛い子供の 苦しむのを見てお喜びになるのやないねで。もう、そんな事をする 事要らんのやで。子供の楽しむのを見てこそ、神は喜ぶのや。」
と、やさしくお言葉を下された。何も彼も見抜き見通しであられたの である。

一六二 親が代わりに

 教祖は、平素あまり外へは、お出ましにならなかったから、足がお 疲れになるような事はないはずであるのに、時々、
 「足がねまる。」
とか、
 「しんどい。」
とか、仰せになる事があった。
 ところが、かよう仰せられた日は必ず、道の子供の誰彼が、意気揚 揚として帰って来るのが、常であった。そして、その人々の口から、 「ああ、結構や。こうして歩かしてもろても、少しも疲れずに帰らせ て頂いた。」と、喜びの声を聞くのであった。これは、教祖が、お屋 敷で、子供に代わってお疲れ下された賜物だったのである。神一条の この屋敷へ帰って来る子供が可愛い余りに、教祖は、親として、その 身代わりをして、お疲れ下されたのである。
 ある時、村田イヱが、数日間お屋敷の田のお手伝いをしていたが、 毎日かなり働いたのにもかかわらず、不思議に腰も手も痛まないのみ か、少しの疲れも感じなかった。そこで、「あれだけ働かせてもらいま しても、少しも疲れを感じません。」と、申し上げると、教祖は、
 「さようか。わしは毎日々々足がねまってかなわなんだ。おまえさ んのねまりが、皆わしのところへ来ていたのやで。」
と、仰せられた。

一六三 兄弟の中の兄弟

 教祖は、ある時、
 「この屋敷に住まっている者は、兄弟の中の兄弟やで。兄弟ならば、 誰かが今日どこそこへ行く。そこに居合わせた者、互いに見合わせ て、着ている着物、誰のが一番によい。一番によいならば、さあ、 これを着ておいでや。又、たとい一銭二銭でも、持ち合わせている 者が、互いに出し合って、これを小遣いに持って、さあ行っておい でや。と言うて、出してやってこそ、兄弟やで。」
と、お諭し下された。

一六四 可愛い一杯

 明治十八年三月二十八日(陰暦二月十二日)、山田伊八郎が承って誌した、 教祖のお話の覚え書に、
 「神と言うて、どこに神が居ると思うやろ。この身の内離れて神は なし。又、内外の隔てなし。というは、世界一列の人間は、皆神の 子や。何事も、我が子の事思てみよ。ただ可愛い一杯のこと。
 百姓は、作りもの豊作を願うて、それ故に、神がいろいろに思う ことなり。
 又、人間の胸の内さい受け取りたなら、いつまでなりと、踏ん張 り切る。」
と。

一六五 高う買うて

 明治十八年夏、真明組で、お話に感銘して入信した宮田善蔵は、そ の後いくばくもなく、今川聖次郎の案内でおぢばへ帰り、教祖にお目 通りさせて頂いた。当時、善蔵は三十一才、大阪船場の塩町通で足袋 商を営んでいた。
 教祖は、結構なお言葉を諄々とお聞かせ下された。が、入信早々で はあり、身上にふしぎなたすけをお見せ頂いた、という訳でもない善 蔵は、初めは、世間話でも聞くような調子で、キセルを手にして煙草 を吸いながら聞いていたが、いつの間にやらキセルを置き、畳に手を 滑らせ、気のついた時には平伏していた。が、この時賜わったお言葉 の中で、
 「商売人はなあ、高う買うて、安う売るのやで。」
というお言葉だけが、耳に残った。善蔵には、その意味合いが、一寸 も分からなかった。そして思った。「そんな事をしたら、飯の喰いは ぐれやないか。百姓の事は御存知でも、商売のことは一向お分かりで ない。」と思いながら、家路をたどった。
 近所に住む今川とも分かれ、家の敷居を跨ぐや否や、激しい上げ下 だしとなって来た。早速、医者を呼んで手当てをしたが、効能はない。 そこで、今川の連絡で、真明組講元の井筒梅治郎に来てもらった。井 筒は、宮田の枕もとへ行って、「おぢばへ初めて帰って、何か不足した のではないか。」と、問うた。それで、宮田は、教祖のお言葉の意味 が、納得出来ない由を告げた。すると、井筒は、「神様の仰っしゃるの は、他よりも高う仕入れて問屋を喜ばせ、安う売って顧客を喜ばせ、 自分は薄口銭に満足して通るのが商売の道や、と、諭されたのや。」 と、説き諭した。善蔵は、これを聞いて初めて、成る程と得心した。 と共に、たとい暫くの間でも心に不足したことを、深くお詫びした。 そうするうちに、上げ下だしは、いつの間にやら止まってしまい、ふ しぎなたすけを頂いた。

一六六 身上にしるしを

 明治十八年十月、苣原村(註、おぢばから東へ約一里)の谷岡宇治郎の娘ならむ め(註、当時八才)は、栗を取りに行って、木から飛び降りたところ、足を 挫いた。それがキッカケとなってリュウマチとなり、疼き通して三日 三晩泣き続けた。
 医者の手当てもし、近所で拝み祈祷もしてもらったが、どうしても 治らず、痛みは激しくなる一方であった。
 その時、同村の松浦おみつから、にをいがかかり、「お燈明を種油で 小皿に上げて、おぢばの方に向かって、『何卒このお光のしめります(註、 消える)までに、痛みを止めて下され。』と、お願いするように。」と 教えられた。
 早速、教えられた通り、お燈明を上げて、「救けて頂いたら、孫子に 伝えて信心させて頂きます。」と、堅く心に誓い、一心にお願いする と、それまで泣き叫んで手に負えなかった手足の疼きは、忽ちにして 御守護頂いた。
 余りの嬉しさに、お礼詣りということになって、宇治郎が娘のなら むめを背負って、初めてお屋敷へ帰らせて頂いた。辻忠作の取次ぎで、 宇治郎は、教祖に直き直きお目にかかって、救けて頂いたお礼を申し 上げた。
 それから間もなく、今度は宇治郎が胸を患ってやせ細り、見るも哀 れな姿となった。それで、お屋敷に帰らせて頂いて、教祖にお目通り させて頂いたら、
 「身上にしるしをつけて引き寄せた。」
とのお言葉で、早速着物を着替えて来るようにとの事であった。翌日、 服装を改めて参拝させて頂いたところ、結構にさづけの理を頂いた。 そして、さすがに不治とまで言われた胸の患いも、間もなく御守護頂 いた。
 感激した宇治郎は、その後、山里の家々をあちこちとおたすけに歩 かせて頂き、やがて、教祖の御在世当時から、苣原村を引き揚げてお 屋敷に寄せて頂き、大裏で御用を勤めさせて頂くようになった。

一六七 人救けたら

 加見兵四郎は、明治十八年九月一日、当時十三才の長女きみが、突 然、両眼がほとんど見えなくなり、同年十月七日から、兵四郎もまた 目のお手入れを頂き、目が見えぬようになったので、十一月一日妻つ ねに申し付けて、おぢばへ代参させた。教祖は、
 「この目はなあ、難しい目ではあらせん。神様は一寸指で抑えてい るのやで。そのなあ、抑えているというのは、ためしと手引きにか かりているのや程に。」
と、仰せになり、つづいて、
 「人言伝ては、人言伝て。人頼みは、人頼み。人の口一人くぐれば 一人、二人くぐれば二人。人の口くぐるだけ、話が狂う。狂うた話 した分にゃ、世界で誤ちが出来るで。誤ち出来た分にゃ、どうもな らん。よって、本人が出て来るがよい。その上、しっかり諭してや るで。」
と、お諭し下された。つねが家にもどって、この話を伝えると、兵四 郎は、「成る程、その通りや。」と、心から感激して、三日朝、笠間か ら四里の道を、片手には杖、片手は妻に引いてもらって、お屋敷へ帰 って来た。教祖は、先ず、
 「さあ/\」
と仰せあり、それから約二時間にわたって、元初まりのお話をお聞か せ下された。その時の教祖のお声の大きさは、あたりの建具がピリピ リと震動した程であった。そのお言葉がすむや否や、ハッと思うと、 目はいつとなく、何んとなしに鮮やかとなり、帰宅してみると、長女 きみの目も鮮やかに御守護頂いていた。
 しかし、その後、兵四郎の目は、毎朝八時頃までというものは、ボ ーッとして遠目は少しもきかず、どう思案しても御利やくない故に、 翌明治十九年正月に、又、おぢばへ帰って、お伺い願うと、
 「それはなあ、手引きがすんで、ためしがすまんのやで。ためしと いうは、人救けたら我が身救かる、という。我が身思うてはならん。 どうでも、人を救けたい、救かってもらいたい、という一心に取り 直すなら、身上は鮮やかやで。」
とのお諭しを頂いた。よって、その後、熱心におたすけに奔走するう ちに、自分の身上も、すっきりお救け頂いた。

一六八 船遊び

 教祖は、ある時、梶本ひさ(註、後の山沢ひさ)に向かって、
 「一度船遊びしてみたいなあ。わしが船遊びしたら、二年でも三年 でも、帰られぬやろうなあ。」
と、仰せられた。海の外までも親神様の思召しの弘まる日を、見抜き 見通されてのお言葉と伝えられる。

一六九 よう似合うやろな

教祖は、お年を召されてから、お側に仕えていた梶本ひさに、
「何なりと、ほしいものがあったら、そう言いや。」
 又、
 「何か買いたいものがあったら、これ、お祖母さんのに買いました。 と言うて、持って来るねで。」
と、仰せになった。
 ある時のこと、行商の反物屋から、派手な反物をお買い求めになり、  「これ、私によう似合うやろな。」
と、言いながら、御自分の肩先におかけになって、ニッコリ遊ばされ、 それから、
 「これは、おまえのに取ってお置き。」
と、仰せになって、ひさにお与えになった。
 又、ある時のこと。長崎から来たというベッコウ細工屋から、小さ な珊瑚珠のカンザシをお買い求めになり、やはり、御自分のお髪に一 度おさしになってから、
 「これ、ええやろうな。」
と、仰せられて後、
 「さあ、これを、おまえに上げよう。」
と、仰せになって、ひさに下された。
 このように、教祖は、一旦御自分の持物としてお買い求めになり、 然る後、人々に下さることが間々あった。それは、人々に気がねさせ ないよう、という御配慮からと拝察されるが、人々は、教祖のお心の こもった頂きものに、一入感激の思いを深くするのであった。

一七〇 天が台

 梅谷四郎兵衞が、教祖にお聞かせ頂いた話に、
 「何の社、何の仏にても、その名を唱え、後にて天理王命と唱え。」
と。又、
 「人詣るにより、威光増すのである。人詣るにより、守りしている 人は、立ち行くのである。産土神は、人間を一に生み下ろし給いし 場所である。産土の神に詣るは、恩に報ずるのである。」
 「社にても寺にても、詣る所、手に譬えば、指一本ずつの如きもの なり。本の地は、両手両指の揃いたる如きものなり。」
 「この世の台は、天が台。天のしんは、月日なり。人の身上のしん は目。身の内のしん、我が心の清水、清眼という。」
と。

一七一 宝の山

 教祖のお話に、
 「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば、宝の 山に上ぼって、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中ま で行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるか ら、宝を頂けぬ。けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡 って行くと、宝の山がある。山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂 けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂 けないのやで。」
と、お聞かせ下された。

一七二 前生のさんげ

 堺に昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖に 伺ったところ、
 「それは、前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生に して置いたのや。」
と、仰せられた。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかな 御守護を頂いた、という。

一七三 皆、吉い日やで

 教祖は、高井直吉に、
 「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げ などには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで。」
と、教えられた。

 一 日 はじまる
 二 日 たっぷり
 三 日 身につく
 四 日 仕合わせようなる
 五 日 りをふく
 六 日 六だいおさまる
 七 日 何んにも言うことない
 八 日 八方ひろがる
 九 日 苦がなくなる
 十 日 十ぶん
 十一日 十ぶんはじまる
 十二日 十ぶんたっぷり
 十三日 十ぶん身につく
                   (以下同)
 二十日 十ぶんたっぷりたっぷり
 二十一日 十ぶんたっぷりはじまる
                   (以下同)
 三十日 十ぶんたっぷりたっぷりたっぷり
 三十日は一月、十二ケ月は一年、一年中一日も悪い日はない。

一七四 そっちで力をゆるめたら

もと大和小泉藩でお馬廻役をしていて、柔術や剣道にも相当腕に覚 えのあった仲野秀信が、ある日おぢばへ帰って、教祖にお目にかかっ た時のこと、教祖は、
 「仲野さん、あんたは世界で力強やと言われていなさるが、一つ、 この手を放してごらん。」
と、仰せになって、仲野の両方の手首をお握りになった。仲野は、仰 せられるままに、最初は少しずつ力を入れて、握られている自分の手 を引いてみたが、なかなか離れない。そこで、今度は本気になって、 満身の力を両の手にこめて、気合諸共ヤッと引き離そうとした。しか し、御高齢の教祖は、神色自若として、ビクともなさらない。
 まだ壮年の仲野は、今は、顔を真っ赤にして、何んとかして引き離 そうと、力限り、何度も、ヤッ、ヤッと試みたが、教祖は、依然とし てニコニコなさっているだけで、何んの甲斐もない。
 それのみか、驚いた事には、仲野が、力を入れて引っ張れば引っ張 る程、だんだん自分の手首が堅く握り締められて、ついには手首がち ぎれるような痛さをさえ覚えて来た。さすがの仲野も、ついに堪え切 れなくなって、「どうも恐れ入りました。お放し願います。」と言って、 お放し下さるよう願った。すると、教祖は、
 「何も、謝らいでもよい。そっちで力をゆるめたら、神も力をゆる める。そっちで力を入れたら、神も力を入れるのやで。この事は、 今だけの事やない程に。」
と、仰せになって、静かに手をお放しになった。

一七五 十七人の子供

 明治十八年のこと。ある日、教祖は、お側の人達に、
 「明日は、阿波から十七人の子供が帰って来る。」
と、嬉しそうに仰せになった。
 が、その翌日も又翌日も、十七人はおろか、一人も帰って来ない。 そのうちに、人々は待ちくたびれて、教祖のお言葉を忘れてしまった。 しかし、それから十数日経って、阿波から十七人の者が帰って来た。 人数は、教祖のお言葉通り、ちょうど十七人であったので、お側の人 人は驚いた。
 話を聞いてみると、ちょうどお言葉のあった日に出帆したのであっ たが、悪天候に悩まされて難航を重ね、十数日も遅れたのであった。 土佐卯之助たち一行は、教祖のお言葉を承って、今更のように、驚き 且つ感激した。そして、教祖にお目通りすると、教祖は、大層お喜び 下されて、
 「今は、阿波国と言えば遠いようやが、帰ろうと思えば一夜の間に も、寝ていて帰れるようになる。」
と、お言葉を下された。

一七六 心の澄んだ人

 明治十八年十二月二十六日、教祖が仲田儀三郎に下されたお言葉に、
 「心の澄んだ人の言う事は、聞こゆれども、心の澄まぬ人の言う事 は、聞こえぬ。」
と。

一七七 人一人なりと

 教祖は、いつも、
 「一日でも、人一人なりと救けねば、その日は越せぬ。」
と、仰せになっていた。

一七八 身上がもとや

 教祖の仰せに、
 「命あっての物種と言うてある。身上がもとや。金銭は二の切りや。 今、火事やと言うたら、出せるだけは出しもしようが、身上の焼け るのも構わず出す人は、ありゃせん。大水やと言うても、その通り。 盗人が入っても、命が大事やから、惜しいと思う金でも、皆出して やりますやろ。
 悩むところも、同じ事や。早く、二の切りを惜しまずに施しして、 身上を救からにゃならん。それに、惜しい心が強いというは、ちょ うど、焼け死ぬのもいとわず、金を出しているようなものや。惜し いと思う金銭・宝残りて、身を捨てる。これ、心通りやろ。そこで、 二の切りを以て身の難救かったら、これが、大難小難という理やで。 よう聞き分けよ。」
と。これは、喜多治郎吉によって語り伝えられた、お諭しである。

註 二の切り 切りとは、義太夫などに於て、真打が勤める最も格 式の高い部分を言う。したがって、二の切りとは、一番にではなく て、二番目に大切なもの、という意。
        (新村出「広辞苑」平凡社「世界大百科辞典」)

一七九 神様、笑うてござる

 ある時、村田イヱが、動悸が出て、次第に募って来て困ったので、 教祖にお伺いしたところ、
 「動悸は、神様、胸が分からん。と言うて、笑うてござるのやで。」
と、お聞かせ下された。

一八〇 惜しみの餅

 ある人が、お餅を供える時、「二升にして置け。」「いや三升にしよ う。」と、家の中で言い争いをしてから、「惜しいけど、上げよう。」 と、言って、餅を供えたところ、教祖が、箸を持って、召し上がろう となさると、箸は、激しく跳び上がって、どうしても、召し上がる事 が出来なかった、という。


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