天理教教祖伝逸話篇(八) 第百四十一話から第百六十話



141 ふしから芽が切る |  142 狭いのが楽しみ |  143 子供可愛い |  144 天に届く理 |  145 いつも住みよい所へ |  146 御苦労さん |  147 本当のたすかり |  148 清らかな所へ |  159 卯の刻を合図に |  150 柿 |  151 をびや許し |  152 倍の力 |  153 お出ましの日 |  154 神が連れて帰るのや |  155 自分が救かって |  156 縁の切れ目が |  157 ええ手やなあ |  158 月のものはな、花やで |  159 神一条の屋敷 |  160 柿選び

 

一四一 ふしから芽が切る

 明治十七年三月上旬、明誠社を退社した深谷源次郎は、宇野善助と 共に、斯道会講結びのお許しを頂くために、おぢばへ帰った。夕刻に 京都を出発、奈良へ着いたのは午前二時頃。未明お屋敷へ到着、山本 利三郎の取扱いで、教祖にお目通りしてお許しを願った。すると、
 「さあ/\尋ね出る、尋ね出る。さあ/\よく聞き分けにゃならん。 さあ/\このぢばとても、四十八年がこの間、膿んだり潰れたり、 膿んだりという事は、潰れたりという事は。又、潰しに来る。又、 ふしあって芽、ふしから芽が切る。この理を、よう聞き分けてくれ。 だん/\だん/\これまで苦労艱難して来た道や。よう聞き分けよ、 という。」
とのお言葉であった。未だ、はっきりしたお許しとは言えない。そこ で、深谷と宇野は、「我々五名の者は、どうなりましても、あくまで神 様のお伴を致しますから、」と申し上げて、重ねてお許しを願った。す ると、
 「さあ/\/\真実受け取った、受け取った。斯道会の種は、さあ さあ今日よりさあ/\埋んだ。さあ/\これからどれだけ大きなる とも分からん。さあ/\講社の者にも一度聞かしてやるがよい。そ れで聞かねば、神が見ている。放うとけ、という。」
と、お許し下され、深谷、宇野、沢田、安良、中西、以上五名の真実 は、親神様にお受け取り頂いたのである。

一四二 狭いのが楽しみ

 深谷源次郎が、なんでもどうでもこの結構な教を弘めさせて頂かね ば、と、ますます勇んであちらこちらとにをいがけにおたすけにと歩 かせて頂いていた頃の話。当時、源次郎は、もう着物はない、炭はな い、親神様のお働きを見せて頂かねば、その日食べるものもない、と いう中を、心を倒しもせずに運ばして頂いていると、教祖はいつも、
 「狭いのが楽しみやで。小さいからというて不足にしてはいかん。 小さいものから理が積もって大きいなるのや。松の木でも、小さい 時があるのやで。小さいのを楽しんでくれ。末で大きい芽が吹く で。」
と、仰せ下された。

一四三 子供可愛い

 深谷源次郎は、一寸でも分からない事があると、直ぐ教祖にお伺い した。ある時、取次を通して伺うてもろうたところ、
 「一年経ったら一年の理、二年経ったら二年の理、三年経てば親と なる。親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛が ってやってくれ。子供を憎むようではいかん。」
と、お諭し下された。
 源次郎は、このお言葉を頂いて、一層心から信者を大事にして通っ た。お祭日に信者がかえって来ると、すしを拵えたり餅を搗いたり、 そのような事は何んでもない事であるが、真心を尽して、ボツボツと 信者を育て上げたのである。

一四四 天に届く理

 教祖は、明治十七年三月二十四日(陰暦二月二十七日)から四月五日(陰暦三月 十日)まで奈良監獄署へ御苦労下された。鴻田忠三郎も十日間入牢拘禁 された。その間、忠三郎は、獄吏から便所掃除を命ぜられた。忠三郎 が掃除を終えて、教祖の御前にもどると、教祖は、
 「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除 をさされて、あんたは、どう思うたかえ。」
と、お尋ね下されたので、「何をさせて頂いても、神様の御用向きを 勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます。」と申し上げると、 教祖の仰せ下さるには、
 「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天 に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれど も、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、あ あ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのや で。」
と、お諭し下された。

一四五 いつも住みよい所へ

 明治十七年二月のこと。増野正兵衞の妻いとは、親しい間柄の神戸 三宮の小山弥左衞門の娘お蝶を訪ねたところ、お蝶から、「天理王命様 は、まことに霊験のあらたかな神様である。」と聞いた。
 当時いとは、三年越しソコヒを患うており、何人もの名医にかかっ たが、如何とも為すすべはなく、今はただ失明を待つばかり、という 状態であった。又、正兵衞自身も、ここ十数年来脚気などの病に悩ま され、医薬の手を尽しながら、尚全快せず、曇天のような日々を送っ ていた。
 それで、それなら一つ、話を聞いてみよう。ということになった。 そこで、早速使いを走らせ、二月十五日、初めて、小山弥左衞門から、 お話を聞かせてもらうこととなった。
 急いで神床を設け神様をお祀りして、夫婦揃うてお話を聞かせて頂 いた。その時の話に、「身上の患いは、八つのほこりのあらわれである。 これをさんげすれば、身上は必ずお救け下さるに違いない。真実誠の 心になって、神様にもたれなさい。」又、「食物は皆、親神様のお与え であるから、毒になるものは一つもない。」と。そこで、病気のため ここ数年来やめていた好きな酒であるが、その日のお神酒を頂いて試 してみた。ところが、翌朝は頗る爽快である。一方、いとの目も、一 夜のうちに白黒が分かるようになった。
 それで、夫婦揃うて、神様にお礼申し上げ、小山宅へも行ってこの 喜びを告げ、帰宅してみると、こは如何に、日暮も待たず、又、盲目 同様になった。
 その時、夫婦が相談したのに、「一夜の間に、神様の自由をお見せ頂 いたのであるから、生涯道の上に夫婦が心を揃えて働かせて頂く、と 心を定めたなら、必ずお救け頂けるに違いない。」と語り合い、夫婦 心を合わせて、熱心に朝夕神前にお勤めして、心をこめてお願いした。 すると、正兵衞は十五日間、いとは三十日間で、すっきり御守護頂い た。ソコヒの目は、元通りよく見えるようになったのである。
 その喜びに、四月六日(陰暦三月十一日)、初めておぢばへお詣りした。し かも、その日は、教祖が奈良監獄署からお帰りの日であったので、奈 良までお迎えしてお伴して帰り、九日まで滞在させて頂いた。教祖は、
 「正兵衞さん、よう訪ねてくれた。いずれはこの屋敷へ来んならん で。」
と、やさしくお言葉を下された。このお言葉に強く感激した正兵衞は、 商売も放って置かんばかりにして、おぢばと神戸の間を往復して、に をいがけ・おたすけに奔走した。が、おぢばを離れると、どういうも のか、身体の調子が良くない。それで伺うと、教祖は、
 「いつも住みよい所へ住むが宜かろう。」
と、お言葉を下された。この時、正兵衞は、どうでもお屋敷へ寄せて 頂こうと、堅く決心したのである。

一四六 御苦労さん

 明治十七年春、佐治登喜治良は、当時二十三才であったが、大阪鎮 台の歩兵第九聯隊第一大隊第三中隊に入隊中、大和地方へ行軍して、 奈良市今御門町の桝屋という旅館に宿営した。
 この時、宿の離れに人の出入りがあり、宿の亭主から、「あのお方が、 庄屋敷の生神様や。」とて、赤衣を召された教祖を指し示して教えら れ、お道の話を聞かされた。
 やがて教祖が、登喜治良の立っている直ぐ傍をお通りになった時、 佐治は言い知れぬ感動に打たれて、丁重に頭を下げて御辞儀したとこ ろ、教祖は、静かに会釈を返され、
 「御苦労さん。」
と、お声をかけて下された。
 佐治は、教祖を拝した瞬間、得も言われぬ崇高な念に打たれ、お声 を聞いた一瞬、神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいよ うな気がした。
 後年、佐治が、いつも人々に語っていた話に、「私は、その時、この お道を通る心を定めた。事情の悩みも身上の患いもないのに、入信し たのは、全くその時の深い感銘からである。」と。

一四七 本当のたすかり

 大和国倉橋村の山本与平妻いさ(註、当時四十才)は、明治十五年、ふしぎ なたすけを頂いて、足腰がブキブキと音を立てて立ち上がり、年来の 足の悩みをすっきり御守護頂いた。
 が、そのあと手が少しふるえて、なかなかよくならない。少しのこ とではあったが、当人はこれを苦にしていた。それで、明治十七年夏、 おぢばへ帰り、教祖にお目にかかって、そのふるえる手を出して、「お 息をかけて頂きとうございます。」と、願った。すると、教祖は、
 「息をかけるは、いと易い事やが、あんたは、足を救けて頂いたの やから、手の少しふるえるぐらいは、何も差し支えはしない。すっ きり救けてもらうよりは、少しぐらい残っている方が、前生のいん ねんもよく悟れるし、いつまでも忘れなくて、それが本当のたすか りやで。人、皆、すっきり救かる事ばかり願うが、真実救かる理が 大事やで。息をかける代わりに、この本を貸してやろ。これを写し てもろて、たえず読むのやで。」
と、お諭し下されて、おふでさき十七号全冊をお貸し下された。この 時以来、手のふるえは、一寸も苦にならないようになった。そして生 家の父に写してもらったおふでさきを、生涯、いつも読ませて頂いて いた。そして、誰を見ても、熱心ににをいをかけさせて頂き、八十九 才まで長生きさせて頂いた。

一四八 清らかな所へ

 斯道会が発足して、明誠社へ入っていた人々も、次々と退社して、 斯道会へ入る人が続出して来たので、明誠社では、深谷源次郎さえ引 き戻せば、後の者はついて来ると考えて、人を派して説得しようとし た。が、その者が、これから出掛けようとして、二階から下りようと してぶっ倒れ、七転八倒の苦しみをはじめた。直ちに、医者を呼んで 診断してもらうと、コレラという診立てであった。そこで、早速医院 へ運んだが、行き着く前に出直してしもうた。それで、講中の藤田某 が、おぢばへ帰って、教祖に伺うと、
 「前生のさんげもせず、泥水の中より清らかな所へ引き出した者を、 又、泥水の中へ引き入れようとするから、神が切り払うた。」
と、お言葉があった。

一四九 卯の刻を合図に

 明治十七年秋、おぢば帰りをした土佐卯之助は、門前にあった福井 鶴吉の宿で泊っていた。すると、夜明け前に、誰か激しく雨戸をたた いて怒鳴っている者がある。耳を澄ますと、「阿波の土佐はん居らぬか。 居るなら早よう出て来い。」と。それは山本利三郎であった。出て行く と、「土佐はん、大変な事になったで。神様が、今朝の卯の刻を合図に、 なんと、月日のやしろにかかっているものを、全部残らずおまえにお 下げ下さる、と言うておられるのや。おまえは日本一の仕合わせ者や なあ。」と言うて、お屋敷目指して歩き出した。後を追うて歩いて行 く卯之助は、夢ではなかろうかと、胸を躍らせながらついて行った。
 やがて、山本について、教祖のお部屋の次の間に入って行くと、そ こには、真新しい真紅の着物、羽織は言うまでもなく、襦袢から足袋 まで、教祖が、昨夜まで身につけておられたお召物一切取り揃えて、 丁寧に折りたたんで、畳の上に重ねられていた。卯之助は、呆然とな り、夢に夢見る心地で、ただ自分の目を疑うように坐っていた。する と、先輩の人々が、「何をグズグズしている。神様からおまえに下さる のや。」と注意してくれたので、初めて、上段の襖近くに平伏した。 涙はとめどもなく頬をつたうが、上段からは何んのお声もない。ただ 静かに時が経った。卯之助は、「私如き者に、それは余りに勿体のうご ざいます。」と辞退したが、お側の人々の親切なすすめに、「では、お 肌についたお襦袢だけを、頂戴さして頂きます。」と、ようやく返事 して、その赤衣のお襦袢だけを、胸に抱いて、飛ぶように宿へ持って かえり、嬉し泣きに声をあげて泣いた、という。

 註 卯の刻とは午前六時頃。

一五〇 柿

 明治十七年十月、その頃、毎月のようにおぢば帰りをさせて頂いて いた土佐卯之助は、三十三名の団参を作って、二十三日に出発、二十 七日におぢばへ到着した。
 一同が、教祖にお目通りさせて頂いて退出しようとした時、教祖は、  「一寸お待ち。」
と、土佐をお呼び止めになった。そして、
 「おひさ、柿持っておいで。」
と、孫娘の梶本ひさにお言い付けになった。それで、ひさは、大きな 籠に、赤々と熟した柿を、沢山運んで来た。すると、教祖は、その一 つを取って、みずから皮をおむきになり、二つに割って、
 「さあ、お上がり。」
と、その半分を土佐に下され、御自身は、もう一つの半分を、おいし そうに召し上がられた。やがて、土佐も、頂いた柿を食べはじめた。 教祖は、満足げにその様子を見ておられたが、土佐が食べ終るより早 く、次の柿をおむきになって、
 「さあ、もう一つお上がり。私も頂くで。」
と、仰せになって、又、半分を下され、もう一つの半分を、御自分が お召し上がりになった。こうして、次々と柿を下されたが、土佐は、 御自分もお上がり下さるのは、遠慮させまいとの親心から、と思うと、 胸に迫るものがあった。教祖は、つづいて、
 「遠慮なくお上がり。」
と、仰せ下されたが、土佐は、「私は、もう十分に頂きました。宿では、 信者が待っておりますから、これを頂いて行って、皆に分けてやりま す。」と言って、自分が最後に頂いた一切れを、押し頂いて、懐紙に 包もうとすると、教祖は、ひさに目くばせなされたので、ひさは、土 佐の両の掌に一杯、両の袂にも一杯、柿を入れた。こうして、重たい 程の柿を頂戴したのであった。

一五一 をびや許し

 明治十七年秋の頃、諸井国三郎が、四人目の子供が生まれる時、を びや許しを頂きたいと、願うて出た。その時、教祖が、御手ずから御 供を包んで下さろうとすると、側に居た高井直吉が、「それは、私が包 ませて頂きましょう。」と言って、紙を切って折ったが、その紙は曲 っていた。教祖は、高井の折るのをジッとごらんになっていたが、良 いとも悪いとも仰せられず、静かに紙を出して、
 「鋏を出しておくれ。」
と、仰せになった。側の者が鋏を出すと、それを持って、キチンと紙 を切って、その上へ四半斤ばかりの金米糖を出して、三粒ずつ三包み 包んで、
 「これが、をびや許しやで。これで、高枕もせず、腹帯もせんでよ いで。それから、今は柿の時やでな、柿を食べてもだんないで。」
と、仰せになり、残った袋の金米糖を、
 「これは、常の御供やで。三つずつ包み、誰にやってもよいで。」
と、仰せられて、お下げ下された。

  註 これは、産後の腹帯のこと、岩田帯とは別のもの。

一五二 倍の力

 明治十七年頃は、警察の圧迫が極めて厳しく、おぢばへ帰っても、 教祖にお目にかからせて頂ける者は稀であった。そこへ土佐卯之助は、 二十五、六名の信者を連れて帰らせて頂いた。取次が、「阿波から詣り ました。」と申し上げると、教祖は、
 「遠方はるばる帰って来てくれた。」
と、おねぎらい下された。続いて、
 「土佐はん、こうして遠方はるばる帰って来ても、真実の神の力と いうものを、よく心に治めて置かんと、多くの人を連れて帰るのに 頼りないから、今日は一つ、神の力を試してごらん。」
と、仰せになり、側の人に手拭を持って来させられ、その一方の片隅 を、御自分の親指と人差指との間に挾んで、
 「さあ、これを引いてごらん。」
と、差し出された。土佐は、挨拶してから、力一杯引っ張ったが、ど うしても離れない。すると、教祖は笑いながら、
 「さあ、もっと引いてごらん。遠慮は要らんで。」
と、仰せになった。土佐は、顔を真っ赤にして、満身の力をこめて引 いた。けれども、どんなに力を入れて引いても、その手拭は取れない。 土佐は、生来腕力が強く、その上船乗り稼業で鍛えた力自慢であった が、どうしても、その手拭が取れない。遂に、「恐れ入りました。」と、 頭を下げた。すると、教祖は、今度は右の手をお出しになって、
 「もう一度、試してごらん。さあ、今度は、この手首を握ってごら ん。」
と、仰せになるので、「では、御免下さい。」と言って、恐る恐る教祖 のお手を握らせて頂いた。教祖は、
 「さあ、もっと強く、もっと強く。」
と、仰せ下さるのであるが、力を入れれば入れる程、土佐の手が痛く なるばかりであった。そこで、土佐は、遂に兜を脱いで、「恐れ入りま した。」と、お手を放して平伏した。すると、教祖は、
 「これが、神の、倍の力やで。」
と、仰せになって、ニッコリなされた。

一五三 お出ましの日

 明治十七年頃の話。教祖が、監獄署からお出ましの日が分かって来 ると、監獄署の門前には、早くから、人が一杯になって待っている。 そして、「拝んだら、いかん。」と言うて、巡査が止めに廻わっても、 一寸でも教祖のお姿が見えると、パチパチと拍手を打って拝んだ。警 察は、「人を以て神とするは、警察の許さぬところである。」と言うて、 抜剣して止めて歩くが、その後から、又手を打って拝む。人々は、「命 のないところを救けてもろうたら、拝まんといられるかい。たとい、 監獄署へ入れられても構わんから、拝むのや。」と言うて拝むのであ るから、止めようがなかった。

一五四 神が連れて帰るのや

 教祖の仰せに、
 「巡査の来るのは、神が連れて帰るのや。警察へ行くのも、神が連 れて行くのや。」
 「この所に喧しく止めに来るのは、結構なる宝を土中に埋めてある のを、掘り出しに来るようなものである。」
「巡査が止めに来るのやない。神が連れて帰るのである。」
と。

一五五 自分が救かって

 明治十七年頃のこと。大和国海知村の森口又四郎、せきの長男鶴松、 三十才頃の話。背中にヨウが出来て痛みが激しく、膿んで来て、医者 に診てもらうと、「この人の寿命は、これまでやから、好きなものでも 食べさせてやりなされ。」と言われ、全く見離されてしまった。それ で、かねてからお詣りしていた庄屋敷へ帰って、教祖に直き直きおた すけをして頂いた。
 それから二、三日後のこと。鶴松が、寝床から、「一寸見てくれんか。 寝床が身体にひっ付いて布団が離れへんわよう。」と叫ぶので、家族 の者が行って見ると、ヨウの口があいて、布団が、ベタベタになって いた。それから、教祖に頂いたお息紙を、貼り替え貼り替えしている うちに、すっかり御守護を頂いた。
 それで、お屋敷へお礼詣りに帰り、教祖にお目通りさせて頂くと、
 「そうかえ。命のないとこ救けてもろうて、結構やったな。自分が 救かって結構やったら、人さん救けさしてもらいや。」
と、お言葉を下された。鶴松は、この御一言を胆に銘じて、以後にを いがけ・おたすけに奔走させて頂いた。

一五六 縁の切れ目が

 松田サキは、大和国五条野村の生まれで、先に一旦縁付いたが、そ こを振り切って離婚し、やがて二十三才の時再婚した。
 明治十六年、三十才の時、癪持ちから入信したが、翌十七年頃のこ と、右腕に腫物が出来て、ひどく腫れ上がったので、お屋敷へ帰って おたすけを願うた。
 教祖にお目通りさせて頂くと、
 「縁の切れ目が、命の切れ目やで。抜け出したいと思うてたら、あ かんで。」
と、お言葉を下された。このお言葉を頂いて、サキは、「決して抜け出 しません。」と、心が定まった。すると、教祖が、息を三遍おかけ下 された。その途端、右腕の痛みは立ち所に治まり、腫れは退いて、ふ しぎなたすけを頂いた。

一五七 ええ手やなあ

 教祖が、お疲れの時に、梶本ひさが、「按摩をさして頂きましょう。」 と申し上げると、
 「揉んでおくれ。」
と、仰せられる。そこで、按摩させてもらうと、後で、ひさの手を取 って、
 「この手は、ええ手やなあ。」
と、言うて、ひさの手を撫でて下された。
 又、教祖は、よく、
 「親に孝行は、銭金要らん。とかく、按摩で堪能させ。」
と、歌うように仰せられた、という。

一五八 月のものはな、花やで

 ある時、教祖の御前に、山本利八が侍っていると、
 「利八さん、外の方を見ておいで。」
と、仰せになった。その頃は、警察の取締まりの厳しい時であったか ら、それについての仰せと思い、気を付けて、辺りを見廻わったが、 誰も居ない。それで、もどって来て、「神さん、何んにも変わりはあり ゃしません。向こうのあの畑には、南瓜がなっています。この畑には、 茄子が沢山出けました。」と申し上げると、教祖は、膝を打って、
 「それそれ、あの南瓜や茄子を見たかえ。大きい実がなっているが、 あれは、花が咲くで実が出来るのやで。花が咲かずに実のなるもの は、一つもありゃせんで。そこで、よう思案してみいや。女は不浄 やと、世上で言うけれども、何も、不浄なことありゃせんで。男も 女も、寸分違わぬ神の子や。女というものは、子を宿さにゃならん、 一つの骨折りがあるで。女の月のものはな、花やで。花がのうて実 がのろうか。よう、悟ってみいや。南瓜でも、大きな花が散れば、 それぎりのものやで。むだ花というものは、何んにでもあるけれど な、花なしに実のるという事はないで。よう思案してみいや。何も 不浄やないで。」
と、お教え下された。

一五九 神一条の屋敷

 梅谷四郎兵衞が、ある時、教祖のお側でいろいろお話を承っていた が、ふと、「ただ今、道頓堀に大変よい芝居がかかっていますが、」と、 世間話を申し上げかけると、教祖は、その話を皆まで言わさず、
 「わしは、四十一の年から今日まで、世間の話は何もしませんのや。 この屋敷はな、神一条の話より外には何も要らん、と、神様が仰せ になりますで。」
と、お誡めになった。

一六〇 柿選び

 ちょうど、その時は、秋の柿の出盛りの旬であった。桝井おさめは、 教祖の御前に出さして頂いていた。柿が盆に載って御前に出ていた。
 教祖が、その盆に載せてある柿をお取りになるのに、あちらから、 又こちらから、いろいろに眺めておられる。その様子を見て、おさめ は、「教祖も、柿をお取りになるのに、矢張りお選びになるのやなあ。」 と思って見ていた。ところが、お取りになったその柿は、一番悪いと 思われる柿をお取りになったのである。そして、後の残りの柿を載せ た盆を、おさめの方へ押しやって、
 「さあ、おまはんも一つお上がり。」
と、仰せになって、柿を下された。この教祖の御様子を見て、おさめ は、「ほんに成る程。教祖もお選びになるが、教祖のお選びになるのは、 我々人間どもの選ぶのとは違って、一番悪いのをお選りになる。これ が教祖の親心や。子供にはうまそうなのを後に残して、これを食べさ してやりたい、という、これが本当に教祖の親心や。」と感じ入った。 そして、感じ入りながら、教祖の仰せのままに、柿を頂戴したのであ った。教祖も、柿をお上がりになった。
 おさめは、この時の教祖の御様子を、深く肝に銘じ、生涯忘れられ なかった、という。


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