天理教教祖伝逸話篇(七) 第百二十一話から第百四十話



121 いとに着物を |  122 理さえあるならば |  123 人がめどか |  124 鉋屑の紐 |  125 先が見えんのや |  126 講社のめどに |  127 東京々々、長崎 |  128 教祖のお居間 |  129 花疥癬のおたすけ |  130 小さな埃は |  131 神の方には |  132 おいしいと言うて |  133 先を永く |  134 思い出 |  135 皆丸い心で |  136 さあ、これを持って |  137 言葉一つ |  138 物は大切に |  139 フラフを立てて |  140 おおきに

 

一二一 いとに着物を

 明治十六年六月初(陰暦四月末)、山田伊八郎、とその妻こいそは、長女い くゑを連れて、いくゑ誕生満一年のお礼詣りに、お屋敷へ帰らせて頂 いた。すると、教祖は、大層お喜び下され、この時、
 「いとに着物をして上げておくれ。」
と、仰せられ、赤衣を一着賜わった。
 これを頂いてかえって、こいそは、六月の末(陰暦五月下旬)に、その赤衣 の両袖を外して、いくゑの着物の肩布と、袖と、紐にして仕立て、そ の着初めに、又、お屋敷へお礼詣りをさせて頂いた。
 その日は、村田長平が、藁葺きの家を建てて、豆腐屋をはじめてか ら、三日目であった。教祖は、
 「一度、豆腐屋の井戸を見に行こうと思うておれど、一人で行くわ けにも行かず、倉橋のいとでも来てくれたらと思うていましたが、 ちょうど思う通り来て下されて。」
と、仰せられ、いくゑを背負うて、井戸を見においでになった。
 教祖は、大人だけでなく、いつ、どこの子供にでも、このように丁 寧に仰せになったのである。そして、帰って来られると、
 「お蔭で、見せてもろうて来ました。」
と、仰せられた。
 この赤衣の胴は、おめどとしてお社にお祀りさせて頂いたのである。

一二二 理さえあるならば

 明治十六年夏、大和一帯は大旱魃であった。桝井伊三郎は、未だ伊 豆七条村で百姓をしていたが、連日お屋敷へ詰めて、百姓仕事のお手 伝いをしていた。すると、家から使いが来て、「村では、田の水かいで 忙しいことや。村中一人残らず出ているのに、伊三郎さんは、一寸も 見えん、と言うて喧しいことや。一寸かえって来て、顔を見せてもら いたい。」と言うて、呼びに来た。伊三郎は、かねてから、「我が田は、 どうなっても構わん。」と覚悟していたので、「せっかくやが、かえら れん。」と、アッサリ返事して、使いの者をかえした。が、その後で、 思案した。「この大旱魃に、お屋敷へたとい一杯の水でも入れさせて もらえば、こんな結構なことはない、と、自分は満足している。しか し、そのために、隣近所の者に不足さしていては、申し訳ない。」と。 そこで、「ああ言うて返事はしたが、一度顔を見せて来よう。」と思い 定め、教祖の御前へ御挨拶のために参上した。すると、教祖は、
 「上から雨が降らいでも、理さえあるならば、下からでも水気を上 げてやろう。」
と、お言葉を下された。
 こうして、村へもどってみると、村中は、野井戸の水かいで、昼夜 兼行の大騒動である。伊三郎は、女房のおさめと共に田へ出て、夜お そくまで水かいをした。しかし、その水は、一滴も我が田へは入れず、 人様の田ばかりへ入れた。
 そしておさめは、かんろだいの近くの水溜まりから、水を頂いて、 それに我が家の水をまぜて、朝夕一度ずつ、日に二度、藁しべで我が 田の周囲へ置いて廻わった。
 こうして数日後、夜の明け切らぬうちに、おさめが、我が田は、ど うなっているかと、見廻わりに行くと、不思議なことには、水一杯入 れた覚えのない我が田一面に、地中から水気が浮き上がっていた。お さめは、改めて、教祖のお言葉を思い出し、成る程仰せ通り間違いは ない、と、深く心に感銘した。
 その年の秋は、村中は不作であったのに、桝井の家では、段に一石 六斗という収穫をお与え頂いたのである。

一二三 人がめどか

 教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衞に、
 「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取り なされや。」
と、お諭し下された。生来、四郎兵衞は気の短い方であった。
 明治十六年、折から普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて 頂いていたが、「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」 との陰口を聞いて、激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまと めて、大阪へもどろうとした。
 足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、教祖の咳払いが 聞こえた。「あ、教祖が。」と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消 え去ってしまった。
 翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖が お出ましになり、
 「四郎兵衞さん、人がめどか、神がめどか。神さんめどやで。」
と、仰せ下された。

一二四 鉋屑の紐

 明治十六年、御休息所普請中のこと。梶本ひさは、夜々に教祖から 裁縫を教えて頂いていた。
 ある夜、一寸角程の小布を縫い合わせて、袋を作ることをお教え頂 いて、袋が出来たが、さて、この袋に通す紐がない。「どうしようか。」 と思っていると、教祖は、
 「おひさや、あの鉋屑を取っておいで。」
と、仰せられたので、その鉋屑を拾うて来ると、教祖は、早速、器用 に、それを三つ組の紐に編んで、袋の口にお通し下された。
 教祖は、こういう巾着を持って、櫟本の梶本の家へ、チョイチョイ お越しになった。その度に、家の子にも、近所の子にもやるように、 お菓子を袋に入れて持って来て下さる。その巾着の端布には、赤いの も、黄色いのもあった。
 そして、その紐は鉋屑で、それも、三つ組もあり、スーッと紙のよ うに薄く削った鉋屑を、コヨリにして紐にしたものもあった。

一二五 先が見えんのや

 中山コヨシが、夫重吉のお人好しを頼りなく思い、生家へかえろう と決心した途端、目が見えなくなった。
 それで、飯降おさとを通して伺うてもらうと、教祖は、
 「コヨシはなあ、先が見えんのや。そこを、よう諭してやっておく れ。」
と、お言葉を下された。
 これを承って、コヨシは、申し訳なさに、泣けるだけ泣いてお詫び した途端に、目が、又元通りハッキリ見えるようになった。

  註 中山コヨシは、明治十六年八月二十七日結婚。これは、その 後、間もなくの事と言われている。

一二六 講社のめどに

 明治十六年十一月(陰暦十月)御休息所が落成し、教祖は、十一月二十五 日(陰暦十月二十六日)の真夜中にお移り下されたので、梅谷四郎兵衞は、道 具も片付け、明日は大阪へかえろうと思って、二十六日夜、小二階で 床についた。すると、仲田儀三郎が、緋縮緬の半襦袢を三宝に載せて、 「この間中は御苦労であった。教祖は、『これを、明心組の講社のめど に』下さる、とのお言葉であるから、有難く頂戴するように。」との ことである。すると間もなく、山本利三郎が、赤衣を恭々しく捧げて、 「『これは着古しやけれど、子供等の着物にでも、仕立て直してやって くれ。』との教祖のお言葉である。」と、唐縮緬の単衣を差し出した。 重ね重ねの面目に、「結構な事じゃ、ああ忝ない。」と、手を出して頂 戴しようとしたところで、目が覚めた。それは夢であった。
 こうなると目が冴えて、再び眠ることが出来ない。とかくするうち に夜も明けた。身仕度をし、朝食も頂いて休憩していると、仲田が赤 衣を捧げてやって来た。
 「『これは、明心組の講社のめどに』下さる、との教祖のお言葉であ る。」
と、昨夜の夢をそのままに告げた。はて、不思議な事じゃと思いなが ら、有難く頂戴した。すると、今度は、山本が入って来た。そして、 これも昨夜の夢と符節を合わす如く、
 「『着古しじゃけれど、子供にやってくれ。』と、教祖が仰せ下され た。」
と、赤地唐縮緬の単衣を眼前に置いた。それで、有難く頂戴すると、 次は、梶本ひさが、上が赤で下が白の五升の重ね餅を持って来て、
 「教祖が、『子供達に上げてくれ。』と、仰せられます。」
と、伝えた。四郎兵衞は、教祖の重ね重ねの親心を、心の奥底深く感 銘すると共に、昨夜の夢と思い合わせて、全く不思議な親神様のお働 きに、いつまでも忘れられない強い感激を覚えた。

一二七 東京々々、長崎

 明治十六年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせ て頂いた。この時はからずも、教祖から、
 「東京々々、長崎。」
というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。
 この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をた たんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである。

一二八 教祖のお居間

 教祖は、明治十六年までは、中南の門屋の西側、即ち向かって左の 十畳のお部屋に、御起居なさっていた。そのお部屋には、窓の所に、 三畳程の台が置いてあって、その上に坐っておられたのである。その 台は、二尺五寸程の高さで、その下は物入れになっていた。子供連れ でお伺いすると、よく、そこからお菓子などを出して、子供に下され た。
 明治十六年以後は、御休息所にお住まい下された。それは、四畳と 八畳の二間になっていて、四畳の方が一段と高くなっており、教祖は、 この四畳にお住まいになっていた。御休息所の建った当時、人々は、 大きなお居間が出来て嬉しい、と語り合った、という。

一二九 花疥癬のおたすけ

 明治十六年、今川聖次郎の長女ヤス九才の時、疥癬にかかり、しか も花疥癬と言うて膿を持つものであった。親に連れられておぢばへ帰 り、教祖の御前に出さして頂いたら、
 「こっちへおいで。」
と、仰っしゃった。恐る恐る御前に進むと、
 「もっとこっち、もっとこっち。」
と、仰っしゃるので、とうとうお膝元まで進まして頂いたら、お口で 御自分のお手をお湿しになり、そのお手で全身を、
 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
 なむてんりわうのみこと
と、三回お撫で下され、つづいて、又、三度、又、三度とお撫で下さ れた。ヤスは、子供心にも、勿体なくて勿体なくて、胴身に沁みた。
 翌日、起きて見たら、これは不思議、さしもの疥癬も、後跡もなく 治ってしまっていた。ヤスは、子供心にも、「本当に不思議な神様や。」 と思った。
 ヤスの、こんな汚ないものを、少しもおいといなさらない大きなお 慈悲に対する感激は、成長するに従い、ますます強まり、よふぼくと して御用を勤めさして頂く上に、いつも心に思い浮かべて、なんでも 教祖のお慈悲にお応えさして頂けるようにと思って、勤めさして頂い た、という。

一三〇 小さな埃は

 明治十六年頃のこと。教祖から御命を頂いて、当時二十代の高井直 吉は、お屋敷から南三里程の所へ、おたすけに出させて頂いた。身上 患いについてお諭しをしていると、先方は、「わしはな、未だかつて悪 い事をした覚えはないのや。」と、剣もホロロに喰ってかかって来た。 高井は、「私は、未だ、その事について、教祖に何も聞かせて頂いてお りませんので、今直ぐ帰って、教祖にお伺いして参ります。」と言っ て、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いした。すると、教祖は、
 「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように 隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳 の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大き な埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目に つかんよってに、放っておくやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡 にシミが出来るのやで。その話をしておやり。」
と、仰せ下された。高井は、「有難うございました。」とお礼申し上げ、 直ぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に、「ただ今、こういう ように聞かせて頂きました。」と、お取次ぎした。すると、先方は、 「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ。」と、詫びを入れて、 それから信心するようになり、身上の患いは、すっきりと御守護頂い た。

一三一 神の方には

 教祖は、お屋敷に勤めている高井直吉や宮森與三郎などの若い者に、
 「力試しをしよう。」
と、仰せられ、御自分の腕を、
 「力限り押えてみよ。」
と、仰せられた。けれども、どうしても押え切ることは出来ないばか りか、教祖が、すこし力を入れて、こちらの腕をお握りになると、腕 がしびれて、力が抜けてしまう。すると、
 「神の方には倍の力や。」
と、仰せになった。又、
 「こんな事出来るかえ。」
と、仰せになって、人差指と小指とで、こちらの手の甲の皮を、お摘 まみ上げになると、非常に痛くて、その跡は、色が青く変わるくらい 力が入っていた。
 又、背中の真ん中で、胸で手を合わすように、正しく合掌なされた こともあった。
 これは、宮森の思い出話である。

一三二 おいしいと言うて

 仲田、山本、高井など、お屋敷で勤めている人々が、時々、近所の 小川へ行って雑魚取りをする。そして、泥鰌、モロコ、エビなどをと って来る。そして、それを甘煮にして教祖のお目にかけると、教祖は、 その中の一番大きそうなのをお取り出しになって、子供にでも言うて 聞かせるように、
 「皆んなに、おいしいと言うて食べてもろうて、今度は出世してお いでや。」
と、仰せられ、それから、お側に居る人々に、
 「こうして、一番大きなものに得心さしたなら、後は皆、得心する 道理やろ。」
と、仰せになり、更に又、
 「皆んなも、食べる時には、おいしい、おいしいと言うてやってお くれ。人間に、おいしいと言うて食べてもろうたら、喜ばれた理で、 今度は出世して、生まれ替わる度毎に、人間の方へ近うなって来る のやで。」
と、お教え下された。
 各地の講社から、兎、雉子、山鳥などが供えられて来た時も、これ と同じように仰せられた、という。

一三三 先を永く

 明治十六年頃、山沢為造にお聞かせ下されたお話に、
 「先を短こう思うたら、急がんならん。けれども、先を永く思えば、 急ぐ事要らん。」
 「早いが早いにならん。遅いが遅いにならん。」
 「たんのうは誠。」
と。

一三四 思い出

 明治十六、七年頃のこと。孫のたまへと、二つ年下の曽孫のモトの 二人で、「お祖母ちゃん、およつおくれ。」と言うて、せがみに行くと、 教祖は、お手を眉のあたりにかざして、こちらをごらんになりながら、
 「ああ、たまさんとオモトか、一寸待ちや。」
と、仰っしゃって、お坐りになっている背後の袋戸棚から出して、二 人の掌に載せて下さるのが、いつも金米糖であった。
 又、ある日のこと、例によって二人で遊びに行くと、教祖は、
 「たまさんとオモトと、二人おいで。さあ負うたろ。」
と、仰せになって、二人一しょに、教祖の背中におんぶして下さった。 二人は、子供心に、「お祖母ちゃん、力あるなあ。」と感心した、とい う。

註 一 この頃、たまへは、七、八才。モトは、五、六才であった。
  二 およつは、午前十時頃。午後二時頃のおやつと共に、子供がお 菓子などをもらう時刻。それから、お菓子そのものをも言う。

一三五 皆丸い心で

 明治十六、七年頃の話。久保小三郎が、子供の楢治郎の眼病を救け て頂いて、お礼詣りに、妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いた時のこ とである。
 教祖は、赤衣を召してお居間に端座して居られた。取次に導かれて 御前へ出た小三郎夫婦は、畏れ多さに、頭も上げられない程恐縮して いた。
 しかし、楢治郎は、当時七、八才の子供のこととて、気がねもなく あたりを見廻わしていると、教祖の側らに置いてあった葡萄が目に付 いた。それで、その葡萄をジッと見詰めていると、教祖は、静かにそ の一房をお手になされて、
 「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この 葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。こ の道は、先永う楽しんで通る道や程に。」
と、仰せになって、それを楢治郎に下された。

一三六 さあ、これを持って

 教祖が、監獄署からお帰りになった時、お伴をして帰って来た仲田 儀三郎に、監獄署でお召しになっていた、赤い襦袢を脱いでお与えに なって、
 「さあ、これを持っておたすけに行きなされ。どんな病人も救かる で。」
と、お言葉を下された。
 儀三郎は、大層喜び、この赤衣を風呂敷に包んで、身体にしっかり と巻き付け、おたすけに東奔西走させて頂いた。そして、
 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと
と、唱えながら、その赤衣で病人の患うているところを擦すると、ど んな重病人も、忽ちにして御守護を頂いた。

一三七 言葉一つ

 教祖が、桝井伊三郎にお聞かせ下されたのに、
 「内で良くて外で悪い人もあり、内で悪く外で良い人もあるが、腹 を立てる、気侭癇癪は悪い。言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの 加減で内々治まる。」
と。又、
 「伊三郎さん、あんたは、外ではなかなかやさしい人付き合いの良 い人であるが、我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立 てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決 してせんように。」
と、仰せになった。
 桝井は、女房が告口をしたのかしら、と思ったが、いやいや神様は 見抜き見通しであらせられる、と思い返して、今後は一切腹を立てま せん、と心を定めた。すると、不思議にも、家へかえって女房に何を 言われても、一寸も腹が立たぬようになった。

一三八 物は大切に

 教祖は、十数度も御苦労下されたが、仲田儀三郎も、数度お伴させ て頂いた。
 そのうちのある時、教祖は、反故になった罫紙を差し入れてもらっ てコヨリを作り、それで、一升瓶を入れる網袋をお作りになった。そ れは、実に丈夫な上手に作られた袋であった。教祖は、それを、監獄 署を出てお帰りの際、仲田にお与えになった。そして、
 「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様 からのお与えものやで。さあ、家の宝にしときなされ。」
と、お言葉を下された。

一三九 フラフを立てて

 明治十七年一月二十一日(陰暦 前年十二月二十四日)、諸井国三郎は、第三回 目のおぢば帰りを志し、同行十名と共に出発し、二十二日に豊橋へ着 いた。船の出るのが夕方であったので、町中を歩いていると、一軒の 提灯屋が目についた。そこで、思い付いて、大幅の天竺木綿を四尺程 買い求め、提灯屋に頼んで旗を作らせた。
 その旗は、白地の中央に日の丸を描き、その中に、天輪王講社、と 大きく墨書し、その左下に小さく遠江真明組と書いたものであった。 一行は、この旗を先頭に立てて、伊勢湾を渡り、泊まりを重ねて、二 十六日、丹波市の扇屋庄兵衞方に一泊した。
 翌二十七日朝、六台の人力車を連らね、その先頭の一人乗りにはこ の旗を立てて諸井が、つづく五台は、いずれも二人乗りで二人ずつ乗 っていた。
 お屋敷の表門通りへ来ると、一人の巡査が、見張りに立っていて、 いろいろと訊問したが、返答が明瞭であったため、住所姓名を控えら れただけですんだ。
 お屋敷へ到着してみると、教祖が、数日前から、
 「ああ、だるいだるい。遠方から子供が来るで。ああ、見える、見 える。フラフを立てて来るで。」
と、仰せになっていたので、お側の人々は、何んの事かと思っていた が、この旗を見るに及んで、成る程、教祖には、ごらんになる前から、 この旗が見えていたのであるなあ、と感じ入った、という。

 註 フラフは、元来オランダ語で、vlag と書く。旗の意。
 明治十二年、堺県令に対して呈出した「蒸気浴フラフ御願」の中に も「私宅地ニ於テ蒸気浴目印フラフ上度候間」という一文がある。これ を見ても、フラフが、旗を意味する帰化日本語として、コレラ、ガラス、 ドンタクなどと共に、当時、広く使用されていたことを知る。

一四〇 おおきに

 紺谷久平は、失明をお救け頂いて、そのお礼詣りに、初めておぢば へ帰らせて頂き、明治十七年二月十六日(陰暦正月二十日)朝、村田幸右衞門 に連れられて、妻のたけと共に、初めて、教祖にお目通りさせて頂い た。その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、 教祖は、
 「播州のおたけさんかえ。」
と、仰せになり、そのお供を頂くようになされて、
 「おおきに。」
と、礼を言うて下された。後年、たけが人に語ったのに、「その時、あ んなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いて置けばよか ったのに、と思った。」という。


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