天理教教祖伝逸話篇(六) 第百一話から第百二十話



101 道寄りせずに |  102 私が見舞いに |  103 間違いのないように |  104 信心はな |  105 ここは喜ぶ所 |  106 蔭膳 |  107 クサはむさいもの |  108 登る道は幾筋も |  109 ようし、ようし |  110 魂は生き通し |  111 朝、起こされるのと |  112 一に愛想 |  113 子守歌 |  114 よう苦労して来た |  115 おたすけを一条に |  116 自分一人で |  117 父母に連れられて |  118 神の方には |  119 遠方から子供が |  120 千に一つも

 

一〇一 道寄りせずに

 明治十五年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来 た時、教祖は、
 「今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(註、こい その生家山中宅のこと)へもどこへも、道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。 ここがほんとの親里やで。」
と、お聞かせ下された。
 それから程なく、五月十日(陰暦三月二十三日)午前八時、家の人達が田圃 に出た留守中、山田こいそは、急に産気づいて、どうする暇もなく、 自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、 丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよご れものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には、 綺麗な産着を着せて寝かせてあった。
 お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて 頂いた。
 この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は 伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、 山中宅へも寄らず、三里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、 身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。
 教祖は、
 「もう、こいそはん来る時分やなあ。」
と、お待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱き になった。そして、
 「名をつけてあげよ。」
と、仰せられ、
 「この子の成人するにつれて、道も結構になるばかりや。栄えるば かりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けて おくで。」
と、御命名下された。

一〇二 私が見舞いに

 明治十五年六月十八日(陰暦五月三日)教祖は、まつゑの姉にあたる河内 国教興寺村の松村さくが、痛風症で悩んでいると聞かれて、
 「姉さんの障りなら、私が見舞いに行こう。」
と、仰せになり、飯降伊蔵外一名を連れ、赤衣を召し人力車に乗って、 国分街道を出かけられた。そして、三日間、松村栄治郎宅に滞在なさ れたが、その間、さくをみずから手厚くお世話下された。
ところが、教祖のおいでになっている事を伝え聞いた信者達が、大勢 寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の 閉鎖を命じ、立番までする有様であった。それでも、多くの信者が寄 って来て、門を閉めて置いても、入って来て投銭をした。教祖は、
 「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所にな る。打ち分け場所になるのやで。」
と、仰せられた。さくは、教祖にお教え頂いて、三日目におぢばへ帰 り、半月余りで、すっきり全快の御守護を頂いた。

一〇三 間違いのないように

 明治十五年七月、大阪在住の小松駒吉は、導いてもらった泉田藤吉 に連れられて、お礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂いた。コレラ の身上をお救け頂いて入信してから、間のない頃である。
 教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、お手ずからお守りを下され、 続いて、次の如く有難いお言葉を下された。
 「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られ た。年は十八、未だ若い。間違いのないように通りなさい。間違い さえなければ、末は何程結構になるや知れないで。」
と。駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として、しっかり守 って通ったのである。

一〇四 信心はな

 明治十五年九月中旬(陰暦八月上旬)富田伝次郎(註、当時四十三才)は、当時十五 才の長男米太郎が、胃病再発して、命も危ないということになった時、 和田崎町の先輩達によって、親神様にお願いしてもらい、三日の間に ふしぎなたすけを頂いた。そのお礼に、生母の藤村じゅん(註、当時七十六才) を伴って、初めておぢば帰りをさせて頂いた。
 やがて、取次に導かれて、教祖にお目通りしたところ、教祖は、
 「あんた、どこから詣りなはった。」
と、仰せられた。それで、「私は、兵庫から詣りました。」 と、申し上 げると、教祖は、
 「さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ。」
と、仰せ下され、次いで、
 「あんた、家業は何をなさる。」
と、お尋ねになった。それで、「はい、私は蒟蒻屋をしております。」
と、お答えした。すると、教祖は、
 「蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら、高う買うて安う売り なはれや。」
と、仰せになった。そして、尚つづいて、
 「神さんの信心はな、神さんを、産んでくれた親と同んなじように 思いなはれや。そしたら、ほんまの信心が出来ますで。」
と、お教え下された。
 ところが、どう考えても、「高う買うて、安う売る。」という意味が分 からない。そんな事をすると、損をして、商売が出来ないように思わ れる。それで、当時お屋敷に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、 「問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、 比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売る時には、利 を低うして、比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、 お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰う て損する事のない、共に栄える理である。」 と、諭されて、初めて、 「成る程、」と得心がいった。
 この時、お息紙とハッタイ粉の御供を頂いてもどったが、それを生 母藤村じゅんに頂かせて、じゅんは、それを三木町の生家へ持ちかえ ったところ、それによって、ふしぎなたすけが相次いであらわれ、道 は、播州一帯に一層広く伸びて行った。

一〇五 ここは喜ぶ所

 明治十五年秋なかば、宇野善助は、妻と子供と信者親子と七人連れ で、おぢばへ帰らせて頂いた。妻美紗が、産後の患いで、もう命がな いというところを救けて頂いた、お礼詣りである。
 夜明けの四時に家を出て、歩いたり、巨掠池では舟に乗ったり、次 には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の八時頃おぢばへ着いた。 翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の 感激は、譬えるにものもない程であったが、殊に、長らくの病み患い を救けて頂いた美紗の喜びは一入で、嬉しさの余り、すすり泣きが止 まらなかった。すると、教祖は、
 「何故、泣くのや。」
と、仰せになった。美紗は、尚も泣きじゃくりながら、「生神様にお目 にかかれまして、有難うて有難うて、嬉し涙がこぼれました。」
と、申し上げた。すると、教祖は、
 「おぢばは、泣く所やないで。ここは喜ぶ所や。」
と、仰せられた。
 次に、教祖は、善助に向かって、
 「三代目は、清水やで。」
と、お言葉を下された。善助は、「有難うございます。」とお礼申し上 げたが、過分のお言葉に、身の置き所もない程恐縮した。そして、心 の奥底深く、「有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう。」 と、堅く決心したのである。

一〇六 蔭膳

 明治十五年十月二十九日(陰暦九月十八日)から十二日間、教祖は奈良監獄 署に御苦労下された。
 教祖が、奈良監獄署に御苦労下されている間、梅谷四郎兵衞は、お 屋敷に滞在させて頂き、初代真柱をはじめ、先輩の人々と、朝暗いう ちから起きて、三里の道を差入れのために奈良へ通っていた。奈良に 着く頃に、ようやく空が白みはじめ、九時頃には差入物をお届けして、 お屋敷に帰らせてもらう毎日であった。ある時は、監獄署の門内へ黙 って入ろうとすると、「挨拶せずに通ったから、かえる事ならん。」 と 言うて威かされ、同行の三人は、泥の中へ手をついて詫びて、ようや く帰らせてもらった事もあった。お屋敷の入口では、張番の警官から 咎められ、一晩に三遍も警官が替わって取り調べ、毎晩二時間ぐらい より寝る間がない、という有様であった。
 十一月九日(陰暦九月二十九日)、大勢の人々に迎えられ、お元気でお屋敷 へお帰りになった教祖は、梅谷をお呼びになり、
 「四郎兵衞さん、御苦労やったなあ。お蔭で、ちっともひもじゅう なかったで。」
と、仰せられた。
 監獄署では、差入物をお届けするだけで、直き直き教祖には一度も お目にかかれなかった。又、誰も自分のことを申し上げているはずは ないのに、と、不思議に思えた。
 あたかもその頃、大阪で留守をしていた妻のタネは、教祖の御苦労 をしのび、毎日蔭膳を据えて、お給仕をさせて頂いていたのであった。  そして、その翌十日から、教祖直き直きにお伺いをしてもよい、と いうお許しを頂いた。

一〇七 クサはむさいもの

 明治十五年、梅谷タネが、おぢばへ帰らせて頂いた時のこと。当時、 赤ん坊であった長女タカ(註、後の春野タカ)を抱いて、教祖にお目通りさせ て頂いた。この赤ん坊の頭には、膿を持ったクサが、一面に出来てい た。
 教祖は、早速、
 「どれ、どれ。」
と、仰せになりながら、その赤ん坊を、みずからの手にお抱き下され、 そのクサをごらんになって、
「かわいそうに。」
と、仰せ下され、自分のお坐りになっている座布団の下から、皺を伸 ばすために敷いておられた紙切れを取り出して、少しずつ指でちぎっ ては唾をつけて、一つ一つベタベタと頭にお貼り下された。そして、  「オタネさん、クサは、むさいものやなあ。」
と、仰せられた。タネは、ハッとして、「むさくるしい心を使ってはい けない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こ う。」と、深く悟るところがあった。
 それで、教祖に厚く御礼申し上げて、大阪へもどり、二、三日経っ た朝のこと、ふと気が付くと、綿帽子をかぶったような頭に、クサが、 すっきりと、浮き上がっている。あれ程、ジクジクしていたクサも、 教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐよう にして、見事に御守護頂き、頭の地肌には既に薄皮が出来ていた。

一〇八 登る道は幾筋も

 今川清次郎は、長年胃を病んでいた。法華を熱心に信仰し、家に僧 侶を請じ、自分もまたいつも祈祷していた。が、それによって、人の 病気は救かることはあっても、自分の胃病は少しも治らなかった。そ んなある日、近所の竹屋のお内儀から、「お宅は法華に凝っているから、 話は聞かれないやろうけれども、結構な神様がありますのや。」と、 言われたので、「どういうお話か、一度聞かしてもらおう。」というこ とになり、お願いしたところ、お道の話を聞かして頂き、三日三夜の お願いで、三十年来の胃病をすっかり御守護頂いた。明治十五年頃の ことである。
 それで、寺はすっきり断って、一条にこの道を信心させて頂こうと、 心を定め、名前も聖次郎と改めた。こうして、おぢばへ帰らせて頂き、 教祖にお目通りさせて頂いた時、教祖は、
 「あんた、富士山を知っていますか。頂上は一つやけれども、登る 道は幾筋もありますで。どの道通って来るのも同じやで。」
と、結構なお言葉を頂き、温かい親心に感激した。
 次に、教祖は、
 「あんた方、大阪から来なはったか。」
と、仰せになり、
 「大阪というところは、火事がよくいくところだすなあ。しかし、 何んぼ火が燃えて来ても、ここまで来ても、ここで止まるというこ とがありますで。何んで止まるかと言うたら、風が変わりますのや。 風が変わるから、火が止まりますのや。」
と、御自分の指で線を引いて、お話し下された。
 後に、明治二十三年九月五日(陰暦七月二十一日)新町大火の時、立売堀の 真明組講社事務所にも猛火が迫って来たが、井筒講元以下一同が、熱 誠こめてお願い勤めをしていたところ、裏の板塀が焼け落ちるのをさ かいに、突然風向が変わり、真明組事務所だけが完全に焼け残った。 聖次郎は、この時、教祖からお聞かせ頂いたお言葉を、感銘深く思い 出したのであった。

一〇九 ようし、ようし

 ある時、飯降よしゑ(註、後の永尾よしゑ)が、「ちよとはなし、と、よろづよ の終りに、何んで、ようし、ようしと言うのですか。」と、伺うと、 教祖は、
 「ちよとはなし、と、よろづよの仕舞に、ようし、ようしと言うが、 これは、どうでも言わなならん。ようし、ようしに、悪い事はない やろ。」
と、お聞かせ下された。

一一〇 魂は生き通し

 教祖は、参拝人のない時は、お居間に一人でおいでになるのが常で あった。そんな時は、よく、反故の紙の皺を伸ばしたり、御供を入れ る袋を折ったりなされていた。
 お側の者が、「お一人で、お寂しゅうございましょう。」と、申し上 げると、教祖は、
 「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで。」
と、仰せられるのであった。
 又、教祖がお居間に一人でおいでになるのに、時々、誰かとお話し になっているようなお声が、聞こえることもあった。
 又、ある夜遅く、お側に仕える梶本ひさに、
 「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまっ た。一つ、揉んでんか。」
と、仰せになったこともある。
 又、ある時、味醂を召し上がっていたが、三杯お口にされて、
 「正善、玉姫も、一しょに飲んでいるのや。」
と、仰せられたこともあった。

註 梶本ひさは、明治二十年結婚して、山沢ひさとなる。

一一一 朝、起こされるのと

 教祖が、飯降よしゑにお聞かせ下されたお話に、
 「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、 大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。 聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、 働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで。」
と。

一一二 一に愛想

 教祖が、ある日、飯降よしゑにお聞かせ下された。
 「よっしゃんえ、女はな、一に愛想と言うてな、何事にも、はいと 言うて、明るい返事をするのが、第一やで。」
 又、
 「人間の反故を、作らんようにしておくれ。」
 「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように。」
 「すたりもの身につくで。いやしいのと違う。」
と。

一一三 子守歌

 教祖は、時々次のような子守歌をお歌いになっていた、という。  一、弁慶は、有馬の国で育てられ、三つの上は四つ五つ、七つ道具 を背に負い、五条の橋にと急がれる。
 二、甚二郎兵衞は、手盥持って、釣瓶で水を汲んで、手水使うて、 神さん拝んで、シャンシャン。
 梶本宗太郎が、二十代の時に、山沢ひさから聞いたものである。

一一四 よう苦労して来た

 泉田藤吉は、ある時、十三峠で、三人の追剥に出会うた。その時、 頭にひらめいたのは、かねてからお仕込み頂いているかしもの・かり ものの理であった。それで、言われるままに、羽織も着物も皆脱いで、 財布までその上に載せて、大地に正座して、「どうぞ、お持ちかえり下 さい。」と言って、頭を上げると、三人の追剥は、影も形もない。
 余りの素直さに、薄気味悪くなって、一物も取らずに行き過ぎてし もうたのであった。そこで、泉田は、又、着物を着て、おぢばへ到着 し、教祖にお目通りすると、教祖は、
 「よう苦労して来た。内々折り合うたから、あしきはらひのさづけ を渡す。受け取れ。」
と、仰せになって、結構なさづけの理をお渡し下された。

一一五 おたすけを一条に

 真明組周旋方の立花善吉は、明治十三年四、五月頃(陰暦三月)自分のソ コヒを、つづいて父の疝気をお救け頂いて入信。以来数年間、熱心に 東奔西走しておたすけに精を出していたが、不思議なことに、おたす けにさえ出ていれば、自分の身体も至って健康であるが、出ないでい ると、何んとなく気分がすぐれない。ある時、このことを教祖に申し 上げて、「何故でございましょうか。」と、伺うと、教祖は、
 「あんたは、これからおたすけを一条に勤めるのやで。世界の事は 何も心にかけず、世界の事は何知らいでもよい。道は、辛抱と苦労 やで。」
と、お聞かせ下された。善吉は、このお言葉を自分の生命として寸時 も忘れず、一層たすけ一条に奔走させて頂いたのである。

一一六 自分一人で

 教祖のお話を聞かせてもらうのに、「一つ、お話を聞かしてもらいに 行こうやないか。」などと、居合せた人々が、二、三人連れを誘うて 行くと、教祖は決して快くお話し下さらないのが、常であった。
 「真実に聞かしてもらう気なら、人を相手にせずに、自分一人で、 本心から聞かしてもらいにおいで。」
と、仰せられ、一人で伺うと、諄々とお話をお聞かせ下され、尚その 上に、
 「何んでも、分からんところがあれば、お尋ね。」
と、仰せ下され、いともねんごろにお仕込み下された。

一一七 父母に連れられて

 明治十五、六年頃のこと。梅谷四郎兵衞が、当時五、六才の梅次郎 を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、梅次郎は、赤衣を召され た教祖にお目にかかって、当時煙草屋の看板に描いていた姫達摩を思 い出したものか、「達摩はん、達摩はん。」と言った。
 それに恐縮した四郎兵衞は、次にお屋敷へ帰らせて頂く時、梅次郎 を同伴しなかったところ、教祖は、
 「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで。」
と、仰せられた。
 このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、心 楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という。

一一八 神の方には

 明治十六年二月十日(陰暦正月三日)、諸井国三郎が、初めておぢばへ帰っ て、教祖にお目通りさせて頂くと、
 「こうして、手を出してごらん。」
と、仰せになって、掌を畳に付けてお見せになる。それで、その通り にすると、中指と薬指とを中へ曲げ、人差指と小指とで、諸井の手の 甲の皮を挾んで、お上げになる。そして、
 「引っ張って、取りなされ。」
と、仰せになるから、引っ張ってみるが、自分の手の皮が痛いばかり で、離れない。そこで、「恐れ入りました。」と、申し上げると、今度 は、
 「私の手を持ってごらん。」
と、仰せになって、御自分の手首をお握らせになる。そうして、教祖 もまた諸井の手をお握りになって、両方の手と手を掴み合わせると、  「しっかり力を入れて握りや。」
と、仰せになる。そして、
 「しかし、私が痛いと言うたら、やめてくれるのやで。」
と、仰せられた。それで、一生懸命に力を入れて握ると、力を入れれ ば入れる程、自分の手が痛くなる。教祖は、
 「もっと力はないのかえ。」
と、仰っしゃるが、力を出せば出す程、自分の手が痛くなるので、「恐 れ入りました。」と、申し上げると、教祖は、手の力をおゆるめにな って、
 「それきり、力は出ないのかえ。神の方には倍の力や。」
と、仰せられた。

一一九 遠方から子供が

 明治十六年四、五月頃(陰暦三月)のある日、一人の信者が餅を供えに来 た。それで、お側の者が、これを教祖のお目にかけると、教祖は、
 「今日は、遠方から帰って来る子供があるから、それに分けてやっ ておくれ。」
と、仰せられた。お側の人々は、一体誰が帰って来るのだろうか、と 思いながら、お言葉通りに、その餅を残して置いた。
 すると、その日の夕方になって、遠州へ布教に行っていた高井、宮 森、井筒、立花の四人が帰って来た。
 しかも、話を聞くと、この四人は、その日の昼頃、伊賀上野へ着い たので、中食にしようか、とも思ったが、少しでも早くおぢばへ帰ら せて頂こうと、辛抱して来たので、足の疲れもさる事ながら、お腹は、 たまらなく空いていた。
 この四人が、教祖の親心こもるお餅を頂いて、有難涙にむせんだの は言うまでもない。

一二〇 千に一つも

 明治十六年の春頃、山沢為造の左の耳が、大層腫れた時に、教祖か ら、
 「伏せ込み、伏せ込みという。伏せ込みが、いつの事のように思う ている。つい見えて来るで。これを、よう聞き分け。」
とのお言葉を聞かせて頂いた。又、
 「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。言うて置い た通りの道になって来るねで。」
と、聞かせて頂いた。それで、先に父の身上からお聞かせ頂いたお言 葉を思い起こし、父の信仰を受けつがねばならぬと、堅く心に決めて いたところ、母なり兄から、「早く身の決まりをつけよ。」とすすめら れ、この旨を申し上げてお伺いすると、教祖は、
 「これより向こう満三年の間、内の兄を神と思うて働きなされ。然 らば、こちらへ来て働いた理に受け取る。」
と、お聞かせ下された。


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