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黒い悪魔 ハルトマン

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エーリヒ・アルフレート・ハルトマン(Erich Alfred "Bubi" Hartmann, 1922年4月19日 - 1993年9月20日)はドイツ空軍の軍人。第二次世界大戦時のドイツ空軍のエース・パイロットの1人であり、空中戦での撃墜機数は戦史上最多である。
独ソ戦において、格闘戦を避ける一撃離脱戦法で撃墜スコアを重ね、1944年8月25日に前人未踏の300機撃墜を達成した。総出撃回数1405回、うち825回の戦闘機会において最終撃墜数352機、被撃墜16回。敗戦後、ソビエト連邦での抑留を経て、1956年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)空軍に入隊し現役復帰。1970年に大佐で退役。
乗機メッサーシュミット Bf109Gの機首に黒いチューリップ風のマーキングをしていたため、ソ連空軍から「黒い悪魔」と恐れられた。



初陣から半年後の1943年4月の時点での撃墜数は8機で、二桁以上の撃墜数が多い当時のドイツ空軍の中でも目を見張るほどの成績は残してはいなかった。しかし、同年7月のクルスクの戦いでの航空戦で一気に撃墜数を伸ばした。7月5日、第9飛行中隊長代理となり、8月3日には撃墜数が50に達した。9月2日、中尉に昇進と同時に同中隊長に正式に就任した。この後、驚異的なスピードで撃墜数を積み上げていく。

ハルトマンは自分が編隊を指揮する立場になると、僚機(部下)を大切にし、一撃離脱戦闘法を集団戦闘にも応用した。具体的には、編隊を2分割し、第1隊が攻撃を加えている時に、残っている第2隊は上空に待機し援護役に回る。そして第1隊が敵機集団への奇襲を終え上空に戻ってきたら、第2隊が攻撃を仕掛けるというものだった。2つの編隊を交互に攻撃させることで効果的に敵機集団を撃破したのである。 彼が中隊長を務めた第9中隊は、戦果が大きいことから「カラヤ中隊」、あるいは「エキスパート中隊」とも呼ばれ、一撃離脱戦闘法が集団的に運用された時の戦果と帰還率の高さが周囲から認められていた。

翌1944年8月24日、撃墜数が300に到達。その翌日、アドルフ・ヒトラー自身からダイヤモンド騎士鉄十字章を授与される。その後1ヶ月余りの休暇を得、9月10日に幼なじみの恋人だったウルスラ・ペーチュ(Ursula Paetsch、1924年生)と結婚式を挙げた。

10月には前線に復帰。翌1945年1月(3月とも)にターボ・ジェット・エンジンを搭載したMe262への転換訓練を受け、同機で編制されたエリート部隊第44戦闘団への転属を打診されたが、これを拒絶、まもなく第52戦闘航空団第III飛行隊第9中隊長へと戻ってしまった。一説には、部隊長のアドルフ・ガーランド中将以下、そうそうたるメンバーがそろっている第44戦闘団で、格上のパイロットの僚機扱いされる事を嫌ったのだともいう。後に彼は、この時転属を受け入れていればソ連に10年以上もの間抑留されて辛酸をなめる事はなかったかもしれない、と後悔を交えて回想している。

原隊に復帰したハルトマンは編隊指揮の優秀さを認められ、1945年2月に第52戦闘航空団の第I飛行隊長を拝命した。この時、彼はまだ22歳だった。しかしながら、大戦末期にはドイツ軍はすでに劣勢であり、以前ほどの戦果はあげられなくなった。それでも、4月17日には撃墜数が350に到達。5月8日にソ連機を1機撃墜し、通算撃墜数を352機とした。同日ドイツが降伏し、彼の戦いも終わりを迎えることになった。初陣以来、2年半強の期間にハルトマンは1405回出撃し、うち825回の空戦機会において352機を撃墜(被撃墜は16回)。また一度も僚友を戦死させなかった(僚機の撃墜は1度確認されているが、搭乗員は無事生還している)。

【戦後】

ソ連占領地内で戦争終結を迎えたハルトマンは、直ちにドイツに戻ることを指示されたが、苦楽を共にした部下・隊員家族・避難民などを見捨てて自分一人戻ることをよしとせず、全員で移動し、アメリカ軍に投降した。しかし、ハルトマンは、戦勝国間の取り決めによりソ連に引き渡され、戦争犯罪人として10年半・11ヶ所の収容所に抑留されて強制労働に従事させられた。NKVDによって虚偽の犯罪自白書類へのサインの強制、接収されたMe262に対する情報提供など、ハルトマン本人は終始断固として拒否したものの、NKVDから様々な圧迫、脅迫を受けた。同じくエースパイロットでハルトマンをよく知るギュンター・ラルは、「(帰ってきた時には)目の輝きが消え失せてしまった」と、ハルトマンのソ連抑留体験の過酷さを表現している。

1955年になり、アデナウアー西独首相(当時)のソ連初訪問時に、抑留ドイツ人捕虜全員の釈放を強く申し入れしたことにより、ハルトマンは釈放されるに至った。西ドイツに帰国後、再結成されたドイツ連邦空軍に入隊してジェット戦闘機のパイロットとなる。ラルと共にアメリカ空軍で研修を受け、帰国後に戦闘爆撃航空団の指揮官を命じられる。しかし、自分には戦闘機しかないと受託を拒否し、暫定的に1958年春にオルテンブルクの戦闘機パイロット学校の副校長に就任。同年6月に空軍部隊の第71戦闘航空団「リヒトホーフェン」の戦闘航空団司令に就任。

この間、1957年にハルトマン夫妻の間には女児が誕生している。1945年に長男が誕生していたが1948年に夭折。ソ連抑留中のハルトマンは、一度も長男の顔を見ることはなかった。 さらに、父アルフレットも1952年にこの世を去っていた。

1960年には中佐、1967年には大佐に昇進したが、ドイツ空軍で彼の実績や経験を活かす事無く、1970年、48歳の若さで退役。退役時に少将に名誉昇進した。

その後は故郷に住み、民間航空施設や学校などの仕事をしながらFAA(アメリカ連邦航空局)のヴュルテンブルク地区代表をしていた。そして数年後の1980年に風邪をこじらせて狭心症を患った。しかし敢闘精神で六週間で退院した。全快した後1983年で民間航空学校とFAAに復帰したが、アウトバーンとハイウェーでの運転を避け(これは、戦友で親友でもあったゲルハルト・バルクホルン夫妻の自動車事故死が影響していると思われる)、さらに晩年は戦友や教え子との会合も欠席するなど、慎重な生活態度をとっていた。1993年9月20日、死去。

【戦術】

ハルトマンは「第二次世界大戦で最も撃墜数が多かったエース・パイロット」だが、それはパイロット個人の技量が優れていたというだけではなく、確立された「空中戦闘法」があったからこそ得られた結果である。

【戦況】

東部戦線においてのドイツの戦闘機パイロットは、ハルトマンに限らず驚異的な戦果をあげている。太平洋戦争において日本やアメリカのトップエースで100機以上の撃墜記録を持つ者は極稀であるが、東部戦線でのドイツ空軍の戦闘機パイロットは、100機を撃墜してようやく一人前、一流と呼ばれるには150機からという世界だったのである。ハルトマンの先輩たちは、戦闘機の性能が絶対的に優位な期間に撃墜数を大きく伸ばしていたといえる。その理由には以下のものが挙げられる。

1.戦闘空域までの距離が短く一日に何度も出撃できた(対して太平洋戦線では、連日の出撃すら稀である)
2.ソ連軍機の数はドイツ軍より多数であったが技術及び戦術的練度が低い上、地上部隊との直協任務を主体としており低空を飛んでいることが多いため、ベテランパイロットからすれば落としやすい相手だった。
3.ソ連軍機は雑多な機体の寄せ集めで旧式機が多く、それに対してドイツ軍機は、高性能のメッサーシュミットBf109でほぼ統一されていた。
4.東部戦線は陸上で至近距離の戦闘であり、撃墜された場合にも脱出、あるいは不時着し、徒歩で帰還可能であり、何度も再戦できた(対して太平洋戦線では、洋上で撃墜された場合、生還の可能性は極めて低い)。

それに対してハルトマンが実戦部隊に配属された1942年末には、ソ連も新鋭機を続々と投入するまでに盛り返しており、緒戦で高性能を誇ったBf109も徐々に陳腐化しており(新型機であるフォッケウルフ Fw190の実戦投入も行われた)、戦闘機の性能上の優位はそれほどなくなっていた。それにもかかわらずそれからわずか2年半で、20歳を過ぎたばかりの若年パイロットでありながら、Bf109を駆って352機撃墜という不滅の記録を達成したのである。

ただ、1.4.の事情は1942年以降も同様であり、ハルトマンは初出撃で撃墜され、また不時着時にソ連兵に捕まったこともあるが、生還して再戦の機会を得ている。

【一撃離脱戦法】

初陣の小隊リーダー機ロスマン曹長の強い影響を受けたハルトマンは観察~決定~攻撃~離脱または小休止(コーヒー・ブレーク)ーという、独自の4段階戦闘法を確立した。 その具体的な戦法は、敵機の存在を素早く発見し、敵に悟られぬよう高速で接近し、敵が気づいていなければ近距離から機関銃・砲で射撃を行い、高速で離脱する」という、いわゆる一撃離脱戦法を旨とした。また、戦果よりも損失を抑えることが相対的勝利として重要であり、僚機を失うことは絶対的敗北であるとし、部下の指導でもそれを常に徹底させた。

初期の戦闘では小隊長のロスマン曹長の強い影響から、ハルトマンは空中戦(ドッグファイト)を不要なものとして完全に回避すること、また僚機を絶対に見捨てないことを教わった。次に、ロスマン曹長の後のクルピンスキ中隊長からは、敵機に確実に弾を当てる為に近接射撃の有効性を知った。さらにこの戦闘法をより洗練させるため、索敵して発見した敵機編隊(主に低空侵入してくるソ連空軍地上攻撃機隊と上空で攻撃機の護衛をする戦闘機の混合部隊)に気付かれずに接近する方法(雲や逆光を利用する)、どれだけ自機と敵機の高度差を取るか、どのようなタイミングでダイブを仕掛けて攻撃を加えるのが最大戦果を生むか、その後に編隊指揮者になってからは、どうすれば僚機の損失を抑えられるかといった戦術の問題点を洗い出しながら、様々なシチュエーションによる攻撃方法と不確定要素への対策を検討し、戦果を拡大する半面僚機の損失を抑えた。彼は以後この戦闘法に徹し、ドイツ敗北までの1405回の出撃を果たした。また、養成期間ですでに明らかになったように、ハルトマンは射撃技術に秀でていたため、遠距離からの射撃で敵を撃墜して編隊を混乱させ、一航過で複数機を撃墜する特技も発揮した。またBf109戦闘機のエンジンの特性を生かしたマイナスGでの旋回による離脱を切り札として編み出した。

【信条】

ハルトマンは「僚機を失った者は戦術的に負けている」ことを教訓として指摘している。また彼は、妻のウルスラへの手紙の中で「自分は歴代最高の撃墜数よりも、一度も僚機を失わなかったことの方を誇りに思っている」と語っている。


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