My Library Home

ソ連人民最大の敵・シュトゥーカ大佐

Wikipediaより

ハンス=ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel, 1916年7月2日 - 1982年12月18日)は、第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人(航空機操縦員、幕僚将校)。ヨーロッパ東部戦線において、ソ連戦車500両以上と800台以上の車両を撃破する戦果を挙げた。また、9機を撃墜し、地上砲火で30回撃墜された。これらの戦功から、ナチス・ドイツ最高位の「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授けられた。



【第二次世界大戦】

第二次世界大戦には少尉としてプレンツラウの第121軍第2軍地区偵察大隊に所属し、ポーランド戦役に遠距離偵察隊員として従軍した。1939年10月11日に二級鉄十字章を受章。1940年5月、フランス侵攻が開始されるも、このときはウィーンのスタンメルスにある訓練航空部隊に副官として配属されていたため戦闘には参加できずにいた。フランス戦が終わる頃になってようやくカーンの第3急降下爆撃航空団第I飛行大隊(I./Stuka-Geschwader 3、I./StG 3)への転属が実現したが、バトル・オブ・ブリテンには急降下爆撃機パイロットとしての転換訓練の最中であったため作戦には参加していない。また、この時は技量未熟なパイロットとみなされており、一時期グラーツに戻され急降下爆撃訓練を続けている。 1941年4月のバルカン侵攻、さらにその後のクレタ島侵攻に参加したときも地上待機の予備パイロットであった。この境遇を自書『急降下爆撃』では「出撃命令でエンジンが唸り出すたびに、拳を耳につめこみたくなる。シュトゥーカ隊は、クレタで歴史を作っている。そう思って、私は口惜しさに男泣きに泣いた」と述べている。 この出来事が原因で、後に上官からの休暇命令に背いてまで出撃を重ねるようになったと言われている。

ルーデルはバルバロッサ作戦において1941年6月23日に急降下爆撃隊員として初の戦闘を経験し、1941年7月18日に一級鉄十字章を受章、急降下爆撃機ユンカースJu 87シュトゥーカを駆って、終戦まで東部戦線で戦い抜いた。

・「何度も乗機を撃墜され、捕虜になりかけた(当時彼の首にはソ連軍によって賞金が懸けられていた)」
・「出来る限り休暇を減らして出撃回数を増やすよう上司に嘆願し、その為に書類を偽造した」
・「撃墜されて満身創痍で基地に帰ったのに、そのまま再出撃しようとしたりした」

という逸話が数多く残っている。1945年2月8日、ルーデル5回目の負傷の時にはソ連軍の40mm高射機関砲により右足を失う。しかしルーデルは、治療期間中にソ連軍を攻撃出来ない事の方が悔しいと涙ながらに訴えている。彼は負傷が完治する前に病院を抜け出して部隊に戻り、特注した義足をつけて再び戦線に復帰した。

その戦功が余りにも突出していたため、スターリンが演説の中で「ソ連人民最大の敵」と名指しでルーデルについて言及している。また、全国防軍将兵の中で唯一「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授与された人物でもある 。最終階級は大佐。部下からは「シュトゥーカ大佐」と呼び慕われた。ヒトラーは英雄であるルーデルの死が敵の宣伝に利用されることを恐れ、再三地上勤務に移るように要請したが、本人は全て断っている。また彼は前述の勲章を授与される際、条件として地上勤務を二度と要請されない事を挙げた。

ドイツの敗戦後は、アメリカ軍に投降したが、ソ連軍へ引き渡されず無事に戦後を迎えた。

【発言集】

・「それにしても勘のにぶい軍用犬だ」(1944年3月20日、撃墜されソ連軍から逃亡中、ソ連軍の軍用犬に対して)
・「今、このまま帰国する気持ちにはなれない」(1944年3月24日、満身創痍の状態にて帰還した際に)
・「すべてが静かに、まるで死んだように見える」(1944年3月27日、戦車26輌撃破後の偵察飛行中にて)
・「ガーデルマンは肋骨を三本折っていた。休養などはとっていられない。すぐに出撃だ!」(1944年11月、撃墜され自分も重傷を負った状態で帰還した際に)
・「総統、もし私が飛行大隊と行動を共にするのが許されないのでしたら、私は受賞と昇進とを辞退申し上げたいと存じます」(1945年1月1日、黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章の授章式でヒトラーに対して)
・「イワンめ、また新型を造りおったか」(1944年10月末、発見したソ連軍の新型戦車に対して)
・「よし行こう。すぐ退院だ」(1944年10月、入院先でソ連軍の侵攻を聞いて)
・「ちょっと試験飛行をしただけです」(1945年、無断出撃について問い詰めてくる上官に対して)
・「ただ一つ大事なことは、この現在の危急存亡の時に際して、私が少なくとも数週間飛べないということだ」(1945年2月9日、右脚を失った際に)
・「昨日と今日で、そう急に変わってたまるものか」(1945年5月7日、航空機でソ連軍包囲網を脱出中に襲ってきたソ連軍戦闘機に対して)
・「ここはドイツだ。英語が話せたって、ドイツ語以外は喋ろうと思わない。どんな敬礼をしようと君らの知ったことではあるまい。我々はドイツ軍人としての敬礼法を教わり、それをそのままやっているだけの話だ。シュトゥーカ隊は空の戦いで敗れはせぬ。我々は囚人ではない。ドイツ兵は全ての戦闘に負けたものではなく、ただ物量の重圧に屈したからに過ぎない。我々がここに来たのも、ソ連地域にとどまるのを欲しなかったからだ。 ま、そんなことはどうでもいい。身体を洗わせてもらいたい。それから何か食べ物が欲しい」(1945年5月7日、降伏時にアメリカ軍将官と対面した際、英語を話せるかと通訳に問われたときの返答)
・「真実を真実として告げるのが、なぜ典型的なのだろう。それが、どうして非難の口ぶりで語られねばならないのか」(降伏時にアメリカ兵から典型的なナチ将校だと罵られてた時の返答)
・「わたしには、これという秘訣はなかったのだが……」(1945年、敗戦後に「何故あのような遅い機体(Ju87)であれだけ出撃(2500回)し、生き残ることが出来たのか?」と尋問をする英米軍将校に対して)
・「操縦が恐ろしく難しい機体」(Ju87G型について。事実、Ju87に37mm砲2門を搭載したことで飛行時の安定性は著しく低下しており、些細な操縦ミスでもバランスを崩し墜落する危険性があった。)


Page Top | My Library Home