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ドイツ空軍のエース・パイロット バルクホルン

Wikipediaより

ゲルハルト・バルクホルン(Gerhard Barkhorn、1919年3月20日 - 1983年1月8日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍のエース・パイロット。大戦時の最終階級は少佐。後に西ドイツ空軍で少将まで勤め上げた。柏葉剣付騎士鉄十字章受章者。
出撃回数1104回。撃墜数301機。これはエーリヒ・ハルトマンの352機に次ぐスコアであり、300機超えは歴史上でもこの二人以外には存在しない。このスコアは全て東部戦線で記録されたものである。



【バトル・オブ・ブリテンまで】

1919年3月20日、バルクホルンは東プロイセンのケーニヒスベルクで生まれた。1937年、ドイツ空軍に入隊、1938年3月から操縦士としての訓練を開始する。訓練修了後、少尉の階級で第2戦闘航空団第3中隊(3./JG2"Richthofen")に配属された。

バルクホルンはフランス侵攻で初の実戦を経験した。1940年8月1日、第52戦闘航空団第2飛行隊第6中隊(6./JG52)に転属、バトル・オブ・ブリテンに参加した。しかし、この間バルクホルンは、敵を一機も撃墜することが出来なかった。のみならず、2度の被撃墜を経験した。

【東部戦線】

1941年6月22日、バルバロッサ作戦が発動され、ナチス・ドイツはソビエト連邦に侵攻、JG52も東部戦線へ配置転換された。7月2日、バルクホルンは120回目の出撃でソビエト空軍のDB-3を撃墜、初戦果を記録した。8月22日、5機撃墜でエース・パイロットとなった。11月までにバルクホルンのスコアは10機に達し、11月11日、中尉に昇進した。

1942年5月21日、バルクホルンは第52戦闘航空団第4中隊長(4./JG52)に任命された。ここからバルクホルンのスコアは驚異的な伸びを見せる。なお、この頃の乗機はメッサーシュミットBf109F型である。7月19日、バルクホルンは一日で6機を撃墜し、「一日で達成されたエース(Ace in a day)」となり、スコアも50機を超えた。7月25日、バルクホルンは被弾負傷して2ヶ月間の休息を余儀なくされた。休暇中の8月23日、64機撃墜の功により騎士鉄十字章を授与された。10月に戦線に復帰すると、バルクホルンは再びスコアを伸ばし始め、12月19日、100機撃墜を達成した。1943年1月11日、柏葉付騎士鉄十字章を授与された。この時期、第52戦闘航空団は装備機をメッサーシュミットBf109G型へと転換している。

1943年8月8日、バルクホルンは全軍で15人目の150機撃墜を達成した。9月1日、バルクホルンは大尉に昇進し、第52戦闘航空団第2飛行隊長(II./JG52)に任命された。11月30日、全軍で5人目の200機撃墜を達成した。1944年2月13日、バルクホルンは全軍で3人目の250機撃墜を達成した。3月2日、剣柏葉付騎士鉄十字章を授与された。5月1日、少佐に昇進した。

5月31日、この日6度目の出撃でバルクホルンは被弾負傷し、4ヶ月間の休息を余儀なくされた。この間に同僚のエーリヒ・ハルトマンが、バルクホルンに先んじて300機撃墜を達成した。10月からバルクホルンは戦線に復帰し、11月14日には275機撃墜を達成した。1945年1月5日、バルクホルンはハルトマンに次ぐ300機撃墜を達成した。

1月16日、バルクホルンは第6戦闘航空団司令に任命された。4月10日までJG6を指揮したが、身心の消耗のために入院し、同職を解任された。

【最後の戦い】

この頃、すでにドイツ空軍は壊滅状態であった。空軍中将アドルフ・ガーランドは、ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262で構成された第44戦闘団(JV44)を結成し、最後の戦いを挑もうとしていた。バルクホルンは入院中であったがこれに志願し、4月15日、JV44に転属した。しかし、バルクホルンはこの部隊で戦果を上げることは出来なかった。

4月21日、1104回目の出撃が、バルクホルンの最後の出撃となった。爆撃機編隊に接近したところで不意にエンジンが燃え上がり、降下したところをアメリカ軍のP-51に狙われた。バルクホルンのMe262は林の中に突っ込んだ。爆発前に脱出したものの、バルクホルンは負傷して病院に担ぎ込まれ、そのまま終戦を迎えた。バルクホルンはアメリカ軍の捕虜となったが、9月には解放された。

第二次世界大戦を通してのバルクホルンの戦績は、出撃回数1104回、撃墜301機。9回の被撃墜を経験し、うち1回ベイルアウトし、3回負傷した。

【人柄】

バルクホルンは自己主張が強い人物が多かったドイツ空軍の中では、もの静かで控えめな人物だった。乱戦だった東部戦線において撃墜結果が誰のものかわからなくなった時でも、気前良く戦果を部下に譲ったといわれている。また敵機に命中弾を与えた後は必ず脱出のための機会をあたえたとも言われており、その戦闘機パイロットとしての能力以上に優れた人格を高く評価する上官や部下が極めて多く、その人柄は連合国軍の間でも広く知れ渡っていたといわれる。 


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