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エジソンのエピソード

Wikipediaより

トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison、 1847年2月11日 - 1931年10月18日)は、生涯におよそ1,300もの発明を行ったアメリカ合衆国の発明家、起業家。



・化学実験に没頭した少年時代、人間が空を飛べるようになる薬を創ろうと試み、ヘリウムガスをヒントにして薬を自作し、友人に飲ませた。エジソンの目論見としては、その薬を飲むと体内でガスが発生し、その浮力で人間が浮き上がる筈だったが、実際には薬を飲んだ友人が腹痛を起こしてもがき苦しみ、大騒ぎになった。普段はエジソンの行為に理解を示していた母親も、この件に関しては激怒し、人体実験を行う事を厳しく戒めたという。エジソンはその後も人間が空を飛ぶ夢を追求し続けたが、後述の通り人命に関わる問題で挫折する事となった。

・少年時代のエジソンは持ち前の好奇心が高じて、自らの手で新聞を作り、列車の中で売って評判になった事があった。しかし、ある人物を皮肉った内容の記事を新聞に載せたところ、これを見て怒った本人から暴行を受け、これに懲りてエジソンは新聞作りをやめたという。

・エジソンは15歳の時に、彼が働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車に轢かれそうになったのを助けた事があった。エジソンはそのお礼として、駅長から電信の技術を教えてもらい、後に彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。

・17歳の頃のエジソンはカナダの駅で夜間電信係として働いていたが、「何事もなければ、一晩中1時間おきに勤務に就いていることを示す信号を送るだけ」という退屈な仕事に飽きてしまい、時計を使って電信機が自動で電信を送る機械を発明した。電信を機械に任せて自分は寝ていたところ、それまでと違って全く誤差なく正確に1時間おきに電信が届くようになった事を不思議に思い様子を見に来た上司に「お前が寝ていたら定時に連絡する意味がないだろう」と怒られた。これがエジソンの最初の発明だった。

・エジソンが21歳の時に初めて特許を取得した電気投票記録機は、議会における賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計し、投票にかかる時間を大幅に短縮できる画期的な発明となる筈だったが、実際には「少数派の議員による牛歩戦術ができなくなる」という理由で全く採用されなかった。エジソンはこの苦い経験を通して、いくら立派な発明でも人々が喜んでくれなければ何の意味もない事を痛感し、その後は周囲の人々の意見や要望をよく聞いてから発明に取り組むようになったという。尚、押しボタン式の投票装置は、エジソンの発明から130年も経った1998年に漸く、日本の参議院に導入された。

・その翌年、エジソンが22歳の時に特許を取得した株式相場表示機は業界から大いに歓迎され、その特許権を譲ってもらいたいという申し出があった。最初、エジソン自身は5000ドルほどで特許権を売るつもりであったが、実際には4万ドル(現在の日本円だと約2億円相当)で買い取られ、エジソンは当初の予想より8倍も高い金額を提示されて、心臓が止まるかと思うほど驚いたという。これが発明王としてのエジソンの人生の本格的なスタートであった。

・エジソンが蓄音機を発明して評判になっていた頃、研究所にジョン・ヴィンセント主教という牧師が現れた。彼は「機械が喋るわけがない。腹話術師でも隠れているのだろうから、いかさまを暴いてやる」と、聖書に登場する難しい人名を立て続けに並べた早口言葉を蓄音機に向かって喋った。しかし、少しの間違いもなく完璧に返答されたので、彼は仰天すると同時にすっかり感心し、エジソンに向かって「あなたに神からの祝福があるように」と言って帰って行ったという。

・エジソンは、発明の為の研究に関しては昼も夜も関係なく、時間を忘れて没頭した。普段の睡眠時間も30分ほどの仮眠を1日数回、合計3時間ほどしか取らず、ほぼ24時間体制と言ってよいスケジュールで仕事を続けていた為、「エジソンの研究所の時計には針がない」とまで噂された程であった。彼は後年、「私の若い頃には、1日8時間労働などというものはなかった。私が仕事を1日8時間に限っていたら、成功は覚束無かった筈だ」と語っている。彼は84歳で死んだが、80歳を過ぎてもなお「私にはまだやらなければならない仕事がある。少なくともあと15年は働かなければならない」と言いながら1日16時間のペースで仕事を続けていた。

・エジソンの発明の独創性については論議の分かれるところであるが、少なくとも彼がいかなる困難も苦痛と思わない強靭な精神力と不屈の信念の持ち主であった事に関しては異論の余地がない。彼が数千種類の実験材料を使って数千回の実験を行い、その全てが失敗に終わっても、彼はこれを決して無駄とは見なさず、「実験の成果はあった。これら数千種類の材料が全て役に立たないという事が分かったのだから」と語っていたという。因みにエジソンが生涯で最も手間と費用をかけた発明は自動車用のアルカリ蓄電池で、エジソンはこれを完成させるまでに5万回を超える実験を繰り返したと語っている。

・前記の通りエジソンの研究所が火事に遭って全焼してしまった時、エジソンは既に67歳の高齢であったが、それでも彼は少しも落胆した様子を見せず、「これで無駄な物はすっかりなくなった。これからまた新たな気持ちで新たな研究を始められる」と言ったという。その他、エジソンは後述の通り聴力に障害があったが、彼自身はこの障害を苦にしていた様子はなく、逆に「周りの雑音に悩まされず研究に集中できるから、かえって好都合だ」と語っていたという。

・このように、いかなる困難や障害も恐れない不屈の信念で発明に取り組んだエジソンであったが、その彼が研究を諦めた発明の1つにヘリコプターがある。エジソンが1880年代に考案したヘリコプターは、火薬の燃焼によってエンジンを動かし、プロペラを回転させて空を飛ぶ仕組みであったが、実験の最中に彼が試作した火薬エンジンが爆発事故を起こしてしまった。幸い死傷者は出なかったが、さすがのエジソンも人命に関わる危険な実験をそれ以上続けるわけにはいかず、彼は不本意ながらヘリコプターの開発を断念する事となった。それはライト兄弟が史上初の動力飛行機を完成させる13年前のことであった。

・エジソンは、ひとつの物事に熱中すると、他の事は完全に忘れてしまうことがたびたびあった。彼が考え事をしていた時、話しかけてきた妻に「君は誰だっけ?」と質問し、妻を怒らせたことがあったという。

・エジソンの助手の一人が電球の容積を算出するために複雑な計算に取り組んでいた時、エジソンは「私なら電球に水を入れて容積を量るよ」と言った。エジソンが学校などで教わる常識の枠にとらわれず、物事を柔軟に思考する実践派の研究者であった事を示すエピソードである。

・エジソンは意外にも大勢の前で演説をする事が苦手で、公の場で演説を求められても極力断っていた。エジソンが晩年にどうしても公の場で演説をしなければならなくなった時、彼は「皆さん、今日はよくおいで下さいました」とだけ言ってすぐに演壇から下りてしまった。この時、エジソンに演説を依頼した関係者達は唖然としていたが、その場に集まっていた大勢の聴衆はエジソンに割れんばかりの拍手を送ったという。

・エジソンの晩年、自動車王のヘンリー・フォードがエジソンを驚かせようとして、エジソンのメンロパーク時代の研究所を忠実に再現した建物を造った事があった。これを見たエジソンは、「99.5%は完璧に再現してある。しかし、私は研究所の中をこんなに綺麗にはしていなかった。それが0.5%の間違いだ」と笑いながら言ったという。


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