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蘊相応 第五十九章

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あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ヴァンサ国にある、
コーサンビーの、ゴーシタ園に止まっていた。
そして、パーリレッヤ村で、このように説いた。

「比丘達よ、まだ、仏の法を知らない者は、
受による接触により、渇愛が生じ無明に陥り、
色が我であると考えて、行に縛られるのである。」

「比丘達よ、無明にしても、渇愛にしても、
因縁により生じている、無常なるものである。
このように見る者は、いずれ煩悩を滅尽できる。」

「比丘達よ、まだ、仏の法を知らない者は、
受による接触により、渇愛が生じ無明に陥り、
受が我であると考えて、行に縛られるのである。」

「比丘達よ、無明にしても、渇愛にしても、
因縁により生じている、無常なるものである。
このように見る者は、いずれ煩悩を滅尽できる。」

「比丘達よ、まだ、仏の法を知らない者は、
受による接触により、渇愛が生じ無明に陥り、
想が我であると考えて、行に縛られるのである。」

「比丘達よ、無明にしても、渇愛にしても、
因縁により生じている、無常なるものである。
このように見る者は、いずれ煩悩を滅尽できる。」

「比丘達よ、まだ、仏の法を知らない者は、
受による接触により、渇愛が生じ無明に陥り、
行が我であると考えて、行に縛られるのである。」

「比丘達よ、無明にしても、渇愛にしても、
因縁により生じている、無常なるものである。
このように見る者は、いずれ煩悩を滅尽できる。」

「比丘達よ、まだ、仏の法を知らない者は、
受による接触により、渇愛が生じ無明に陥り、
識が我であると考えて、行に縛られるのである。」

「比丘達よ、無明にしても、渇愛にしても、
因縁により生じている、無常なるものである。
このように見る者は、いずれ煩悩を滅尽できる。」

「比丘達よ、五蘊について、我が物と見ず、
在りのままに見て、思いのままに見なければ、
正法の究極に至って、いずれ煩悩を滅尽できる。」


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