My Library Home

入菩提行論にゅうぼだいぎょうろん

シャーンティデーバ

仏教書。シャーンティデーバ(8世紀)の著で、悟りへの道を格調高い韻文で表現している。



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章 |  第六章 |  第七章 |  第八章 |  第九章 |  第十章

 

第一章

諸々の仏陀と、諸々の菩薩を、礼拝しつつ、
ここに、聖典に従いながら、菩薩行を説こう。
我が種子と共に、皆の種子が、芽生えるように。

輪廻の中で、人に生まれることは稀である。
人に生まれない限り、解脱する事は出来ない。
ここで解脱しなければ、どこで解脱できようか。

さながら、闇夜を、稲妻が切り裂くように、
仏陀が現れると、人々は法則の光に目覚める。
闇は深く光は短い、菩提が無ければ闇は深まる。

古の偉大な聖者は、何カルパも思索を続け、
衆生を安楽に救い上げる、菩提心を発見した。
自他の安楽を願う者に、菩提の心は欠かせない。

たとえ、輪廻に縛られた、哀れな魂でさえ、
菩提心を持つに至るや、仏陀として尊ばれる。
人々に尊ばれるばかりか、神々からも貴ばれる。

一度、菩提心を持てば、この不浄の身体も、
極妙な霊薬を宿せる、清浄な身体に変わろう。
暗い輪廻に生きる者は、菩提の灯を堅固に保て。

他の善は、実を結んだ後、味を残して逝き、
菩提の善は、実を結んだ後、種を残して行く。
実に、無限に実るものは、菩提の善だけである。

善と悪を越えている、菩提心に依処として、
初めて、大いなる悪が、大いなる善に変わる。
逆境を物ともしない、勇者の如き大徳に変わる。

その昔、弥勒菩薩は、善財童子に説かれた。
菩提心は、宇宙の罪業を、悉く焼き尽くせる、
至上の光であり、それ故に、衆生の宝であると。

要約すれば、菩提心は、二つの段階がある。
前の段は、菩提心を望む、菩提を得る前の心。
後の段とは、菩提心で臨む、菩提を得た後の心。

確かに、菩提心を得ようと考えるだけでも、
この苦界、輪廻の世界に大いなる果報がある。
しかし、菩提心で救うことには、遠く及ばない。

輪廻の大海に臨んで、衆生の済度を望めば、
彼は、菩提心を発して、天の導きに守られる。
これは、如来自らが、善臂問経に説かれている。

衆生を、病苦から解放しても、果報がある。
ましてや、輪廻から解放すれば、如何ほどか。
菩薩の外に、これ程までの大願は、持ち得ない。

これ程の願いは、利己の為にさえ持たない。
それにも拘わらず、利他の為に持とうとする、
菩薩という者は、殊勝な宝にして、衆生の鏡だ。

大きな欲を持たず、仏陀を供養するよりも、
大いなる欲を持って、衆生を済度するといい。
一切の衆生の中に、仏性を見とめられるだろう。

苦しみを避けると、苦しみに向ってしまい、
楽しみを求めるほど、楽しみを破ってしまう。
世の人は、自らの心に、自らの敵を抱えている。

楽しみに煩い、苦しみに悩む、衆生の心に、
楽しみを捨てて、苦しみを断つ、喜びを与え、
菩薩は、何が業で、何が法か、自ずと明らめる。

善行に、善で報いるだけでも、果報がある。
悪行にも、善で報いるときには、如何ほどか。
菩薩は、悪に善で報いながら、徳を積み重ねる。

徳が高い者に、報いた事は、直ぐ酬われる。
善には善で酬いられ、悪には悪で報いられる。
菩薩に悪を報いるなら、地獄で善く酬いられる。

相対の善と悪を越えた、絶対の徳を与える、
輪廻の出口とも言うべき、菩薩を罵るならば、
永遠の時を地獄で彷徨うと、世尊も説いている。

その一方、菩薩に対して、浄信を抱くなら、
衆生の心が、菩提心を通じ、菩薩の心になる。
悪しき業さえ、空の徳を通じ、善い業に変わる。

 

第二章

この宝の心、偉大なる菩提心を得るために、
わたしは、諸々の如来方と、諸々の菩薩方を、
穢れの無い、正しい法をして、正しく供養する。

美しい形、愛しい声、芳しい香、麗しい味。
あらゆる草花、あらゆる果実、あらゆる宝珠。
考えられる、最高の供物を、どうか収め下さい。

仏が求める物を、私は何も持っていません。
私の心は貧しくて、仏が喜ぶ物はありません。
ですから、慈悲の心から、供物を受けて下さい。

私に出来る最高の供養は、私を捧げること。
世尊よ、どうか、わたしを受け容れて下さい。
熱烈な信愛をして、召使いは熱心に奉仕しよう。

世尊よ、あなたに、受け容れられたならば、
この、苦界にあって、私に恐れるものはない。
まさに、私が導かれたよう、他を誘いましょう。

四柱は金銀で輝いて、天蓋は宝石で耀いて、
敷石が水晶で煌く、浴室に世尊をお連れする。
体を洗い、その上に、最上の衣服をお着せする。

普賢菩薩、弥勒菩薩、文殊菩薩、観音菩薩。
私は、最上の香料を以って、彼らの身を飾り、
彼らの前に恭しく跪いて、極妙の飲食を供える。

また、黄金の蓮華に、真珠の灯明を供えて、
香料を塗った床の上に、美しい花束を並べる。
そこに、讃美の曲が流れ、賛美の歌が謳われる。

全ての菩薩の依処を、わたしは崇拝しよう。
恰かも、菩薩方が、如来方を供養するように、
わたしも、如来方と、菩薩方を供養し続けよう。

そして、この私が、覚醒の境地に至るまで、
私は、仏陀に帰依しよう、法則に帰依しよう。
そして、菩薩の依処である、僧伽に帰依しよう。

如来方と菩薩方に、告白しないとならない。
無始の輪廻に於いて、私は悪因を積み続けた。
未来に襲う悪果を恐れ、私は、ここに告白する。

私は無智なるが故に、身と口と心に於いて、
三宝に対して、父母に対して、導師に対して、
無始の過去から、今生まで数々の悪業を為した。

どうして、わたしが、罪悪から免れようか。
罪を、私が滅するまで、私が死なないように、
導師よ、どうか速やかに、我が身を護り下さい。

天命を、果し終えたか、果し終えてないか。
何ら省みることなく、死は、命を奪っていく。
師よ、天の命を果すまで、我が命を護り下さい。

私は、愛しい者のため、憎らしい者のため、
いずれ、死を以って、離れていく事を忘れて、
彼らに捕らわれる余り、多大なる悪業を為した。

やがて、好きな物も消え、嫌いな者も消え、
夢でも見ていたかのように、忘れられていく。
一方で、犯した罪だけが、歴然として残される。

私は、この世に、客として来ただけだった。
何も持たず生まれ、何も持たずに死んでいく。
貪瞋痴に翻弄された、忌わしい記憶のみ抱えて。

昼夜を問わず、与えられた命は減り続ける。
どうして、死なない事が、有り得るだろうか。
さらに、死に際しては、誰も助けてはくれない。

閻魔の使いが来ても、親戚は助けられない。
助けてくれるのは、積み重ねた善業だけだが、
無智なるが故に、私は善業を積んで来なかった。

四方から地獄の獄卒が、私に近づいて来る。
訴え掛けるような涙目で、地獄を見渡しても、
慈悲の笑みなく、あるのは、醜悪な笑みばかり。

恐怖の炎に焼かれて、冷酷な氷に凍てつく。
手や足が切り落されて、耳や鼻が崩れ落ちる。
すべてが明かになり、すべてを諦めさせられる。

私を救う物を、私は何も持ち得てなかった。
私が信じた者は、私を救っては呉れなかった。
一切を諦めた私は、一切を捧げて仏陀に帰する。

獄卒も逃げ出す、持金剛、ヴァジラダラよ!
行の菩薩である普賢、智の菩薩である文殊よ!
ああ、観音菩薩よ、地蔵菩薩よ、虚空蔵菩薩よ!

これまで、私は、彼方の法に背いて来たが、
それが、如何に畏れ多い事か、漸く分かった。
全てを捧げます、この恐怖、全てを奪いたまえ。

一時の病苦にも、人は医師の言葉を信じる。
永遠の責苦に、どうして信じない事があろう。
この獄の苦しみ、人は必ず仏陀の言葉を信じる。

人生の窮地にも、人は教師の言葉を信じる。
輪廻の窮境に、どうして信じない事があろう。
この苦悩の極み、人は必ず真理の言葉を信じる。

この次の瞬間にも、私は死ぬかも知れない。
終わりは必ず来るが、その時は認められない。
生き続ける保証はなく、怠け続ける道理はない。

我が楽に囚われると、我が苦に捕らわれる。
死に於いて我を失えば、我が楽も苦も消える。
この道に背きながら、如何なる楽が得られよう。

楽に囚われ、悪を行えば、苦に捕らわれる。
楽に捕われず、善を行えば、苦に囚われない。
生きながら、我を越えるには、善を積むことだ。

仏陀は、我を越える、正しい道を説かれた。
私は、生ある限り、悪を断じて、善を積もう。
この道を越えた処に、罪業のない、空が現れる。

それゆえ、私は、呵責を以って懺悔をする。
二度と、同じような、不善を繰り返しません。
我が導師よ、我が諸々の罪業を、受け取り給え。

 

第三章

悪に苦しむ者が、悪を清める、浄善の道を、
私は喜び称えよう、苦しめる者に、安楽あれ。
すべての衆生が、この輪廻を解脱しますように。

輪廻の終焉に導く、仏陀の境地を称賛する。
衆生に利益を与える、菩薩の慈悲に歓喜する。
輪廻を浮沈する衆生に、真理の灯明を与え給え。

私は、涅槃に安らげる、覚者方に懇願する。
どうか、無限の時を、この輪廻に止まられて、
この世が、無間の闇に、呑まれること無きよう。

わたしが、悪を捨てて、善を積んだように、
他の人々も、悪を断って、善を重ねるように。
私が得た善は、すべて、それに使えますように。

私は、病んだ人にとって、癒す者で在りたい。
私は、飢えた人にとって、食べ物で在りたい。
私は、渇いた人にとって、飲み物で在りたい。
私は、貧しい人にとって、施す者で在りたい。

すべての衆生に、最上の利益を与えるため、
過去、現在、未来に積んだ、すべての善業を、
私の身と口と意を添えて、他の為に投げ出そう。

そして、一切の善業は、一元の功徳となる。
もとより、涅槃とは、一切を投げ捨てること。
全てを捨て去るのなら、他に与えない手はない。

私の全ての物を、他の者に与えてしまった。
私を、罵るも良し、侮るも良し、弄ぶも良し。
私という者が無いのに、どうして、患うだろう。

彼らの為に、私に災いが起こるのはいいが、
私の為に、彼らに災いが起こってはならない。
彼らの災いは、私の災いに換えて、降り懸かれ。

もし、私をして、彼らに悪い因が生じたら、
その悪い果は、悪業を改める、善い因となれ。
悪が善になれば、善が徳になる、空に目覚めよ。

私は、寄る辺なき者の、寄る辺で在りたい。
彼岸に至ろうとする者の、橋や船で在りたい。
望まれる物に臨めるような、奉仕者で在りたい。

空の中に現れる、地、水、火、風のように、
生きとし生ける者、すべてが涅槃に至るまで、
私は、輪廻に現れる、他を利する物で在りたい。

往昔の聖者が、菩提の心を受持したように、
昔日の賢者方が、菩薩の戒を遵守したように、
衆生の至福のため、この私も菩提心を起こそう。

この日を以って、私は、仏陀の家に生まれ、
この時を向かえて、私は、仏陀の子と成った。
こうして、私の人間の生は、代え難い命を得た。

この身は正しいか、この心は汚れてないか。
穢れなき家にあって、穢れた者とならぬよう、
これからは、よくよく、省みなければならない。

塵芥の中から、盲人が宝石を見とめるよう、
私は、幸運にも、貴い菩提心を見つけられた。
これは、不死の霊薬であり、不滅の財宝である。

楽しみを求める故に、苦しみに迷える者に、
唯一、休むことを許された、法の大樹である。
彼らが、休んでいる間に、彼らを仏陀に誘おう。

 

第四章

菩薩は、菩提心を堅持し、弛まず精進せよ。
急に決めたことは、出来なくても仕方が無い。
しかし、仏陀が極めたことは、そうはいかない。

長い輪廻を掛け、仏陀が究められたことを、
一旦、やろうと決めて、やらなかったならば、
きっと、輪廻の隅々まで、究めないとならない。

一旦、与ようとしたのに、与えなかったら、
餓鬼の世界に落ちると、仏陀は説かれている。
ましてや、一切の衆生を裏切れば、どうなるか。

業の理法を知る者は、悪しきカルマをして、
衆生を解脱に至らせる、善なるダルマとする。
善人でも、悪人でも、仏陀に導けない者はない。

とはいえ、縁なき衆生は、仏でも救い難い。
自らが救うはずの者を、自らが救わないなら、
彼は、誰によっても、救われなくなってしまう。

それゆえ、菩薩が犯した罪は、重大である。
菩薩自身が、地獄の闇に落ちるだけではなく、
彼の縁者まで、輪廻の底に堕ちてしまうだろう。

独りの衆生の得を奪っても、害があるのに、
全ての衆生の徳を奪えば、どれほどだろうか。
菩薩独りを害す罪は、衆生全てを害すに等しい。

輪廻を続け、カルマに疲れる、衆生こそが、
転生を続けて、ダルマに仕える、菩薩である。
それゆえ、決めたことは、極めないとならない。

過去にも無数の仏陀が、この世に現れたが、
私は自らの罪ゆえに、道から外れてしまった。
罪を改めない限り、苦しみの輪廻は続くだろう。

人に生まれて、罪を清める機会を得たこと。
この機を逃せば、今度は、いつ巡り合えるか。
この身体を失って、今度は、いつ借り受けるか。

いま清められないで、いつ改められるのか。
これより楽しい世界で、罪を認められようか。
これよりも苦しい世界で、仏を称えられようか。

それゆえ、人の生は得難いと、仏陀は説く。
百年に一度、息を吸いに現れる、盲目の亀が、
大海に浮かぶ軛の穴に、首を出す確率に等しい。

一瞬で犯した罪に、一劫を苦しむ獄が待つ。
たとえ、一時の期間、善趣を得られたとして、
一劫の悪趣を得るなら、天界を喜べるだろうか。

罰に苦しむばかりでは、罪は清められない。
悪しき果に苦しむあまり、悪い因を作るため、
悪しき業に耐えることなく、悪い業が絶えない。

人に生まれながら、人を越えようとしない。
これに勝る罪はなく、これに優る欺瞞はない。
閻魔の使いが来たとき、初めて、それに気づく。

耐え難い地獄の炎は、我が身を焼くだろう。
堪らえ難い後悔の念は、我が心を焦すだろう。
この時ばかりは、愚痴なる私の頭も鮮明になる。

地上に息を吸いに来て、地に連れ戻される。
何かに憑かれたかの如く、これを見とめない。
誰が私を惑わせるのか、私が私を惑わせるのか。

愛着と憎悪は、手も足もなく智も力もない。
にもかかわらず、わたしを奴隷にしてしまう。
ああ、奴隷に落とされ喜ぶ、狂った我が忍辱よ。

たとえ、神でさえ、私を自由には操れない。
にもかかわらず、煩悩なら私を自由に操れる。
奴は、一瞬にして、私を地獄の底辺まで落とす。

見える仇敵には、寿命があり、限界がある。
見えない煩悩には、天命がなく、限度がない。
そんな奴に仕えた日には、永遠に疲れてしまう。

憑かれたように仕え、疲れるために支える。
あらゆる苦しみは、気が痞えるために起こる。
それを知ったら、どうして煩悩を喜べるだろう。

あらゆる病気の因、煩悩を打ち砕くまでは、
わたしは、どうして、正気に戻れるだろうか。
煩悩を打ち壊す夢から、覚める訳にはいかない。

これから、一切の苦悩の原因を断じるのに、
百の苦悩が現れたとして、どうして諦めよう。
それぐらい、討ち取った勲章として付けてやる。

人々も、日々の糧のために、忍耐している。
どうして、永遠の命のために、忍辱できない。
たとえ、煩悩が落ちようと、煩悩を断ってやる。

私は、これから、煩悩の殲滅に取り掛ろう。
煩悩を滅ぼすまで、ここから一歩も退くまい。
腹が裂けようと、腸が毀れようと、構うものか。

外の仇との戦いは、逃げることが出来るが、
内なる敵との闘いは、逃げることが出来ない。
一旦、火蓋を切ったら、一方が滅びるまで続く。

私には逃げ場はなく、奴には逃げ場がある。
奴らが逃げ込む処とは、我らが心の闇である。
無智の心に付け込み、無尽に煩悩は殖えて行く。

とはいえ、結局の処は、私の心の中である。
自ら智慧の光を当てれば、無智の闇は消える。
しかし、当てようとしない、だから無智なのだ。

一旦、当ててしまえば、無いことに気づく。
つまり、煩悩という敵は、自らが描いた幻想。
地獄に落ちて苦しむのさえ、自業の自得である。

恐れるな、認めよ、見とめれば消えていく。
見とめなければ、認められるよう殖えていく。
罪に苛まれるのも、業を喜んでいるに過ぎない。

以上のように、堅固に決意して、わたしは、
仏陀が説いた法を、完全に修めるために励む。
眠っている者は、覚めている者を、見るべきだ。

 

第五章

戒を守りたいならば、心を護るべきである。
心が動いているかぎり、戒は破られてしまう。
放置されている心は、野生化した象に似ている。

発情した象を縛るには、縄が必要なように、
興奮した心を静めるには、念が不可欠である。
心の象を戒律で縛れば、心の中に平安が訪れる。

虎、獅子、象、熊、蛇、獄卒、鬼女、羅刹。
全ての敵は、心さえ縛れれば、全て縛られる。
なぜなら、敵と感じているのは、私の心だから。

心が敵と感じないで、何を敵と観じるのか。
善と悪を別つ心が、悪い者を作り出している。
悶え苦しむ地獄さえ、自ら描いたと仏陀は説く。

例えば、布施の完成という、段階があるが、
心から与えられることを、完成と考えないと、
あらゆる貧困が消えるまで、完成とは言えない。

例えば、持戒の完成という、段階があるが、
心が捕らわれないことを、完成と考えないと、
今度は戒に囚われてしまい、完成には至れない。

例えば、忍辱の完成という、段階があるが、
心が揺れなくなることを、完成と考えないと、
あらゆる災難が消えるまで、完成とは言えない。

布で覆うべきは、大地の方か、裸足の方か。
足を覆う、布を求めてこそ、現実に足が付く。
大地を救う法を探しても、掬われるだけである。

同様に、外を征するより、内を制するべき。
外を征する、法を求めても、業に変わるのみ。
内を制す、ダルマを求めると、カルマは消える。

心が鋭ければ、梵我一如の境地に至れるが、
心が鈍いならば、たとえ、身と口を従えても、
身と口と心に別れて、梵と我は分かれてしまう。

人は、身や口では、楽しみを求めているが、
無自覚な心において、苦しみを求めてしまう。
これこそ苦の因である、どうして楽になれよう。

だからこそ、目先や口先だけの楽を求めず、
心の奥底から、大楽を求めなければならない。
それは苦しいだろう、それは求めてないからだ。

それゆえ、よくよく明らめないとならない。
何を望んでいるか、心が、何に臨んでいるか。
半端に明らめるなら、中途で諦めるだけである。

そこで、口だけの誓約が、何の役に立つか。
言葉が通じない族に対して、話が通じるのか。
話し掛けて、傷を負うよりは、心を護るべきだ。

嫌いな人々の中でも、好きな人々の中でも、
修行者は、いつも、心に隙が無いか確かめる。
小さな隙も、好き嫌いの中で、大きな傷になる。

欲するままに膨れて、欲するままに潰える。
心の欲が大きくなると、心の傷は大きくなる。
正しい心だけ残して、邪なる欲は滅びてしまえ。

正しい心を守って、正念と正智を願う者に、
私は、心から合掌し、心から称賛するだろう。
それが、正しい智をして、正しく念じることだ。

正しい智が無ければ、正しい念は止まらず、
何を考えても、何を言っても、何を行っても、
瓶の穴から、水が漏れるように、流れてしまう。

たとえ、ダルマを以ても、カルマに穢れる。
正智が無ければ、盗賊に入られた様なものだ。
積んだ物は、善でも、徳でも、悪に変えられる。

それゆえ、いつも心を守らないとならない。
盗賊に入られないように、正しく心を念じる。
思わず、念が外に泳いだら、直ぐ内に向わせる。

幸い、正しい師を選べた者は、幸いである。
正しい師に近づくほど、正しい念に近くなる。
正しい智に、見える形で、近づくことが出来る。

いつも、諸々の仏陀は、遍くを見ておられ、
わたしは、いつも、仏の目の前に控えている。
このように念じれば、少しずつ念が正しくなる。

仏陀の眼前で、果たして悪事を働けようか。
まず、こうして、内を守らなければならない。
そして、そこから、外を離れなければならない。

何が見えているのか、何が聞えているのか。
良く心を見つめて、感官に流されないように。
上を見るにせよ、下を見るにせよ、意識し行え。

そして、正しく念じて、正しく行えたのか。
行おうとする前、行っている中、行った後に、
自らの所作を、良く振り返らなければならない。

心の狂える象は、法の正しい念に縛り付け、
柱から離れないように、見張らねばならない。
一瞬たりとも、心が遊ばないように念じなさい。

しかし、ダルマも過ぎれば、カルマになる。
戒に囚われないよう、自由に振る舞いながら、
それを忘れないように、常に意識し続けなさい。

このことを、決意を以って遣り始めたなら、
他のこと、すべてに優先して完成させなさい。
自由に隠れる無自覚ほど、質の悪いものはない。

外に対する興味は、断たなければならない。
世間の無用な慣習も、離れなければならない。
心に生じたものを、常に認めなければならない。

愛著に囚われたり、憎悪に捕われたならば、
それを考えず、それを言わず、それを行わず、
あたかも、木の如く、静かに止まるべきである。

他の者を嘲笑したり、別の人を軽蔑したり、
名を求めたり、利を求めたり、力を求めたり、
そういうときは、木の如く、自らを処しなさい。

他の者を減らしたり、我が物を増やしたり、
怠慢で傲慢、険悪で偏愛、臆病で饒舌である。
そういうときは、木の如く、自らを処しなさい。

心が右の方に傾けば、心を左の法に向かせ、
心が、いつも、中央に止まるようにしなさい。
憎悪に対しては慈愛を、嫉妬に対しては称賛を。

煩悩という矛盾に悩める、衆生という病人、
彼らに慈悲の心を持ち、自らの煩悩を越える。
利他に囚われ利己を越える、最高の自利である。

どうして、不浄の身体を、清浄と見るのか。
醜くなって、壊れるものを、何故に守るのか。
護れないものを守るより、守れるものから護れ。

思念の力を用い、我が身の皮膚を切り裂け。
智慧の力を用いて、我が実の筋骨を打ち壊せ。
その中に、本質が隠れているか、よく確かめよ。

身体は、本質ではない、ただの道具である。
勝手に来て、勝手に去る、ただの召使である。
体は、ただ心のために、よく従がわせればいい。

来る時は乗って来て、帰る時は越えて往く。
喩えるならば、体とは、心を乗せる船である。
自と他を利するため、思うままに、乗りこなせ。

眉間を顰めて、笑顔を絶やしてはならない。
他を利する行を、他の者に見せてはならない。
人知れず行を修め、外で騒ぎ立ててはならない。

万人の弟子となって、善き処を探しなさい。
自らが他を誉める時は、その事を隠しなさい。
周りが自らを褒める時は、その事を誉めなさい。

自らの善を喜べば、その善は漏れてしまう。
周りの善を喜ぶなら、その善を積めてしまう。
無尽の善、絶対の楽のため、他の者を称賛せよ。

他の善を奪うなら、奪った善は悪に変わる。
他に善を与えるなら、与えた善は徳に変わる。
無限の空、究極の徳のため、他の者に奉仕せよ。

邪な言を騙るなら、解いた法は業に変わる。
正しい言を語るなら、説いた法は空に変わる。
無我の法、一元の空のため、他の者に法施せよ。

利他に囚われると、利己に捕われなくなる。
つまり、究極の自利とは、利他に他ならない。
衆生が居なければ、菩薩も居ないと、熟考せよ。

最も良い物とは、善と悪を越えた処にある。
最も善い物の為にも、最も悪い物を見とめよ。
汝を愛する者を愛して、汝を害する者を愛せよ。

自らの業は自ら得よ、他に頼らず自ら行え。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の徹底。
この六つの波羅蜜は、後のものほど優れている。

他の行のために、これを捨ててはならない。
このように意識し、他を利する菩薩行に励め。
慈悲や利他の為には、世間の禁忌も認められる。

他の事に奪われ、他に与える物を減らすな。
他の者に分け与え、残された物で満ち足りよ。
慈悲ある天命に尽くし、慈悲なき生命を避けよ。

法を業に解する者に、法を解くべきでなく、
法に業を介さない者に、法を説くべきである。
ダルマも囚われるならば、カルマに捕らわれる。

利他を進む者には、利己の教えは要らない。
利他の法を捨てるなら、利己の方から捨てよ。
他に与える者から与えよ、他を奪う者から奪え。

衆生が望むことをする、それは善業になり、
世尊が求めることをする、それは功徳になる。
菩薩は、カルマを見究めて、ダルマを見極めよ。

身と口と意、その中で、心の法を優先せよ。
善業を歓喜し、悪業を懺悔し、菩提を回向し、
仏陀を帰依して、無自覚な罪が浄化されていく。

無学に至って、学を修められない法はない。
涅槃に安住する、仏陀の境地に達したならば、
衆生の済度のため、涅槃すら回向すべきである。

徳生童子解脱法門から、師に対する態度を、
虚空蔵経から、根本の罪過を、修学すべきだ。
竜樹菩薩の著作、私の他の著作も、参考にせよ。

正智とは、いつも、身と心を見とめること。
病める人に、本を読ませても、病は治らない。
心に身が伴わなければ、読んだ事にはならない。

 

第六章

数劫の間、積み上げた業は、一度の憤怒で、
刹那の間に、善業から悪業に、変ってしまう。
それゆえ、忍辱の徹底に、努めないとならない。

怒りという矢が、心に刺さっている限りは、
心は平安にならず、楽にならず、定まらない。
自らが嫌いになるだけでなく、他も嫌いになる。

欲していることが、起こってくれないこと。
欲していないことが、起こされてしまうこと。
この二つの事から、心に憂いと悩みが生まれる。

起こるか、起こらないか、私には選べない。
欲するのか、欲しないのか、選ぶ我を消して、
初めて心から、憂いと悩みを、消す事が出来る。

何が起きても喜べれば、全てが良く見える。
悩まないで良くなるなら、悩むだけ損であり、
悩んでも良くならないなら、悩むのは愚である。

私が愛する者が、消えてしまうのは悲しく、
私を苦しめる者が、消えてしまうのは嬉しい。
苦しむほど、苦を越えられるから、私は嬉しい。

苦悩を越えるために、苦行に励む者が居る。
確かに、良く耐えるが、苦行で苦は消えない。
苦しみを楽しむため、苦しみに囚われてしまう。

苦しみを楽しんでも、苦しみは大きくなり、
苦しみを避けていても、苦しみは大きくなる。
日常の困難を避けず、良い機会と喜んで越えよ。

己の血を見るほど、心の強い者は奮い立ち、
他の血を見るだけで、心の弱い者は泣き喚く。
苦に挫けない者となれ、禍に怯まない者となれ。

煩悩に流されると、苦しみが隠されて行き、
煩悩に流されないと、苦しみが現われて来る。
賢い者は、苦しみが増えることを、平然と喜ぶ。

苦と闘う者は、増えた後から、減って行く。
苦を避ける者は、減った後から、増えて来る。
苦を負って勝てる者か、楽を追って負ける者か。

楽により傲慢になり、苦により謙虚になる。
苦により、他に慈悲が湧き、仏に信心が沸く。
苦しみには、負の面もあれば、正なる面もある。

心の無い物に害されると、怒りは生じ難く、
心の有る者から害されると、怒りが生じ易い。
どちらも、縁起に拠って、生まれるだけなのに。

自らの因と考えず、他の因と考えるときに、
自らが認めない、意識の闇から怒りが生じる。
即ち、あらゆる感情は、無意識から生じている。

無意識に内に抱えると、感情に溺れていき、
意識的に外に捉えるとき、感情を離れていく。
怒っていると考えつつ、怒ることなど出来ない。

無意識には、過去の因縁が、根付いている。
意識が動くと、因縁が生じて、感情が起こる。
あらゆる罪業は、因縁で作られ、独立し得ない。

アートマン、即ち、主体が生じるからこそ、
プラクリティ、即ち、客体が生じるのである。
両者は共に、独立に存在せず、双方に依存する。

このように、一切の存在は、独立し得ない。
怒りは、怒りと感じるからこそ、怒りになる。
受け止めてやらないで、湧き上がるわけがない。

それゆえ、誰かが気に入らない事をしても、
彼に因を見ることなく、自らに因を見とめよ。
自らの因とするなら、自ずから縁を変えられる。

願っただけで適うならば、誰も苦しむまい。
適わないものを願うからこそ、怒りが生じる。
世の人は、怒りから身を滅ぼし、自ら死を選ぶ。

自らを殺める者が、他を危めない事はない。
自らを愛するあまり、他を危めて己を殺める。
どうして、彼らを怒り、自らを危められるのか。

衆生の本性が、互いに汚し合うことならば、
どうして、傷つけ合うなと、怒れるだろうか。
それは、火に焼くなと、言うようなものである。

衆生の本性が、互いに浄め合うことならば、
どうして、苦しめ合うなと、怒れるだろうか。
それは、学び合うなと、言うようなものである。

どうして、杖で殴られたら、杖に怒らない。
その背景にある、殴った者に、怒るのならば、
どうして、その背景にある、怒りに怒らないか。

自らが殴ったから、他に殴られるのである。
どうして、他に怒らずに、自らを叱らないか。
他に怒っているかぎり、他に殴られるのである。

例えば、我が身を、敵に刀で切られる場合、
敵が刀を捕えなければ、苦しみは生じないし、
私が体に囚われなくても、苦しみは現われない。

敵に怒るかぎり、敵は刀を捕えるだろうが、
私が怒らなければ、私は体に囚われなくなる。
どちらが楽になるか、苦しまないと分からない。

自ずから生じる苦しみは、自らに因がある。
苦しませるなと、怒り狂い、苦しませるのは、
他人ではなく、自分であると、知るべきである。

私に悪業があるから、前に悪人が現われる。
私を害した悪人は、悪業を積み地獄に落ちる。
地獄に落とした私は、悪人の中の悪人でないか。

彼らは、悪業を積んで、地獄に落ちていく。
わたしは、悪業が落ちて、天界に昇っていく。
天界に導いた彼らは、善人の中の善人でないか。

叱るべきは、地獄に落とした、私であって、
称えるべきは、天界に至らせた、彼らである。
それなのに、恩人に怒るとは、筋が違っている。

もし、私が、彼らに対して、憎悪をしたら、
彼らは、私を危めた、悪を積んだことになり、
私は、悪に悪で報いる、悪を積んだことになる。

もし、私が、彼らに対して、感謝をしたら、
彼らは、天に導いた、善を積んだことになり、
私は、悪を善に変える、徳を積んだことになる。

本来、身を傷つけられても、心は痛まない。
しかし、身に囚われると、心が痛んでしまう。
これと同じことが、言葉と心の関係でも言える。

怒った悪しき業は、すべて根づいてしまう。
持って行きたい物は、死を境に奪われるのに、
捨てて行きたい悪業は、死を越えて着いて来る。

それゆえ、死んでも、死んだ所から始まる。
死んでも終わらないし、逃げても増えるだけ。
苦に耐えて、悪を落して、善に変えるしかない。

どんなに長い時も、過ぎ去れば一瞬である。
長く生きようと、短く生きようと、夢である。
夢から覚めたとき、夢に現われた物は残らない。

たとえ、多くの利を得、長い楽を受けても、
盗みに遭ったように、死を境に消えてしまう。
私は世界に、裸で遣って来て、裸で去って行く。

確かに、生きるためには、財は欠かせない。
それでも、生きていくのは、修行の為である。
財のために、行を怠るならば、本末転倒である。

確かに、生きるかぎりは、他を損ねている。
それでも、生きていくのは、利他の為である。
己のために、他を損ねるのは、自己矛盾である。

例えば、不義を見て、義憤を抱く者がいる。
どうして、己の不義に、義憤を抱かないのか。
彼らは、大義の旗の下に、私怨を隠そうとする。

たとえ、ダルマを、冒涜する者が現れても、
彼らに怒りを持つのは、順逆が逆転している。
ダルマは、外から汚されない、内から穢される。

心が無い物と心が有る者、苦を感じるのは、
心の有る者だけで、心の中に苦が生じている。
そして、意志が有る者だけが、苦に耐えられる。

他を苦しめる者は、悪業を繰り返している。
他に悩まされる者は、悪業が跳ね返っている。
どちらも業に操られた、哀れむべき衆生である。

片方が悪いのでも、両方が悪いのでもない。
善と悪を積んだ心が、善し悪しを決めている。
こうして悟って、私は、慈悲を以って徳を重む。

家に火が点いたら、慌てて火を消すように、
心に怒りが憑いたら、直ぐに火を消すべきだ。
放って置けば、善業の体が悪業に焦げてしまう。

手を切るだけで、命を落さないで済むなら、
どうして、手を落とすことに、悩むだろうか。
次第に、毒は全身を巡って、苦しみは強くなる。

私は怒りの為に、数千回も地獄に落ちたが、
己の利にもならず、他の利にもならなかった。
ただ、それゆえ、ひとつだけ学べたことがある。

この世の苦しみは、実に大したことがない。
少しの苦しみに耐え、大いなる苦しみを消す。
地獄に落ちてみないと、この真の理を喜べない。

他者と争う喜びは、有限の奪い合いになり、
他者を称える喜びは、無限の与え合いになる。
この喜びは、仏陀も喜ばれる、至上の宝である。

他が優れていることを、心から喜ぶならば、
まず、周りに見える形で、外に見とめ喜べて、
さらに、自らに具わる形で、内に認めて喜べる。

およそ、あらゆる人の喜びは、願えるのに、
どうして、ある人の喜びは、願がえないのか。
個に捉えてしまうと、差に囚われるというのか。

およそ、あらゆる仏の喜びは、願えるのに、
どうして、ある王の喜びは、願がえないのか。
近くに見とめると、却って認めないというのか。

およそ、あらゆる子の喜びは、願えるのに、
どうして、ある師の喜びは、願がえないのか。
下なら可愛いが、上なら可愛くないというのか。

どうして、自らが積んだ悪を悲しまないで、
あろう事か、周りが積んだ善を悲しがるのか。
醜い嫉妬心は、他の善を以って我が悪に変える。

いくら、呪ってみても、彼に因が無ければ、
彼は呪われないのに、自らが呪われてしまう。
というのも、因が生じるのは、自らの方だから。

他を嫉む心は、釣り餌のようなものである。
他を差し置いて、我先に口の中に入れた者が、
他の者に代わって、地獄の釜で煮られてしまう。

自ら名誉を誇って、寿命が延びるだろうか。
他から尊敬を集めて、功徳が満ちるだろうか。
称賛を浴びた処で、酒を浴びせられるに等しい。

人は、名誉の為には、命さえも投げ捨てる。
しかし、死んだ後から、名誉を楽しめようか。
誰の為の名誉なのか、失わないと分からないか。

言われた語が称賛か、書かれた字が称賛か。
称賛とは、称賛する人の、清い心ではないか。
称賛は、受けた人ではなく、為した人のものだ。

称賛を享けると、人は輪廻に誘われていき、
誹謗を受けるほど、人は解脱に導かれていく。
私を中傷するものに、どうして怒りを持とうか。

忍辱の徹底ほど、格好の苦行は有り得ない。
どうして、絶好の機会を与えてくれるものに、
怒りが湧くだろうか、機を逃すのは怒りである。

通常は、攻めないかぎり、責めてくれない。
こちらが、悪を積まなくても、怒ってくれる、
そんな、不条理な怒りほど、歓迎すべきである。

忍辱は、責めてくれないと、耐えられない。
まず、責めた人は、悪を積んで、徳を積める。
そして、耐えた人は、悪を落して、善を積める。

敵に害意が有るから、私の忍辱になるのに、
敵に害意が無いならば、私の修行にならない。
弟子を思いながら、師が叱るのとは、訳が違う。

菩薩は、仏陀からも学び、衆生からも学ぶ。
なぜなら、彼らは、等しく至福の源泉であり、
仏陀と同様、衆生も、仏性を有するからである。

一方で、仏陀と衆生は、全く同じではない。
全て尊い仏陀に、全て奉げれば、徳が積める。
一部が貴い衆生の、善を称えれば、善が積める。

それ故、衆生の最も善い所を、見つけ出す。
それには、忍辱の行をして、最も悪しき業を、
私の目を覚ましてくれる、最も善き業に変える。

こうして、忍辱をして、悪を善に変えると、
最も善い業となって、徳を積んだことになる。
即ち、仏性を称えると、仏陀に並ぶ果報を得る。

また、このことは、以下のようにも言える。
天意に従って、仏陀を利すると、徳を積める。
民意に従がって、衆生を利すると、善を積める。

仏陀は、衆生を利することを、望んでいる。
真に、衆生を利したとき、仏陀を利している。
それ故、衆生を救うと、仏陀に並ぶ功徳を得る。

私の主である仏陀方は、衆生の済度のため、
愛する子供のために、地獄にも生まれ変わる。
どうして、主の召使が、主の子を見捨てようか。

衆生の苦悩は、苦悩なき仏陀の苦悩である。
いかなる愛欲でも、地獄では喜べないように、
輪廻に衆生が居れば、仏陀は涅槃に安らげない。

過去に、衆生を苦しませ、仏陀を苦しめた。
私は、これを心から悔いて、全霊で奉仕する。
仏陀よ、私を遣い給え、衆生よ、私を使い給え。

宇宙に広がっている、仏陀に仕えることは、
仏性を有している、衆生に使えることである。
隠れた物に仕えても、現れた者には使えないか。

衆生を利すことは、仏陀を利すことであり、
他の苦を消すことは、自らの苦が消えること、
私の修行の完成であり、私の渾身の誓願である。

あたかも、王の息子には、逆らえないよう、
決して、仏陀の子供を、軽んじてはならない。
王子に仕えるように、衆生に尽さねばならない。

衆生を害す報いは、閻魔が怒る比ではなく、
衆生を利する酬いは、大王が喜ぶ比ではない。
耐え難きに耐え忍んでこそ、至上の安楽に至る。

 

第七章

忍辱の波羅蜜の次に、精進の波羅蜜に至る。
あたかも、風が吹かずに、旗が揺れないよう、
精進の風が無いところ、覚醒の旗は翻えらない。

精進の徹底とは、善行に対する努力である。
善因を積むことで、善業を増やすことであり、
悪果に耐えることで、悪業を減らすことである。

苦しみを忘れると、楽しみを求めてしまう。
そこから、怠惰が生じて、精進が消えていく。
無智ゆえに、輪廻を楽しみ、生死を忘れていく。

さながら、罠に捕まった、獲物ではないか。
猟師が仕掛けた、人生の網に捕まってしまい、
知らない間に、死に神の口の中に放り込まれる。

さながら、屠殺場にいる、畜生ではないか。
次から次に、周りの仲間が殺されていくのに、
自らが殺されることを忘れ、惰眠を貪っている。

こうして、人々は、閻魔に監視されている。
この状況の、何処に、食の喜びがあるだろう。
死を慰め合う、何処に、恋の喜びがあるだろう。

死は刻一刻と迫り、機が熟すと襲い掛かる。
しかし、襲われた後で、汝に何が出来ようか。
閻魔の前で、泣き叫んで、糞尿を漏らすだけだ。

熱湯を浴びただけで、火傷を負ってしまう。
まして、地獄に落ちたら、どうなるだろうか。
それを思えば、堕落に耽って居られるだろうか。

励むことなく望む者よ、儚く苦に弱い者よ。
刻一刻、死に向いながら、死を認めない者よ。
ああ、不幸な者よ、汝らは、自滅の道を進むか。

人間という得難い船を、一度、得たならば、
寸暇を惜しみ奮闘し、苦悩の大海を渡り切れ。
愚かな者よ、この生は、惰眠を貪る時ではない。

妙法から生まれる喜び、無限の楽を喜ばず、
どうして、苦の因である、有限の楽を喜ぶか。
自己の統御、自他の変換は、怠惰を討ち払らう。

愚かな人間に生まれたと、悩むことはない。
仏陀でさえ、過去には、悪趣に生まれていた。
不断の精進に拠れば、最上の覚醒が与えられる。

確かに、仏陀は、過酷な行を修めて来たが、
それに怯んで、行を修めないのは転倒である。
獄卒に励まされながら、精進に励むというのか。

精進の苦しみとは、矢を抜く苦しみである。
それは限られていて、逃げるほど苦しくなる。
覚悟し抜いてしまえば、逆に、心地良いものだ。

多くを苦しむより、少しを苦しむ方がいい。
医師は、苦い薬を施して、病の苦を取り除く。
最良の医師である、仏陀は、これを適切に行う。

はじめは、財を布施する事から始めさせて、
ゆっくりと、体を布施する事まで究めさせる。
財産も身体も、等しく見えるなら、問題はない。

無智に覆われると、善と悪の分別が生じる。
智慧が現われて、善悪を越えて徳に変えると、
すべてが良くなり、好き嫌いの憂いがなくなる。

徳により身が楽しく、智により心が楽しい。
我が業を乗り越え、ただ、他を利するために、
生まれ変わる菩薩が、なぜ、煩う事があろうか。

煩悩を諦める道を進む、小乗の声聞よりも、
菩提を明らめる道を進む、大乗の菩薩の方が、
功徳と智慧が生じる分だけ、行が速やかに進む。

苦悩と懈怠を除く、菩薩の道を進みながら、
楽から大楽へと、楽を究める道を歩みながら、
どうして、一時の試練に、苦しむ必要があるか。

菩薩乗を進むには、四つの法が必要である。
菩薩の味方とは、決意、自負、歓喜、無頓着。
この軍隊を率いて、煩悩を倒さないとならない。

衆生済度を志して、菩薩の悲願を忘れるな。
利他の行に歓喜せよ、無為の自然に振る舞え。
これら、慈悲喜捨に専心して、いつも自制せよ。

人の心というものは、実に変り難いものだ。
たった、一つの悪業を、善業に変えるのにも、
無限に近い間、幾度も繰り返さないとならない。

ましてや、自他のために生きる、わたしは、
どれほどの、徳を積まないとならないだろう。
どうして、時を虚しく、過ごして居られるのか。

今まで貧しい者に、財を施して来なかった。
今まで苦しめる者に、楽を施して来なかった。
今まで迷っている者に、法を施して来なかった。

ひたすら、他を害する為、生を繰り返した。
だからこそ、こうして、不幸に生まれている。
これを知れば、どうして、怠けて居られようか。

小さな器の人は、善と悪に拘っているため、
たとえ、善い事が起きても、悪く捕らわれる。
彼は、好き嫌いが激しく、自と他に分け過ぎる。

すなわち、周りに善くとも、自らに悪いと、
このように、考えている人は、徳が低くなり、
地獄の池から、罪人の子として、生まれて来る。

大きな徳の人は、善と悪を越えているため、
たとえ、悪い事が起きても、良く捉えられる。
彼は、好き嫌いが少なく、自と他を入れ換える。

すなわち、自らに悪くとも、周りに善いと、
このように、考えられる人は、徳が高くなり、
蓮華の花から、世尊の子として、生まれて来る。

それゆえ、菩薩の発願を起こすべきである。
そして、ヴァジュラドヴァジャの儀軌に従い、
菩薩としての自負を、何度も修習すべきである。

私は、何を為すべきか、何を為さぬべきか、
為す前に、全ての条件を、考えることである。
一度、成してしまえば、是非の差は大きくなる。

自負心には、善いものと、悪いものがある。
善い自負心は、自らが負っていく、欲であり、
悪い自負心とは、自らに負けていく、慢である。

菩薩である、私が為さねば、誰が為すのか。
有りと有らゆる苦悩、有りと有らゆる功徳を、
全て負わせてくれ、これが、菩薩の自負である。

天魔である、私が遣らねば、誰が遣るのか。
有りと有らゆる欲望、有りと有らゆる絶望を、
悉く負かせてやれ、これが、天魔の慢心である。

自らを高める自負か、自らを低める自負か。
良く似ているようでも、全く変わってしまう。
大きな差が現われる前に、良く考るべきである。

このように、菩薩の自負を正しく持つ者は、
あたかも、鹿の群れに獅子が負けないように、
煩悩の群れに在って、自分に負けることがない。

結果が善くなろうが、結果が悪くなろうが、
あらゆる行為は、欲を因にして為されている。
すなわち、誰でも、自らに良い、何かを求める。

菩薩は、この良くを、行為そのものに置く。
すなわち、結果に囚われず、行為に歓喜する。
だからこそ、すべての行為が、徳に変えられる。

善が究められると、悪に極められるように、
良くが窮められると、必ずや飽くことになる。
果たして、菩薩が、衆生済度に飽きるだろうか。

菩薩は、欲を徳に変えて、この仕組を解く。
すなわち、善業に囚われず、欲求に集中する。
だからこそ、すべての欲求が、空に変えられる。

まさに、真剣の試合を、行っているように、
正念の剣を落したならば、直ぐに拾い上げよ。
真剣が交わされる中で、素手で躱すのは難しい。

すぐに、体内の血液は、全身を巡らされる。
煩悩の毒が入らないよう、傷口を押えておけ。
毒薬が巡らされた後で、毒だけ抜くのは難しい。

まるで、油の入った鍋を、火で炙るように、
あたかも、壷に入った蛇を、笛で煽るように、
小さな差異に、多くの注意を、払うべきである。

仮に、少しでも、道を外してしまったなら、
直ぐに、火を消し、蛇から離れるべきである。
誰にでも過ちはある、諦めず何度でも繰り返せ。

いつも不放逸を守って、自らを軽快にせよ。
綿が風に従うように、精進の導くままに従え。
そうすれば、人の界を越えて、神の力も現れる。

 

第八章

精進の波羅蜜の次に、禅定の波羅蜜に至る。
身を世間から離し、心を愛欲から離すならば、
身心が安定するため、身と心に錯乱が生じない。

心を静めていくと、正しく観るようになり、
正しく認めていくと、心が鎮まるようになる。
賢者は、このように考えて、煩悩を越えていく。

心を乱していくと、邪まに観るようになり、
邪まに認めていくと、心が昂ぶるようになる。
愚者は、このように流され、煩悩に塗れていく。

それゆえ、何より、心を静めるべきである。
そして、それは、世間に対する無頓着による。
無為を喜ぶことで、身と心が自然に委ねられる。

泣き叫んで、無限の輪廻を、探し続けても、
死に別かれた、愛する者には、巡り合えない。
どうして、無常の者に対し、愛著を抱けるのか。

およそ、巡り合えないと、心は不満になる。
万が一に、巡り合えようと、心は満足しない。
彼らは、一時の喜悦のために、永遠に苦悩する。

愛し合う者は、愛する者を探し求めるため、
この輪廻を、厭い離れることを忘れてしまう。
彼らは、永劫なる業の為に、永遠なる法を失う。

愚者に逆らうなら、愚者に嫌われてしまい、
愚者に合わせるなら、輪廻を損なってしまう。
何処に、愚かな者に囚われる、利益が有るのか。

笑うかと思えば、彼らは、怒ってしまうし、
友かと見とめれば、彼らは、敵になっている。
凡夫という者は、全く以って、宥め難いものだ。

我が身に優る者には、嫉妬を抱いてしまい、
我が身と等しい者には、闘争を抱いてしまい、
我が身より劣った者には、慢心を抱いてしまう。

悪しき業が、愚者から愚者に伝わっていく。
それゆえ、賢者は、悪しき業の連鎖を離れよ。
慈悲を以って接して、愚かな者の輪廻を越えよ。

花から花に飛び移り、蜂が蜜を吸うように、
妙法だけを吸い取って、輪廻を飛び移ろうか。
そして、軽くなった分は、彼らを救い上げよう。

捕らわれる愉しみは、消える悲しみになり、
愉しみに捕らわれると、喜びが消えて悲しむ。
愉しみの中で、死を境に、悲しまない物はない。

賢者たるもの、煩悩など求めてはならない。
味著を求めれば、必ず、禍患も求めてしまい、
楽しんでしまうと、同じだけ、苦しんでしまう。

たとえば、ある者が、わたしの称賛をする。
ここで、わたしが、称賛の味著を愉しむなら、
後で、わたしは、称賛の禍患を悲しんでしまう。

たとえば、ある者は、わたしの誹謗をする。
ここで、わたしが、誹謗の禍患に耐えるなら、
後で、わたしは、誹謗の味著に気づけるだろう。

世の人は、様々なカルマを持っているため、
仏陀でさえ、万人に合わせる事など出来ない。
カルマにより、ダルマを捻じ曲げてはならない。

たとえば、財が無くても、人々に侮蔑され、
一方で、財が有っても、人々に嫉妬をされる。
それゆえ、世間の利害に、囚われる必要はない。

利他を騙りつつ、利己を語るべきではない。
利が消えることで、悲しみが生じるのならば、
そんな利は、利他を装った、利己に他ならない。

世間の善悪や、自己の利害を越えた処から、
本当の利である、真実の理が現われて来よう。
利に捕われることなく、理を捉えるべきである。

すべては、道に従って、移り変わっている。
自らを道理に委ねて、自ずから自然に任せよ。
利己を離れて、利他を為せば、真の自利になる。

生きている間は、組み合わさっている骨も、
死んでしまったら、ばらばらになってしまう。
まして、愛する者は、他人であり、尚更である。

人は、ただ独りで生まれ、ただ独りで死ぬ。
他人は、誰であろうと、他人の死を負えない。
どうして、頼りない者に、彼らは愛著するのか。

長い旅を続ける者が、夜の宿を求めるよう、
迷いの旅を続ける者も、命の宿を求めている。
明日には離れる宿に、どうして愛著できるのか。

死んだ後、私の体は、山の中に埋められて、
私の精神は、他の人の、心の中で肥しになる。
どうして、生きている内から、そうしないのか。

即ち、生きている間から、死んでしまえば、
我が身の死に際して、誰も苦しむことはない。
これこそが、本当に活きていると、言えないか。

体は世俗と分かれて、心は仏陀に合わせる。
衆生に仏性を見とめて、好き嫌いを抱かない。
これこそが、本当に愛していると、言えないか。

仏陀を正念しながら、衆生の雑念を離れる。
菩薩は、楽しい孤独を、求めないとならない。
心を統一して、三昧に入れるよう、精進しよう。

愛欲により、現世と来世が、不幸に変わる。
現世に於ては、快楽を求めて、苦悩を味わい、
来世に於いては、天界を求めて、地獄を味わう。

付き合う前には、下を向いて頬を赤らめて、
付き合い出したら、上を向いて眼を赤らめる。
どうして怒れるのか、愛した相手ではないのか。

老け出す前には、芳しい匂いを発しようと、
老け出した後には、悍しい臭いを発している。
どうして逃げるのか、愛した相手ではないのか。

すこし脱がせば、まだ見たいと思いながら、
すべてを脱がせば、もう見まいと思っている。
どうして嫌えるのか、愛した相手ではないのか。

小さな汚れには、悩ましい所と考えながら、
大いなる穢れには、煩わしい処と考えている。
どうして悩めるのか、愛した相手ではないのか。

床の中の肉とは、一緒に寝ようとするのに、
墓の中の骸骨とは、一緒に居ようとはしない。
どうして避けるのか、愛した相手ではないのか。

ある者は、安楽を得るために、財を貯めて、
財が貯まる頃には、安楽を感じられなくなる。
どうして、財を貯めることに、意味があるのか。

ある者は、妻子を守るために、職を求めて、
異国から帰るまで、何年間も妻子に会えない。
どうして、業に塗れることに、意味があるのか。

ある者は、名誉を得るために、戦に赴いて、
名が轟く日までは、奴隷のように扱かわれる。
どうして、名を高めることに、意味があるのか。

ある者は、地位を得るために、敵を貶めて、
敵を低めてばかりで、己を高められなくなる。
どうして、敵を貶めることに、意味があるのか。

いかなる楽しみにも、得る時に苦しみが生じる。
いかなる楽しみにも、守る時に苦しみが生じる。
いかなる楽しみにも、失う時に苦しみが生じる。

このように、楽の裏には、必ず、苦がある。
楽しみを究められると、苦しみに極められる。
欲が大きいほど、苦楽が大きく、総じて苦しい。

衆生が煩悩を求め、地獄に落ちる苦しみは、
菩薩が菩提を求めて、仏陀に至れる苦しみの、
実に百億倍である、どうして煩悩を求めるのか。

所有を捨て、世俗を離れて、無為に徹しよ。
我が身を道に委ねて、我が心を自然に任せる。
天命に委ねた生命、この身命、神々さえ得難い。

最初に、現世の出離を、繰り返し修習せよ。
その次に、自己と他者の平等性を、観察せよ。
全ての人は、私と等しい、苦と楽を有している。

さながら、右手も左手も、等しく愛すよう、
自分も、他人も、同じように愛すべきである。
最終的に、苦楽を全て味わう点で、等しいから。

たとえ、我が苦悩に、他が苦しまなくても、
我が苦に囚われている、私は苦しんでしまう。
自我に捕われるのは、私であって、他ではない。

同様に、他の苦悩に、私が苦しまなくても、
我が苦に囚われている、他は苦しんでしまう。
他我に捕われるのは、他であって、私ではない。

あたかも、我が苦しみを滅し尽くすように、
私は、他の苦しみを滅し尽さないとならない。
私が苦しんでいるよう、他も苦しんでいるから。

あたかも、私が自分の苦しみを哀れむよう、
私は、他人の苦しみを憐れまないとならない。
私が生きているように、彼らも生きているから。

自分も、他人も、自らの幸福を願っている。
どうして、自らの幸福だけを願えるだろうか。
他の幸福に臨まないと、自らの幸福も望めない。

自分も、他人も、自らの不幸を避けている。
どうして、自らの不幸だけを除けるだろうか。
他の不幸を覗かないと、自らの不幸も除けない。

必死に、未来の自分を救おうと考えるなら、
どうして、現在の他人を救おうと考えないか。
実感が足りないのは、どちらも同じではないか。

未来の自分は、時間に広がる、自己であり、
現在の他人とは、空間に広がる、自己である。
両者を認めないと、現実の自己も認められない。

さながら、足の苦しみを、手で除くように、
他の苦しみを、自らの苦しみとして取り払う。
手と足が繋がるように、自と他も繋がっている。

過去は実感が有る時、未来は実感が無い時、
時間の分別は、実感の有無、幻想に過ぎない。
どちらも、現在に有って、互いに繋がっている。

自分は実感が有る者、他者は実感が無い者。
空間の分別は、実感の有無、仮想に過ぎない。
どちらも、自己に在って、互いに繋がっている。

それゆえ、自と他を、差別してはならない。
一切の苦悩は、主体を持たぬ、幻影に過ぎず、
自他の境界を越えて、取り除かれるべきである。

独りが苦しんで、多くの苦しみが減るなら、
どうして、自らが苦しまないことがあろうか。
菩薩の苦しみは、衆生の苦しみより、遥に軽い。

その昔、スプシュパチャンドラが法を説き、
王の怒りを買って、惨たらしく殺されように、
他の利益になるなら、殺されようと法を解こう。

こうして、真の自利を正しく明らめた者は、
地獄が存在する限りは、天界は存在しないと、
あたかも、白鳥が蓮池に潜るよう、地獄に沈む。

衆生が解脱することを、菩薩は願っている。
どうして、自己の解脱を、喜んで願えるのか。
決して誇らず、決して奢らず、利他に専心せよ。

白と赤の二滴、精子と卵子の結合に関して、
何ら実体がないのに、繰り返しの修習により、
自我という幻想、自他の境界が現れてしまった。

自我という、実体のない者に囚われるのに、
どうして、実体のない他我に捕われないのか。
自我に囚われるよう、他我を捉えるべきである。

我という、有限の業を見ているのではなく、
非我という、無限の徳を見とめるべきである。
自我を見とめるよう、他我を認めるべきである。

自らの体の一部として、手を愛するように、
なぜ、世界の一部として、他を愛さないのか。
繰り返しで、体が生じたよう、空も生じさせよ。

このように、他に対して利を与えたとして、
決して誇らず、見返りを求めようとはしない。
というのも、自らを利しているに過ぎないから。

自我を守るように、他我も護るべきである。
自我を慈しむように、他我も愛すべきである。
守護と慈愛の心を、世界に向け放つべきである。

たとえ、試練に遭おうと、怯んではならぬ。
繰り返し、挑戦すれば、恐怖も歓喜に変わる。
このように、繰り返し慣れる力は、偉大である。

自己と他者を、速やかに救おうと願う者は、
自他の転換という、最高の秘儀を行うべきだ。
自他の平等心という、至高の菩提でも足りない。

自我に愛するばかり、恐怖が生じてしまう。
恐怖が悪業に誘い、悪業が恐怖に導いている。
恐怖の根源である自我を、どうして愛するのか。

もし、この食べ物を、他に与えてしまうと、
私が食べられなくなり、自らが飢えてしまう。
こう考える者は、利己の為に、餓鬼の子となる。

もし、この食べ物を、私に与えてしまうと、
他が食べられなくなり、周りが餓えてしまう。
こう考える者は、利他の為に、神々の王となる。

我が為に他を苦しめる者は、地獄に誘われて、
他の為に自我を苦しめる者は、天界に導かれる。

他の人よりも、自らを上に置こうとする者は、
悪趣に生まれて、下賤の者となり、愚者となる。

他の人よりも、自らを下に置こうとする者は、
善趣に生まれて、高貴な者となり、賢者となる。

我が為に他に命じる者は、後に召使いとなり、
他の為に自我に命じる者は、後に支配者となる。

苦を受けているのは、利己を為したからであり、
楽を享けているのは、利他を為したからである。

利己を行なう愚者か、利他を行なう賢者か。
多くを言う必要はない、これで全てが分かる。
自他を転換できない者が、仏に成ることはない。

苦しんで責め合うなら、総じて苦しくなり、
苦しんで助け合うならば、総じて楽しくなる。
それでも、助け合えないのは、自我があるから。

火を持っていれば、手が焼けていくように、
我を捨てないならば、苦が消えることはない。
それゆえ、私は、自我を与えて、他我を受ける。

ああ、心よ、思う存分、他の者に囚われよ。
他の者を思って、他の事を考えてはならない。
この心も、この眼も、この手も、他の物である。

自己の利益を見るな、自己の利益を取るな。
己の利と考えるものは、全て他の者に与えよ。
常に他の事を考えて、他の利になることをせよ。

もし、自分よりも、劣った者を見つけたら、
私と彼を入れ換えて、こう考えるべきである。
以下、私とは彼のこと、彼とは私のことである。

「ああ、彼は優れていて、私は劣っている。
それゆえ、彼は裕福であり、私は貧乏である。
私は、苦しんでいるのに、彼は、楽しんでいる。」

「確かに、彼は優れるが、私を慈しまない。
彼の徳は限られていて、徳が増える事はない。
どうして、わたしは、彼を嫉む必要があるのか。」

もし、自分よりも、優れた者を見つけたら、
私と彼を入れ換えて、こう考えるべきである。
以下、私とは彼のこと、彼とは私のことである。

「ああ、彼は劣っていて、私は優れている。
それゆえ、彼は貧乏であり、私は裕福である。
私は、楽しんでいるのに、彼は、苦しんでいる。」

「確かに、彼は劣れるが、他を称えている。
彼の徳は重なっていき、徳を減らす事がない。
どうして、わたしは、彼を蔑む必要があるのか。」

さらに、このように、考えないとならない。
これ以下、汝とは、主体たる心のことであり、
私は真我のことであり、彼は自我のことである。

「汝らは、彼の為に、輪廻に苦しめられた。
よって、汝らの苦悩を、全て彼に背負わせて、
彼の安楽を奪い取り、地獄に落とすべきである。」

「ああ、汝らが、利己を追求している間に、
無数の劫、無量の時が、過ぎ去ってしまった。
その間、汝らは、膨大な苦悩を得ただけである。」

「故に、私の要請に従い、汝は利他を為せ。
仏の法が、決して、汝らを裏切らないように、
私の教えは、決して、汝らを裏切ることはない。」

「彼は楽しいばかりで、他は苦しいばかり、
彼は尊く他は卑しい、彼は動かない他が働く。
このように見抜いたら、汝らは彼らに嫉妬せよ。」

「彼を楽から離して、彼に苦しみを与えよ。
彼が、いつ何をするか、その欺瞞を観察せよ。
彼らは、自らの楽の為に、汝らの苦を厭わない。」

「他の罪は彼に着せ、彼の罪は仏に報せよ。
他の者の名声を称えて、彼の名声を曇らせよ。
卑しい奴隷のように、彼を衆生の為に酷使せよ。」

「彼の為に、他を害した、全ての汝の罪を、
他の為に、彼を害して、全て償わせるべきだ。
彼を汝の支配に置け、命に背くなら罰を与えよ。」

「ああ、心よ、私が、このように言っても、
汝は、彼を許そうとするだろう、覚えておけ。
汝が彼を罰しない時は、私が汝を罰するだろう。」

「つまり、すべての業は、汝に拠っている。
すべての業は、私が見ていると、覚えておけ。
たとえ、汝が私を忘れても、私は汝を忘れない。」

「私の目を盗んで、利を盗めると考えるな。
すでに、私は、汝のことを、他に売り渡した。
汝が盗んだ利は、他に吸い取られるだけである。」

「もし、汝に、彼に対する愛があるならば、
彼を生かすことなく、彼を殺してやることだ。
彼は死んでこそ活きる、私に生まれ変わるのだ。」

「彼は、甘やかされるほど、体が弱くなり、
体が弱くなった、その分だけ、我が強くなる。
本当の意味で、彼を、楽にすることは出来ない。」

「彼を、満足させることは、不可能である。
不可能を期待するから、煩悩や幻想が生じる。
それゆえ、微塵も、彼に期待させてはいけない。」

「本当の幸福とは、希望するものではない。
真実の幸福とは、現実の存在するものである。
それゆえ、絶望させて、彼を諦らめさせてやれ。」

このように、わたしは、体と我を捨断した。
体を残しているのは、我を越えるためである。
わたしは、不放逸に徹して、賢者の道を進もう。

 

第九章

真理は、俗諦と真諦、この二つの諦がある。
世俗諦は、縁に合せた、相対的な真理であり、
勝義諦とは、縁を越えた、絶対的な真理である。

縁を越える前は、この世界が現実に見えて、
条件を越えた後は、この世界が幻想に見える。
それゆえ、両者には、時に見解の相違が生じる。

業を越える前は、他の見解を認められない。
因果を越えた後は、他の条件を見とめられる。
それゆえ、仏陀方は、縁に合わせて真理を説く。

例えば、身体を清浄であると考える者には、
身体は不浄であるという、世俗諦が説かれる。
この法を繰り返すと、不浄に見えるようになる。

そして、清浄にも見え、不浄にも見えると、
身体に実体がないという、勝義諦が解かれる。
この境地に至った者は、どちらにも合せられる。

例えば、唯識派で学ぶ者には、このように説く。

「仏陀が幻ならば、なぜ、仏陀が徳なのか。」
「もとより、徳とは、空なる器のことである。
幻を覚めれば徳になり、幻に溺れれば業になる。」

「衆生が幻ならば、なぜ、生まれ変わるか。」
「もとより、業とは、幻の束縛のことである。
縛られるから転生して、縛られないと解脱する。」

「他人が幻ならば、なぜ、殺すと罪なのか。」
「もとより、罪とは、幻の呵責のことである。
苛むから業を積み、苦しまないまで罪を清める。」

「真言が幻ならば、なぜ、言霊が力なのか。」
「もとより、霊とは、幻の実感のことである。
実が伴えば現実になり、身を伴わず幻想になる。」

「輪廻が幻ならば、なぜ、済度を為すのか。」
「もとより、解脱は、幻の終焉のことである。
解脱に拘り輪廻になり、済度に尽し涅槃になる。」

「一切の幻が消え去り、汝は何を見るのか。」
「空、実体が無いという、実感が現れてくる。
その境地は、無いとも言える、有るとも言える。」

「そこに、見えるものは、心ではないのか。」
「刀で刀は切れないし、心から心は見えない。
心と言っても良いが、心と言わなくても良いな。」

例えば、阿含経を学ぶ者には、このように説く。

「心が無い仏陀を称えて、功徳になるのか。」
「喜ぶ心を持つのは、仏ではなく、君の方だ。
心から心を奉げたとき、君の心は空の器になる。」

「四諦を修めれば、空を修める必要はない。」
「苦の滅尽に至る道、その先を知っているか。
苦諦、集諦、滅諦、道諦、その先で君と会おう。」

「解脱で全てが終わる、済度の道などない。」
「もとより、解脱は、囚われないことである。
絶対に無いと囚われると、絶対に現れるだろう。」

「いや、大乗の教えは、仏陀の法ではない。」
「同様に、小乗の教えは、仏陀の法ではない。
何を信じても、己を信じていると、知るべきだ。」

「いや、大乗は論争の凶、捨て去るべきだ。」
「そうだ、解らないことは、黙るべきである。
そして、空を悟る者のみ、すべてを認められる。」

更に、ヴェーダを学ぶ者には、このように説く。

「アドワイタ哲学では、一つの実在を説く。
それは、アートマンであり、無自性ではない。」
「実体なき空をして、実在と考えても構わない。」

「真我が実在している、無我などではない。」
「自我が消えて、真我が現われると考えるか、
我が無くなると考えるか、その違いに過ぎない。」

「サーンキャ哲学では、二つの実在を説く。
プルシャとプラクリティ、一元などではない。」
「実体のない空を、主体と客体に分けても良い。」

「完全に客体を離れると、主体は独存する。」
「客体が消えるときに、主体も消えてしまう。
その独存を、主体と呼ばず、空と呼ぶのである。」

 

第十章

菩薩の道を進んで、私が積んだ徳によって、
すべての衆生が、菩薩の道を進みますように。
苦悩の輪廻が、歓喜の大海に変わりますように。

私の功徳によって、この輪廻が尽きるまで、
衆生が煩悩を諦めて、菩提を明めますように。
菩薩が苦悩を究わめて、安楽を極めますように。

地獄の寒さに煩う者は、暖を得ますように。
地獄の熱さに悩める者は、冷を得ますように。
菩薩の甘露から生じた、涼しい温かさによって。

地獄の光る刃は、輝く法になりますように。
地獄の鋭い樹には、智の実がなりますように。
菩薩の心から生じた、虚しくはない空によって。

地獄の深い谷が、歓喜の園に変わるように。
地獄の大きな山が、仏陀の家に変わるように。
地獄で剣の戦い、血の代わりに花が舞うように。

醜い体は腐って、美しい骨に変わるように。
地の河に溺れたら、天の川に生まれるように。
私が積んだ徳が、隅々まで遍く巡りますように。

殺し合う恐怖が、地獄界で消えますように。
喰らい合う恐怖が、動物界で消えますように。
捕らわれ合う恐怖が、餓鬼界で消えますように。

いかなる衆生も、罪人に為りませんように。
苦が有りませんよう、病が有りませんように。
悪が有りませんように、邪で有りませんように。

臆病なる者が、勇敢な者と為りますように。
憂いに悩む者が、喜べる者と為りますように。
不安で疑える者が、確かな者と為りますように。

衣服、食事、飲料、花輪、香水、装飾品等。
すべての願わしき物を、衆生が得ますように。
普賢菩薩を飾り立て、歓喜の心を得ますように。

眠れる者、狂った者、甘えた者、迷える者。
すべての呪わしき者が、済度を得ますように。
観音菩薩を夢に見て、慈悲の心を得ますように。

姿が醜い者は、姿が美しくなりますように。
気が小さい者は、気が大きくなりますように。
虚空蔵菩薩を称え、無尽の宝を持ちますように。

目が見えないものは、目が見えますように。
耳が聞こえないものは、耳が聞えますように。
文殊菩薩を仰ぎ見て、歌を奏でられますように。

会いたいと思うとき、尋ねたいと想うとき、
いつでも、私は、文殊菩薩を拝めますように。
文殊の祝福で、歓喜の園が与えられますように。

文殊が行うこと、全て私も行えますように。
菩薩が修めること、全て私も修めますように。
一切の衆生に、至上の利を与えられますように。

私は、偉大なる文殊菩薩に帰依し奉ります。
その功徳により、智慧が与えられますように。
その智慧によって、衆生が済度されますように。


Page Top | My Library Home