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因縁相応 第九章

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あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
アナータピンディカの園に、止まられていた。
そこに、カッチャーヤナが訪れて、こう尋ねた。

「尊師よ、正見とは、如何なるものですか。」
「すべては有であるや、すべては無であると、
極端に捕われないで、中庸を捉えることである。」

「世間の人々は、偏った見方に囚われるが、
生じたものを見るなら、無ということはなく、
滅したものを見るならば、有ということはない。」

「世間の人々は、偏った愛著に捕われるが、
我が見解に囚われると、我が苦しみが生じて、
我が見解に捕われないと、我が苦しみが消える。」

「だからこそ、カッチャーヤナよ、如来は、
極端を捕われないで、中庸を捉えるのである。
すべて正しく見る者は、あらゆる苦悩を越える。」

「如来が説く、縁起とは、如何なるものか。
無明によって行があり、行によって識がある。
識により名色があり、名色によって六処がある。」

「六処により触があり、触により受がある。
受によって愛があり、愛著によって取がある。
取著によって有があり、存在によって生がある。」

「出生が有るから、老死愁悲苦憂悩が有る。
この縁起こそが、すべての苦悩の生起であり、
カッチャーヤナよ、これが、正しい見解である。」

「如来が説く、縁起とは、如何なるものか。
無明なしには行はなく、行なしには識はない。
識なしに名色はなく、名色なしには六処はない。」

「六処なしに触はなく、触なしに受はない。
受なしには愛はなく、愛著なしには取はない。
取著なしには有はなく、存在なしには生はない。」

「出生が無ければ、老死愁悲苦憂悩も無い。
この縁起こそが、すべての苦悩の滅尽であり、
カッチャーヤナよ、これが、正しい見解である。」


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