My Library Home

因縁相応 第四十四章

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  32  33  34  35  36  37  38  39  40  41  42  43  44  45  46  47  48  49  50 



あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、クル国に存在する、
カンマーサダンという村落に、滞在しながら、
集まって来た、比丘衆に、このように説かれた。

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
苦は、何により生じて、何により滅するのか。
苦悩は、生により生じて、生により滅している。」

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
生は、何により生じて、何により滅するのか。
出生は、有により生じて、有により滅している。」

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
有は、何により生じて、何により滅するのか。
存在は、取により生じて、取により滅している。」

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
取は、何により生じて、何により滅するのか。
取著は、愛により生じて、愛により滅している。」

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
愛は、何により生じて、何により滅するのか。
渇愛は、受により生じて、受により滅している。」

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
受は、何により生じて、何により滅するのか。
感受は、触により生じて、触により滅している。」

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
触は、何により生じて、何により滅するのか。
接触は、処により生じて、処により滅している。」

「比丘達よ、内なる識が、外と触れ合う処、
外を捉える処、感覚である、六つの処がある。
それでは、この六つの処とは、如何なるものか。

第一の処は、視覚を認識する器官、眼処である。
第二の処は、聴覚を認識する器官、耳処である。
第三の処は、嗅覚を認識する器官、鼻処である。
第四の処は、味覚を認識する器官、舌処である。
第五の処は、触覚を認識する器官、身処である。
第六の処は、法覚を認識する器官、意処である。」

「例えば、ここに、毒が混じった水があり、
喉が渇いた人が、後先を考えずに飲むならば、
初めは楽になるが、必ず後で苦しむことになる。」

「同様に、ここに、識が入った六処があり、
愛に渇いた者が、後先を考えず味わうならば、
初めは楽になるが、必ず後で苦しむことになる。」

「比丘達よ、過去に於ても、現在に於ても、
未来に於ても、感覚を無常と見とめない者は、
愛が大きくなり、取が強くなり、苦が強くなる。」

「比丘達よ、過去に於ても、現在に於ても、
未来に於ても、感覚を常住と見とめない者は、
愛が小さくなり、取が弱くなり、苦が弱くなる。」

「比丘達よ、比丘たる者は、こう内省せよ。
この喉の渇きは、愛する故の心の渇きである。
毒の水を飲むより、心に染みる法を飲むべきと。」


Page Top | My Library Home