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愛尽大経(マハータンハーサンカヤ・スッタ)

仏教



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
ジェータ林にある、アナータピンディカ園に、
弟子のサーティを呼び出し、このように言った。

「聞く処に拠れば、邪見に囚われたと聞く。
愚か者め、心が常であると、誰が説いたのか。
サーティよ、心が無常である事を、忘れたのか。」

「比丘達よ、縁が無ければ、心は生じない。
一方で、縁が生じるとき、六つの識が生じる。
それでは、この六つの識とは、如何なるものか。

第一の識は、眼根と色境で生じる、眼識である。
第二の識は、耳根と声境で生じる、耳識である。
第三の識は、鼻根と香境で生じる、鼻識である。
第四の識は、舌根と味境で生じる、舌識である。
第五の識は、身根と触境で生じる、身識である。
第六の識は、意根と法境で生じる、意識である。」

「例えば、薪が燃えれば、薪の火と呼んで、
一方で、炭が燃えれば、炭の火と呼ぶように、
燃える物で、同じ火でも、名前が変わってくる。」

「同様に、色を重ねれば、眼の識と呼んで、
一方で、耳を重ねれば、耳の識と呼ぶように、
重ねる物で、同じ識でも、名前が変わってくる。」

「比丘達よ、識が無ければ、蘊は生じない。
一方で、識が集まるとき、五つの蘊が生じる。
それでは、この五つの蘊とは、如何なるものか。

第一の蘊は、物質の執着の集まり、色蘊である。
第二の蘊は、感受の執着の集まり、受蘊である。
第三の蘊は、想念の執着の集まり、想蘊である。
第四の蘊は、意志の執着の集まり、行蘊である。
第五の蘊は、認識の執着の集まり、識蘊である。」

「比丘達よ、食が無ければ、蘊は生じない。
一方で、蘊が生じるとき、四つの食で育てる。
それでは、この四つの食とは、如何なるものか。

第一の食は、物質を食べ物とする、段食である。
第二の食は、感覚を食べ物とする、触食である。
第三の食は、思考を食べ物とする、思食である。
第四の食は、識別を食べ物とする、識食である。」

 

第二章

「それでは、この四食は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、食は愛から生まれ、渇愛から生じる。」

「それでは、この渇愛は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、愛は受から生まれ、感受から生じる。」

「それでは、この感受は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、受は触から生まれ、接触から生じる。」

「それでは、この接触は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、触は処から生まれ、六処から生じる。」

「それでは、この六処は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、処は物から生まれ、名色から生じる。」

「それでは、この名色は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、物は識から生まれ、識別から生じる。」

「それでは、この識別は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、識は行から生まれ、意志から生じる。」

「それでは、この意志は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、行は痴から生まれ、無明から生じる。」

 

第三章

「比丘達よ、何が有るとき、死が有るのか。
何が無ければ、死が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、出生が無ければ、死も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、生が有るのか。
何が無ければ、生が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、存在が無ければ、生も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、有が有るのか。
何が無ければ、有が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、執着が無ければ、有も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、取が有るのか。
何が無ければ、取が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、渇愛が無ければ、取も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、愛が有るのか。
何が無ければ、愛が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、感受が無ければ、愛も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、受が有るのか。
何が無ければ、受が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、接触が無ければ、受も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、触が有るのか。
何が無ければ、触が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、六処が無ければ、触も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、処が有るのか。
何が無ければ、処が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、名色が無ければ、処も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、蘊が有るのか。
何が無ければ、蘊が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、意識が無ければ、蘊も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、識が有るのか。
何が無ければ、識が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、意志が無ければ、識も有りません。」

「比丘達よ、何が有るとき、行が有るのか。
何が無ければ、行が生じないと、言えるのか。」
「我が師よ、無明が無ければ、行も有りません。」

 

第四章

「比丘達よ、闇を超えて、行を越えていく、
無明を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、無明を滅すると、意志が止まるかと。」

「比丘達よ、行を超えて、識を越えていく、
意志を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、意志を滅すると、識別が止まるかと。」

「比丘達よ、識を超えて、蘊を越えていく、
識別を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、識別を滅すると、名色が止まるかと。」

「比丘達よ、蘊を超えて、処を越えていく、
名色を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、名色を滅すると、六処が止まるかと。」

「比丘達よ、処を超えて、触を越えていく、
六処を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、六処を滅すると、接触が止まるかと。」

「比丘達よ、触を超えて、受を越えていく、
接触を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、接触を滅すると、感受が止まるかと。」

「比丘達よ、受を超えて、愛を越えていく、
感受を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、感受を滅すると、渇愛が止まるかと。」

「比丘達よ、愛を超えて、取を越えていく、
渇愛を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、渇愛を滅すると、執着が止まるかと。」

「比丘達よ、取を超えて、有を越えていく、
執着を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、執着を滅すると、存在が止まるかと。」

「比丘達よ、有を超えて、生を越えていく、
存在を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、存在を滅すると、出生が止まるかと。」

「比丘達よ、生を超えて、死を越えていく、
出生を滅したものは、何が止まるのだろうか。」
「尊師よ、出生を滅すると、老死が止まるかと。」

 

第五章

「比丘達よ、受胎するために、必要となる、
妊娠のために、必要となる、三つの縁がある。
それでは、この三つの縁とは、如何なるものか。

第一の縁は、父親と母親が、交わることである。
第二の縁は、母親に月経が、現れることである。
第三の縁は、ガンダッパが、現れることである。」

「こうして、条件が揃って、胎児が宿ると、
十月の間、母親は大事に育て、彼を出産する。
産れた後も、両親は大事に育み、彼を教育する。」

「その子は、育つに連れ、眼が肥えていく。
好きな物は好きと言い、嫌な物は嫌いと言い、
眼識が現われるため、色に囚われ、苦が生じる。」

「その子は、育つに連れ、耳が肥えていく。
好きな物は好きと言い、嫌な物は嫌いと言い、
耳識が現われるため、声に囚われ、苦が生じる。」

「その子は、育つに連れ、鼻が肥えていく。
好きな物は好きと言い、嫌な物は嫌いと言い、
鼻識が現われるため、香に囚われ、苦が生じる。」

「その子は、育つに連れ、舌が肥えていく。
好きな物は好きと言い、嫌な物は嫌いと言い、
舌識が現われるため、味に囚われ、苦が生じる。」

「その子は、育つに連れ、身が肥えていく。
好きな物は好きと言い、嫌な物は嫌いと言い、
身識が現われるため、触に囚われ、苦が生じる。」

「その子は、育つに連れ、意が肥えていく。
好きな物は好きと言い、嫌な物は嫌いと言い、
意識が培われるため、法に囚われ、苦が生じる。」

「そこに、如来が現れると、価値が逆転し、
解脱の果報を知った彼は、このように考える。
在家は不自由なことよ、出家は自由なことよと。」

「彼は、戒を守るに連れ、眼を越えていく。
好きな者も認めていき、嫌な者も認めていく。
眼識が洗われるため、色を超えて、苦を越える。」

「彼は、戒を守るに連れ、耳を越えていく。
好きな者も認めていき、嫌な者も認めていく。
耳識が洗われるため、声を超えて、苦を越える。」

「彼は、戒を守るに連れ、鼻を越えていく。
好きな者も認めていき、嫌な者も認めていく。
鼻識が洗われるため、香を超えて、苦を越える。」

「彼は、戒を守るに連れ、舌を越えていく。
好きな者も認めていき、嫌な者も認めていく。
舌識が洗われるため、味を超えて、苦を越える。」

「彼は、戒を守るに連れ、身を越えていく。
好きな者も認めていき、嫌な者も認めていく。
身識が洗われるため、触を超えて、苦を越える。」

「彼は、戒を守るに連れ、意を越えていく。
好きな者も認めていき、嫌な者も認めていく。
意識が洗われるため、法を超えて、苦を越える。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


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