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大念処経(マハーサティパッターナ・スッタンタ)

仏教



目次

第一章 |  第二章 |  第三章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、クル国に存在する、
カンマーサッダンマという、町に止っていた。
そして、比丘衆に対して、このように説かれた。

「比丘衆よ、涅槃に至る、一乗の道がある。
その道は、四つの念じる処、四念処観である。
そして、この四つの念処とは、如何なるものか。

第一に、身に対して、不浄であると念じること。
第二に、受に対して、不快であると念じること。
第三に、心に対して、無常であると念じること。
第四に、法に対して、無我であると念じること。」

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
この不浄である身を、どのように正念するのか。」

「体が為すことを、在りのままに見とめる。
歩いているなら、歩いていると、観じていき、
坐っているならば、坐っていると、感じていく。」

「体を成すものを、在りのままに見とめる。
この体は皮で覆われ、中には不浄の物がある。
胃、腸、肺、血液、唾液、胆汁、大便、小便等。」

「体が腐るさまを、在りのままに見とめる。
死体は、膨れていき、黒くなり、腐っていく。
烏に食われ、蛆に喰われ、白い骨ばかりになる。」

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
この不快である受を、どのように正念するのか。」

「心が感じるように、在りのまま見とめる。
楽しんでいるなら、楽しんでいると、感じて、
苦しんでいるならば、苦しんでいると、感じる。」

「心が観じるように、在りのまま見とめる。
楽しんでいると、いずれ、苦しむと、観じて、
捕らわれていると、総じて、苦しむと、観じる。」

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
この無常である心を、どのように正念するのか。」

「心に映るように、在りのままに見とめる。
愛しているなら、愛していると、感じていき、
憎んでいるならば、憎んでいると、感じていく。」

「心が移るように、在りのままに見とめる。
愛してしまうと、いずれ、憎しむと、観じて、
囚われてしまうと、総じて、苦しむと、観じる。」

 

第二章

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
この無我である法を、どのように正念するのか。」

「比丘衆よ、修行者は、五つの蓋を正念する。
それでは、この五つの蓋とは、如何なるものか。

第一に、貪りに捕らわれている、貪欲蓋である。
第二に、瞋りに捕らわれている、瞋恚蓋である。
第三に、眠りに捕らわれている、昏眠蓋である。
第四に、焦りに捕らわれている、掉悔蓋である。
第五に、疑いに捕らわれている、愚痴蓋である。」

「比丘衆よ、修行者は、五つの蘊を正念する。
それでは、この五つの蘊とは、如何なるものか。

第一に、物質として集まっている、色蘊である。
第二に、感受として集まっている、受蘊である。
第三に、表象として集まっている、想蘊である。
第四に、意志として集まっている、行蘊である。
第五に、識別として集まっている、識蘊である。」

「比丘衆よ、修行者は、六つの処を正念する。
それでは、この六つの処とは、如何なるものか。

第一に、眼を観じて、色を感じる、眼処である。
第二に、耳を観じて、声を感じる、耳処である。
第三に、鼻を観じて、香を感じる、鼻処である。
第四に、舌を観じて、味を感じる、舌処である。
第五に、身を観じて、触を感じる、身処である。
第六に、意を観じて、法を感じる、意処である。」

「比丘衆よ、修行者は、七つの段を正念する。
それでは、この七つの段とは、如何なるものか。

第一に、繰り返して法を修める、念覚支である。
第二に、条件に合う法を選ぶ、択法覚支である。
第三に、一心不乱に修行する、精進覚支である。
第四に、法を修めることを喜ぶ、喜覚支である。
第五に、心や体が軽快になる、軽安覚支である。
第六に、瞑想により三昧に至る、定覚支である。
第七に、無為となり自然になる、捨覚支である。」

 

第三章

「比丘衆よ、修行者は、四つの諦を正念する。
それでは、この四つの諦とは、如何なるものか。

第一は、全ては苦しみであること、苦諦である。
第二は、苦しみは必ず生じること、集諦である。
第三は、苦しみは必ず滅すること、滅諦である。
第四は、苦を越える道があること、道諦である。」

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
この苦しみの世界を、どのように正念するのか。」

「比丘衆よ、修行者は、三つの苦を正念する。
それでは、この三つの苦とは、如何なるものか。

第一に、楽が生じて、苦が生じる、苦苦である。
第二に、楽が続いて、楽が壊れる、壊苦である。
第三に、楽を求めて、楽を得ない、行苦である。」

「比丘衆よ、修行者は、八つの苦を正念する。
それでは、この八つの苦とは、如何なるものか。

第一に、すべてが始まってしまう、生苦である。
第二に、すべてが変わってしまう、老苦である。
第三に、すべてが逆らってしまう、病苦である。
第四に、すべてが終わってしまう、死苦である。
第五に、愛らしい者と別れる、愛別離苦である。
第六に、憎らしい者と会える、怨憎会苦である。
第七に、求めても得られない、求不得苦である。
第八に、望むほど苦しくなる、五蘊盛苦である。」

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
この苦しみの生起を、どのように正念するのか。」

眼に於いて、色の苦しみが、生起したと観じる。
眼に於いて、受の苦しみが、生起したと観じる。
眼に於いて、想の苦しみが、生起したと観じる。
眼に於いて、行の苦しみが、生起したと観じる。
眼に於いて、識の苦しみが、生起したと観じる。
耳に於いて、色の苦しみが、生起したと観じる。
耳に於いて、受の苦しみが、生起したと観じる。
耳に於いて、想の苦しみが、生起したと観じる。
耳に於いて、行の苦しみが、生起したと観じる。
耳に於いて、識の苦しみが、生起したと観じる。
鼻に於いて、色の苦しみが、生起したと観じる。
鼻に於いて、受の苦しみが、生起したと観じる。
鼻に於いて、想の苦しみが、生起したと観じる。
鼻に於いて、行の苦しみが、生起したと観じる。
鼻に於いて、識の苦しみが、生起したと観じる。
舌に於いて、色の苦しみが、生起したと観じる。
舌に於いて、受の苦しみが、生起したと観じる。
舌に於いて、想の苦しみが、生起したと観じる。
舌に於いて、行の苦しみが、生起したと観じる。
舌に於いて、識の苦しみが、生起したと観じる。
身に於いて、色の苦しみが、生起したと観じる。
身に於いて、受の苦しみが、生起したと観じる。
身に於いて、想の苦しみが、生起したと観じる。
身に於いて、行の苦しみが、生起したと観じる。
身に於いて、識の苦しみが、生起したと観じる。
意に於いて、色の苦しみが、生起したと観じる。
意に於いて、受の苦しみが、生起したと観じる。
意に於いて、想の苦しみが、生起したと観じる。
意に於いて、行の苦しみが、生起したと観じる。
意に於いて、識の苦しみが、生起したと観じる。

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
この苦しみの消滅を、どのように正念するのか。」

眼に於いて、色の苦しみが、消滅したと観じる。
眼に於いて、受の苦しみが、消滅したと観じる。
眼に於いて、想の苦しみが、消滅したと観じる。
眼に於いて、行の苦しみが、消滅したと観じる。
眼に於いて、識の苦しみが、消滅したと観じる。
耳に於いて、色の苦しみが、消滅したと観じる。
耳に於いて、受の苦しみが、消滅したと観じる。
耳に於いて、想の苦しみが、消滅したと観じる。
耳に於いて、行の苦しみが、消滅したと観じる。
耳に於いて、識の苦しみが、消滅したと観じる。
鼻に於いて、色の苦しみが、消滅したと観じる。
鼻に於いて、受の苦しみが、消滅したと観じる。
鼻に於いて、想の苦しみが、消滅したと観じる。
鼻に於いて、行の苦しみが、消滅したと観じる。
鼻に於いて、識の苦しみが、消滅したと観じる。
舌に於いて、色の苦しみが、消滅したと観じる。
舌に於いて、受の苦しみが、消滅したと観じる。
舌に於いて、想の苦しみが、消滅したと観じる。
舌に於いて、行の苦しみが、消滅したと観じる。
舌に於いて、識の苦しみが、消滅したと観じる。
身に於いて、色の苦しみが、消滅したと観じる。
身に於いて、受の苦しみが、消滅したと観じる。
身に於いて、想の苦しみが、消滅したと観じる。
身に於いて、行の苦しみが、消滅したと観じる。
身に於いて、識の苦しみが、消滅したと観じる。
意に於いて、色の苦しみが、消滅したと観じる。
意に於いて、受の苦しみが、消滅したと観じる。
意に於いて、想の苦しみが、消滅したと観じる。
意に於いて、行の苦しみが、消滅したと観じる。
意に於いて、識の苦しみが、消滅したと観じる。」

「それでは、比丘衆よ、どのように観察して、
苦しみを越える道を、どのように正念するのか。」

第一に、真理に基き、見解を正す、正見である。
第二に、正見に基き、思索を正す、正思である。
第三に、正思に基き、発言を正す、正語である。
第四に、正語に基き、行為を正す、正業である。
第五に、正業に基き、生活を正す、正命である。
第六に、正命に基き、精進を正す、正進である。
第七に、正進に基き、集中を正す、正念である。
第八に、正念に基き、合一を正す、正定である。」

「比丘衆よ、こうして、正しく念じた者は、
生存の根が無ければ、阿羅漢となるのであり、
生存の根が残るならば、不還者となるのである。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


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