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サクルダーイ大経(マハーサクルダーイ・スッタ)

仏教

釈尊が尊敬される理由(箭毛経Ⅰ)



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章 |  第六章 |  第七章 |  第八章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ラージャグリハの、
カランダカニヴァーパに、止まっておられた。
その地には、著名な遊行者が、多く集っていた。

そして、仏陀が、サクルダーイを訪れると、
彼らの集団は、大声を出して、論争していた。
しかし、仏陀の到来に気づくと、彼らは言った。

「諸賢よ、静かにしろ、諸賢よ、静かにしろ。
沙門ゴータマが来られた、彼は論争を好まない。」

サクルダーイは、仏陀に恭しく挨拶すると、
仏陀に席を譲って、自らは低い場所に座った。
そして、仏陀に対して、このように語り掛けた。

「仏陀よ、先日、婆羅門が、一堂に会した時、
次のような話題が、彼らの中に起こったのです。」

『アンガの国、マガタの国は、実に幸せだ。
というのも、夏になると、ラージャガハには、
多くの婆羅門が訪れて、多くの法を説くからだ。

第一には、サンジャヤ・べーラッティプッタが、
第二に、ニガンタ・ナータプッタが訪れようし、
第三に、アジタ・ケーサカンバラが訪れようし、
第四に、バクダ・カッチャヤーナが訪れようし、
第五に、プラーナ・カッサパが訪れるだろうし、
第六に、マッカリ・ゴーサラが訪れるだろうし、
第七に、ゴータマ・シッダルダが訪れるだろう。』

「そのとき、ある婆羅門が、こう言いました。」
『本当だろうか、彼らを、同列に扱えるものか。』

『彼らの中で、ゴータマが飛び抜けている。
確かに他の師も、多くの弟子を持っているが、
彼らの弟子は、彼の弟子と、全く異なっている。』

『例えば、ゴータマが、法を説いていると、
彼の弟子は、微動だにせず、咳ひとつしない。
一方、他の師の弟子は、師の法を軽んじている。』

『例えば、ゴータマの、法に従えないとき、
彼の弟子は、仏陀を攻めず、我が身を責める。
一方、他の師の弟子は、師の方を責めてしまう。』

「仏陀よ、このように、他の師とは異なり、
仏陀は、自らの弟子達に、崇敬されています。
それゆえ、周りの婆羅門に、尊敬されるのです。」

 

第二章

「サクルダーイよ、弟子に尊敬される条件、
弟子が私を尊敬する理由に、五つの法がある。
それでは、この五つの法とは、如何なるものか。」

「第一に、最上の戒を、具えることである。
師匠が戒を備えると、弟子も戒を供え始める。
これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第二に、最上の定を、具えることである。
師匠が定を備えると、弟子も定を供え始める。
これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第三に、最上の慧を、具えることである。
師匠が慧を備えると、弟子も慧を供え始める。
これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第四に、最上の諦を、具えることである。
師匠が諦を備えると、弟子も諦を供え始める。
これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

「第五に、最上の品を、具えることである。
師匠が品を備えると、弟子も品を供え始める。
これによって、仏陀は、弟子から尊敬を受ける。」

 

第三章

「サクルダーイよ、それでは、最上の道品。
苦悩の滅尽に至る道、道諦である品とは何か。
サクルダーイよ、それが七科三十七道品である。」

「遊行者よ、第一の科とは、四念処、である。
それでは、この四つの念処は、如何なるものか。

第一に、身に対して、不浄であると念じること。
第二に、受に対して、不快であると念じること。
第三に、心に対して、無常であると念じること。
第四に、法に対して、無我であると念じること。」

「遊行者よ、第二の科とは、四正断、である。
それでは、この四つの正断は、如何なるものか。

第一に、積んでいる悪業を断じる、断断である。
第二に、積んでない悪業を断じる、修断である。
第三に、積んでいる善業を積む、随護断である。
第四に、積めてない善業を積む、律儀断である。」

「サクルダーイよ、第三の科は、五根である。
それでは、この五つの根とは、如何なるものか。

第一に、帰依に関する隠された力、信根である。
第二に、精進に関する隠された力、進根である。
第三に、集中に関する隠された力、念根である。
第四に、禅定に関する隠された力、定根である。
第五に、智慧に関する隠された力、慧根である。」

「サクルダーイよ、第四の科は、五力である。
それでは、この五つの力とは、如何なるものか。

第一に、帰依に関する現われた根、信力である。
第二に、精進に関する現われた根、進力である。
第三に、集中に関する現われた根、念力である。
第四に、禅定に関する現われた根、定力である。
第五に、智慧に関する現われた根、慧力である。」

「遊行者よ、第五の科とは、七覚支、である。
それでは、この七つの覚支は、如何なるものか。

第一に、繰り返して法を修める、念覚支である。
第二に、条件に合う法を選ぶ、択法覚支である。
第三に、一心不乱に修行する、精進覚支である。
第四に、法を修めることを喜ぶ、喜覚支である。
第五に、心や体が軽快になる、軽安覚支である。
第六に、瞑想により三昧に至る、定覚支である。
第七に、無為となり自然になる、捨覚支である。」

「遊行者よ、第六の科とは、八正道、である。
それでは、この八つの正道は、如何なるものか。

第一に、真理に基き、見解を正す、正見である。
第二に、正見に基き、思索を正す、正思である。
第三に、正思に基き、発言を正す、正語である。
第四に、正語に基き、行為を正す、正業である。
第五に、正業に基き、生活を正す、正命である。
第六に、正命に基き、精進を正す、正進である。
第七に、正進に基き、集中を正す、正念である。
第八に、正念に基き、合一を正す、正定である。」

「遊行者よ、第七の科とは、四如意足である。
それでは、この四つの如意は、如何なるものか。

第一に、欲求を以って修める、欲如意足である。
第二に、精進を以って修める、勤如意足である。
第三に、集中を以って修める、心如意足である。
第四に、思索を以って修める、観如意足である。」

 

第四章

「遊行者よ、弟子は、八つの解脱を修習する。
それでは、この八つの解脱は、如何なるものか。

第一解脱では、内に色が有り、外に色を認める。
第二解脱では、内に色が無く、外に色を認める。
第三解脱では、内と外に色が無く、清浄に至る。
第四解脱では、空無辺処を具足して、静止する。
第五解脱では、識無辺処を具足して、静止する。
第六解脱では、無所有処を具足して、静止する。
第七解脱では、非想非非想処に至り、静止する。
第八解脱では、想受滅定を具足して、静止する。」

 

第五章

「遊行者よ、弟子は、八つの勝処を修習する。
それでは、この八つの勝処は、如何なるものか。」

「内に色想が有る、即ち、観念が有るため、
外に識別が生じるが、小さければ囚われない。
サクルダーイよ、この段階が、第一勝処である。」

「内に色想が有る、即ち、観念が有るため、
外に識別が生じるが、大きくても囚われない。
サクルダーイよ、この段階が、第二勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、
外に識別が生じるが、小さければ囚われない。
サクルダーイよ、この段階が、第三勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、
外に識別が生じるが、大きくても囚われない。
サクルダーイよ、この段階が、第四勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、
外に見えている物が、全て、青に輝いている。
サクルダーイよ、この段階が、第五勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、
外に見えている物が、全て、黄に輝いている。
サクルダーイよ、この段階が、第六勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、
外に見えている物が、全て、赤に輝いている。
サクルダーイよ、この段階が、第七勝処である。」

「内に色想が無い、即ち、観念が無いため、
外に見えている物が、全て、白に輝いている。
サクルダーイよ、この段階が、第八勝処である。」

 

第六章

「遊行者よ、弟子は、十段の遍処を修習する。
それでは、この十段の遍処は、如何なるものか。

第一遍処では、地遍を、広大無辺に観じている。
第二遍処では、水遍を、広大無辺に観じている。
第三遍処では、火遍を、広大無辺に観じている。
第四遍処では、風遍を、広大無辺に観じている。
第五遍処では、青遍を、広大無辺に観じている。
第六遍処では、黄遍を、広大無辺に観じている。
第七遍処では、赤遍を、広大無辺に観じている。
第八遍処では、白遍を、広大無辺に観じている。
第九遍処では、空遍を、広大無辺に観じている。
第十遍処では、識遍を、広大無辺に観じている。」

 

第七章

「遊行者よ、弟子は、四つの禅定を修習する。
それでは、この四つの禅定は、如何なるものか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「喩えるなら、乾いた粉に水を含ませれば、
水を含んだ粉は、容易に崩れ落ちる事が無い。
彼らは、離欲の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「喩えるなら、外から水は入り込まないが、
内から湧き出る水で、深泉は遍く広がり渡る。
彼らは、無想の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「喩えるなら、泉に咲いている蓮華の花は、
下から上に至るまで、冷水で遍く広がり渡る。
彼らは、無喜の大楽で、透き通らない事が無い。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「喩えるなら、白衣を頭から被ってしまい、
上から下に至るまで、白衣で覆い尽している。
彼らは、無楽の清浄で、透き通らない事が無い。」

 

第八章

「遊行者よ、弟子は、六つの神通を修習する。
それでは、この六つの神通は、如何なるものか。」

「一身が多身となれば、多身が一身となる。
消えた姿が現れたり、水上を歩き空中を飛ぶ。
全ての世界に出現する、これが、神足通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、
泥から器を、焼物師が自由に作るようであり、
象牙から器を、象牙師が自在に作るようである。」

「近くの音を聴こえて、遠くの音が聞える。
人の声が聞えて来て、神の声が聴こえて来る。
聞えない音が聴こえる、これが、天耳通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、
法螺貝を吹き、音が四方に広がるようであり、
その大きな音が、皆に聞えるようなものである。」

「貪りを貪りと知れば、怒りを怒りと知る。
疑いを疑いと知れば、善き心を善き心と知る。
他の人の心を理解する、これが、他心通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、
自らの姿を湖面に映して、美しい者は美しい、
醜い者は醜いと、鏡を眺めるようなものである。」

「あの時の姓はこうで、あの生の名はこう。
あの生の糧はこうで、あの時の世の中はこう。
前の時の世を理解する、これが、宿命通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、
久し振りに、あの町から、この街に来た者が、
あの町から来ていると、知るようなものである。」

「近くの物を見とめて、遠くの者を認める。
この世が見えて来て、あの世が現われて来る。
見えない物を観とめる、これが、天眼通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、
この人は此方に向い、あの人は彼方に向うと、
街の中央に立って、道を見るようなものである。」

「この人は漏れていて、あの人は漏れない。
あの煩悩から漏れて、この煩悩から漏れない。
煩悩の漏れを滅尽する、これが、漏尽通である。」

「サクルダーイよ、これを、喩えるならば、
静かな湖面に、鳥たちが舞い降りて来た時に、
その波紋を見て、訪れを知るようなものである。」

「サクルダーイよ、これが、尊敬される条件。
仏陀が弟子に尊敬されている、五つの法である。」

これらの法を聞いた、遊行者サクルダーイは、
この教えを承り、実践しようと心から決意した。


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