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苦蘊大経(マハードゥッカカンダ・スッタ)

仏教



目次

第一章 |  第二章 |  第三章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
アナータピンディカ園に、止まっておられた。
そこに、比丘衆が訪れると、このように尋ねた。

「尊師よ、仏道と外道の違いは、何ですか。
我々が、ヴェーサーリーで、托鉢している時、
外道に問われましたが、答えられませんでした。」

「比丘達よ、内外の違いは、煩悩に現れる。
五つの味著を、外道は楽しみ、仏道は越える、
それでは、この五つの味著とは、何であろうか。

第一の楽は、眼による楽しみ、色の味著である。
第二の楽は、耳による楽しみ、声の味著である。
第三の楽は、鼻による楽しみ、香の味著である。
第四の楽は、舌による楽しみ、味の味著である。
第五の楽は、身による楽しみ、触の味著である。」

「比丘達よ、内外の違いは、煩悩に現れる。
五つの禍患を、外道は苦しみ、仏道は越える、
それでは、この五つの禍患とは、何であろうか。

第一の苦は、眼による苦しみ、色の禍患である。
第二の苦は、耳による苦しみ、声の禍患である。
第三の苦は、鼻による苦しみ、香の禍患である。
第四の苦は、舌による苦しみ、味の禍患である。
第五の苦は、身による苦しみ、触の禍患である。」

「比丘達よ、内外の違いは、菩提に現れる。
三つの苦諦を、外道は窮めて、仏道は究める。
それでは、この三つの苦諦とは、何であろうか。

第一の諦は、楽の裏に苦が生じる、苦苦である。
第二の諦は、楽を求め苦が生じる、行苦である。
第三の諦は、楽が壊れ苦が生じる、壊苦である。」

「比丘達よ、内外の違いは、菩提に現れる。
二つの集諦を、外道は窮めて、仏道は究める。
それでは、この二つの集諦とは、何であろうか。

第一の諦は、欲を究めて、楽になることである。
第二の諦は、楽を究めて、苦になることである。」

「比丘達よ、内外の違いは、菩提に現れる。
二つの滅諦を、外道は窮めて、仏道は究める。
それでは、この二つの滅諦とは、何であろうか。

第一の諦は、苦を究めて、空になることである。
第二の諦は、空を究めて、楽になることである。」

「比丘達よ、内外の違いは、菩提に現れる。
八つの道諦を、外道は窮めて、仏道は究める。
それでは、この八つの道諦とは、何であろうか。

第一の諦は、正しい見解に基づく、正見である。
第二の諦は、正しい思惟に基づく、正思である。
第三の諦は、正しい言葉に基づく、正語である。
第四の諦は、正しい行為に基づく、正業である。
第五の諦は、正しい生活に基づく、正命である。
第六の諦は、正しい精進に基づく、正進である。
第七の諦は、正しい集中に基づく、正念である。
第八の諦は、正しい禅定に基づく、正定である。」

 

第二章

「比丘達よ、内外の違いは、出離に現れる。
五つの集積を、外道は肥やし、仏道は越える。
それでは、この五つの集積とは、何であろうか。」

「第一に、色に就いて、このように考える。
若く美しい、体を見つめ、楽しんでしまうと、
年老いて醜い、体を見とめ、苦しむことになる。」

「見つめ楽しんだだけ、認めて苦しくなる。
色の煩悩に就いて、苦と楽が等しくなるとき、
彼は、煩悩を究めて、菩提を極めることになる。」

「第二に、受に就いて、このように考える。
透き通った、声を聞いて、楽しんでしまうと、
透き通らない、声を聴いて、苦しむことになる。」

「聞いて楽しんだだけ、聴いて苦しくなる。
受の煩悩に就いて、苦と楽が等しくなるとき、
彼は、煩悩を究めて、菩提を極めることになる。」

「第三に、想に就いて、このように考える。
捉えている、思いに耽り、楽しんでしまうと、
捕われている、想いに嵌り、苦しむことになる。」

「思って楽しんだだけ、想って苦しくなる。
想の煩悩に就いて、苦と楽が等しくなるとき、
彼は、煩悩を究めて、菩提を極めることになる。」

「第四に、行に就いて、このように考える。
明らめたい、欲を持って、楽しんでしまうと、
諦めてしまう、苦を以って、苦しむことになる。」

「持って楽しんだだけ、以って苦しくなる。
行の煩悩に就いて、苦と楽が等しくなるとき、
彼は、煩悩を究めて、菩提を極めることになる。」

「第五に、識に就いて、このように考える。
良くしたい、善を分けて、楽しんでしまうと、
飽いてしまう、悪が解かり、苦しむことになる。」

「分けて楽しんだだけ、解って苦しくなる。
識の煩悩に就いて、苦と楽が等しくなるとき、
彼は、煩悩を究めて、菩提を極めることになる。」

 

第三章

「比丘達よ、内外の違いは、出離に現れる。
四つの禅定を、外道は抑えて、仏道は修める。
それでは、この四つの禅定とは、何であろうか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「その時、彼らの意識は、慈に満たされる。
彼らは、己を慈しむように、他を愛するため、
色界の初禅天である、梵天界に止まるのである。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「その時、彼らの意識は、悲に満たされる。
彼らは、己を悲しむように、他を哀れむため、
色界の二禅天である、光天界に止まるのである。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「その時、彼らの意識は、喜に満たされる。
彼らは、自らを歓ぶように、周りを喜ぶため、
色界の三禅天である、浄天界に止まるのである。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「その時、彼らの意識は、捨に満たされる。
彼らは、己を超えるように、他を越えるため、
色界の有頂天である、色究竟天に至るのである。」

「比丘達よ、このように、苦楽を超越して、
一切の煩悩を出離する道が、仏陀の道である。
内外の違いとは、正しく、この捨の有無である。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


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