My Library Home

馬邑大経(マハーアッサプラ・スッタ)

仏教



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、アンガの国にある、
アッサプラという地方に、止まっておられた。
そこに、比丘衆が集まると、このように説いた。

「比丘達よ、比丘たる者、慚愧の念を持て。
慚の念は、己に対して、罪を恥じる事であり、
愧の念とは、他に対して、罪を恥じる事である。」

「比丘達よ、比丘たる者、身業を浄化せよ。
自らの身の業を浄めて、他の身の業を清めよ。
他より浄いと言って、慢心を抱いてはならない。」

「比丘達よ、比丘たる者、口業を浄化せよ。
自らの口の業を浄めて、他の口の業を清めよ。
他より浄いと言って、慢心を抱いてはならない。」

「比丘達よ、比丘たる者、心業を浄化せよ。
自らの心の業を浄めて、他の心の業を清めよ。
他より浄いと言って、慢心を抱いてはならない。」

「比丘達よ、比丘たる者、生活を浄化せよ。
為すべきを為して、為さないべきを為さない。
前より浄いと言って、慢心を抱いてはならない。」

「比丘達よ、比丘たる者、感官を守護せよ。
六つの根と六つの境を守り、六つの識を護れ。
前より浄いと言って、慢心を抱いてはならない。」

「比丘達よ、比丘たる者、少食を実践せよ。
味を貪る為に食べない、体を養う為に食べる。
前より寡いと言って、慢心を抱いてはならない。」

「比丘達よ、比丘たる者、不眠を実践せよ。
楽を貪る為に寝ないで、体を休める為に寝る。
前より短いと言って、慢心を抱いてはならない。」

「比丘達よ、比丘たる者、正念を正知せよ。
何を為すか正しく念じ、その訳を正しく知る。
前より知ると言って、慢心を抱いてはならない。」

 

第二章

「比丘達よ、比丘たる者、障害を除去せよ。
瞑想するとき、障害となる、五つの蓋がある。
それでは、この五つの蓋とは、如何なるものか。」

「第一に、貪りに囚われる、貪欲蓋である。
喩えるなら、金を返すために、金を借りると、
返しても、返しても、苦しくなるようなものだ。」

「第二に、瞋りに囚われる、瞋恚蓋である。
喩えるなら、嫌いなものでも、食べなければ、
病になり、好きなものも、食べられないようだ。」

「第三に、眠りに囚われる、昏眠蓋である。
喩えるなら、金を盗んで、牢に捕われた者が、
金が有っても、金を使えないようなものである。」

「第四に、焦りに囚われる、掉悔蓋である。
喩えるなら、奴隷が、自由を求めるあまりに、
ますます、不自由を感じてしまうようなものだ。」

「第五に、疑いに囚われる、愚痴蓋である。
喩えるなら、酔って、不安を忘れようとして、
ますます、覚めて、不安を覚えるようなものだ。」

 

第三章

「比丘達よ、比丘たる者、禅定を修習せよ。
瞑想するとき、段階となる、四つの禅がある。
それでは、この四つの禅とは、如何なるものか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「喩えるなら、乾いた粉に水を含ませれば、
水を含んだ粉は、容易に崩れ落ちる事が無い。
彼らは、離欲の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「喩えるなら、外から水は入り込まないが、
内から湧き出る水で、深泉は遍く広がり渡る。
彼らは、無想の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「喩えるなら、泉に咲いている蓮華の花は、
下から上に至るまで、冷水で遍く広がり渡る。
彼らは、無喜の大楽で、透き通らない事が無い。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「喩えるなら、白衣を頭から被ってしまい、
上から下に至るまで、白衣で覆い尽している。
彼らは、無楽の清浄で、透き通らない事が無い。」

 

第四章

「比丘達よ、比丘たる者、神通を修習せよ。
解脱するとき、獲得できる、六つの力がある。
それでは、この六つの力とは、如何なるものか。」

「一身が多身となれば、多身が一身となる。
消えた姿が現れたり、水上を歩き空中を飛ぶ。
全ての世界に出現する、これが、神足通である。」

「近くの音を聴こえて、遠くの音が聞える。
人の声が聞えて来て、神の声が聴こえて来る。
聞えない音が聴こえる、これが、天耳通である。」

「貪りを貪りと知れば、怒りを怒りと知る。
疑いを疑いと知れば、善き心を善き心と知る。
他の人の心を理解する、これが、他心通である。」

「あの時の姓はこうで、あの生の名はこう。
あの生の糧はこうで、あの時の世の中はこう。
前の時の世を理解する、これが、宿命通である。」

「近くの物を見とめて、遠くの者を認める。
この世が見えて来て、あの世が現われて来る。
見えない物を観とめる、これが、天眼通である。」

「この人は漏れていて、あの人は漏れない。
あの煩悩から漏れて、この煩悩から漏れない。
煩悩の漏れを滅尽する、これが、漏尽通である。」

 

第五章

「比丘達よ、比丘たる者、真理を感得せよ。
解脱するとき、感得できる、四つの諦がある。
それでは、この四つの諦とは、如何なるものか。」

「第一の諦は、苦しみの存在、苦諦である。
楽が生まれるとき、必ず、苦が埋まれている。
味著を究めるならば、必ず、禍患も極めている。」

「第二の諦は、苦しみの生起、集諦である。
隠すことは適っても、無くすことは敵わない。
逃げることは適っても、免れることは敵わない。」

「第三の諦は、苦しみの滅尽、滅諦である。
苦しみを喜んでいると、苦しみは小さくなる。
苦しみを悲しんでいると、苦しみは大きくなる。」

「第四の諦は、苦しみの超越、道諦である。
苦しみを消すならば、苦が無に変わっていき、
苦しみを越えるならば、苦が空に変わっていく。」

「比丘達よ、比丘たる者、羅漢を成就せよ。
あらゆる、煩悩を滅尽して、聖者を体現せよ。
苦の中にあり、苦に塗れない、蓮華の花であれ。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


Page Top | My Library Home