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身行念経(カーヤガターサティ・スッタ)

仏教

身体にむけた注意



目次

第一章 |  第二章 |  第三章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
ジェータ林にある、アナータピンディカ園で、
集まって来た、比丘衆に、このように説かれた。

「比丘達よ、身について、良く念じなさい。
身を良く念じるなら、大きな利が与えられる。
それでは、どのように、身を念じれば良いのか。」

「意識しながら吸い、意識をしながら吐く。
長く吸っていれば、長く吸っていると考えて、
短く吐いているなら、短く吐いていると考える。」

「体が為すことを、在りのままに見とめる。
歩いているなら、歩いていると、観じていき、
坐っているならば、坐っていると、感じていく。」

「体を成すものを、在りのままに見とめる。
この体は皮で覆われ、中には不浄の物がある。
胃、腸、肺、血液、唾液、胆汁、大便、小便等。」

「体が腐るさまを、在りのままに見とめる。
死体は、膨れていき、黒くなり、腐っていく。
烏に食われ、蛆に喰われ、白い骨ばかりになる。」

 

第二章

「正しく念じるものは、正しく定められて、
正しい禅定となり、四つの心三昧が現われる。
それでは、この四つの禅とは、如何なるものか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「喩えるなら、乾いた粉に水を含ませれば、
水を含んだ粉は、容易に崩れ落ちる事が無い。
彼らは、離欲の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「喩えるなら、外から水は入り込まないが、
内から湧き出る水で、深泉は遍く広がり渡る。
彼らは、無想の歓喜で、透き通らない事が無い。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「喩えるなら、泉に咲いている蓮華の花は、
下から上に至るまで、冷水で遍く広がり渡る。
彼らは、無喜の大楽で、透き通らない事が無い。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「喩えるなら、白衣を頭から被ってしまい、
上から下に至るまで、白衣で覆い尽している。
彼らは、無楽の清浄で、透き通らない事が無い。」

 

第三章

「こうして、身に関して、正しく念じれば、
あたかも、湿った木に、火が付かないように、
比丘に、魔王が付け入る、隙が消えるのである。」

「こうして、身に関して、正しく念じれば、
あたかも、柔かい土で、岩が割れないように、
比丘に、魔王が付け入る、隙が消えるのである。」

「こうして、身に関して、正しく念じれば、
あたかも、満ちた器に、水が入らないように、
比丘に、魔王が付け入る、隙が消えるのである。」

「こうして、身に関して、正しく念じれば、
誰でも、得られるであろう、十の利益がある。
それでは、この十の利益とは、如何なるものか。

第一の利は、嫌悪感を、越えられることである。
第二の利は、恐怖感を、越えられることである。
第三の利は、不快感に、耐えられることである。
第四の利は、四禅定を、修められることである。
第五の利は、神足通を、修められることである。
第六の利は、天耳通を、修められることである。
第七の利は、他心通を、修められることである。
第八の利は、宿命通を、修められることである。
第九の利は、天眼通を、修められることである。
第十の利は、漏尽通を、修められることである。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


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