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裸形梵志経(カッサパ・シーハナーダ・スッタ)

仏教



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

あるとき、仏陀は、ウジュンニャーに程近い、
カンナカッタラという、鹿の園に止まっていた。

そのとき、裸の修行者である、カッサパは、
仏陀の止まっている、カンナカッタラを訪れ、
恭しく挨拶すると、仏陀に対して、こう尋ねた。

「ゴータマよ、どちらが、正しいのですか。
右道を修めると、地獄に落ちるのでしょうか。
右道を修めるほど、天界に至れるのでしょうか。」

「カッサパよ、苦行の果報は、縁で変わる。
苦しみに拘ると、禍患を窮めて、地獄に落ち、
苦しみを落とすと、禍患を究めて、天界に至る。」

「ゴータマよ、どちらが、正しいのですか。
左道を修めると、地獄に落ちるのでしょうか。
左道を修めるほど、天界に至れるのでしょうか。」

「カッサパよ、楽行の果報は、縁で変わる。
楽しみに拘ると、味著を窮めて、地獄に落ち、
楽しみを落とすと、味著を究めて、天界に至る。」

「ゴータマよ、どちらが、正しいのですか。
禍患を究める右道は、解脱に至れるのですか。
味著を究める左道では、解脱に至れるのですか。」

「カッサパよ、右も左も、解脱に至らない。
禍患と味著を出離する、八つの中の道を進む。
それでは、この八つの道とは、如何なるものか。

第一に、真理に基き、見解を正す、正見である。
第二に、正見に基き、思索を正す、正思である。
第三に、正思に基き、発言を正す、正語である。
第四に、正語に基き、行為を正す、正業である。
第五に、正業に基き、生活を正す、正命である。
第六に、正命に基き、精進を正す、正進である。
第七に、正進に基き、集中を正す、正念である。
第八に、正念に基き、合一を正す、正定である。」

 

第二章

「行者よ、如来が現れると、価値が逆転し、
解脱の果報を知った人は、このように考える。
在家は不自由なことよ、出家は自由なことよと。」

「こうして、出家した者は、解脱に至るため、
戒を守り、諸根を守り、正念正智し、満足する。」

「それでは、どのように、戒を具足するのか。
行者よ、比丘が具足すべき、出家の十戒がある。

第一の戒は、殺生を禁じる、不殺生の戒である。
第二の戒は、偸盗を禁じる、不偸盗の戒である。
第三の戒は、邪淫を禁じる、不邪淫の戒である。
第四の戒は、虚言を禁じる、不妄語の戒である。
第五の戒は、冗談を禁じる、不綺語の戒である。
第六の戒は、悪口を禁じる、不悪口の戒である。
第七の戒は、陰口を禁じる、不両舌の戒である。
第八の戒は、貪欲を禁じる、不慳貪の戒である。
第九の戒は、瞋恚を禁じる、不瞋恚の戒である。
第十の戒は、愚痴を禁じる、不邪見の戒である。」

「それでは、どのように、諸根を保護するか。
行者よ、比丘が保護すべき、六つの感官がある。

第一の根は、眼により色を感じる、眼根である。
第二の根は、耳により声を感じる、耳根である。
第三の根は、鼻により香を感じる、鼻根である。
第四の根は、舌により味を感じる、舌根である。
第五の根は、身により触を感じる、身根である。
第六の根は、意により法を感じる、意根である。」

「それでは、どのように、正念正智するか。
行者よ、比丘衆は、いつでも、どこにいても、
何を念じるのか、正しく智って、正しく念じる。」

「それでは、どのように、満足を得るのか。
行者よ、喩えるなら、鳥が翼だけ持つように、
比丘衆は、衣鉢だけを持ち、満足するのである。」

「こうして、戒律、制感、正念正智、満足。
この四つの条件を得た者は、解脱に至るため、
世俗を離れて山奥に入り、深い禅定に安住する。」

 

第三章

「一方で、瞑想を妨げる、五つの条件がある。
行者よ、禅定を妨げる、五つの蓋は何のことか。」

「第一に、貪りに囚われる、貪欲蓋である。
喩えるなら、金を返すために、金を借りると、
返しても、返しても、苦しくなるようなものだ。」

「第二に、瞋りに囚われる、瞋恚蓋である。
喩えるなら、嫌いなものでも、食べなければ、
病になり、好きなものも、食べられないようだ。」

「第三に、眠りに囚われる、昏眠蓋である。
喩えるなら、金を盗んで、牢に捕われた者が、
金が有っても、金を使えないようなものである。」

「第四に、焦りに囚われる、掉悔蓋である。
喩えるなら、奴隷が、自由を求めるあまりに、
ますます、不自由を感じてしまうようなものだ。」

「第五に、疑いに囚われる、愚痴蓋である。
喩えるなら、酔って、不安を忘れようとして、
ますます、覚めて、不安を覚えるようなものだ。」

 

第四章

「賢い苦行者よ、これらの蓋を越えた者は、
戒により護られて、恐れが無くなるのである。
そして、それにより、念が集中するようになる。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「賢い苦行者よ、これらの禅を守った者は、
禅により護られて、正しい知を得るのである。
彼らは、在りのままに見て、在りのままに知る。」

『この身体は、地水火風の四大種からなり、
生み養われ、衰えて死ぬ、無常のものである。
そして、私の意識は、この身体に依存している。』

「こうして、如実知見の段を通過した者は、
その次に、遠離と離貪の段階に向うのである。
彼らは、心から作られた、別の身体を化作する。」

『さながら、刀が、鞘から抜かれるように、
あたかも、蛇が、蛇の皮から抜かれたように、
この化身は、身体から生じた、別の身体である。』

「こうして、遠離離貪の段を通過した者は、
解脱を遂げて、六つの神通力を得るのである。
それでは、この六つの力とは、如何なるものか。」

「一身が多身となれば、多身が一身となる。
消えた姿が現れたり、水上を歩き空中を飛ぶ。
全ての世界に出現する、これが、神足通である。」

「近くの音を聴こえて、遠くの音が聞える。
人の声が聞えて来て、神の声が聴こえて来る。
聞えない音が聴こえる、これが、天耳通である。」

「貪りを貪りと知れば、怒りを怒りと知る。
疑いを疑いと知れば、善き心を善き心と知る。
他の人の心を理解する、これが、他心通である。」

「あの時の姓はこうで、あの生の名はこう。
あの生の糧はこうで、あの時の世の中はこう。
前の時の世を理解する、これが、宿命通である。」

「近くの物を見とめて、遠くの者を認める。
この世が見えて来て、あの世が現われて来る。
見えない物を観とめる、これが、天眼通である。」

「この人は漏れていて、あの人は漏れない。
あの煩悩から漏れて、この煩悩から漏れない。
煩悩の漏れを滅尽する、これが、漏尽通である。」

第五章

「確かに、戒律を説く、婆羅門は存在する。
しかし、私より優る者を、私は見た事がない。
苦行者よ、私こそが、増上戒に優れた者である。」

「確かに、厭離を説く、婆羅門は存在する。
しかし、私より優る者を、私は見た事がない。
苦行者よ、私こそ、増上厭離に優れた者である。」

「確かに、智慧を説く、婆羅門は存在する。
しかし、私より優る者を、私は見た事がない。
苦行者よ、私こそが、増上慧に優れた者である。」

「確かに、解脱を説く、婆羅門は存在する。
しかし、私より優る者を、私は見た事がない。
苦行者よ、私こそ、増上解脱に優れた者である。」

「カッサパよ、如来は、すでに現れている。
私こそが、応供、等正覚、善逝、世尊である。
まさに、このように、仏陀は獅子の如く吼える。」

「昔、ラージャガハのギッジャクータ山で、
ニグローダという苦行者が、出家を果たした。
カッサパよ、まさに、今こそ、そのときである。」

「カッサパよ、異教の宗徒から、出離せよ。
四ヶ月の間、冷静に自分を見つめる時を持て。
四ヶ月の後に、汝に戒を与え、出家を認めよう。」

「尊師、ゴータマよ、出家の為であるなら、
四ヶ月と言わずに、四年間でも待ちましょう。
それゆえ、時機が来たら、どうか迎えて下さい。」

こうして、苦行者カッサパは、出家を果した。
そして、戒律を受けて励み、阿羅漢に到達した。


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