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天臂経(デーヴァダハ・スッタ)

仏教

業を消滅させる正しい実践



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章 |  第六章 |  第七章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サッカの国にある、
デーヴァダハという村に、止まっておられた。
そこに、比丘衆が集まると、このように説いた。

「ジャイナ教徒は、このように説いている。
カルマというものは、苦行によって消滅する。
業が滅して果が消えて、果が滅して苦が消える。」

「私は、以前、彼らに、このように言った。
前世を知らずに、業を説くのは誤まりである。
汝らは、カルマを説いても、カルマを知らない。」

「たとえば、矢で射られた、傷を治すとき、
傷を認めることなく、傷を治せることはない。
矢を見とめて、傷を見とめて、傷は癒えていく。」

「しかし、彼らは、そのことが分からない。
矢を認めることなく、傷を見とめることなく、
徒に、苦を塗り込んで、傷が治ると考えている。」

「私は、以前、彼らに、このように言った。
師を知らず、師を信じるのは、誤まりである。
汝らの師、ナータプッタの、何を知っているか。」

「たとえば、法を教わって、信が生じたり、
師の姿や、生き様を見て、信が生じたりする。
言を解したり、行を介したり、信を深めていく。」

「しかし、彼らは、そのことが分からない。
言を解することなく、行いを介することなく、
徒に、師を信じ抜いて、師が解ると考えている。」

 

第二章

「私は、以前、彼らに、このように言った。
苦行を修め、苦に病むならば、苦行は誤りで、
苦行を修めて、苦が止むならば、苦行は正しい。」

「汝らは、苦しい事が、貴いと考えている。
苦しみを越えるため、苦しみを修めようとし、
逆に、苦しみに囚われ、苦しみを喜んでいると。」

「私は、以前、彼らに、このように尋ねた。
苦を行じることで、苦を楽に変えられるかと、
汝らは、考えているのか、考えていないのかと。」

「すると、彼らは、考えていないと答えた。
つまり、彼らは、認めないことを行じている。
どうして、彼らに、苦しみを越えられるだろう。」

「私は、以前、彼らに、このように尋ねた。
苦を行じることで、悪を善に変えられるかと、
汝らは、考えているのか、考えていないのかと。」

「すると、彼らは、考えていないと答えた。
つまり、彼らは、認めないことを行じている。
どうして、彼らに、苦しみを越えられるだろう。」

「私は、以前、彼らに、このように尋ねた。
苦を行じることで、多を寡に変えられるかと、
汝らは、考えているのか、考えていないのかと。」

「すると、彼らは、考えていないと答えた。
つまり、彼らは、認めないことを行じている。
どうして、彼らに、苦しみを越えられるだろう。」

「私は、以前、彼らに、このように尋ねた。
苦を行じることで、昔を今に変えられるかと、
汝らは、考えているのか、考えていないのかと。」

「すると、彼らは、考えていないと答えた。
つまり、彼らは、認めないことを行じている。
どうして、彼らに、苦しみを越えられるだろう。」

 

第三章

「比丘達よ、このように説く、ニガンタ派、
すなわち、ジャイナ教徒は、以下の理由から、
正当に非難されて、正統から批難されるだろう。」

「もし、前世に拠って、苦悩を味わうなら、
苦行に酔って、苦悩を味わう、ニガンタ派は、
自ずと、悪しき前世を、持っていることになる。」

「もし、信仰に拠って、苦悩を味わうなら、
苦行に酔って、苦悩を味わう、ニガンタ派は、
自ずと、悪しき信仰を、持っていることになる。」

「もし、宿命に拠って、苦悩を味わうなら、
苦行に酔って、苦悩を味わう、ニガンタ派は、
自ずと、悪しき宿命を、持っていることになる。」

「もし、階級に拠って、苦悩を味わうなら、
苦行に酔って、苦悩を味わう、ニガンタ派は、
自ずと、悪しき階級を、持っていることになる。」

「もし、言動に拠って、苦悩を味わうなら、
苦行に酔って、苦悩を味わう、ニガンタ派は、
自ずと、悪しき言動を、持っていることになる。」

 

第四章

「それでは、どのように、苦を越えるのか。
楽に塗れる左を超え、苦に塗れる右を越えて、
中道に入ってこそ、苦楽を超越する涅槃に至る。」

「例えば、愛する女が、他の男と戯れる時、
恋する楽に捕われるなら、嫉む苦が生じるが、
愛する楽に囚われないなら、妬む苦は生じない。」

「こうして、楽と苦は、同時に現れている。
楽しみに溺れると、善が減って、悪が増える。
苦しみに気づくとき、悪が減って、善が増える。」

「苦しみに気づいて、苦しみに囚われると、
悪が減ることなく、悪を重ねてしまうだろう。
苦を悟ることと、苦を行じることは、別である。」

「例えば、左に曲がった矢を、右に曲げる。
もし、右に曲げすぎたら、真っ直ぐにならず、
今度は、左ではなく、右に曲ってしまうだろう。」

「同様に、楽に囚われた心を、苦に漬ける。
もし、苦に漬け過ぎたら、真っ直ぐにならず、
今度は、楽ではなく、苦に溺れてしまうだろう。」

「それゆえ、如来は、中道を説くのである。
左の楽を超え、右の苦を越え、中の道に入る。
比丘達よ、如来が説かれた、中庸を修めなさい。」

 

第五章

「比丘達よ、比丘たる者、戒を守りなさい。
仏陀の、弟子が護っている、十つの戒がある。
それでは、この十つの戒とは、如何なるものか。

第一の戒は、殺生を禁じる、不殺生の戒である。
第二の戒は、偸盗を禁じる、不偸盗の戒である。
第三の戒は、邪淫を禁じる、不邪淫の戒である。
第四の戒は、虚言を禁じる、不妄語の戒である。
第五の戒は、冗談を禁じる、不綺語の戒である。
第六の戒は、悪口を禁じる、不悪口の戒である。
第七の戒は、陰口を禁じる、不両舌の戒である。
第八の戒は、貪欲を禁じる、不慳貪の戒である。
第九の戒は、瞋恚を禁じる、不瞋恚の戒である。
第十の戒は、愚痴を禁じる、不邪見の戒である。」

「比丘達よ、比丘たる者、根を守りなさい。
仏陀の、弟子が護っている、六つの根がある。
それでは、この六つの根とは、如何なるものか。

第一の根は、眼により色を感じる、眼根である。
第二の根は、耳により声を感じる、耳根である。
第三の根は、鼻により香を感じる、鼻根である。
第四の根は、舌により味を感じる、舌根である。
第五の根は、身により触を感じる、身根である。
第六の根は、意により法を感じる、意根である。」

「比丘達よ、比丘たる者、境を智りなさい。
仏陀の、弟子が念じている、六つの境がある。
それでは、この六つの境とは、如何なるものか。

第一の境は、何を見ているのか、いつも念じよ。
第二の境は、何を聞いているか、いつも念じよ。
第三の境は、何を嗅いでいるか、いつも念じよ。
第四の境は、何を味っているか、いつも念じよ。
第五の境は、何を触れているか、いつも念じよ。
第六の境は、何を覚えているか、いつも念じよ。」

 

第六章

「比丘達よ、比丘たる者、蓋を越えなさい。
仏陀の、弟子が越えている、五つの蓋がある。
それでは、この五つの蓋とは、如何なるものか。

第一の蓋は、貪りに捕らわれる、貪欲蓋である。
第二の蓋は、瞋りに捕らわれる、瞋恚蓋である。
第三の蓋は、眠りに捕らわれる、昏眠蓋である。
第四の蓋は、焦りに捕らわれる、掉悔蓋である。
第五の蓋は、疑いに捕らわれる、愚痴蓋である。」

「比丘達よ、比丘たる者、禅を定めなさい。
仏陀の、弟子が修めている、四つの禅がある。
それでは、この四つの禅とは、如何なるものか。

第一の定は、有尋有伺である、第一禅定である。
第二の定は、無尋無伺である、第二禅定である。
第三の定は、正念楽住である、第三禅定である。
第四の定は、捨念清浄である、第四禅定である。」

「比丘達よ、比丘たる者、智を修めなさい。
仏陀の、弟子が具えている、三つの明がある。
それでは、この四つの明とは、如何なるものか。

第一の慧は、過去の明知である、宿命通である。
第二の慧は、未来の明知である、天眼通である。
第三の慧は、現在の明知である、漏尽通である。」

「比丘達よ、比丘たる者、漏を断じなさい。
仏陀の、弟子が尽している、三つの漏がある。
それでは、この三つの漏とは、如何なるものか。

第一の漏は、欲望から漏れている、欲漏である。
第二の漏は、生存から漏れている、有漏である。
第三の漏は、無明により漏れる、無明漏である。」

 

第七章

「比丘達よ、このように説く、如来の弟子、
すなわち、真理の系統者は、以下の理由から、
正当に評価されて、正統から評価されるだろう。」

「もし、前世に拠って、苦悩を味わうなら、
禅定を修めて、苦悩を越えた、如来の弟子は、
自ずと、優れた前世を、持っていることになる。」

「もし、信仰に拠って、苦悩を味わうなら、
禅定を修めて、苦悩を越えた、如来の弟子は、
自ずと、優れた前世を、持っていることになる。」

「もし、宿命に拠って、苦悩を味わうなら、
禅定を修めて、苦悩を越えた、如来の弟子は、
自ずと、優れた前世を、持っていることになる。」

「もし、階級に拠って、苦悩を味わうなら、
禅定を修めて、苦悩を越えた、如来の弟子は、
自ずと、優れた前世を、持っていることになる。」

「もし、言動に拠って、苦悩を味わうなら、
禅定を修めて、苦悩を越えた、如来の弟子は、
自ずと、優れた前世を、持っていることになる。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


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