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獅子吼小経(チューラシーハナーダ・スッタ)

仏教



目次

第一章 |  第二章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
ジェータ林にある、アナータピンディカ園で、
集まって来た、比丘衆に、このように説かれた。

「比丘達よ、数々の外道が存在しているが、
四双八輩、聖なる流れが、存在しているのは、
真理の道だけであると、わたしは、獅子吼する。」

「比丘達よ、供養に相応しい、応供である、
正等覚である、仏陀が説く、四つの法がある。
それでは、この四つの法とは、如何なるものか。

第一に、仏陀に対して、浄らかな信を持つこと。
第二に、法則に対して、浄らかな信を持つこと。
第三に、僧伽に対して、浄らかな信を持つこと。
第四に、師弟に対して、清らかな愛を持つこと。」

「確かに、外道の中にも、多少の道がある。
しかし、道が究極かと問えば、そうではない。
彼らの中には、貪と瞋と痴、三毒が残っている。」

「比丘達よ、三毒の証となる、執着がある。
外道が、囚われている見解、二つの見がある。
それでは、この二つの見とは、如何なるものか。

第一の見は、存在していると見る、常見である。
第二の見は、存在してないと見る、断見である。」

「あらゆる見解に、味著と禍患が存在する。
味著を楽しむと拘り、禍患に苦しむと越える。
見解の表と裏を味わい、一切の見解を出離する。」

「比丘達よ、内なる道の者は、出離するが、
外の道の者は、四つの囚われに、執着をする。
それでは、この四つの取とは、如何なるものか。

第一の取は、欲望に執着すること、欲取である。
第二の取は、見解に執着すること、見取である。
第三の取は、戒誓に執着すること、戒取である。
第四の取は、自説に執着すること、我取である。」

「これは、目指す処が、異なるからである。
内の道の者は、在りのままを、見つめていて、
外なる道の者は、思いのままを、見とめている。」

「内の道の者は、仏を見つめ、法を修める。
彼は、仏の説いている、法を解いているため、
法が信じられなくなると、我を離れるのである。」

「外の道の者は、我を見とめ、業を修める。
彼は、法を信じている、我を信じているため、
法が信じられなくなると、法を捨てるのである。」

 

第二章

「それでは、この取著は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、取は愛から生まれ、渇愛から生じる。」

「それでは、この渇愛は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、愛は受から生まれ、感受から生じる。」

「それでは、この感受は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、受は触から生まれ、接触から生じる。」

「それでは、この接触は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、触は処から生まれ、六処から生じる。」

「それでは、この六処は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、処は蘊から生まれ、名色から生じる。」

「それでは、この名色は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、蘊は識から生まれ、識別から生じる。」

「それでは、この識別は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、識は行から生まれ、意志から生じる。」

「それでは、この意志は、何を因縁として、
何から生まれ、何から生じているのだろうか。
比丘達よ、行は痴から生まれ、無明から生じる。」

「比丘達よ、こうして、究極の道を進めば、
取著を離れて、無明を越えて、明智が生じる。
我らと彼らの違いは、実に、智慧の有無である。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


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