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梵網経ぼんもうきょう

仏教

二巻。鳩摩羅什(くまらじゆう)の訳とされるが、五世紀頃成立した偽経。大乗菩薩戒の根本聖典として重視される。



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章 |  第六章 |  第七章 |  第八章 |  第九章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、五百人の比丘衆と、
ナーランダから、ラージャガハに歩いていた。
その同じ道を、スッピヤも、弟子と歩いていた。

師匠であるスッピヤは、仏陀を誹謗したが、
弟子のブラフマダッタは、仏陀の称賛をした。
彼らは、反対のことを言いながら、歩いていた。

この様子を見ながら、比丘衆が騒いでいると、
仏陀が現われて、比丘衆に、このように言った。

「比丘衆よ、誹謗されても、称賛されても、
それらに、決して、心を動かしてはならない。
心を動かされて、正しく見ることが出来ようか。」

「比丘衆よ、誹謗にしても、称賛にしても、
凡夫が、如来を評価するときは、卑近なこと、
実に、些細なことでしか、判断しないのである。」

「比丘衆よ、凡夫が如来を、評価するとき、
小と中と大の、三つの戒により、判断をする。
それでは、十の小なる戒とは、如何なるものか。

第一の戒は、殺生を禁じる、不殺生の戒である。
第二の戒は、偸盗を禁じる、不偸盗の戒である。
第三の戒は、邪淫を禁じる、不邪淫の戒である。
第四の戒は、虚言を禁じる、不妄語の戒である。
第五の戒は、冗談を禁じる、不綺語の戒である。
第六の戒は、悪口を禁じる、不悪口の戒である。
第七の戒は、陰口を禁じる、不両舌の戒である。
第八の戒は、貪欲を禁じる、不慳貪の戒である。
第九の戒は、瞋恚を禁じる、不瞋恚の戒である。
第十の戒は、愚痴を禁じる、不邪見の戒である。」

「比丘衆よ、凡夫が如来を、評価するとき、
小と中と大の、三つの戒により、判断をする。
それでは、十の中なる戒とは、如何なるものか。

第一の戒は、生を殺めない、不殺生の戒である。
第二の戒は、他を盗まない、不偸盗の戒である。
第三の戒は、性に溺れない、不邪淫の戒である。
第四の戒は、嘘を言わない、不妄語の戒である。
第五の戒は、酒を飲まない、不飲酒の戒である。
第六の戒は、物を貯めない、不蓄金銀宝である。
第七の戒は、心が遊ばない、不歌舞観聴である。
第八の戒は、体を飾らない、不塗飾香鬘である。
第九の戒は、楽を止める、不坐高広大牀である。
第十の戒は、朝しか食べない、不非時食である。」

「比丘衆よ、凡夫が如来を、評価するとき、
小と中と大の、三つの戒により、判断をする。
それでは、十の大なる戒とは、如何なるものか。

第一の戒は、生を殺めない、不殺生の戒である。
第二の戒は、他を盗まない、不偸盗の戒である。
第三の戒は、性に溺れない、不邪淫の戒である。
第四の戒は、嘘を言わない、不妄語の戒である。
第五の戒は、酒を飲まない、不飲酒の戒である。
第六の戒は、他を責めない、不説過罪戒である。
第七の戒は、慢心しない、不自讃毀他戒である。
第八の戒は、貪欲を離れる、不慳法財戒である。
第九の戒は、瞋恚を離れる、不瞋恚の戒である。
第十の戒は、三宝を称える、不謗三宝戒である。」

 

第二章

「比丘衆よ、この世の不滅を説く者が居る。
彼らは、四種の根拠により、常住論を訴える。
それでは、この四つの根拠は、如何なるものか。」

「第一とは、何生も思い起こす場合である。
この私は、現在も生存する、過去も生存する。
彼らは、このように考え、不滅であると訴える。」

「第二とは、何劫も思い起こす場合である。
この世は、現在も存在する、過去も存在する。
彼らは、このように考え、不滅であると訴える。」

「第三とは、何十劫も思い出す場合である。
この世は、何十劫も存在し、永遠に存在する。
彼らは、このように考え、不滅であると訴える。」

「第四とは、推理により訴える場合である。
この世は、過去も存在する、未来も存在する。
彼らは、このように考え、不滅であると訴える。」

「以前がそうだから、以後もそうなるはず。
比丘衆よ、この思い込みが、無明の闇である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

 

第三章

「比丘衆よ、部分的に不滅を説く者が居る。
彼らは、四種の根拠により、一部常住を説く。
それでは、この四つの根拠は、如何なるものか。」

「第一とは、創造主、大梵天の場合である。
創造主の、私は常住であり、他は無常である。
彼らは、このように考え、不滅もあると訴える。」

「第二とは、支配者、第六天の場合である。
支配者の、私は常住であり、他は無常である。
彼らは、このように考え、不滅もあると訴える。」

「第三とは、統率者、阿修羅の場合である。
統率者の、私は常住であり、他は無常である。
彼らは、このように考え、不滅もあると訴える。」

「第四とは、推理により訴える場合である。
この世は、心は常住であり、物は無常である。
彼らは、このように考え、不滅もあると訴える。」

「部分がそうであり、全体はそうではない。
比丘衆よ、この思い込みが、無明の闇である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

 

第四章

「比丘衆よ、有限や無限を訴える者が居る。
彼らは、四種の根拠により、辺無辺を訴える。
それでは、この四つの根拠は、如何なるものか。」

「第一とは、限界を見とめた、場合である。
心三昧により、私は、世界の果てを見とめた。
彼らは、このように考えて、有限であると説く。」

「第二とは、限界を認めない、場合である。
心三昧により、私は、世界の果てを認めない。
彼らは、このように考えて、無限であると説く。」

「第三とは、限界を分けない、場合である。
この世は、有限であり、同時に、無限である。
彼らは、このように考えて、限界が分からない。」

「第四とは、限界を知らない、場合である。
この世は、有限でなく、同時に、無限でない。
彼らは、このように考えて、限界を悟とれない。」

「縁が変われば、有限に代り、無限に変る。
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

 

第五章

「比丘衆よ、是と非に、分けない者が居る。
彼らは、四種の根拠により、詭弁論を訴える。
それでは、この四つの根拠は、如何なるものか。」

「第一とは、妄語を忌避する、場合である。
言い切ったら、誤まりのときに、困るだろう。
彼らは、このように考えて、是と非を分けない。」

「第二とは、取著を忌避する、場合である。
言い切ったら、囚われてしまい、困るだろう。
彼らは、このように考えて、是と非を分けない。」

「第三とは、難詰を忌避する、場合である。
言い切ったら、責められるため、困るだろう。
彼らは、このように考えて、是と非を分けない。」

「第四とは、単純に愚痴なる、場合である。
是であるのか、是ではないのか、解からない。
彼らは、このように考えて、是と非を分けない。」

「解る事は分かる、解らない事は分らない。
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

 

第六章

「比丘衆よ、因果律を、認めない者が居る。
彼らは、二種の根拠により、無因論を訴える。
それでは、この二つの根拠は、如何なるものか。」

「第一とは、偶然と考えている場合である。
こうして、偶然に現れたから、原因などない。
彼らは、このように考えて、因果を見とめない。」

「第二とは、当然と考えている場合である。
こうして、当然に現れたから、原因などない。
彼らは、このように考えて、因果を見とめない。」

「偶然は忘れただけ、当然は囚われただけ。
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

第七章

「比丘衆よ、死後の意識を認める者が居る。
彼らは、十六の根拠により、有想論を訴える。
それでは、この十六の根拠は、如何なるものか。

第一には、死後は、有色であると、考えている。
第二には、死後は、無色であると、考えている。
第三には、有色であり、無色であると、考える。
第四には、有色でなく、無色でないと、考える。
第五には、死後は、有辺であると、考えている。
第六には、死後は、無辺であると、考えている。
第七には、有辺であり、無辺であると、考える。
第八には、有辺でなく、無辺でないと、考える。
第九には、死後に一想を有すると、考えている。
第十には、死後に異想を有すると、考えている。
第十一に、死後に少想を有すると、考えている。
第十二に、死後に無量想を有すと、考えている。
第十三に、死後に一向楽を有すと、考えている。
第十四に、死後に一向苦を有すと、考えている。
第十五に、死後に楽苦を有すると、考えている。
第十六に、死後は、不苦不楽であると、考える。」

「輪廻するなら有想、解脱するならば無想
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

「比丘衆よ、死後の意識を見ない者が居る。
彼らは、八つの根拠により、無想論を訴える。
それでは、この八つの根拠は、如何なるものか。

第一には、死後は、有色であると、考えている。
第二には、死後は、無色であると、考えている。
第三には、有色であり、無色であると、考える。
第四には、有色でなく、無色でないと、考える。
第五には、死後は、有辺であると、考えている。
第六には、死後は、無辺であると、考えている。
第七には、有辺であり、無辺であると、考える。
第八には、有辺でなく、無辺でないと、考える。」

「輪廻するなら有想、解脱するならば無想
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

「比丘衆よ、非有想非無想を説く者が居る。
彼らは、八つの根拠で、非有想非無想を説く。
それでは、この八つの根拠は、如何なるものか。

第一には、死後は、有色であると、考えている。
第二には、死後は、無色であると、考えている。
第三には、有色であり、無色であると、考える。
第四には、有色でなく、無色でないと、考える。
第五には、死後は、有辺であると、考えている。
第六には、死後は、無辺であると、考えている。
第七には、有辺であり、無辺であると、考える。
第八には、有辺でなく、無辺でないと、考える。」

「輪廻するなら有想、解脱するならば無想
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

 

第八章

「比丘衆よ、死後の断絶を訴える者が居る。
彼らは、七つの根拠により、断滅論を訴える。
それでは、この七つの根拠は、如何なるものか。」

「第一とは、肉体に囚われる、場合である。
肉体は人界に止まり、それを越える者はない。
彼らは、このように考えて、死後は無いと説く。」

「第二とは、応身に囚われる、場合である。
応身は欲界に止まり、それを越える者はない。
彼らは、このように考えて、死後は無いと説く。」

「第三とは、報身に囚われる、場合である。
報身は色界に止まり、それを越える者はない。
彼らは、このように考えて、死後は無いと説く。」

「第四とは、空無辺処に居る、場合である。
法身は法界に止まり、それを越える者はない。
彼らは、このように考えて、死後は無いと説く。」

「第五とは、識無辺処に居る、場合である。
法身は法界に止まり、それを越える者はない。
彼らは、このように考えて、死後は無いと説く。」

「第六とは、無所有処に居る、場合である。
法身は法界に止まり、それを越える者はない。
彼らは、このように考えて、死後は無いと説く。」

「第七とは、非想非非想処の、場合である。
法身は法界に止まり、それを越える者はない。
彼らは、このように考えて、死後は無いと説く。」

「囚われると体に、捕われないと空になる。
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」

 

第九章

「比丘衆よ、この世の涅槃を説く者が居る。
彼らは、五つの根拠により、現法涅槃を説く。
それでは、この五つの根拠は、如何なるものか。」

「第一とは、五妙欲に嵌まる、場合である。
この世は楽である、この現世こそ涅槃である。
彼らは、このように考えて、現在の涅槃を説く。」

「第二とは、第一禅に嵌まる、場合である。
有尋有伺は楽である、これこそが涅槃である。
彼らは、このように考えて、現在の涅槃を説く。」

「第三とは、第二禅に嵌まる、場合である。
無尋無伺は楽である、これこそが涅槃である。
彼らは、このように考えて、現在の涅槃を説く。」

「第四とは、第三禅に嵌まる、場合である。
無頓着は大楽である、これこそが涅槃である。
彼らは、このように考えて、現在の涅槃を説く。」

「第五とは、第四禅に嵌まる、場合である。
不苦不楽は自由である、これこそ涅槃である。
彼らは、このように考えて、現在の涅槃を説く。」

「自由に捕らわれる、不自由に囚われない。
比丘衆よ、この捉え方こそ、智慧の光である。
それ故、仏陀は、この論に囚われず、解脱する。」


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