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浮弥経(ブーミジャ・スッタ)

仏教

成果を得るもととなるもの



目次

第一章 |  第二章 |  第三章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ラージャグリハの、
カランダカニヴァーパに、止まっておられた。
そこに、プーミジャが訪れ、このように言った。

「尊師よ、今朝、ジャヤセーナ王子を訪ね、
彼から、私は、このような質問を受けました。
私の答えに過ちがないか、どうか確めて下さい。」

『尊者よ、婆羅門は、このように説きます。
たとえ、望んだところで、梵行の果報はない。
望もうが、望むまいが、果報が返ることはない。』

『王子よ、仏陀は、このように説かれます。
正しい原因が在れば、正しい果報が現われる。
望もうが、望むまいが、因果が覆ることはない。』

『たとえ、梵行による、果報を求めようと、
正しい梵行が無いと、正しい果報は現れない。
邪なる梵行が有るなら、邪なる果報が現われる。』

『たとえ、梵行による、果報を求めまいと、
正しい梵行が有れば、正しい果報が現われる。
邪まる原因が無ければ、邪なる結果は現れない。』

仏陀は、ブーミジャに対し、このように答えた。

「このように尋ねられ、このように答える。
これは、私の教えを、正しく説いたと言える。
同じ法を持つ者として、落ち度が無いと言える。」

 

第二章

「ブーミジャよ、正しい道を、妨げるもの。
果報を、妨げる障りとなる、八つの障がある。
それでは、この八つの障とは、如何なるものか。

第一の障は、邪なる見解に基づく、邪見である。
第二の障は、邪なる思惟に基づく、邪思である。
第三の障は、邪なる言葉に基づく、邪語である。
第四の障は、邪なる行為に基づく、邪業である。
第五の障は、邪なる生活に基づく、邪命である。
第六の障は、邪なる精進に基づく、邪進である。
第七の障は、邪なる集中に基づく、邪念である。
第八の障は、邪なる禅定に基づく、邪定である。」

「たとえば、胡麻油を求めようとする者が、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
砂から絞ろうとして、どうして求められるのか。」

「たとえば、牛の乳を求めようとする者が、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
馬に求めようとして、どうして求められるのか。」

「たとえば、バターを求めようとする者が、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
水を掻き回すことで、どうして求められるのか。」

「たとえば、薪に火を付けようとする者が、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
薪を湿らせておいて、どうして求められるのか。」

 

第三章

「ブーミジャよ、正しい道を、進めるもの。
果報が、現れる導きとなる、八つの道がある。
それでは、この八つの道とは、如何なるものか。

第一の道は、正しい見解に基づく、正見である。
第二の道は、正しい思惟に基づく、正思である。
第三の道は、正しい言葉に基づく、正語である。
第四の道は、正しい行為に基づく、正業である。
第五の道は、正しい生活に基づく、正命である。
第六の道は、正しい精進に基づく、正進である。
第七の道は、正しい集中に基づく、正念である。
第八の道は、正しい禅定に基づく、正定である。」

「たとえば、胡麻油を求めようとする者は、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
胡麻に求めるならば、自ずから得られるだろう。」

「たとえば、牛の乳を求めようとする者が、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
牛から求めるならば、自ずから得られるだろう。」

「たとえば、バターを求めようとする者が、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
乳を掻き回すならば、自ずから得られるだろう。」

「たとえば、薪に火を付けようとする者が、
どれだけ望もうと、どれだけ望んでいまいと、
薪を乾かしておけば、自ずから得られるだろう。」

これを聞いて、ブーミジャは、歓喜し実践した。


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