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跋陀和利経(バッダーリ・スッタ)

仏教

一日一回の食事



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章 |  第五章 |  第六章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
ジェータ林にある、アナータピンディカ園で、
集まって来た、比丘衆に、このように説かれた。

「比丘達よ、私は、日に一回、食事を摂る。
それゆえ、病気を免れて、体も軽やかである。
汝らも、日に一回だけ、食事を摂るようにせよ。」

すると、バッダーリは立ち上がり、こう訴えた。

「尊師よ、一日一食では、体が持ちません。」
「それなら、一食分を、分けて食べても良い。」
「いいえ、無理です、私は、彼方に従えません。」

そして、三ヶ月の間、仏陀に会わなかった。
三ヶ月後、バッダーリは、友に諭されながら、
仏陀の止まる処を訪ねると、このように謝った。

「尊師よ、わたしが、間違っておりました。
どうか、わたしが、犯した罪を許して下さい。
これから、戒を守り、律を護りたいと思います。」

すると、仏陀は、彼に対し、このように言った。

「誰か従がわないなら、皆が従わなくなる。
自らの為にもならず、他の為にもならないと、
汝は、自らの罪深さが、分らなかったのである。」

 

第二章

「バッダーリよ、汝は、どう思うだろうか。
名と色を解脱した、倶解脱の者が居たならば、
彼は、他の為に、自らを他の範とするだろうか。」

「尊師よ、もちろん、手本となるでしょう。
彼は、他のために、自らを犠牲するはずです。
私の様に、振る舞うことは、決して有りません。」

「バッダーリよ、汝は、どう思うだろうか。
名に関し解脱した、慧解脱の者が居たならば、
彼は、他の為に、自らを他の範とするだろうか。」

「尊師よ、もちろん、手本となるでしょう。
彼は、他のために、自らを犠牲するはずです。
私の様に、振る舞うことは、決して有りません。」

「バッダーリよ、汝は、どう思うだろうか。
身を以って体現した、身証の者が居たならば、
彼は、他の為に、自らを他の範とするだろうか。」

「尊師よ、もちろん、手本となるでしょう。
彼は、他のために、自らを犠牲するはずです。
私の様に、振る舞うことは、決して有りません。」

「バッダーリよ、汝は、どう思うだろうか。
見を以って到達した、見到の者が居たならば、
彼は、他の為に、自らを他の範とするだろうか。」

「尊師よ、もちろん、手本となるでしょう。
彼は、他のために、自らを犠牲するはずです。
私の様に、振る舞うことは、決して有りません。」

「バッダーリよ、汝は、どう思うだろうか。
信に拠り解脱した、信解脱の者が居たならば、
彼は、他の為に、自らを他の範とするだろうか。」

「尊師よ、もちろん、手本となるでしょう。
彼は、他のために、自らを犠牲するはずです。
私の様に、振る舞うことは、決して有りません。」

「バッダーリよ、汝は、どう思うだろうか。
法に従い実践する、随法行の者が居たならば、
彼は、他の為に、自らを他の範とするだろうか。」

「尊師よ、もちろん、手本となるでしょう。
彼は、他のために、自らを犠牲するはずです。
私の様に、振る舞うことは、決して有りません。」

「バッダーリよ、汝は、どう思うだろうか。
信に従い実践する、随信行の者が居たならば、
彼は、他の為に、自らを他の範とするだろうか。」

「尊師よ、もちろん、手本となるでしょう。
彼は、他のために、自らを犠牲するはずです。
私の様に、振る舞うことは、決して有りません。」

「バッダーリよ、確かに、汝は罪を犯した。
しかし、罪を認めたことは、他の手本となる。
それゆえ、汝が犯した過ちを、わたしは許そう。」

「師に習わなければ、他に倣われなくなる。
彼が法を習うほど、誰もが法に倣わなくなる。
師に倣わず、法を習っても、他の為にならない。」

「師に習らうならば、他が倣うようになる。
彼が法を習うほど、皆が法に倣うようになる。
師に倣って、法を習うなら、自と他の為になる。」

 

第三章

「バッダーリよ、師に倣って、法を習えば、
自ずから導かれる事になる、四つの禅がある。
それでは、この四つの禅とは、如何なるものか。」

「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、
欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」

「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、
想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」

「第三の禅とは、正念が有り、正知が有る
喜を捨てて生じる、大楽を体験する禅である。
その時、全身は、無喜の大楽で満たされている。」

「第四の禅とは、大楽が無く、清浄が有る、
楽を捨てて生じる、空性を体験する禅である。
その時、全身は、無楽の空性で満たされている。」

「バッダーリよ、師に倣って、法を習えば、
自ずから得られる事になる、三つの明がある。
それでは、この三つの明とは、如何なるものか。」

「第一の明とは、過去の智、宿命通である。
一、十、百、千の、過去世を思い出すことで、
如何なる業が、如何なる命を宿すか、証知する。」

「第二の明とは、未来の智、天眼通である。
一、十、百、千の、未来世を透し見ることで、
如何なる業が、如何なる生を課すか、証知する。」

「第三の明とは、現在の智、漏尽通である。
一、十、百、千の、漏煩悩を見て取ることで、
如何なる業が、如何なる漏を生むか、証知する。」

 

第四章

バッダーリは、仏陀に対し、このように尋ねた。

「尊師よ、多くの律を、加える者も居れば、
反対に、多くの律が、課されない者も居ます。
果たして、この違いは、何処に生じるのですか。」

仏陀は、バッダーリに対し、このように答えた。

「多く律を課せるのは、信が有る者であり、
多く律を課せないものは、信が無い者である。
先ず、信の有無により、律の多寡が決められる。」

「多くの律が要るのは、罪が深い者であり、
多くの律が要らないのは、罪が浅い者である。
次に、罪の多寡により、律の多寡が決められる。」

「更に律を加えるのは、改めない者であり、
更なる律を加えないのは、改めうる者である。
即ち、心の変化により、律の多寡が決められる。」

「もとより、律は、心を改めるものであり、
心から改められれば、律は要らないのである。
心を変えない、強すぎる律は、本末転倒である。」

 

第五章

バッダーリは、仏陀に対し、このように尋ねた。

「現在は、多くの戒が、課されていますが、
以前は、多くの戒が、課されてませんでした。
果たして、この違いは、何処に生じるのですか。」

仏陀は、バッダーリに対し、このように答えた。

「邪なる僧伽に於いては、戒律が用いられ、
正しい僧伽に於いては、戒律は用いられない。
先ず、正邪の違いで、戒律の使用が決められる。」

「小さな僧伽に於いては、個々に決められ、
大きな僧伽に於いては、個々に決められない。
次に、大小の違いで、戒律が全体に強いられる。」

「貧しい僧伽に於いては、条件が厳しいが、
豊かな僧伽に於いては、条件が緩やかになる。
即ち、条件の違いで、戒律の緩急が変えられる。」

「もとより、戒は、心を強めるものである。
心から強められれば、戒は要らないのである。
心を強めない、緩すぎる戒は、本末転倒である。」

 

第六章

「あたかも、生まれた、子馬の如くである。
小さいときは、動き回らず、柵が要らないが、
大きくなるほど、動き回って、柵が求められる。」

「同じ様に、この僧伽も、大きくなるほど、
聖なる道から、外れ易くなり、漏れ易くなる。
邪なる知恵も付いたし、邪なる見解も現われた。」

「それを、封じる為に、戒が要るのである。
皆が守れるならば、誰もが責められないのに、
誰かが護らないから、皆が迫まられるのである。」

「戒をして、御する者が、調御丈夫である。
丈夫が、正しく導くところ、十つの道がある。
それでは、この十つの道とは、如何なるものか。

第一の道は、正しい見解に基づく、正見である。
第二の道は、正しい思惟に基づく、正思である。
第三の道は、正しい言葉に基づく、正語である。
第四の道は、正しい行為に基づく、正業である。
第五の道は、正しい生活に基づく、正命である。
第六の道は、正しい精進に基づく、正進である。
第七の道は、正しい集中に基づく、正念である。
第八の道は、正しい禅定に基づく、正定である。
第九の道は、正しい智慧に基づく、正慧である。
第十の道は、正しい解脱に基く、正解脱である。」

これを聞いた、バッダーリは、歓喜し実践した。


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