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浄不動道経(アーナンジャサッパーヤ・スッタ)

仏教

不動にふさわしい実践を説く



目次

第一章 |  第二章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、クル国に存在する、
カッマッサダッマの村に、止まっておられた。
そこに、比丘衆が集まると、このように説いた。

「比丘達よ、欲望は、虚であり、偽であり、
幻想を描いている、愚者が求めるものである。
魔の領域であり、道を求める弟子の障害となる。」

『現世の欲にしても、来世の欲望にしても、
煩悩に打ち克って、三毒を越えるべきである。
そうすれば、心が静まり、無辺に広がるだろう。』

「比丘達よ、このように、修習する弟子は、
自ずから、見えている物に、心が止まるため、
第一の不動、すなわち、四禅定の境地に達する。」

『現世の欲にしても、来世の欲望にしても、
地元素、水元素、火元素、風元素から生じて、
これら四大種が滅するなら、滅するものである。』

「比丘達よ、このように、修習する弟子は、
自ずから、見えている物に、心が止まるため、
第二の不動、すなわち、空無辺の境地に達する。」

『現世の欲にしても、来世の欲望にしても、
無常のものであり、苦しみを生むものである。
歓迎するべきではなく、愛着するべきではない。』

「比丘達よ、このように、修習する弟子は、
自ずから、見えている物に、心が止まるため、
第三の不動、すなわち、識無辺の境地に達する。」

『現世の欲にしても、来世の欲望にしても、
すべて滅した所に、何もない静かな地がある。
その境地には、我も無いなら、我がものも無い。』

「比丘達よ、このように、修習する弟子は、
自ずから、見えている物を、捕らえないため、
第三の無色定、すなわち、無所有の地に達する。」

『そこには何もないと、観じているような、
想が有るのでもなく、想が消えたのでもない。
想が有るでもなく、無いでもない、境地がある。』

「比丘達よ、このように、修習する弟子は、
自ずから、見えている物を、捕らえないため、
第四の無色定、即ち、非想非非想の地に達する。」

 

第二章

アーナンダは、仏陀に対し、このように尋ねた。

「尊師よ、最強の執着とは、何でしょうか。
何に囚われると、最も捕われるのでしょうか。
最も越え難い、囚われとは何か、教えて下さい。」

「アーナンダよ、非想非非想処に嵌ること。
想が有るでもない、想が無いでもないと考え、
想が有ることを、認めないことが、最強である。」

「業を認めないならば、業を越えられない。
因を見とめないのに、果を越えるわけがない。
無関心に囚われること、それこそ、最強である。」

「実に、妙なることです、稀なることです。
段階を踏まえて、解脱の道が明かされました。
それでは、貴い解脱とは、如何なるものですか。」

「誰もが、想いという、身に捕われている。
アーナンダよ、心が、重い身を抜け出すこと。
すなわち、心の解脱こそ、最も貴い解脱である。」

これを聞いた、アーナンダは、歓喜し実践した。


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