My Library Home

蛇喩経(アラガッドゥウパマ・スッタ)

仏教



目次

第一章 |  第二章 |  第三章 |  第四章

 

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、サーヴァッティの、
ジェータ林にある、アナータピンディカ園に、
弟子のアリッタを呼び出し、このように言った。

「聞く処に拠れば、戒を破っていると聞く。
愚か者め、守るべき戒を、破るとは何ごとか。
アリッタよ、味著に、禍患がある事を忘れたか。」

「さながら、煩悩は、夢の如きものである。
醒めるまで味著を、冷めてから禍患を味わい、
必ず、覚めてしまう、人を酔わせるものである。」

「さながら、煩悩は、炎の如きものである。
明めるまで味著を、暗くなって禍患を味わい、
必ず、諦めてしまう、人を焦がせるものである。」

「さながら、煩悩は、剣の如きものである。
危めるまで味著を、殺めてから禍患を味わい、
必ず、過ってしまう、人を誤らせるものである。」

「さながら、煩悩は、豚の如きものである。
肥えるまで味著を、肥えてから禍患を味わい、
必ず、屠られるもの、人を獣にするものである。」

「さながら、煩悩は、質の如きものである。
借りるとき味著を、返すときに禍患を味わい、
必ず、借り立てられる、駆り立てるものである。」

「さながら、煩悩は、賭の如きものである。
勝つときは味著を、負けるとき禍患を味わい、
必ず、勝つまで続ける、負い続けるものである。」

「さながら、煩悩は、身の如きものである。
若いときは味著を、老いてから禍患を味わい、
必ず、死まで脱げない、纏い続けるものである。」

 

第二章

「愚者よ、たとえ、いまは、解らなくとも、
私が言いたいことは、いずれ、分かるだろう。
好きにせよ、私は、ここで、他の者に問いたい。」

「比丘達よ、与えた戒を、汝らも破るのか。
味著の裏には、禍患が潜むことを、忘れたか。
私が煩悩につき、様々に喩えたのを、忘れたか。」

「さながら、煩悩は、夢の如きものである。
醒めるまで味著を、冷めてから禍患を味わい、
必ず、覚めてしまう、人を酔わせるものである。」

「さながら、煩悩は、炎の如きものである。
明めるまで味著を、暗くなって禍患を味わい、
必ず、諦めてしまう、人を焦がせるものである。」

「さながら、煩悩は、剣の如きものである。
危めるまで味著を、殺めてから禍患を味わい、
必ず、過ってしまう、人を誤らせるものである。」

「さながら、煩悩は、豚の如きものである。
肥えるまで味著を、肥えてから禍患を味わい、
必ず、屠られるもの、人を獣にするものである。」

「さながら、煩悩は、質の如きものである。
借りるとき味著を、返すときに禍患を味わい、
必ず、借り立てられる、駆り立てるものである。」

「さながら、煩悩は、賭の如きものである。
勝つときは味著を、負けるとき禍患を味わい、
必ず、勝つまで続ける、負い続けるものである。」

「さながら、煩悩は、身の如きものである。
若いときは味著を、老いてから禍患を味わい、
必ず、死まで脱げない、纏い続けるものである。」

 

第三章

「比丘達よ、道を求める者が、守るべき戒、
道を進む者が、修めるべき、九つの法がある。
それでは、この九つの法とは、如何なるものか。

第一の法は、散文で説き明かした、契経である。
第二の法は、韻文で説き直された、祇夜である。
第三の法は、問答で説き明かした、記別である。
第四の法は、韻文で説き明かした、伽陀である。
第五の法は、仏陀が自ずと説いた、感興である。
第六の法は、弟子の前生を説いた、本事である。
第七の法は、仏陀の前生を説いた、本生である。
第八の法は、深厚に説き明かした、方広である。
第九の法は、奇跡や功徳を解く、未曾有である。」

「九分教を、愚か者は、学んでも修めない。
彼らは、業を肥すために、この法を説いても、
真に、業を越えるためには、この法を用いない。」

「喩えるなら、蛇を掴むようなものである。
下手に尾を捕まえれば、蛇に噛まれるものも、
上手に頭を捉えれば、蛇に噛まれることはない。」

「喩えるなら、筏に乗るようなものである。
乗り捨てるなら、次に来る者が使えるものを、
乗り続けるならば、次の地に進めることがない。」

「比丘達よ、道を求める者が、破るべき戒、
道を進む者が、越えるべき、五つの見がある。
それでは、この五つの見とは、如何なるものか。

第一の見は、色に就いて、我と見ることである。
第二の見は、受に就いて、我と見ることである。
第三の見は、想に就いて、我と見ることである。
第四の見は、行に就いて、我と見ることである。
第五の見は、識に就いて、我と見ることである。」

 

第四章

ある比丘が、仏陀に対して、このように尋ねた。

「尊師よ、客体が無いという、理由により、
恐怖を感じてしまうことは、あるでしょうか。」
「ある、虚無に捕われるとき、恐怖に囚われる。」

「尊師よ、客体が無いという、理由により、
恐怖に囚われないことなど、あるでしょうか。」
「ある、虚無を観じないとき、恐怖を感じない。」

「尊師よ、主体が無いという、理由により、
恐怖を感じてしまうことは、あるでしょうか。」
「ある、自我に捕われるとき、恐怖に囚われる。」

「尊師よ、主体が無いという、理由により、
恐怖に囚われないことなど、あるでしょうか。」
「ある、自我を観じないとき、恐怖を感じない。」

仏陀は、比丘衆に向かって、このように説いた。

「身体とは、常住だろうか、無常だろうか。
無常のものは、苦であろうか、楽であろうか。
苦であるものは、自我だろうか、非我だろうか。」

「感覚とは、常住だろうか、無常だろうか。
無常のものは、苦であろうか、楽であろうか。
苦であるものは、自我だろうか、非我だろうか。」

「想念とは、常住だろうか、無常だろうか。
無常のものは、苦であろうか、楽であろうか。
苦であるものは、自我だろうか、非我だろうか。」

「意志とは、常住だろうか、無常だろうか。
無常のものは、苦であろうか、楽であろうか。
苦であるものは、自我だろうか、非我だろうか。」

「認識とは、常住だろうか、無常だろうか。
無常のものは、苦であろうか、楽であろうか。
苦であるものは、自我だろうか、非我だろうか。」

「こうして、五蘊に就いて、検討した者は、
修行が完成した事を知り、解脱した事を知る。
もはや、彼は、この輪廻に、転生する事が無い。」

「たとえ、そこで、阿羅漢に至れなくても、
五下分結を越えれば、不還者に至るのである。
彼は色界に入って、二度と還って来る事がない。」

「たとえ、そこで、不還者に至れなくても、
貪瞋痴を越えるなら、一来者に至るのである。
彼は一度だけ来て、二度と下りて来る事がない。」

「たとえ、そこで、一来者に至れなくても、
貪瞋痴を薄まるなら、預流者に至るのである。
彼は上流に預かり、二度と落ちて行く事がない。」

これを聞いた、諸々の比丘は、歓喜し実践した。


Page Top | My Library Home