1 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/18(水) 01:51 ID:TB6HvvcD [1/2]
戦争中だって、笑える話は沢山あったはず。
そしてその中には、戦時中ならではの体験もあったことでしょう。
難しいことはとりあえず抜きにして、祖父・祖母・両親・知り合いの年寄りなどから聞いた
笑える話を聞かせて下さい。
29 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/19(木) 06:16 ID:n9JowxDW
俺の親父が中4だった時の話。昭和20年9月。
授業中、GHQの人と通訳が入ってきたそうな。
で、なにやら教科書を指しながら、英語でまくしたてる。
その後通訳の人が
「戦争は終わった。だから、こんな教科書(墨塗りの奴ね)を
使う必要はない!今日は授業は終わり!皆帰ってよし!!」
と、言ったので
「うぉっしゃー!!GHQ様様だぜーー!」
と、クラス全員で速攻映画を見に行ったそうだ。
時代が変わっても、子供は同じようなものw
12 名前: ◆65537KeAAA [sage] 投稿日:04/02/18(水) 13:46 ID:LL1MSOiu
ウチの爺ちゃんは「ダイナマイトは甘くて旨い」と言っていた。
「じいちゃん、そんな物食ったんだ!」って言ったら
「おう。他にもクモとかヘビとかも食ったぞ。カタツムリは絶品だった」
って言ってた。
よく考えると、そんな物を食べるほど、食料が不足してたって事だな。
ちなみに行ったのは南方の島だとしか聞いてない。
14 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/18(水) 13:50 ID:iZLnkZOZ [2/2]
>>12
ニトログリセリンって甘いはずだ。
舐めた人って貴重だなぁ。
15 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/18(水) 14:04 ID:eXv94klW
爆発しねぇの?(((´`)))
13 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/18(水) 13:48 ID:a8O+IZqi
私の父親は何か重要な放送があるらしいとみんながわらわら集まる中
マンドクセーシラネーヨと近所の淵に泳ぎに行ってしまったそうな。
帰ってみたら戦争が終わってたんでびっくりしたとか。
16 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/18(水) 14:06 ID:A23Rw6FX
シベリア抑留から生還した爺さん。
だいぶ辛い思いもしたらしいが
「ロシアの女は本当に奇麗だ、でも年を取ると風船のように膨れてなあ…」と
何度も何度も言っていた。
女見る余裕があったのかよ!
だから生還できたんだろうな…。
18 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/18(水) 18:16 ID:QfJAOF0M
>>16
でもすごくつらかったんでしょうね。
19 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/18(水) 18:47 ID:1NGK/vlw
笑える話じゃないんだけど、昔ビートたけしが言った話は今でも思い出す。
たしか、たけしが飲み屋かどこかで居合わせたおっちゃんとの会話なんだけど、
たけし 「おっちゃん、煙草止めた方がいいよ。」
オッチャン 「たけちゃん、俺はシベリアの極寒で吸った煙草の味が忘れられないんだよ。」
って話。
俺は煙草は吸ったことないけれど、その美味さがわかる気がした話。
38 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/20(金) 19:48 ID:2TXoTTW8
>19
たけしと言えば、終戦間近、戦力が残ってるように見せかけるため戦闘機のハリボテ作るってんで
父親がかり出された話もあったなあ。
「そんなことやってて勝てるわけがねえ」っつーのは、ほんともっともw
21 名前:ながぐつ[sage] 投稿日:04/02/18(水) 23:17 ID:FwRvqQv7
唐沢俊一の本に載っていた話だが、
太平洋戦争開戦時、”勇ましい曲を流せ”と言われて、
『星条旗よ永遠なれ』を放送したNHK職員がいたそうだ。
ちなみにうちの爺さんは戦争に行ったことは行ったのだが、
1週間もしないうちに敗戦になったため、何もせずに帰ってきたらしい。
23 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/19(木) 00:21 ID:yBfqcf/A
うちのおばあちゃん達は隣町が大空襲に遭った時、
防空壕に隠れないで屋根に昇り、
「おー、燃えてる燃えてるー!」と火事場見物をしてたそうです。
意外と余裕だな。
27 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/19(木) 04:59 ID:Fph4eoEa
うちのばあちゃんは「焼夷弾を箒で落とす訓練してた。馬鹿でしょ。」と笑ってた。
じいちゃん・ばあちゃんっ子だった自分は、そんな話を良く聞いて育った結果、
昭和の戦時中=「暗黒」という単純な図式に理解できなかった。
んま、いろいろあったけど普通の日本人が、慎ましい幸せを感じながら生きていたんだろうなぁと思う。
63 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/27(金) 16:04 ID:d/R2nM18
26と似たような話ですが。
名古屋に住んでたじいさんの弟(最近亡くなりました。合唱。)が
死ぬ前に話してくれた事。
名古屋空襲の時に名古屋城が炎上したのを目の当たりにした当時
学生だったじいさま(家族のなかではこう呼んでた)は、体がうち震えるほど
きれいだな~と思い、かつその美しさに圧倒されたそうだ。
でも周りの大人達は城が炎上する様を見て「日本は終わりだ…」と
泣き崩れてる姿を見ると何か悪い気がして、とりあえずウソ泣きしとこ、
と思ってたそうだ。
36 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/20(金) 02:25 ID:mHYzmphT
うちのじーちゃん諜報部員でアフリカまで行ったそうな
ウホウホ言ってる奴ばかりと思っていたら、いきなりフランス語で話されてビックリしたと言っていた
ライオンやキリンを見たかったが一匹も歩いていなかったと戦後ばーちゃんに語ったらしい
戦時中、敵を一人も見なかったとも
41 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/21(土) 21:59 ID:OndgsPzA
うちのじいさんの話でも。
終戦の一ヶ月前、大規模な空襲があったんですよ。
で、当時我が家は空襲の目的地の途中にあるドイナカで牛飼いやってたわけ。
田舎とはいえ、空の上をわんわんとB29の大編隊が飛んでいる。
家族一同牧場の裏山に避難したんだが、ふと気がつくとじいさんが
牧場をつっきって放牧している牛たちの方にとことこ歩いている。
いつもと違う気配におびえる牛たちをちゃっちゃとまとめて
牛舎までひきつれて帰っていった。
牧場のどまんなか。空から丸見え。
B29が去ったあとでばあさんは
「なんて危ないことをするんだ」と泣いて怒ったそうだが
じいさんけろっとして言ったそうな。
「なーに、ヤツらカウボーイの国の人間だ。牛は撃たないべよ」
42 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/22(日) 12:36 ID:kZPLVoPt
>>41
惚れた
60 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/27(金) 14:53 ID:KvTafeCI
うちの爺さん、徴兵されてすぐに結核にかかってることがわかって、
すぐに戻ってきたらしい。涙を流して見送ってもらった近所の手前
かなり肩身のせまい思いをしたらしいw
元々「クソ」がつくほど頑丈な身体だったので
結核はすぐに自然治癒して、完治したことをひたすら隠し通し、
大地主だったこともあって有り余る金を使いまくって
混乱してる世の中を尻目に戦中戦後を通じて芸者あげて遊び倒してたそうな。
爺さん曰く「婆さんに女関係を追及される事がわしの戦争だった。」
インフルエンザで死んだ81歳のその歳まであっちのほうは健在で
葬式のときに29歳の愛人が挨拶に来たのには驚いた。
61 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/27(金) 15:24 ID:yPDSdTuP
以前ベストセラーになった野村進氏著『コリアン世界の旅』にこんなエピソードが書かれていた。
ベトナム戦争中、韓国軍の大虐殺があった旧南ベトナムの村を野村氏が取材に訪れた時のこと。
同氏が村に入って行くと、同氏を見る村人たちの目つきがおかしい。
遠巻きに同氏を疑わしげな目で見ながら、「ダイハン(大韓)…、ダイハン…。」と囁き合っている。
通訳の人が、「この人はダイハンじゃない。ニャッバーン(日本)だ。」と言っても、
「日本人なんて言ってるけど、本当は韓国人じゃないのか?」と始めのうち怪しんでいたが、
本当に日本人と分かると急に村人たちの表情が明るくなり、村人たちは笑いながら
「おしん」の話に花を咲かせたという。
62 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/27(金) 15:59 ID:szSZES+s
曾祖母の話。
空襲警報が出たので、当時4~5歳だった祖母の手をひいて
慌てて家を飛び出した。
避難場所に到着すると、自分と手をつないでたはずの娘が
なぜか隣の家のおじさんに抱かれて泣いてるので、
あら?と思って手元を見ると、ブサイクな猫のぬいぐるみだったらしい。
64 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/27(金) 16:19 ID:PMNyUrsK
なくなったうちの祖父は敵国の兵の後ろの茂みに隠れていて
我慢しきれず豪快な屁をこいたとんでもない奴だ
65 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/27(金) 16:30 ID:3rBDuPDs
いいスレだな。上の世代から直接に歴史を語り継いでもらうのは
とても大事なことだと思うんだよなぁ。
俺も聞いてみたいけど祖父母とも戦争に悲観的なんだよね。
爺ちゃんは赤紙が来ると醤油を飲み、体調不良で徴兵免除されてたらしい。
69 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/27(金) 18:42 ID:S9On8m64
うちの爺さんはノモンハンに出征したが、すぐにケツが凍って極度の痔になり、
軍医に戦闘不能と判断されるほど悪化して野戦病院に収容されてそのまま終戦をむかえた。
結局亡くなるまで痔主(軽快したけど)だったが、「痔のおかげで助かった」とずっと言っていた。
70 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/27(金) 19:11 ID:XA+akFDq
名前忘れたけどある画家の話。
軍から、兵の士気を高めるために、
米機を日本が撃墜するような感じの絵を描くよう依頼された。
しかし、資料にもらった米の戦闘機を見て思わず
「かっこいいー!」
と言ってしまい、敵国味方発言としてこっぴどく叱られたらしい。
76 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/28(土) 16:10 ID:vG5vOoSK
うちの親父は特攻隊に志願していたが、次が自分の番だというところで終戦を迎えた。
親父と派手な喧嘩をするたびに、母親がいまいましそうに「悪運の強い奴」と言ってる。
78 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/29(日) 03:19 ID:aQ3Dpa9y
事実かどうかわからないコピペだが
パンはその体積の25~30%程度がウンコになるに過ぎないが、
米は50%近くがウンコとなる。このため日本人のウンコは世界一量が多い。
パスタ類は40%程度であるため、これに次ぐのはイタリアである。
太平洋戦争の最中、ある小島に450名の日本兵が立てこもった。
これを偵察に来たアメリカ兵はトイレを調べ(人数把握の基本である)、
その量から2000人はいるはずと報告。この情報を元に米軍は必要以上の
猛烈な総攻撃を開始、日本軍はあえなく玉砕の憂き目を見ることとなった。
79 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/29(日) 03:32 ID:H/dg3Pjw
>>78
事実。
純和食は食物繊維が豊富で、当時の日本人はめちゃくちゃ快便だったそうな。
83 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/29(日) 05:23 ID:pmw03JME
>>78
おれが聞いた似たような話では、日本の便所は個室だが
アメリカでは横に渡した板に穴が並んでいる形なので
(電車に座るように、横に並んでウンコする)
便所のスペースから割り出される人数がかなりちがう。
偵察にきたアメリカ兵は、便所の大きさから実際以上の
人数を算出した。。。てやつ。
133 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/03/06(土) 09:37 ID:V+eX8Doe
>>78
私が読んだその話のオチは
「日本兵の数が想像以上だったのでアメリカ兵は攻撃をやめた」
というものだった。
読んだ時には
「もう絶対にこれからはパンじゃなくて米を食べよう。主食は米!!」
と思ったわけだが。
>>78読んだら米食べてちゃダメじゃんかYO!!と。
156 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/03/07(日) 21:30 ID:i+29kNau [2/2]
>>78 ひぃぃぃぃ。笑えるような笑えないような…
757 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/04/02(金) 00:46 ID:KcDGU2NY
>>78に似たような話を聞いたことがあります。硫黄島から生きて帰ってきた3人のうちの
おひとりだとおっしゃってた方でした。トイレじゃなくて、いわゆる野糞で人数を割り出したとか。
82 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/29(日) 05:03 ID:kSnZuyn7
うちのじいさんは南方で捕虜の監視にあたったそうだ。
で捕虜に「縄がきついので緩めてくれ、逃げないから」と言われ
緩めたらあっさり逃げられたそうな。
勿論上官に死ぬほど殴られたらしい。
85 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/29(日) 08:26 ID:DDPiVkk6
有名な話としては、
戦時中、街中に貼られていた「ぜいたくは敵だ」のポスターに、
だれかが「<素」を書き加えて回り、
「ぜいたくは素敵だ」
にしたとか。
なんかマターリしてて微笑ましい話ですね。
89 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/29(日) 22:36 ID:P6gtQr/M
>>85
他にも「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」の立て看板の工夫の工を消して
「足らぬ足らぬは夫が足らぬ」にしたとか。
ある潜水艦の艦長の話。
当時、その潜水艦はアリューシャン列島の辺りで活動していた。
この辺りは海水温が低く、一度海に落ちればまず助からなかったそうだ。
実際、酒によって海に落ちた兵士が死亡する事故が多かったとか。
その話を聞いた艦長は「酒は危険だから処分する」と言う名目で
部下の士官と一緒に酒盛りを始めた。
で、程よく回ってきた頃、小便をするために甲板に上がった…のはいいんだが、
足が滑って海にドボン。
幸いすぐに引き上げられ、部下の必死の心臓マッサージで
一命を取り留めたそうな。
当然、この事が上官にばれてお咎めを喰らいそうになったが
「心臓マッサージの実習をした」と言い訳をして逃れたらしい。
88 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/02/29(日) 21:52 ID:TIO80lhN
うちのじいさんが戦時中の話をしてくれてるときに
「オオサンショウウオは捕まえやすくて、焼いたら白身魚みたいで美味かった」
とか言っとりまして
「ほ~。オオサンショウウオ食ってもよかったんか~」と言ったら
「まぁ、もう天然記念物やったんやけどな」と、あっさりと言ってた。
90 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/03/01(月) 08:04 ID:PhSj1AEL
よく知らないが、海軍かなんかの技術屋だったウチのじいさんが
「戦争末期は木造の零戦つくってとばした」
とか言ってたけど、木造じゃ勝てないわな
94 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/03/01(月) 11:52 ID:8BwVSkYD
>>90
ゼロ戦じゃなくて「剣」っていう飛行機だな。
軽量化と、金属が不足していたために木製になったらしい。
ちなみに木製の軍用機ってのは結構あった。
イギリス軍が木製の爆撃機でドイツを爆撃して結構戦果を挙げてる。
まあ日本には主翼が紙でできた飛行機もあったわけですが。
95 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/03/01(月) 13:18 ID:mX6jgMhT [1/2]
>>90
ウチの地元では陸軍の木製飛行機を作っていた記録がありました。
「隼」の木製版らしかったけど、初飛行の際に、着陸する時に機体の重さに耐えられずに主脚が折れたらしい。
結局5機生産したところで終戦となり実戦では使われなかったそうだ。
96 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/03/01(月) 13:35 ID:mX6jgMhT [2/2]
>>95
ググッてみたら「隼」でなくて「疾風」だった・・・。
キ106と言う名前で、かなり高い技術水準でつくられていたらしい。
92 名前:おさかなくわえた名無しさん [] 投稿日:04/03/01(月) 09:48 ID:kuILgR98
うちのじーちゃん20代の初めに支那事変で戦地に行って、敵の陣地を攻める時に
壁を上っていったら中から手榴弾みたいなのが飛んできて、足元で爆発したらしい。
でもじーちゃんに全くダメージはなくてなんか花火みたいだったて笑ってたよw。
その後、なんとか生きて帰って来たけど、三ヶ月もしたらまた呼ばれてw、
今度はビルマに行って、その後敗戦で捕虜になった。
かれこれ20代の全部を戦争で費やしたらしい。
でも今現在も生きてるw。じーちゃんあんたすごすぎだよw。
97 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/03/01(月) 18:17 ID:pm+QbRuy
ウチの実家(文京区某所)は、空襲に備えて延焼防止に
家を間引くとかで、半月後の8月16日に役所がお宅を潰しまーすと近所じゅう言われたらしい。
それで、留守を守ってる祖母は、うちは実家が両方とも都内で
疎開する所も家財預けるとこも荷車とかもないから、
ええい、潰すぐらいならみんな売っちゃいましょ!(江戸っ子)と、
床の間の柱も庭木も箪笥も畳も梁も襖も瓦も、
ちょっと売れるいい物はみんな売りさばいたそう。
そうしたら、15日に終戦して、家は無事w
軍の技術者で、九州で働いてた祖父が帰ってきて大喧嘩w
ちなみに戦争末期にもかかわらず、家財一式は婆様が結構高値で売りさばいたので、
戦後は家はからっぽで壁しかない状態だけど、お金には余り困らなかったらすぃ。
屋根はトタンで急場を凌いだそうw
98 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:04/03/01(月) 18:51 ID:9+Ze5hit
>>97
間引き疎開って集中的にやってたんかね。
九州でも似た時期に間引きやる予定があって、
悔し紛れに前日に自分で壊したら翌日終戦、という話あり。
ちなみにその話し手は行くあてがないので玉砕覚悟で間引き断って事なきを得たとか。
99 名前:97[sage] 投稿日:04/03/01(月) 19:06 ID:Qp58I3hu
>>98
自分で壊したのは惜しい・・・でも気持ち分かる_| ̄|○
長谷川町子さんの「サザエさんうちあけ話」でも、
隣のオジサンが床の間自分でボコボコにしたら翌日終戦、てあったよ~
戦争末期で、空襲すごかったのかな。
ちなみにうちの祖母は、家が間引きされた後、
自分の身柄は鎌倉の親戚宅に疎開するはずだったらしいけど、
鎌倉の親戚も男手は徴兵されてて婆・奥・子2人だから
手伝ってもらうのも無理で、車とかも無いし
手荷物以外は持っていけないから、いっそ景気よくw売りさばいたらすぃ。
数年前に亡くなるまで、竹を割ったような江戸っ子婆様ですたw
24 名前:おさかなくわえた名無しさん[] 投稿日:04/02/19(木) 00:34 ID:O539xz1o [1/2]
みんな逞しいよね。戦後復興するわけだ。