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大谷休伯の開発事業

2ch



455 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/10/13(月) 00:46:19 ID:/AzWYN/d
山内上杉憲政の家来に、大谷休伯という男がいた。侍と言うよりも、農政を担当する文官であった。
天文二十年(1551)の平井城落城により、山内上杉憲政は越後の長尾景虎の元に逃れるが、
休伯は軍役に関わらなかったため許され、金山城主、由良成繁の元に身を寄せた。

しばらくすると休伯は、成繁の妻輝子の実家である館林城主、赤井氏より相談を受けた。
彼の領地、館林の開拓をやってくれないか?と。

館林を調べたところ、その地は利根川と渡良瀬川という二つの大きな川による水害、
冬の強風(からっ風)で火山灰や赤土が舞う風害、火山灰などの吸水性からくる水不足に
慢性的に悩まされ、農民達も多くが貧窮していた。
特に水不足は深刻で、田植えの時期になるたびに水争いが起こる有様であった。

「これは、大変な事業になります」

この土地の問題を解決するには、長い時間と、莫大な資金と、労力が、どうしても必要であることを
説明し、それに対して覚悟があるのかということを、休伯は赤井氏に確認をした。彼らも、覚悟をした。
休伯は館林へ居を移した。事業が始まった。

永禄元年(1558年)、防風林開発に着手。場所は館林西南多々良沼のすぐ側、館野ヶ原と
呼ばれる土地で、被害の大きさと新田開拓を見越してのものである。
館林に大量の松苗はないので、由良成繁の金山城のある金山から分けてもらうことにした。

初年に植えた松は日照りにより枯れるものが多かった、それを館林の農民達は馬鹿にした。
「ほら、無理なことだ」と。
しかし翌年に、館野ヶ原に祠を造り松の成長を祈ると、今度は無事に成長した。

事業は順調に行くかと思われた。が、暗雲は一気に訪れた。永禄五年(1562)二月、北条氏に
ついていた館林赤井氏は、上杉謙信の軍勢の襲来により滅ぼされてた。
事業主体が、消滅してしまったのだ。
休伯達は呆然とするより他無かった。もはや、この事業は続けることが出来ない。

その時である

館林の村落の者達が、休伯の下に次々とやってきた。「どうか事業を、止めないでください」

資金に関しても人手に関しても、出来うる限り協力する、と言う。農民達は、休伯らが、
自分達のために働いていることを、いつしか理解していたのだ。
ここに彼らの活動は、地域事業となった。

住民達の協力により、二十年の歳月をかけて、五百十八町、518haの防風林は完成した。
この事業に必要とした松苗は115万本という。現在の多々良沼の松林はこの松の子孫である。
これにより風害が減り、開拓が行いやすくなった。
防風林開発が軌道に乗ると、休伯らは堤防と用水路の開発を同時に進めることにした。

この地方の水利から渡良瀬川と多々良沼が用水に適していると判断。荒山小左衛門の協力の元、
現在の太田市内ヶ島付近から明和町大輪、十七ヶ村、五百九十九町に至る「上休伯堀」という
長大な用水路を開発。

さらに休伯は、独力で館林市多々良沼から明和町江黒、十八ヶ村、四百九十七町に至る
「下休伯堀」を開発。
休伯堀は合わせて三十五ヶ村、約四百町に及んだ。これにより1000haもの土地に水が
供給されるようになった。
堤防の開発も進み、地域一帯の農作物の生産性は大幅に上がった。

休泊はこの大事業を、ついに成功させたのだ。

天正六年(1578)、休泊は病気により自宅で養生するようになる。熊倉善三郎に後を任せ、
天正六年八月二十九日、数年前に娶った妻と、三歳になる息子作太郎に看取られ静かに
息を引き取った。法名「大谷休泊関月居士」。

領民は誠実な人柄で開発事業を指揮してくれた休伯の死を悼み、松苗の成長を祈った館野ヶ原の
祠を神社とし、篤く弔った。
この神社は「大谷神社」と名付けられ、今も館林の人々により、大切に保存されている。

時が過ぎて昭和二十八年、四百年にわたって領民を支えた大事業に敬意を表し、休泊の墓所は
県指定史跡とされた。


戦国の、戦わなかった英雄のお話。


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